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【観光コラムKITENE~IWAKURA~】 岩倉市のカフス腕は珍しい?!「指差し標石」がめちゃかわいい!

1.  はじめに


わたしは、愛知県岩倉市で観光まちづくり事業を企画・運営する「NPO法人いわくら観光振興会」で働いています。岩倉市は、愛知県の北西部、西尾張地区にあり、市のほぼ中心を流れる五条川は日本の「さくら名所100選」に選ばれたお花見処で、毎年春に行われる“岩倉桜まつり”が有名です。そんな五条川の桜のように、すでに観光地として認識されているような名所に行くことだけが観光ではないという考えから、日々まちの新しい観光資源を探しています。
今回は、【石に刻まれたモノを見ると、その事柄だけでなく、背景も見えてくる。】第3弾です。

2. 石が呼ぶ(?)


以前、市内の神社「神明太一社」の鳥居跡を示す石柱、それから道路元標を題材にしたコラムを書きました。
・人は昔から、石に様々な事を記録してきた。
・実は、普段生活している身近なところにも、たくさんの石造物が残っていて、調べてみると、非常におもしろい。
という内容でしたが、今回はその第3弾で、テーマは「標石」です。

岩倉市史跡公園の標石。移設をくり返し今は公園のシンボル。
岩倉市史跡公園の標石の解説看板。

いやいや、手垢付きまくってんじゃん!と思った方もいるでしょう。そう、標石も道路元標と同じく、マニアが各地にいらっしゃいますよね。わたしもそうであるようにやはり石には、人を沼らせる不思議なチカラがあるのではないでしょうか・・・?
それはさておき、まずは今回取り上げる「標石」とは一体何なのか?という説明から。

五条川に架かる橋「千亀橋」横の石標。昔、小牧と岩倉とを行き 来するのに、この辺りの道がよく使われたそう。

「標石」とは、ざっくり言うと、目印の石。また、道標に立てた石のことです。 昔は、便宜のため、石や木などに方向・距離などを記し路傍に立てました。今でいう道路標識です。人々はこれを頼り目的地を目指しました。時が流れ、使用しなくなった今でも、耐久性の高い石の道標「標石」は、その場に残されたり、または歴史を伝えるものとして移設されるなど、現代まで残るものが多くあります。 わたしは「標石」に関して正直詳しくはないのですが、数ある「標石」のなかでも特にお気に入りのタイプがあるんです。遊び心も感じることができて、もしかしたら当時の流行や歴史的背景にも関係があるかもしれない・・・!そんなロマンを秘めたモノなんです。
それは・・・

3.岩倉市に残る「指差し標石」がお気に入り!


壮大なフリでしたが、わたしのお気に入りは、人の手のイラストで方角を示した「標石」です!
じゃーーーん!!

市内、稲原寺にて。

どうです?めちゃくちゃかわいいですよね??
右〇〇〇(地名)、東〇〇〇(地名)など、文字で表されるものが多い中、なんと!ポップなイラストで方角を指示してくれています。わたしは、この人の手のイラストが入った「標石」を、「指差し標石」と命名することにしました。
岩倉市内には稲原寺にある標石の他に、もう1つ「指差し標石」があります。

稲荷町の踏切にある標石

こちらは、名鉄犬山線の旧稲荷前駅があった踏切の脇にあり、「尾張西国三十三観音霊場 4番 藤嶋山賢林寺」のことを案内したものです。
※藤嶋山賢林寺・・・住所:小牧市藤島町居屋敷267
彫ってある内容を詳しく見ていきます。
「尾張西国三十三観音霊場」とは、開創時期は不明ですが、江戸時代中期には盛んに巡拝されていた観音霊場のことです。しかし、明治の廃仏毀釈により多大なダメージを受けた各寺院、さらに太平洋戦争の空襲で焼失してしまった寺院もあり、戦後、巡拝される方がうまく戻ってこなかった、そんな霊場の1つとなりました。
また、昭和30年(1955年)に、同じ旧尾張の国を舞台とする「尾張三十三観音霊場」か開創されたことにより、一層知られる機会を失った霊場ともいえます。
側面には「是ヨリ七丁 名古屋市西區塩町 伊藤萬蔵」とあります。1丁が約110メートル(109.09メートル)7丁は763.63メートル、これはおそらく賢林寺までの距離ではないかと推測しています。

そして、その世界では大変な有名人、伊藤萬蔵さん。
伊藤萬蔵は、1833年(天保4年)生まれで、今の一宮市出身の実業家。12歳の時に丁稚で出た名古屋で米取引を学び、商才を発揮。名古屋市西区の塩町において「平野屋」の屋号で開業。そして、明治の初めに設立された「名古屋米商会所」の発起人・株主となり、当時の名古屋周辺における米の仲買人の代表格となりました。のち、各地の寺や神社に寄進(きしん)を繰り返したことで知られています。
さらに別の面に、「大正二年建之」とありますが、大正2年(1913年)はこの「標石」のある稲荷駅が、稲荷前駅に名前を変更した年なので、記念に建てたのかな?と推測しました。
稲荷前駅は1912年(大正元年)、に「稲荷駅」として作られ1年後1913年に名称変更した、今の名鉄犬山線の駅です。戦争などの影響で1944年(昭和19年)休止した後、駅は使われることなく1969年(昭和44年)に廃止となりました。今は線路横にある駅のホームの跡である丸い石たちだけが残っています。

線路脇の様子。

近隣市町の「指差し標石」も訪ねてみました。

【報光寺/江南市】

ぷっくり立体でかわいいお手々の「指差し標石」は、おとなり江南市のお寺、報光寺にて。「西国四国霊場 三ツ渕正眼寺 是ヨリ三十五丁」とあります。正眼寺は小牧のお寺。ご当地巡礼の道標のようですが、側面には「左 布袋町 小牧町 岩倉町 名古屋市 道」とあります。

【江南市天王町】

江南市天王町にて。報光寺にあったものと同じく正眼寺を示していますが、指差し部分をよく見ると、先程は手のひら側だったのに対し、こちらは甲の形をしています。それから、指が長めです。
 
【清正公社/津島市】

まるでハンコで押したみたいな「指差し標石」は、津島市で出会いました。加藤清正が祀られてる「清正公社」への道標です。


同じ「指差し標石」でも、立体だったり彫ってあったりと色々なパターンがある事が分かったのですが、岩倉市の2つの「指差し標石」には共通点があることに気づきます。
そう!\袖がある!!!/

しかも写真右はボタンまでくっきり!!
「指差し標石」の中でも袖にボタンがあるものを、またまた勝手に「カフス腕」と呼ぶことに。
 
日本人が、西洋式の衣服、いわゆる洋服を着るようになったのは、明治時代のことです。 文明開化の名のもと、欧米の先進諸国に追いつき、追い越すことを目指すことになります。いち早く上流階級の男性たちが洋服を取り入れましたが、一方で女性の洋装化はなかなか国内では進まなかったそうです。先駆者となったのは、新札で話題の津田梅子ら、明治4年にアメリカ留学した女性たちとのことです。
旧稲荷駅前の「標石」が大正2年に作られたということから考えると、45年続いた明治の時代、今よりゆっくり着実と行が作られていったのではないか?という時代背景への考察と、作り手の遊び心みたいなものを感じました。

4. まとめ 役目が終わった今、標石が教えてくれること

時は令和。スマホで簡単に目的地までの道のりが分かる今、「標石」はその役目を果たすことはほぼないでしょう。
時が経ってもそこに残されるもの、移動させられるもの、その行方が知れないもの、色々ですが、人々の行く先を示し伝えてきました。わたしたちは、その痕跡を探し、知ることで、まちの歴史や人々の生活の移り変わりを感じることができます。
わたしはそれらを無用の長物として捉えるのではなく、まちの歩みを伝える貴重な歴史遺産として後世に残したいと考えます。
岩倉市に限らず、どのまちでも観光のエッセンスとして、一役買ってくれると思っています。