うちらだったわたしたち
小中学生の女子が一人称を「うち」というのは何故か、という現代ビジネスに載っていた記事を読んだ。
“少女の用いる「うち・ぼく・おれ」は、新しい少女性の創造。子供でも女でも無い自分のアイデンティティを表現するための言葉が無いからだ”と書かれていた。
そうか。表現という意識こそなくても、言葉には自分の在り方、アイデンティティを感じているはずだよな。
わたしも中学生までは「うち」だった。
仲良しの友達も「私」と言うよう注意されていて、うちら..うちらはお互いになんかとてつもない違和感と闘いながら徐々に一人称を直そうとしていた。これから年齢を重ねていくにつれて、女性は誰だって「私」と言わないといけないのか...?!無理矢理大人にさせられるような、照れ臭い違和感。
すでに芸能活動があったので、テレビや雑誌のインタビューなどオフィシャルの場では「私」を使うようにしていたけど、友達同士の場や家の中ではとても使えなかった。ワタシとか言って女みたいなふりしちゃって、自分じゃない感じ。不釣り合いな言葉に思えた。
うちらといえば「ウチらSTYLE」というフジテレビの5分番組にもレギュラー出演していた。ウチスタ。あの頃ウチら最強だった日々。
「うちら」には、「私達」には叶えられない連帯感があったと思う。
「私」=自分 という感覚になるまでには時間がかかった。馴染んでなくても、人目とか社会性のためにエイッ!と切り替えたと思う。不思議と板についたもので、今や余裕で私。私は私と胸を張って言えるようになっている。気付いたら周りの友達のほとんどが、不思議と統一されていた。不思議だ。
さらに昔をさかのぼってみると
幼稚園で好きだった男の子がある日突然、自分のことを「ぼく」から「おれ」に変えて呼び出したときも驚いた。突然に「おれ」とか言って、男ぶって背伸びしだした様子がなんかゆるせなかった。(笑) これまでの彼の好きだったところとか、その人らしさが否定されるような、悲しい気持ちになった気がする。(勝手に!)
わたしたちは毎日一緒で、このまま結婚することにしてたのに(♡) その一件が最初で最後の喧嘩となり、いくら止めようとしても彼は「おれ」の世界へ旅立ってしまい、当時の私(5歳)には理解できず、覚えたての難解(⁉︎)な単語「絶交」を使って距離をとったまま卒園となり、それきり2度と会わなくなってしまった。
うう。一人称で引き裂かれる初恋。
そうして別々の小学校へ...
入学前に配られたプリントの一文には
「自分のことは名前ではなく、わたしと呼びましょう」というようなことが書かれていた。
私は素直に「私」という仮面をつけて学校に通ってみた。けどやっぱり馴染めず、気づいたら私含め女子達の一人称は「うち」が主流となっている。→冒頭の中学生、ウチら最強時代へと続く。
一方で10代の頃、雑誌のインタビュー記事で
意識的に「私は〜」と喋ったはずなのに
発売されたものを読むと「ナナセは〜」と一人称を書き直されていることが時々あった。子供らしさとか可愛らしさみたいなことを演出されていたんだと思う。ブログや自分から発信しているはずのコンテンツでも、後から大量に絵文字が添えられたり、語尾に星やハートがつけられていたり、自分が思っている言葉では無くなっていることがショックだった。
メディアを通して言葉が自分から離れていってしまう恐怖とか苛立ちのようものを、子供なりに感じていた。自分を原材料に生まれて、一人歩きした虚構みたいなものがテレビに出てる感覚。
例えば意図せず語尾に星がついたり、一人称が名前に変更されたり、些細なことで発言のニュアンスはまったく違うことになる✩✩✩
他人にとっては大したことではないかもしれないけど、子供にも若者にも自分の言葉はある。
友達のなかだけの共通言語で盛り上がったり、方言よりもっとせまい家庭内のプライベートな言葉づかいや呼び名があったり、言葉の表現が人を結ぶ力って改めてつよい。戻れなくて全然いいけど、思い返すと“うちら”だった時間も尊い。言葉の生まれる理由を探すと色んなことが発見できて、たのしい。とか、役者になってますます考えることも増えていて、感慨深い記事でした。
もっと色んな言葉を知って、
自分の言語にしたいなぁ!