幼少の頃から特別秀でたものがなかった話。
いわむらはるか、小学生。
かけっこもテストも、お絵かきも歌も作文も、いつも自分より出来る子がすぐそばにいた。
表彰状とは無縁の人生だった。
幼稚園の頃から4年ほど通ったピアノは、楽譜もまともに読めるようにならないまま、なんとなくやめた。
やめたときはうれしかった。
カナヅチを克服するために通った水泳は、特進コースの子たちをボーッと横目に見ながら、バタフライまで習得してやめた。
この時も、やめたときはうれしかった。
小学校時代はニンテンドーDSやゲームキューブの全盛期で、「マリオカート」や「どうぶつの森」なんかに熱中した。
ゲームはとてもたのしかった。夢中になれた。
そしてこの時も変わらず、友達は自分よりもゲームが上手だった。
高学年になると、好きなサークル活動に入らないといけなかった。
スポーツ系は選択肢になかった。体育の授業はたのしかったけど、得意といえるものは一つもなかった。
どのスポーツもそこそこに遊びを見つけて楽しんではいたけど、ドッチボールだけは嫌いだった。地域で習っている子たちと同じ土俵で戦わないといけないのが心底嫌だった。しかも痛い。
痛いのが嫌だから、ひたすら逃げた。そうするとたまに、最後の一人になってしまう時があった。狙い撃ちにされる怖さはかなりのものだった。最後の一人になったとしても、ゲーム終了まで逃げ切れたことはない。いつも最後は当てられて終わってしまう。
だけどこの時、ほんの少しだけ、「最後の一人になったぞ」と心の中でガッツポーズをしたりした。
サークルは結局、「漫画研究部」に入った。研究とは名ばかりで、ただ自分が好きな漫画を持ってきてその表紙やコマのイラストを模写するというゆるいサークルに入った。
模写は好きだった。上手な人の絵を見て描くだけでよかった。それなのに、周りは「すごい!」と褒めてくれた。
その頃から、漫画家に憧れるようになった。母親に頼んで「漫画家セット」を買ってもらった。デッサン人形と、ペンと、インク、原稿用紙がセットになって入っていた。
興奮のままに漫画を描こうとした。希望に満ちていた。でも漫画セットは翌月には押し入れ行きになった。
いきなりプロを真似て道具を揃えても、プロのように描けるわけではない。そこに至るまでにはたくさんの努力が必要。至極当然のことだ。
でも当時のはるかちゃんは、この原稿用紙にこのペンで描けば、素敵な絵が描けると信じていた。
でもそうじゃなかった。自分には才能がないんだと思った。人前で絵を描くことはやめた。いつものシャーペンで、こっそりプリント裏に書いた。
つづく(かもしれない)