「Chururi」雑考
とうとう本日(2024.5.15)、配信リリースされた新曲「Chururi」。久々に思考の渦に飲まれず、解釈のようなことができそうなので、乱雑ながらここに記しておく。
わたしには絵を描くという高度なことはできないが、もしこの曲をキャンバスに描こうとするならば、グレースケールだった「あの街」に色が戻っていくような、そんな感覚。
誰もに身近な「街」の歌。たぶんきっとそれは「バス停ではしゃいでる」子たちの存在や、通勤、通学や買い物、遊びといった様々な人たちの「刻む足音が 暮らしを奏でる」から成り立つ街の様子で。
だからこそ、あの時はグレースケールだった、存在さえしなかったかのような「あの街」を彩っているという気がする。
・視点について
この歌のなかの主人公って、なんだか都会慣れしていないように思う。
「駅前のコンビニは なぜかごった返してる
みんなあれこれ急ぎ足」
駅前のコンビニが混むことって、たぶん都会の人からしたら当たり前のことで、そして「急ぎ足」の生み出す流れの速い雑踏にも慣れていないというか、それを自分ごととして捉えていない感じがする。視点が客観っぽく思えて。
たぶん、地元からそんなに離れてはいない街にやってきたんじゃないか。そういった主人公を据えることで、実感する、「今」があるように思う。
「遠いスクロール 液晶に映し出す
イヤフォン越し 笑い合う声たち」
って、まさに「今」。あの時代をひとつ超えた、「今」のスタイル。
もちろん、ずっとその街に住んでて、「新しい」生活様式が定着してきたという風に捉えることも可能だから、どう解釈したらいいのか少し迷ったが。
・「唄」と「歌」について。
ついったにもちょろっと書いたが、「口ずさむ唄」は、自分1人でなんとなくうたってるもので、「口ずさむ歌」は「唄」よりはっきりしてて、整ってるものなんかな、なんて思う。
2人でうたうのが「歌」なのかなぁなんて思ったりするんです。だからこそ、
「ぶつかって重なって 積み上げてめくるめくハーモニー」
というラストに繋がってくるのかもしれない。
「めくるめく」という言葉は、「目が眩む」という動詞と「めまぐるしく」「次々に」という副詞の用法がある。きっと後者で解釈するのが妥当なのかもしれないが、ダブルミーニングだったら素敵だな、なんて思う。
「君を想いながら明日へ運んでゆく」
「ぶつか」ることもあって、「重な」ることもあって、「積み上げ」られていったモノたち。それが「ハーモニー」として我々に届いている。至極当たり前のようなそれは、けれどその一つ一つが奇跡的で。
この曲が運んでくれた、何気ない「日常」の色をひとつひとつ噛み締められることが、こんなにも嬉しい。
まとまりのない、雑多な記事になってしまったけど、断片的にでもあれこれ考えることが、やっぱり少し楽しくて。考察することが怖かった日々。それはたぶん、「正解」を探してしまっていた日々。辛くて苦しかった日々にサヨナラ。
ありがとう、「Chururi」。