最後の最後まで、すべてを出し尽くす。GK田中謙吾【Voice】
先日、今季限りでの引退がリリースされたGK田中謙吾選手。Jリーグ参入から3年間、チームを陰で支え続けたベテランGKの思いをうかがいます。
■悩む選手に寄り添い、成長を支えられる存在に
「2024年シーズンをもちまして、プロサッカー選手を引退することに決めました。どんな時も応援していただいたファン・サポーターの皆さま、ありがとうございました。そして、今まで在籍したAC長野パルセイロ、松本山雅FC、いわきFCで関わった全ての皆さまにも感謝しております。周りの方々に恵まれたサッカー人生でした。まずはチームの目標を果たすために、目の前の1試合にすべてをかけ、大切な仲間達と共に愚直に立ち向かいます」
身体を張ったシュートストップを武器とし、3年間にわたり正GKをバックアップ。チーム唯一の30代としてチームメイトから慕われ、多くのファンに愛されてきた田中謙吾選手がこの10月、今季限りでユニフォームを脱ぐことを発表しました。まずは、その理由からうかがっていきます。
「一つは、指導者としてやっていきたいという思いが強くなったことです。今のいわきFCには若い選手が多い。その中で壁にぶつかり、悩む選手を間近でたくさん見てきた。彼らに寄り添い、成長を支えられる存在になりたいという気持ちが大きくなりました。そして、もともと父親が暁星中学校サッカー部の監督で、ずっと憧れていた父のようになりたいという思いもあります。
そしてもう一つが体調面。ここ数年、メンタルからくる内臓系のトラブルを抱えており、年齢を重ねるにつれてそれが大きくなっていました。ゴールを守るGKというポジションは11人のうち1人だけ。1試合の重みが強く、試合に出るチャンスはシーズン中たまにしか巡ってきません。そのチャンスをモノにするため、1試合に自分のすべてを懸ける。その思いが強いあまりに、大きなプレッシャーになっていました。
自分は普段からこんな感じでおちゃらけた面もありますが、そこまで強い人間じゃない。プレッシャーからくるストレスと、それによる身体への負担は相当大きくなっていた。実は今年の頭には、今季を最後にすると決めていました。決めないと、今年1年頑張れなかった。それが正直なところです」
田中選手はこのように、正直な思いを告白してくれました。日体大を卒業後、2012年に当時JFLのAC長野パルセイロに入団。以来毎年「今年が最後になるかもしれない」という思いで、山あり谷ありの選手生活を続けてきました。
いわきFCではJ3に参入した2022年からの3年間、坂田大樹選手(現・アビスパ福岡)、高木和徹選手(現・ジェフユナイテッド千葉)、鹿野修平選手、そして今季は立川小太郎選手と、3年間にわたって正GKを支え続けてきた田中選手。あらためてこれまでのキャリア、そしてチームへの思いについて聞いていきましょう。
■近距離のシュートストップという武器
両親ゆかりの鹿児島県で生まれ、神奈川県川崎市で育った田中選手。お父さんが暁星中学校サッカー部の監督だったこともあり、小さなころからサッカーはとても身近な存在でした。
暁星小時代にサッカーを始め、暁星中ではお父さんが監督を務めるサッカー部でボランチをやっていた田中選手。生い立ちについて、自身のnoteに詳しいことをつづっています。詳しくはぜひ、こちらを読んでみてください。
ここでは、noteに書かれていない大学時代から今に至るまでのお話をうかがっていきます。
高校1年の途中でGKに転向。そこから徐々に実力を伸ばし、高3でスターティングメンバーとして活躍。そして卒業後は、お父さんの母校でもある日体大に進学します。
「その時、プロはまだ意識していませんでした。父に憧れて教員と指導者になりたい気持ちがあり、日体大に進学。サッカー部に入るとGKが20人ぐらいいて『こりゃ無理だ』と思いましたが、1年生の夏にトップチームに呼んでもらえました。トップチームに入れたのは、近距離のシュートストップという自分の武器に気づいたことが大きいです。
もともと暁星は東京都心にありグランドが小さく、そのおかげで至近距離のシュートに対峙することが多かったからだと思いますね。大学に入って『これは武器になる』と思いました」
そしてトップチームで練習を重ねるうちに、徐々にプロを意識し始めるように。
「1年の時、FC東京とのトレーニングマッチでシュートをバンバン止めて活躍でき。それが自信になりました。それと、同期や先輩の影響もあります。1年の夏、一緒にトップチームに入った同期で、今はザスパ群馬にいる親友のDF小柳達司、そして1年上で徳島ヴォルティスにいるMF岩尾憲さんの『プロ選手になりたい』という思いに刺激を受け、徐々に気持ちが高まっていきました」
実力を伸ばし、2年生の途中に試合出場機会をつかんだ田中選手。
3年になった時、ブンデスリーガより更に下部リーグのチームに練習参加。しかし、その間に下級生のGKにポジションを奪われ、結局3~4年生では試合に出られませんでした。
それでも、プロを目指す気持ちは変わりません。大学4年の10月、松本山雅FCの練習に参加。しかし、この時に膝を負傷してしまいます。
「手術が決まり、病院で大泣きしたのを思い出します。そのまま大学サッカーからの引退が決まりました。大学時代に教職課程を取っていたこともあり、非常勤の教員になったり、スポーツクラブなどに就職する道もあった。でも、サッカーを諦めたくなかった」
年明けの1月、まともに膝が曲がらない状態で、当時JFLにいたAC長野パルセイロのセレクションへ。どうにか合格し、アマチュア契約での加入が決まりました。
■いつ、どこで誰が見ているかわからない。だからこそ、どんな時も気の抜いたプレーはできない
2012年に加入したAC長野パルセイロは当時、Jリーグ参入前。多くの選手が仕事をしながらサッカーをしており、田中選手も同じでした。
「ライフライン長野という会社で倉庫のガス管の在庫管理をしていました。朝8時から12時まで仕事をして、14時半から練習。夕方に終わったら食事をして、夜に提携先のジムでトレーニング。そんな毎日でハードでしたが、とても楽しかったです。
仕事をする条件でしかサッカーを続けられなかったのが現実ですが、社会を経験して本当によかったですね。会社でともに働く人、そして地域の方々と一緒に戦うという感覚が素晴らしかった。当時勤めていた会社の皆さんとはずっと付き合いが続いていて、今も応援してくださっています。今年で引退することに対しても、皆さんからメッセージをいただきました」
2014年のJ3創設に伴い、長野はJリーグに参入。この年から選手全員の待遇がプロ契約に切り替わり、田中選手も晴れてプロ選手に。そしてここから2年間、スタート出場を続けます。
最も悔やまれた試合が、2014年シーズンのJ2・J3入れ替え戦でした。当時J2にいたカマタマーレ讃岐と対戦したこの試合で、田中選手のミスにより失点。チームは絶好の昇格のチャンスを逃してしまいました。
「自分の力が足りずにチームをJ2に上げられなかった。本当に苦い思い出です。当時GKコーチの前田隆司さんが自分のシュートストップのよさを評価し、多くのものを引き出してくれたおかげで2年間試合に出続けましたが、今振り返ると実力不足でしたね」
その後、田中選手は2016年からバックアップに回り、2019年、当時J2の松本山雅FCに移籍を果たします。
「同じ県内ということもあり、長野と松本は練習試合をする機会が多くありました。3年間控えGKだったので、控えメンバーで戦う松本との練習試合に出る機会が多くあったんです。自分はまったく知らなかったのですが、その時に松本のGKコーチだった中川雄二さんが自分を評価し、気に留めてくれていたそうです。
中川さんと交友のあった長野のGKコーチ水谷さんの後押しもあり、松本に移籍することができました。
この時に実感したのが、いつ、どこで誰が見ているかわからない、ということ。だからこそ、プロである以上、どんな時も気の抜いたプレーをしてはいけない。そのことを、身をもって知りました」
松本の2年間で試合出場機会はありませんでしたが「実はこの時が最もGKとして成長できた期間だった」と語ります。中川コーチとの二人三脚でスキルを上げ、充実した時間を過ごした田中選手。2020年で松本との契約が満了。トライアウトを経て再び長野に入団します。
「現在、チームメイトのコタローはこの時に湘南ベルマーレに移籍しています。彼はもともと、自分が松本に移籍した2019年に長野に入っているんです。もともとそんな玉突きのような関係で、今いわきで一緒にプレーしているのは、何とも言えない巡り合わせですよね(笑)」
2021年。二度目の在籍となった長野でも、シーズン前半の半年間はバックアッパーとしての日々が続きました。そんな田中選手に大きなチャンスが回ってきます。天皇杯2回戦・川崎フロンターレ戦。この試合は2021年に初めて先発したゲームでした。
2年半ぶりのスタメン出場。戦いの舞台は地元・川崎市の等々力陸上競技場。相手はレアンドロ・ダミアン選手や家長昭博選手を擁する川崎フロンターレ。燃えないはずがありません。
ボールを動かす川崎と、堅い守備から縦のカウンターに活路を見出す長野。試合は前半42分に長野が先制します。しかし後半に入り、川崎は幾度となくチャンスを作って反撃。ここで長野のゴールマウスに立ちはだかったのが田中選手でした。再三にわたるファインセーブで、川崎の攻撃を阻みます。
長野の1点リードのまま迎えた終盤、川崎が田中選手の守るゴールをこじ開けて執念の同点ゴール。試合は延長戦に入ります。ここでも田中選手は3連続でハイボールをパンチングで弾き返すなど、素晴らしい動きを見せました。試合はPK戦に突入し、川崎が3回戦に進出。それでも田中選手は、試合に出られない間でもコツコツと積み上げてきた高い技術を証明してみせました。
「本当に悔しかった。終盤に失点して勝ち切れなかったのは自分の力不足です。ただ、松本時代を含めた2年半、試合に出られていなかった鬱憤を、この試合で晴らすことができたのは確か。このころまだまだ自分自身が伸びている感触があったけれど、なかなか試合に出られずに我慢を続けてきた。それがこの1試合で、すべて報われた気がしました」
二度目の長野在籍時代もコツコツと実力を伸ばし続けた田中選手。2021年シーズン終了後、いわきFCへの移籍に踏み切ります。
「以前の在籍も含めて長野には長くいましたし、とても居心地がよかった。お世話になったパルセイロとともに昇格をしたい思いも当然ありました。実際に契約延長のオファーもいただきましたが、よく考えた上でお断りしました。長野の居心地がとてもいいからこそ、知らない土地の新しい環境でチャレンジして、もうワンランク成長したい。そう考えたからこその決断でした」
そんな時、田中選手のもとにいわきFCからオファーが届きます。チームに落ち着きをもたらすベテランGKを探していたいわきFCと、さらなる成長を求めた田中選手。両社の思いは合致し、田中選手は大好きだった長野を離れる覚悟を決めました。
■多くの人達のおかげで、今この舞台に立てている
2022年シーズンにいわきにやって来た田中選手。移籍の決め手はいくつかありました。
「まず一つは、自分の身体と本気で向き合っていこうと考えたこと。30代を迎えて筋力が落ち、キックの飛距離がやや下がっていると感じていました。当時の長野にはしっかりと身体作りに打ち込める環境がなく、食事は自分で考え、トレーニングも提携先のジムに行かなくてはいけなかった。でもその点、いわきFCはトレーニング、食事、そして血液検査を定期的に行うなど、身体作りに対する環境がすべてそろっている。若い選手ばかりの中で、筋力が落ちてきた身体をあらためて強くしたい。そしてGKとしてまだまだ成長したい、という思いがありました。
もう一つが震災復興の力になること。東日本大震災発生当時、僕は大学生でした。実際に震災を経験しておらず、ボランティア活動などにも参加していなくて、どこか他人事だった。そこから11年が経ち、いわきFCに移籍して福島県に住むことで、何かを感じることができるのではないか、と思いました。
実は移籍に際し、背中を押してくれたのが妻でした。彼女はもともと航空会社の客室乗務員で、震災があった当時に福島空港から救援、避難する方々を乗せた臨時便に搭乗した経験があります。
その時の思いから『復興の力になる、という使命を持つクラブに移籍するのはすごくいいこと』と言ってくれたことも、移籍の大きな決め手でした」
当時32歳だった田中選手は、若い選手をそろえて強度の高いプレースタイルを志向するいわきFCが初めて迎えた30代の選手でもありました。
「ベテランも多くいた長野とはすべてが違いました。20歳そこそこの選手が多い中、最年長であることはもちろん承知の上。でも、気にする必要はありませんでした。普段のままの自分でいようと心がけたら、マサル(日高大:現・ジェフユナイテッド千葉)やショウタ(鈴木翔大:現・鹿児島ユナイテッドFC)、ヒロト(岩渕弘人:現・ファジアーノ岡山)そして山下(優人)なんかが上手くいじってくれた(笑)。優しく接してもらって、本当にありがたかったです」
若い選手が多い中、年齢は関係なく、がむしゃらに取り組んだ田中選手。厳しい練習とハードな筋トレに取り組みつつ、奥さんのサポートで食事を管理。質の高い睡眠を取る。このサイクルを確立させていきました。
Jリーグ参入1年目の2022年。田中選手のいわきFCでの初出場機会は思いもよらぬ形で回ってきます。J3第5節のAC長野パルセイロ戦。移籍して間もない4月に巡ってきた古巣とのアウェーゲーム。事前のトレーニングでは「何が何でも出場したい」という思いはかなわず、この日はベンチスタートの予定でした。
「とにかく試合に出たい思いが強かった。試合が行われる長野Uスタジアムが近づくにつれて、気持ちが高ぶっていきます。でも、まずはスタメンの鹿野をしっかりバックアップし、いい雰囲気で試合に送り出すことを考えていました」
ところが先発する予定だったGK鹿野修平選手が、試合前のピッチ内でのアップで足首を負傷。急遽、バックアップの田中選手が先発することとなったのです。
「つい数か月前まで所属していた古巣との試合ですから、燃えないわけがありません。もちろんスタジアムには慣れていて、いわきの誰よりもUスタのピッチはよく知っています。だから、ホームのような感覚でプレーできました。奇跡的なシーズン初出場でしたね」
試合はいわきが4対0で勝利。田中選手も好セーブを見せて勝利に貢献しました。そして翌週の第5節・FC今治戦でも先発するも、チームは敗戦。田中選手はこの試合以降スタメンを外れ、シーズン中盤には長年チームを支えてきたGK坂田大樹選手(現・アビスパ福岡)が負傷復帰し、正守護神に収まります。
チームはJ3で首位を走り、J3優勝とJ2昇格を達成。田中選手の出場は2試合にとどまりましたが、個人としてずっと目標にしてきたJ3優勝・J2昇格を成し遂げたシーズンとなりました。
そして2023年8月の第31節・東京ヴェルディ戦でJ2初出場を果たします。正GKだった高木和徹選手がレンタル元との対戦となり、2年目の鹿野選手がコンディション不良。それにより巡ってきた出場機会でした。しかし「どんな形であれ、うれしかった」と語ります。松本山雅時代に目標としていたものの、果たせなかったJ2初出場。それを成し遂げたのは、本当に喜ばしいことでした。
しかしその後は、シーズン終盤まで出場機会を得られません。チームはJ2で残留争いの中、第39節でホームに清水エスパルスを迎え、1対7で大敗を喫してしまいます。このゲーム翌日に行われた、控え選手による鹿島アントラーズとのトレーニングマッチ。田中選手は並々ならぬ決意を抱いていました。
「チームが苦しい状況にある中『俺がチームを助けるんだ』という意志を持って試合に臨みました。今、チームがJ2の舞台で残留争いができているのは、ここまで在籍してくれた多くの選手や、チームを支えてくれるスタッフのおかげ。GKでいえば坂ちゃん(GK坂田大樹)がいてくれたから、僕らはJ2に昇格できた。そして、これまでお世話になったGKコーチの皆さんや家族のおかげで、自分は今この舞台で戦うことができている。そんな多くの人達の思いを背負って、鹿島とのゲームに挑もうと思ったんです」
強い気持ちで試合に臨んだ田中選手は、素晴らしいリーダーシップを発揮。試合出場機会が少ない中でも、2年間コツコツと積み上げてきたものを証明してみせました。
そして翌週の第40節・ジェフユナイテッド千葉戦、田村雄三監督はトレーニングマッチで優れたパフォーマンスを見せた田中選手をスターティングメンバーに抜擢します。試合は大激闘の末に敗れましたが、好セーブを連発。確固たる実力を示してみせました。
「いわきに来て大きく変わった点が、リラックスしてプレーできるようになったことです。今までは力強さが自分のよさだと思っていた。でも武田治郎GKコーチから『力み過ぎているから、もっと力を抜いた方がいい』とアドバイスを受け、少しずつそれができるようになり、プレーが明らかによくなった。また体重が77㎏から82㎏に増え、キック力も向上しました」
翌週の第41節・モンテディオ山形戦、最終戦となった第42節・藤枝MYFC戦にも先発出場。終盤3試合で優れたパフォーマンスを見せて、チームのJ2残留にしっかりと貢献。移籍2年目の2023年は思い出深いシーズンとなりました。
■自分の可能性をギリギリまで使い尽くしてほしい
さまざまな人達の思いを背負いながら、13年の現役生活を戦い抜いてきた田中選手。2024年は残念ながら、3月のルヴァン杯・FC大阪戦、7月の天皇杯・広島戦の出場のみにとどまっています。今季のGK陣のポジション争いについて、このように語ってくれました。
「みんなライバルですから、毎日が勝負。試合に出るには他のGKよりいいパフォーマンスを出すだけで、その中で選ばれた選手が出るのは当然。ただその反面、GKというファミリーでもあります。だからお互いを尊重し、それぞれの立場で100%を出す。それしかありません。
今季は第2節からコタロー(GK立川小太郎)がずっと出場を続けてきました。これは僕自身の責任でもあるのですが、もっと高いレベルでポジション争いをしなくてはいけなかった。もっともっと、コタローが安心できない状況を作らなくてはいけなかった。天皇杯やルヴァン杯で僕や鹿野やヒョンジン(GKジュ・ヒョンジン)がいいパフォーマンスを見せ。コタローを脅かす状況を作れなかったことは、大きな反省点です」
引退を発表し、選手として迎えるのは残り1試合。それでもシーズン最後のゲームのタイムアップの笛が鳴るまで、出場に向けての気持ちを切らすことはありません。そんな田中選手は最後に、いわきFCへの思いをこのように語ってくれました。
「いわきでの経験は、今後すべてに役立ってくると思います。僕はクラブ初の30代としてここに来ましたが、気づけば自分より若い選手達に引っ張られていた。3年間で、彼らから学ぶことがたくさんありました。
例えば山下(優人)は、ちょっとやそっとでは崩れないメンタルを持っている。8月末の仙台戦で、彼はミスをして前半で交代させられてしまいました。でもその翌日、通常は控え選手が中心になる練習で覇気を出し、素晴らしいパフォーマンスを見せていた。すごいリバウンドメンタリティですが、たいていの選手はこれができない。しかも翌週の試合で活躍してみせた。本当にすごいこと。彼は実力があるだけじゃなく、常に自分にベクトルを向けている。物事に取り組む姿勢がしっかりしているからこそ、みんなから信頼されるんです」
これまでの13年間、長野と松本、そしていわきでたくさんの選手を見てきました。いいセンスを持っているのに成功できなかった選手もいれば、優れた素質はないけれど成功した選手もいました。だからこそ、チームメイト達に言いたいことがあります。
「サッカー選手のピークはどこで来るかわからないからこそ、常に強い気持ちを持ってやり続けてほしい。そして、自分の可能性をギリギリまで使い尽くしてほしい。今のいわきFCにも、素晴らしいセンスを持っているのに生かし切れていない選手はいます。自分の可能性はどれぐらいあるのか。そのすべてを出し尽くせているのか。それを自分で気づけるようにならなくてはいけないと思います。
ただしそれは、毎日100%で取り組んでいなければ無理。どれだけ上手でも、メンタルができていなければ一流の選手にはなれません。そのために大切なのは人格です。それがわかったからこそ、今後は人格形成に関わる仕事をしたいと思っているんです」