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バイナリーは泡へと消えて
このSSで使用されている設定の全ては著者による捏造です。
この記事は名トアドベントカレンダー2024に参加しています。
「ん……」
カタカタという小気味いい物音で融原 心優は目を覚ました。何か夢を見ていた気がするが、現実に意識のピントが合った瞬間、脳裏からそれらは霧散してしまった。
何かを見たという感覚は残っているのに、その手がかりすら掴めないのはなぜなのだろう?”それ以外の全て”は記憶できるというのに……条件が違うのだろうか。
そんなたわいのない疑問もまた、目前で動く神秘にかき消される。ちょうど夢が現実に溶けゆくように。
「あ、ミヒロちゃん起こしちゃった?」
「いえ……おはようございます、うるるさん」
彼女の返答に対して、スライムやクラゲのような、青く透けている不思議な髪質の少女が会釈した。髪質以外には特に不自然なところはないが、どこか見覚えのある衣服――いわゆる普遍的な学校の制服を着ている。
彼女の名前はうるる――聖杯戦争に際して、心優が召喚した相棒――即ちサーヴァントだ。
彼女の質問に対し、うるるが返した簡単な説明を思い出す。
サーヴァントっていうのは、簡単に言えば肉体のある幽霊みたいなもの。その本質は幽霊であるから、食事も摂らないし睡眠も必要ない。代わりに魔力というリソースを消費して存在している。また、魔力を消費することで超自然的な現象を起こすこともできるとも。
そういった力を振るい、他に召喚された6体のサーヴァント全てを殺すこと――それが聖杯戦争で勝つということなのだと、うるるという少女は言った。
心優は彼女から説明される以前より、聖杯戦争やサーヴァントについて情報を手に入れてはいたものの、半信半疑、いやほとんど都市伝説のようなものとして解釈していた。
ただ一人勝ち残った優勝者は、あらゆる願いを叶える”聖杯”を手にすることができる。そんな話、どう考えても夢物語だろう。それに、”他の世界より流れ着いた儀式でありこの世界ではまだ一度も実現していない”なんて言説が信じられるだろうか?
そんな妥当な推量が機能していたのは、聖杯戦争の参加券である令呪が浮かんでくるまでの話だった。現に彼女はサーヴァントを召喚し、マスターとしてここに在る。全てはそう、ある”病”を消し去るために。
左手の甲を仰向けの視界にかざす。落書きでも入れ墨でもない赤い印。そのうちの一部は役目を終えたかのように跡を残して消えていた。これには覚えがある。数日前の戦闘で槍兵のサーヴァント――ランサーに襲われた際、使用した令呪だ。
――華奢で頼りなげな少女が形容しがたい怪物を生み出し、使役し、また殺された夜。槍兵の一突きで臓を散らしたはずなのに、次の瞬間にはどろどろの体のまま、私を抱えて逃走していた――
こんな一幕。先程見ていた夢と、どちらが夢物語といえるだろう。
「そうだ、ミヒロちゃん。そろそろ10時だから出発の準備をした方がいいと思うよ。確か12時間パックだったよね?」
見上げる天上はとても低い。四方を壁に囲まれ、身体を預けているマットレスは狭くて固かった。
ここはネットカフェの個室ブースだ。心優にとっては見慣れた景色の中に、ただうるるだけが異質な影として映っている。うるるは心優の腹部辺りのスペースに腰かけてパソコンを弄っているようだった。先程の物音は彼女がキーボードを操作していた音だろうか。
「あ、邪魔なら霊体化するよ」
そう言ってうるるは足元から消えていく。見た目には何の変哲もない少女だからこそ、こうして幽霊らしいところを見せられると、未だにどこか疑っている心の一部が驚きの変数を返す。
心優はゆっくりと上半身を持ち上げた。睡眠は十分取ったとはいえ、身体の節々が痛くすぐさま動き出せそうにはない。睡眠には適さないマットレスで寝ているのもあるだろうし、数日前に無理に運動したときの筋肉痛がまだ残っているようでもある。
「やっぱりホテルにした方がよかったんじゃない?」
何もないはずの空間から声がする。霊体化したうるるが話しているのだ。
「うーん……でもやっぱり、あまりお金は使いたくないかな。過度にやると足が付くと思って、この暮らしを始めたときからホテルにはほとんど泊まってないし。後は……やっぱり、違法に手に入れたお金を使って、柔らかいベッドで寝るなんてことできないよ」
「ふーん、そういうものかなあ。今は私がいるんだし、多少のことはどうにでもなるんだけどなー」
のんきな口調で彼女は答える。彼女の使う魔法みたいな力があれば、実際に警察に追われてもどうにかしてしまえるのだろう。そもそも何か悪いことをしたという証拠すら抹消できるのかもしれない。
しかし、聖杯戦争中にあまり大きな事件を引き起こすのは好ましくないだろう。他のマスターたちに居場所が割れてしまったなら襲撃を受けることになる。ただでさえランサーには一度襲撃を受けているのだ。一応その近辺からは離れたが、まだ動きを補足されているかもしれない。
「そういえば、何を調べてたの?」
「あ……」
パソコンを覗き込むと、画面には無数のグラフが表示されていた。時間とともに右側へグラフが進み、山脈のような形を作っている。カーソルを合わせればその時刻における価値が確認できる。おそらく仮想通過のサイトだろう。
「ほら、戦っていくためにも色々モノや場所が必要でしょ?そういうのを用意するにはお金が必要ってことで……ミヒロちゃんの能力があるし、稼げないかなって」
「……はぁ」
意図せずため息が漏れてしまった。心優の感じている良心の呵責や、敵に襲われることへの不安なんてものは、うるるにとって意識外の問題なのだろう。
「私の能力でそんなこと……できるかどうかは分からないけど、やらないよ。それこそ大事件になるだろうし。とりあえず、生活できる程度のお金があるうちはやらない」
ちぇーという子供のような返事が虚空から返ってきた。
ネットカフェの外は薄っすらと日が陰るような天候だった。晴れでもくもりでもない、二値化されていない空。なぜだかただのくもり空よりも不安定な気分になってしまう。
「ミヒロちゃん、今日も公園行くの?」
「まあ、他に行くところもないし、公園なら居ても誰の邪魔にもならないし……」
「なんかリストラされた後のサラリーマンみたいだね」
「ま、まだ働くような歳じゃないはずだから、たぶん学生くらいだろうし……問題ないでしょ」
心優には帰る家がない。正確に言えば、帰る家を思い出せない。記憶喪失というものなのか、記憶の一地点から前がまっさらな状態になっている。
対して、その記憶が始まった一点――約一ヵ月前、正確には29日と6時間34分21秒前、秒にすれば2529261秒前から今までのことはすべて”完全に”思い出せる。その映像から音声まで、辿ってきた足跡のすべてを。
どうしてこんなことが可能なのか、感覚ではどこかおかしいと思いつつも、なぜ他者が同じようにできないのか理由を挙げられなかった。自分の記憶、意識が得体の知れない何かに置き換わっている。
その始まりは見知らぬ路地で、当然記憶が無いのだから見知っているはずもないのだが、私はただそこでぺたんと座っていて、自分の膝がいやに白く目の端で緑や紫の色彩がチカチカしていた。258秒の間呆然として、その後に867秒の間持ち物を調べ、意識が戻ってから1453秒後に自分の名前が心優であることを知った。どうしてか、手帳にもスマートフォンにも住所の類いは見当たらなかった。
初めは病院に行くか、とりあえず警察にかけあって私がどこの誰であるのか、探してもらおうと思った。意味記憶はあるようだし、きちんと事情を説明すれば保護してもらえるはずだった。しかし――
ばちんと頭にノイズが走る。思わず足がもつれて転びそうになるのを、気に掛ける少女の声がしたがほとんど聞き取れない。ざらざらと脳の血管を擦るように、不快な音波が流れて思い出を巡る旅と思考は途絶されてしまった。
少しでも”私”の核心に触れようとすると、いつもこうなる。意識的に深く呼吸をすると、背を伝う汗がサイケデリックな色のカタツムリに変わるイメージが脳裏に浮かんだ。
家路を辿ろうとするとノイズに遭う。この症状に対して理解のある医者は一人もいなかった。トラウマ、不安症、薬物のフラッシュバック、脳出血――解剖学的な異常はひとつもない、ちっぽけなこの体は一体何に犯されているのか。
「大丈夫?ミヒロちゃん、たまにそれなるよね。持病かなんか?」
「うん……たぶん、病気。飲み物でも買おうかな、公園に行く前に……」
少しずつ引いていくノイズは波打ち際の泥のようで、何か冷たいものを飲みたいと思った。
お昼前のスーパーはそこそこの客足があった。安っぽい音色で演奏される流行曲が鳴り、その上に呼び込みのもっとチープな音がアンサンブルを奏でる。単調でつまらない音が日常の安心感を演出するのか、それとも商品まで安く思えてくる作用があるのだろうか……
赤、青、緑、黄色、高級感のある黒、清潔な白。カラーバーのようなお菓子売り場を通り抜け、冷気の流れる飲料売り場へ。スーパーの商品はコンビニに比べ約30~50円程度安い。価格競争において群を抜いているのに、近隣の店舗と喧嘩にならないのか不思議に思っている。
果実のフレーバーがついた飲料水を手に取ったところで、服の裾をぐいと引かれた。そういえば先程からうるるが話しかけてこない。現界しているのかな。
「うるるさん?」
「誰のことかは知らないけど、私に言ってるなら人違いだよ」
振り返った視線の先には、うるるではない別の少女がいた。うるると身長は同程度だが、ファッションが何というか、ぶかぶかのスウェット一枚を肩にかけるようにして雑に着ている。もしかすれば、迷子というやつなのか。私も絶賛路頭に迷っている最中なのだが。確かに見たところ親のような人間は見当たらない。
「えっと……わ、私に何か用かな。お父さんとか、お母さんとはぐれちゃったとか?」
「あー……あなたの言う親ではないけど、うーん、雇い主、世話係、飼い主……?」
「か、飼い?」
もしかすれば、変わった子かもしれない。
「まあそれとはぐれちゃった。あなたは?」
「私はお買い物に来ただけだから……あはは」
本当はこの子より深刻な事態だと思うが、不安にさせるだけなので誤魔化すことにした。
「ふーん……不用心だね。殺されちゃうよ?」
「そ、そうかな? えっと、迷子なら店員さんとかにお父さんお母さんを探してもらう?」
「ううん。ここにはいないと思うよ。だから無駄」
そんなことがありえるのだろうか。背は低めだけれど意外と高学年で、一人でお出かけしているだけかもしれない。それとは別に、虐待という不安な二字が過る。今ようやく気が付いたが、少女は裸足だった。
「そ、そっか。何かしてあげられることはない?」
「うーん。そうだ、迷子ついでに奢ってよ」
「奢る?」
そう言うや否や、少女は駆け足にお菓子売り場へ向かい、アイスコーナーを経由して両手に砂糖の山を積んできた。私が反応するより先に手元のカゴへドサドサ入れる。もしかしなくても、変わった子だ!
流石に8割方減らしてもらって、目的の飲料水に加えお菓子二つとアイス一つを買うことになった。本当はあまりお金は浪費したくないけれど……”お金がない”わけではなく心情の問題であるため、少女のためにいくらか使う判断を下すのに抵抗はなかった。
レジの会計で電子決済を選ぶ。スマートフォンをかざす。店員がバーコードを読み取る。そして、その仕組みの全てがなんとなく”わかる”。数字の流れに指先で触れれば、羅列は私の意図を孕んで架空の解を叩き出す。この世のどこにもないお金が、ただ今商品と交換された。
そんな様子を裸足の少女はじっと見つめていた。電子決済が物珍しいのかもしれない。次は私がやりたい、なんて言い出したらどうしようかと余計な気を揉んでしまう。
想定より膨らんだビニール袋(というか本来はビニール袋も必要なかった)を下げながら通い慣れた公園を目指す。五月の街路は可もなく不可もなく、没個性な色をした緑の葉が舞って、つまらない灰色のコンクリートにまだらを描く。きっと、これが赤でも青でも同じことを思っただろう。
先程の少女はまだついてきている。裸足でケガをしないか心配だったが、当の少女は気にする様子もなく縁石の上を歩いている。
「そろそろ公園に着くけど、はぐれちゃったその……人は探さなくて大丈夫なの?もし必要なら、私も協力するよ」
「別に何も問題ないけど。……あなた、ヒマなの?」
「ひっ、まあ、大丈夫ならいいんだけど……」
「公園でちょっと休憩したらまた探してみるよ。だから今はきゅーけい」
遊具がほとんど撤去されたこだま公園はいつも人気がない。あるのはいくつかのベンチと、子供によってほとんど掘り出されたタイヤと、少し臭いのする黒い池だけ。いつか野球をしている子供たちがいたけれど、ホームランで池にボールが沈んでからはここで遊ばなくなってしまったようだった。
ベンチに座ると隣でスナック菓子の袋を開ける音がする。そういえばうるるのことを忘れていた。きっと、空気を読んで話しかけてこないのだろう。マスターを忘れて遊びになんて行っていない……はずだ。
指にトウモコロシを揚げたお菓子をはめて遊ぶ少女を見ていると、途端に空気が抜けるようにして落ち着いてしまった。そういえば、こんな風にぼんやりする時間は、寝る前と起きてすぐ、いや、あのシートの硬さを思えば、今くらいのものか。
いつからか気を抜く方法を忘れてしまっていた。この”いつから”を今にでも数えられることも、原因のひとつかもしれない。全ての過去が等しい情報量で堆積していくことが、苦痛になっているとようやく認識できた。
「……さて、そろそろいっか」
少女がひとつの袋をぺしゃんこにしたところで、少女が口を開いた。そういえばひとつも分けてもらえなかった。
「もう探しに行くの?やっぱり私も手伝おうか……」
「んー。手伝いとかはいいよ。それよりも――」
瞬間木立が鳴り止んで、耳には無音のホワイトノイズ。
「この女の子、知ってる?」
少女が服の内側から見せた一枚の写真には、八重歯の目立つ可憐な女の子が映っていた。確かに美人だけれど、どこにでもいる、”ふつうの小学生”――ではない。融原 心優にとって、それは宿敵とも言える存在。即ち、一週間前に彼女を襲ったランサーのマスターだ。
「えっと、知らない、かも。あなたのお友達?」
「嘘はついちゃダメだよ、誰かのマスターさん。さっきのレジのときみたいに――嘘はよくないね」
バレていた。いや、バレて当然だった。この子は、サーヴァントだ。近くにマスターらしき存在がいないから、完全に意識から抜けていた。
「……知ってる。けど、名前までは知らない」
「前にどこかで見かけたことはある?嘘はつかないでね」
「一週間前の夜。あとは――18日前のくるみ坂の上でたぶん同い年の小学生と一緒に下校してた。あれは南部小の制服だった。23日前にはさっき行ったスーパーでレジ袋に牛乳とカレーパンとレトルトのカレーとパックごはんと、よく見えなかったけどドライフルーツを詰める後ろ姿を見た、よ」
「へえ……記憶力いいんだね」
少女は少し驚いたようなリアクションを取ったが、タールのように黒く沈む瞳には動揺一つ見受けられなかった。
「この男の人は?」
「――見たことない。たぶん私とは生活圏か時間帯が違うんだと思う」
「ふーん。まあ、こんなものかな。ありがとう、結構参考になった」
一通りの質問責めが終わって、少女が手を引っ込めた。一体服のどこにあの量の写真が入っていたのか……
「お姉さん正直だし、おかしも奢ってもらったから――本当なら殺すつもりだったんだけど、今日は見逃してあげる。そう、あなたも――私が本気でやったら、止める前にたぶん死んでるから、油断しない方がいいよ」
びくりと背後の影が揺れる。やっぱり、分かった上で隠れてたんだ。私のサーヴァントは、本当に英雄ってやつなのかな……
「たぶん、私の方からは当面襲うことはないけど。次会ったら殺すから。えーと、あとは……アイスはおまけしてあげる、じゃあね」
「え、ちょっと、元より私の……」
お金で買ったものではないけれど。なんだか釈然としないまま、命の危機から脱出することになったようだ。
「ひーっ、びっくりしたねー。ミヒロちゃんもあんまり知らない人を気安く近づけちゃダメだよ、今戦争してるんだから」
裸足のサーヴァントが見えなくなってから、ようやくうるるが現界した。あの子の話によれば私を殺す機会は有り余っていたらしいのに、あまりにもふてぶてしい。
「びっくりしたねーじゃないですよ、うるるさん。サーヴァントなのに助言のひとつもないなんて。気づいてたならすぐ言うべきでしょ」
「言ったってパニックになるだけでしょー。大丈夫だよ、いざとなったら凄いことやれるからね、うるるさんは。あ、アイスあるじゃん。溶ける前に食べちゃわない?」
この切り替えの早さは、なんというか……呆れる暇もない。
「あ、これおいしいやつだ。いいね、あの子良いセンスしてるじゃん。ミヒロちゃん食べないなら私が二つとも貰っちゃうけど」
「あーもう、食べるから待ってください。二つって、ああこれ、二個入ってるや、つ――」
白いくてふかふかの、懐かしい、懐かしい――?
隣に座っているさっきとは別の少女が赤いピンで真っ白いアイスを刺して、口に運んでいくのがスローモーションで再生される。次第にそのスピードはどんどん、どんどん遅くなり、人間が認識できる最高速度の画面一枚のスライドがコマ送りのように流れていく。そうだ、私も食べたいと思ってたんだ。
この、懐かしい――――
「ミヒロちゃん?」
「01000011 01101111 01100100 01101001 01101110 01100111 00100000 01100101 01110010 01110010 01101111 01110010 00101100 00100000 01101001 01101100 01101100 01100101 01100111 01100001 01101100 00100000 01100001 01100011 01100011 01100101 01110011 01110011 00101100 00100000 01110011 01110100 01101111 01110010 01100001 01100111 01100101 00100000 01101101 01100101 01100100 01101001 01100001 00100000 01101111 01110110 01100101 01110010 01110011 01110101 01100010 01110011 01110100 01101001 01110100 01110101 01110100 01101001 01101111 01101110 00101100 00100000 01101100 01101111 01100001 01100100 01101001 01101110 01100111 00100000 01101001 01101110 01100011 01101111 01110010 01110010 01100101 01100011 01110100 00100000 01110000 01100001 01110011 01110100 00101110」
ああ。
ひだまりの部屋がある。
お母さんが家を建てるとき採光を考えて大きく設計した庭に続く窓は冬にはずっと冷たくて幼い私はヒーターでピリピリするまで温めた頬をそこに付けて暗い銀世界を眺めてはカーテンの裾の中世界が少しだけ優しくなることを想っていました妹がそれを真似して横に着くのを服のうねりで感じ取ってお母さんはそれをキッチンから眺めてはシチューの下ごしらえをしていました「夕ご飯はまだまだだからおやつがあるよ」とお母さんは言って冷蔵庫から私の好きだったアイスを取り出しましたそれは一パックにふたつ白い餅のようなバニラアイスクリームが入っているお菓子で妹とわけて食べますあの頃はわけることにひとつも違和感がなくいまなら独占してしまいたいと思うのは私が世界に触れて優しくなくなったのでしょうかそんなアイスは口が凍えてしまうので一瞬ヒーターで温めた後に容器に移して
「見つけた」
とおく、とおくでそんな声が聞こえて――
あっ
ノイズ。
目が覚めたのは先程のベンチの上だった。浮浪者が寝床にしづらいよう、ご丁寧に凸凹が付いたベンチの出っ張りを調節するように、うるるの膝が心優を支えている。少し遅れて、気絶してしまったことを悟った。
「――うるるさん」
「おはようミヒロちゃん、とはいってももう夕方だけど。無理して起き上がらないで……と言いたいところだけど、流石のサーヴァントでも足が疲れてきたかも」
「すみません、あと5分だけこのままで」
「ミヒロちゃんってそういうところあるよね。いいけど別に……」
ノイズで気絶することには、幾度か経験があった。呼気が酸っぱくてツンとする。嘔吐した後のいがらっぽい喉。これもまた、経験がある。
「ミヒロちゃんはね、ちょっと無理しすぎる傾向があるね」
「そうですか?うるるさんが怠けすぎなだけだと思うけど」
「もう大丈夫みたいだねっ」
そう言うなりうるるが膝をスライドさせた。そう来ると思ってベンチを掴んでいたものの、腰に出っ張りが刺さって結局痛かった。
そんなじゃれ合いの後、二人はベンチから立ち上がる。
「さて、今日はこの後どうする?」
「寝起きだけど、吐いたからかお腹も空いてるし……ごはんでも食べにいきますか」
「いいね、私もそんな気分」
「サーヴァントもお腹って減るんですか――?うわわっ」
おそらくは自分の吐いた吐瀉物を踏んづけてしまった。地面に乳白色の何かが染みている。その色に見覚えがない。牛乳?アイスクリームか。確か私はスーパーに行って――
”それ”を買って食べたんだった。”それ”が何なのか分からないが、”それ”は初めからそういうものだった気がする。そのはずだ。
「ミヒロちゃん、どうしたの?」
「いえ……アレを踏んづけちゃったみたい」
「ばっちいな~その靴で敵のこと踏んだら、嫌さも相まって効果抜群じゃない?」
「そんなことしないよ……というか、マスターに戦闘させないでくださいよ」
「は~ん。聖杯戦争は協力関係が一番大事でアツいのに~わかってないね」
「うるるさん聖杯戦争についての知識ほぼゼロだって言ってたじゃん。一体何を根拠に……」
夕暮れ、木立、ありふれた街並み。家路を忘れた二人の少女。思い出の全ては数字となって、退屈な01の羅列が食んで、置換されても気づかない。
聖杯戦争が終わった。結局私は殺されず、しかしこの”病”も治らずに、異常な彼らは町から去った。一体誰が願いを叶え、世界のどこが変貌したのか、私にはまったくわからない。サーヴァントが退去したことを皮切りに、私は蚊帳の外になってしまった。ただ、夢のような記憶の影と、嵐のような傷跡だけが、それがあったことを証明している。
最後の別れは言えなかった。七本の、地獄の炎で鍛えられたような鋼の刀が、世界の終わりみたいで綺麗だった銀河を散らして、遠くで花束が爆発したような音の後には彼女の姿はそこになかった。きらきらと砂金のような煙が吹いて数秒後、相手のマスターとサーヴァントすら消え去った。
あの戦いで、私は何かを得られたのだろうか。相も変わらず、電子的な嘘をついては生活を繋いでいる。こういった行為にも、だんだん感情が動かなくなった。以前よりも器用に数字を弄れている気がする。ノイズの一部は生活に定着してしまって、気にならない周波数すらある。
ただ、未だに夢は覚えていない。今から85日と11時間8分17秒前のあの目覚めから、ずっと――――
ああ。
ひだまりの部屋がある。
ひだまりの部屋に来たということは、これは夢ということだ。懐かしい我が家、魂に残る記憶。ノイズが配列に置換した後もなお、思い出として刻まれた不変の礎。
夢のなかだけだ。夢のなかでしか、この記憶は戻らない。何度も、何度もここにきて、あの懐かしいアイスを食べながら、次は目覚めないことを祈っている。そうだ、あのアイスのことももう忘れてしまったようだった。
「あれが記憶のキーだなんて、わかんなかったよ」
一家団欒、リビングのテーブルにつく。私と、お母さんと、かわいい妹。もう少しで小学校を卒業して、私と同じ制服を着られることを喜んでいた妹。ああ、懐かしい。
「ひとつ、大福のアイス。ふたつ、二人でそれを分けて食べること。みっつ、ミヒロちゃんがそれで安心を得ること。裂け目の雑音には少し難しかったみたいだね」
シチューを食べたらお茶にしましょう!お母さんの大好きなオレンジピールのフレーバー。小さいころはオレンジの味がすると思っていたのに甘くなくてちょこっと不満だったけれど、今は私も好きな紅茶。
「それでもまあ、丸ごと侵食しちゃってるから関係ないか。ちょっと乱暴だけど、私も私の”母”も他人のこと言えないからなあ……」
心も体も暖まったら、みんなで一緒に布団に入りましょう。ちゃんと歯磨きをしてからね。常夜灯の青い瞬きに目が慣れる前に目蓋を落として。足の指先が冷えるから靴下を履くといいですよ。ああもう、冷たい足をくっつけないでよ、仕方ないなあ。でも、近くに来た方があったかいからね。
「間一髪、ここに潜り込めてよかった。あとは依り代が世界を融かしていくのに便乗しちゃおうかな。なんだか、星の蠕虫に目をつけられてるみたいだけど……こことは別の私の方に行ってくれないかな~」
夢の中で眠ると目が覚めてしまうから、できるだけ長く、長く、意識を保って、眠くない、眠らないで、足は冷たくて、常夜灯の青さが浸み込むようで、まだ眠らない、眠らないで、明日の朝はフレンチトーストにしましょう、二度と来ることはない、一度もこの夜から抜け出したことはない、眠れない、眠ればまた戻される、この閉じた思い出の夜でしか私は私でいられない。
まだ――――
「そろそろおやすみ、良い夢を。私も交代の時間だからね」
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『バイナリーは泡へと消えて』 了
第一次名都聖杯戦争より。
登場
No.0544 侵食性電脳症候群(E.V.S) ヒシメクノイズ
No.9025 オプシノア
No.9030 ふつうの小学生 月束 樒(つきつか しきみ)
No.9036 電脳症候群 融原 心優(ゆうはら みひろ)
No.9037 銀海のフォーリナー
No.13977 フォーリナー・イヴ