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『むかしの歌』 映画感想文

2022年7月3日。
私は初めて、国立映画アーカイブを訪れた。

国立映画アーカイブとは、日本で唯一の国立映画専門機関である。
ここには遥か昔に作られた日本映画も保存されており、それをランダムに上映している。
他にも映画に関する資料を公開しているため、映画好きにはたまらない施設だ。

実は、私は自主的にこの国立映画アーカイブを訪れたわけではない
大学で映画に関する授業を受けており、その課題として「映画を見てこい」と言われたから訪れたのである。

故に私はかなり面倒に思っていた。
というのも、その付近で上映している映画は昔の映画ばかりだったからだ。
それでもなんとか国立映画アーカイブ公式ホームページに載っているあらすじを読んで、自分が好きそうな映画を見ることに決めた。

その映画のタイトルを『むかしの歌』と言う。

大阪・船場の船問屋のいとはんお澪(花井)は、ある日出会った貧乏士族の娘お篠(山根)を妹のようにかわいがり面倒をみているが、西南戦争に伴う家の没落でお澪は芸者に出されてしまう。

国立映画アーカイブ公式サイトより

私は公式サイトでこのあらすじを見たとき、ピンと来るものがあったことを今でも覚えている。
私の好みの傾向として、儚さとか、切なさとか、そういうものが好きだからだ。
だからこそ、時代の流れに翻弄されるか弱い娘を見てみたいと思い、きっとこの映画を選んだのだろう。

しかし、正直言って舐めていた。
何を舐めていたかというと、国立映画アーカイブの人気を、である。

「昔の映画の上映なんて、どうせ人なんか集まらないでしょ」なんて余裕をこいていた私を一度殴りたい気分だ。
上映室を訪れると、なんとほとんどの席が埋まっている。
予約制の上映会のため、もちろん私の席はしっかりと残っているものの、上映室にぎゅうぎゅう詰めになった人々の光景には、度肝抜かれた。

そんな驚きに心を支配されている私を置いていくように、映画は幕を開けた。


(C)1939 東宝

上映室を出て、私は思わずため息をついた。
決して落胆のため息ではない。
張り詰めていた緊張感がやっと解放され、そして感情が一気に溢れ出てきたが故のため息である。

この映画鑑賞は大学の課題だ。
だからこそ、感想文を書かなければならない。
「忘れる前に書かなくては」
そう思い、スマホのメモ帳を開く。

だが、指が動かない。
まるで、まだこの映画の余韻に浸っていたいと訴えているようだった。

結局、家に着くまで私は感想文を書くことができなかった。
自分の部屋で改めてパソコンを開き、そして映画を見て思ったことを綴り出した。

ここから紹介するのは、その文章のほんの一握りだ。


まず印象に残ったのが登場人物たちの台詞回しである。

関西弁ということにも関係しているのかもしれないが、全体的に速い台詞回しが多いと感じた。
だが反対に、物語として見せたい・重要だろう部分では台詞のスピードが落ち、比較的聴きやすくなる。
それまでスピードにのっていた台詞が一気に聴きやすくなるため、普通に聴くより(全て同じ速度で聴くより)も台詞が耳に残り印象にも強く焼きつく演出だったように思う。

また、ストーリーが大きく動く場面では、それまで矢継ぎ早に台詞が披露されていたのが一転、必要最小限の台詞数になっていた。
それはまるで重要なことだからこそ、無駄な説明を台詞で行わず、私たち鑑賞者に解釈や判断を委ねているような演出だった。

それが特に際立っていた場面が、主人公のお澪が実の母と関わるシーンだ。
このシーンは劇中二度あり、一つは二人がお澪の婚約者の手引きによって再会するシーンもう一つはお澪が花街に向かうラストシーンである。

ここで一度、この映画の設定を深掘りする。
ネタバレになるので、自分の目で確認したいという方はここで読むのを止めておいた方がいい。

実は主人公のお澪は、船問屋の主人の妻とは血が繋がっていない。
貧乏士族の娘・お篠の母とされている人物こそ、お澪の母であり、お篠とは異父姉妹なのだ。

話を戻そう。

実は、この二人の間には一度も会話がない。
驚くべきことだ。

おそらくお澪の出生の秘密それによる二人の再会は、この映画の中で最重要の位置にあたるはずだからこそ、私は二人の間に会話がないことに気付いたときに衝撃を受けた。

だが、逆にそれが物語の余韻を誘う。

ラストシーンではお澪とその実母は離れた位置にいて、数秒だけ見つめ合い、お澪は一瞬微笑む。
ただそれだけであり、その後すぐにお澪は何事もなかったかのように人力車(のような乗り物)に乗って、花街に向かっていく。
去っていくシーンはずっとお澪の顔を捉えており、無表情にも関わらず、先程の二人のシーンがあった影響か、どこか切ないようにも思え、物語として儚さや切なさの残り香を感じさせるものがあった。
ここでもし会話があったとしたら、このような余韻は感じられなかっただろう。

映画の画角としては、縦構図が多く、カメラも引きの撮影が多いように感じた。
そのためどこか客観的に登場人物たちを見ているような気持ちにさせられた。

その一方で、主人公のお澪には顔や手元のアップを多く用いている。
これは引きの撮影が多い中、わざと主人公にだけ近づくことで、主人公にそっと寄り添うかのような演出をなしているように感じられた良い撮影の仕方だった。


以上が、私が『むかしの歌』を鑑賞した上での感想だ。
予想以上のクオリティの高さに、今でももう一度見たいと思うくらいの映画でもある。

国立映画アーカイブでこういった素敵な作品と出会うことができ、本当に素晴らしい時間だった。
機会があれば、ぜひまた訪れてみようと思う。

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岩本ふう
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