『みじかい髪も長い髪も炎』 平岡直子/著 を読む
印象的な言葉の組み合わせからのイメージがリズムをつくる。
繰り返し歌を読むうちにイメージのリズムがリフレンして妄想のように 読みが膨張していく。
以下に歌集の中から好きな歌10首を選んだ。
※かぎかっこは章の題名
「東京に素直」
メリー・ゴー・ロマンに死ねる人たちが命乞いするところを見たい p9
”メリー・ゴー・ロマン”は造語か。”メリーゴーランド”ならわかるのだが。
ロマンチックな陶酔の中にいる人たちがその対極にある「命乞い」というみじめさをするところを見たいという欲望は他者に向かうのではなく自分自身にも向かう。明るい破滅願望のようでもありこの願いそのものがロマンチックでもあったりする。
「記憶を頬のようにさわって」
ゆっくりと丸まる薔薇よ表情が回転しつつ顔になるまで p17
映像的な歌である。薔薇が変化して顔になるイメージに中毒性の心地よさ。
「Happy birthday」
身のうちに電子回路や針金を感じつつきみに腕を伸ばした p33
"電子回路"だけならロボット的だが、そこに"針金"が加わるとガラクタ感というか尖ったものとして疎外感を感じる。その疎外感を感じつつそれでもきみに触れようとするアンバランスさ。
「光と、ひかりの届く先」
ほんとうに夜だ 何度も振り返りながら走っている女の子 p66
「ほんとうに」というところから、夜なんて来ないと思っていたのが
もうすでに夜になっている。
振り返るのは夜ではなかったころの私だろうか。
でも、夜の中をもう走るしかなくなっている。もうずっと夜だから。
「紙吹雪」
めちゃくちゃに子どもが描いたカラフルな線にも頭蓋骨がほしいね p80
子どもとあるがそれを描いたのは「わたし」のように思う。
心の中身を納める場所がほしいということだろうか。頭蓋骨ができればそこにはからだがつながってくる。くっきりと見えてくる。
「落雷」
希求する/夜いっせいに閉ざされたチューリップそれぞれが持つ蜂 p88
ロマンチックな歌にも思える。が、「希求する」という固い言葉がそんなロマンチックな読みを拒否するよう。「いっせいに」とあるからそれは固有のものではなく共有されているのであろう。それぞれのチューリップは夜に閉じている。その中には蜂がいる。求めてる。何を?やはりロマンチックな歌に思える。
「ありとあら夜ること」
そしていつかきみを剥がれおちるものたち内臓を抱きしめる骨 p108
句割れ、句またがりの歌。予言めく。
下句に「内臓を抱きしめる骨」とあるので、剥がれおちるのは内臓。
内臓はきみそのもののか。きみをきみたらしめるなにか。
が、そもそもわたしが詠むきみなのであれば、きみから剥がれおちるのは「わたし」なのか。「わたし」であり「内臓」であり、それが「きみ」である。白い骨が遺物のように残される。そんなイメージ。
「盗聴」
まぼろしの椅子に毎日すわること思いどおりに気が狂うこと p109
大西民子の「かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は」の
オマージュのよう。この大西民子の歌は別の形で「砂小屋書房」の一首鑑賞に引かれている。そしてそこで穂村弘の、大西民子の「妹」が論じられる。
https://sunagoya.com/tanka/?p=18127
本歌集でも次の歌は
ここいもうとはいないともだちはいない乾いたバスタオルが干された p110
であり、それは偶然ではないだろう。
大西のうたとは違い、ここでは「あくがれて待つ」のではなく、まぼろしの椅子に自らが積極的に座り、積極的に狂うことを歌う。そこにひとつの立ち方がある。強度のある歌。
「昨日と今日の泡」
わたしをわたしの戦利品だというときに喉をあふれない夜の川 p114
戦利品とは奪いとったものである。だから、わたしはすでに「戦利品」=もの化されている。もし、夜の川が喉からあふれるようなことがあればそれはどんなのだろうか。あふれないから良いのかあふれないことが抑圧としてあるのか。そこのところがわからない。ただ、「喉」「夜の川」という言葉を「あふれない」という否定形の動詞でつながれたとき、そこになにか本来あるべき姿がそこにないもどかしさのようなニュアンスをわたしは感じる。
「別名」
喪服を脱いだ夜は裸でねむりたいあるいはそれが夢の痣でも p138
誰の死を悼む喪服か。それは自分自身か、喪服を脱げないのは自身が死に続けているからか。わたしがわたしに戻るために喪服を脱いで裸でねむることを求める。けれど喪服の対象がわたしなのであるのなら、それは満たされない。だからこそ、それが夢の痣であってもなのか
「喪服」「夢の痣」の言葉の組み合わせがよい