個々の復興と物語・第一回びぶりば
20年来、地元で小さな読書会をやっている父から聞いた読書会のルールは「他人の選んだ本を否定しないこと」。
日本最大級の読書会、猫町倶楽部の唯一のルールも「他人の意見を否定しないこと」だそうだ。(あと、課題図書を読了していること)
「同じ本を読んでいるのに、こんなに違う見方があるのかと思わされるよ」と言われたけど、それを実感する日になった。
全然うまく話せなかったし、メモしていた内容はほとんど話せなかった。でも、その場で話したくなったことを言葉にしても良い安心感。
家庭医療が振り返りで大切にしている「安全な場」を、読書会も同じように確保しているからこそ、参加者は考えたことを自由に話すことができる。
「新復興論」を通して、私は”自分自身”の311や台風被害の経験や考えていたことを(自分でもそんなことを話すつもりはなかったのに)語ることができた。
私自身の経験なんてちっぽけなものだと、あえて語る機会を持つことはほとんどなかったけれど、本当は話してみたかったのかもしれない。
小松さんの語る「当事者の分断」が身近に起きていたことも、感想を語る中で知ることができた。そしてその分断を「新復興論」がつないでくれたことも。
小松さんは”自分の考え方の源流・ルーツを確認しながら『新復興論』を書いたことで、自分が復興できた気がする”とおっしゃていた。
地域の復興は、解像度をあげれば、そこに暮らす一人一人にとっての復興であるはずで、大きな主語を使わずに「”自分にとって”震災や被災がどういう経験だったのか安心して語りあえる場」が地域の様々な場所にあっても良いのではないかという話しが印象に残った。
千野帽子さんの著書「なぜ人は物語を求めるのか」に書かれていた、”人は自分がしがみついている「ストーリー」を手放す自由を(実は)(いつでも)持っているし、より良い方向に修正もできる”ということと近いものがあるかもしれない。
語りなおせる場が、いくつもあるのは素敵なことなのではと思った。
読書会は震災、復興の話から、これからの商店街についても話題が波及。
良書は、それ自体を通じて自分たちのこれまでとこれからを考える触媒になってくれる。
”地域づくりに必要な人を「ヨソモノ・ワカモノ・バカモノ」と言う。この3つを言い換えれば、そのまま「外部・未来・ふまじめ」になる。当然、被災した土地の未来は、そこに暮らす人たちが決めるべきだし、怪しいコンサルの話を聞く必要もない。しかし、地域の決断は「今この私」と「外部・未来・ふまじめ」を何度も何度も往復した末にあるべきだ。未来と外部を切り捨ててはならない。なぜなら私たちの地域は「今この私」だけのものでは無いからだ。” 新復興論 382p
参加してくださった商店街関係者の方が、「復興の前に哲学が必要だと感じた。この街をどうしていくか、若い人たちに伝えていければと思っている。」と今後のことを話してくださった。
日常と文化、アートの接続の仕方を、私もここで自分なりに考えていければと思う。楽しんでやった上で、「結果的に」地域にとって必要なものになったら嬉しい。
風通しのいい飴喫茶庵で、美味しい雑穀スイーツを食べながら、本の著者さんを交えて語れるなんて、しかも、娘(6m)を皆さんに代わる代わる抱っこしてもらえながらやれるなんて、
こんな子育てしてみたい、と思っていたことを自然に実践してもらって、自分も娘も地域に受け入れてもらえているんだ、と噛み締めた午後でした。