【FM店主日記Day93】10秒将棋とボクちゃんわかんないなー症候群
10秒将棋を頻繁に指すようになってから一週間が経とうとしている。
結論から言うと、だいぶ秒読みされ続けることに慣れてきたので、なんならもっと早い段階で導入しておけばよかったと思っていたりするのだけれど、それって結構色んなことに対して思うことだったりもする。慣れていない、というのは違和感がある、ということであり、違和感がある、ということはそれに馴染むだけでも新しい学びがある、ということである。つまり、違和感がある、というのは今まさに何かを学習している状態である、ということの証しでもある。
そもそも自分はかなり早い段階で10秒将棋に苦手意識を持っていた。その証拠にこの十年間で20局くらいしかやってこなかったし、今では二段のところまで上り詰め、10分将棋、3分将棋の棋力と並ぶところまでようやくやって来たし、二段の人と指していてまぁ、だいたい同じくらいだな、と感じるわけなのだけれど、10秒将棋は1手10秒以内に指さなくてはならないので、うーん、どうしようっかなー、どうすればいいかなー、うーん、いやー、うー、迷うなー、ボクちゃんわかんないなー、と悩み始めてしまうとあっという間に10秒は流れていってしまい、時間切れ負け、という屈辱的な敗北を喫するのである。自分的にも屈辱的であるわけだし、相手にとっても突然いいところに差し掛かった試合が終わってしまうので、ちょっと迷惑でもあり、失礼でもある。ま、少なくとも、大いなる苦手意識はこの一週間で払拭できたのではないかと思うし、それは大きな収穫でもあったのだ。
そして、このボクちゃんわかんないなー、という状態にいかに陥らないか、というのがこの10秒将棋の攻略方法である、ということが最近になって感覚的に理解できてきた。なぜ、このボクちゃんわかんないなー、という状態になるか、というと、一手ずつ考えようとするからであり、これは、考えているようでいて、実は単純に思考停止に陥っているだけだからである。考えている状態と迷っている状態、そして思考停止してただ単に困っている、というのは側から見ていると同じにしか見えないけれど根本的に全く違う行為なのだ。
将棋の手というのは一手ずつ考えることもできるし、AIなどは実際に局面ごとに考えるような設計になっているので、「流れ」というものを考慮に入れない。今この瞬間の最善手を指す、という仕様になっているのだけれど、人間の場合は、これまでの手の流れ、というのに乗っかっていこう、という考え方が結構重要だったりする。つまり、最初からある程度の戦略をあらかじめ作っておいて、それ以降の手はその戦略の方針に基づいて決めていく、というのが時間がない状態で決断する上でとても重要なのだ。短い時間で読み切ることは不可能なので、決断の基準となるものがあるかないかで大きな違いが生まれてくる。これによって、点だった思考を線にできたり面にできたりするのだ。もっと頑張れば麺にもできるかも知れない。人類みな麺類。
一番良くないのは、一手前の手と今の手と次の手が別々の方針によって指されている状態なのだ。たとえば、中学生の頃に、「おれは東大を目指す!」といって勉強をし続けるのであれば、全てのことに対して、「これはおれが東大を目指す上で有益か否か」ということを考えられるので、たとえ東大に入ることができなくてもある程度の学力だったり、考える力だったり、何かを目指して力を蓄積させる方法を学ぶはずなのだけれど、「おれは東大を目指す!」が次の日には「おれはジミヘンみたいなギタリストになる!」となり、その次の日には「おれはプロのバスケットボール選手になる!」と支離滅裂なことばかりやっているとなかなか目的に近づくことは難しいわけであり、とても戦略的とは言えない決断ばかりをしてしまうようになるのだ。10秒将棋で必要なのは、この大雑把な目的地とたどり着くまでの方針を早い段階で決めておき、できるだけそれをぶれさせないようにする初志貫徹能力であり、そして予期せぬ手を指された時の緊急対応能力である。
そして、一手10秒に慣れてくると10分の将棋はかなり気持ち的にゆとりを持って指せる、というメリットがあることも体感することができた。方針を早い段階で決める、という考え方が10分将棋でも非常に役に立つこともよくわかった。しかし、気持ちにゆとりが生まれたからと言って、常に正しい手が指せるようになるわけではなく、ゆとりを持って考えた結果、ぼくちゃんわかんないなー、という結論に至ることもしばしばあり、今日もまた凡ミスをおかしては格下の相手にフルボッコにされるというどこまで行っても「ボクちゃんわかんないなー症候群」な人生なのである。
フェルマータ店主 KAORU