自由のためのデザイン: アメリカの社会とUXに関する覚書
アメリカは自由の国だ。
小さい頃、大人たちからそう聞かされたものだった。
令和生まれの若者は知らないと思うが、その昔、家庭にはテレビという機械があって、アメリカ横断ウルトラクイズという特番のクイズ番組が放送されていた。「ニューヨークに行きたいかァ〜!」とアナウンサーが声高に叫び、一般参加者が知力体力時の運でクイズを勝ち進んでいき、最後は自由の女神をバックに決勝の早押しクイズを行う、そんな番組を見ていた中で、ああ、何かアメリカってすごい国なんだなぁと幼心に思った記憶がある。
そして今、私はそのニューヨークでデザイナーとして働いている。まだアメリカに来てわずか4年の若輩者なので、アメリカの社会がどうとか政治がどうとか言える立場ではないのだが、コロナ、トランプからバイデンへの交代、そして昨今アメリカで起こっているあれこれを経験する中で、デザイナーとしてアメリカの「自由」とは何かについて考えることが増えたので、あくまでも自分の備忘録としてここに書き留めておきたい。
1. チップとUXデザイン
アメリカでは外食や美容院、家のトイレの不具合の修理など、受けたサービスに対しチップを支払う習慣がある。諸説あるが、元々は対人でのホスピタリティに対する感謝の意を表明するもので、アメリカ旅行のガイドブックやウェブサイトなどでは標準は15%と紹介されていることが多い。
多くの飲食店では支払い時のレシートにチップの額が合計額から計算されて記載されており、通常は15%、本当に特別なホスピタリティを受けた場合には20%、というような感覚が一般的であった。
ところが、いつからか(私の体感ではコロナ勃発後から特に?)私の住んでいるNYでは、ほぼ全ての飲食店でレシートに印刷されるチップの額が18%からになっていることに気づいた。18%は強制ではなく、自分で15%を計算し直して支払ってもよいのだが、こういう形で出されると、再計算するのも面倒臭いのでさらっと18%でチェックして店を出てしまうことも多い。
一説にはコロナでレストランや店舗経営が難しくり、ウエイターに適切な給料を支払うことができなくなったオーナーが、チップによる補填を行なっているとも聞く。
さらには昨今の戦争に伴う全世界的な物価高により、20%が下限設定のヤバいレシートも最近見かけるようになった。ポストコロナの世界では25%が標準になるのでは、なんて記事もある。
これはどんな未来のシナリオを示唆しているのだろうか。
1つの仮説は、チップの意味が感謝の意を表明するものから、従業員の生活を直接支えるものへと移り変わりつつあるということである。
コロナ及び昨今の物価高で、全てのサービス提供者やローカルビジネスが困っているのは理解できるが、消費者としては商品価格$100に対してチップを$25、$30も感謝の意ではなく「従業員の生活を支えるためにお願いします」と言われて上乗せするのは本末転倒だし、さすがにチップのデフォルトが25%、30%と言われたら毎回面倒でも再計算して調整するようになるだろう。それだったら商品自体の価格を調整してくれた方がUXとしては良い。チップはあくまでも「心づけ」の意味合いであってほしい。その方が利用者としては気持ちよく払えるというものだ。
2. 銃規制と価値観のデザイン
残念なことに、アメリカでは昨今ますます銃乱射事件や市街地での発砲事件が増えており、毎日のようにニュースになっている。2022年、スクールシューティングで犠牲になった人は既に過去最も多いレベルに達しており、ちょうど昨日、比較的安全なエリアだと思っていたマンハッタン市内・セントラルパークに程近いアッパーイーストサイドというエリアでも発砲事件があり、20歳のベビーカーを押していた女性が亡くなったニュースは自分が普段生活している場所の治安や生命の安全について考えさせられる。これは日本で生活している頃はほとんど考えなかったトピックだ。
それでもご存知の通り、銃はアメリカから一向に無くならない。
1人の人間として、人道的な観点ではもちろんそんな危険なものをなぜ規制しないんだ!と思うし、銃のせいで我々の「自由」が阻害されているじゃないか!と思う。だが一方で、1人のデザイナーとしては、なぜ銃が無くせないのかを探求し、銃を持たないと「自由」になれないと考える層もアメリカには多くいることを理解しなければならない。
上記の記事がとても分かりやすいが、銃規制が進まない1つの要因として、アメリカの政治・世論的分断がある。
アメリカの政治史は大きな政府に対抗する歴史であり、保守派の多くのアメリカ人は政府が個人的な事柄に介入するのを拒否する傾向がある。そういう人たちにとっては、自分の「自由」に介入する政府は、武器を取って反抗しなければならない対象なのだ。アメリカ独立宣言で革命権(人々が国民の意に反する政府を打倒する権利)として規定されているように。
ここでデザインの文脈において思い出されるのは、象徴的な価値という概念だ。マーケティングの論文になるが、Customer Value Creationという論文では顧客価値が下図の4種類定義されている。多くの場合、我々はコスト・機能・体験価値に着目するが、最後の「象徴的な価値(Symbolic Value)」というのも忘れてはならない。身近な例では「機能的にはイマイチでも、持っていることがステータスになる」ブランドバッグ等が挙げられるが、アメリカ人における銃も多くの人にとっては本当に使うことはない(機能価値は無い)が、革命権を主張するシンボル(象徴)として家に置いておかなくてはならないものという意味合いが存在しているのではないか。こうした象徴的な価値は、作るのも難しいが、変えるのも難しい。
また上記の記事ではアメリカの社会システムへの不信、そこから来る個人主義の洞察としてこうも言っている。
確かに私個人のレベルでも、アメリカの社会システムやインフラへの信頼感は薄い。身近なところでは、国民皆保険が無いため、保険に入れず、精神衛生上よろしくない期間を過ごしたり、公共のバスは平気で15分以上遅れたりするため、バス会社に本当に来るのか問い合わせたこともあった。国には頼れないから、自分のケツは自分で拭かなければいけない、というカルチャーをまじまじと感じる。
銃規制というトピックは日本には無い、アメリカ固有のWicked Problem(複雑な問題)であり、連邦政治、州行政、社会インフラ/システムから個人の信念レベルまで、あらゆるレイヤーの課題が相互に連関した巨大な問題であり、ただいきなり明日から規制しますと言ってできる話ではない。アメリカ人の建国からあるスピリットである象徴的価値観と、1人の人間としての人道的価値観のせめぎ合いなのだ。
この状況における「善い」デザインとは何だろう。誰が、どうそれを判断できる?
大統領でも変えられないこの巨大な社会問題に対して、1デザイナーとしては何ができるだろうかと日々考える毎日である。
3. 中絶の権利の法改正とトランジションデザイン
そしてまた重いトピックが続くが、2022年6月24日、アメリカ最高裁判所は50年近く中絶の権利を守ってきた「ロー対ウェイド」判決を覆し、判断を各州に委ねることとした。日本でもニュースになっているかもしれないが、簡単に言えば、これまで認められていた人工妊娠中絶が一転禁止となり、(妊娠15週以降の)中絶は犯罪である、とされたわけである。
この「女性の中絶権」を巡るトピックはアメリカ社会の保守派とリベラル派を完全に二分する話で、価値観・文化観・宗教観・倫理観・道徳観と我々の「人間観」すべてが詰まった文化闘争である。
中絶が禁止になるということは、例えばレイプ等による望まない妊娠があった場合にも中絶ができないこととなり、そうしたケースの母親のメンタルケア、子供の保護などが将来の問題になることは想像に難くない。また違法な闇中絶業者などが増え、特に貧困地域における治安の悪化や危険な手術も増えるかもしれない。
トランジションデザインでは複雑な問題を分析するためのツールとしてSTEEP分析(Society: 社会、Technology: 技術、Economy: 経済、Environment: 環境、Policy: 政治)というアクティビティがあり、日本時代にこれを使っていた時は、政治・政策・法律などの分野とデザインを結びつけることが少なく、STEEPの中でもP(政治)だけ活かせなかった感覚があったが、アメリカでは1つの政策や法改正が技術と同じくらい社会を根本から変えてしまうことを知った。
私の所属する企業でもこの判決が出た後、すぐに緊急ミーティングが開かれ、お互いの意見や、アメリカの未来について議論を行なった。リベラル派が多数のNYにおいては、チーム内の多くのメンバーは信じられないといった反応で、「アメリカの自由は死んだ」「他の国に移住すべきかもしれない」といった意見まで見られた。
アメリカ横断ウルトラクイズに夢を馳せて、やっとのことでやってきたと思ったら、この国の人たちはアメリカに失望していた。
ただ一方で、NYにいるとリベラル派の意見が多数なので、これが全アメリカの総意である、と思い込み、リベラルなプロダクトやサービスに走るのは危険だ。そうではない人々の意見も聞き、取り込み、両者の着地点を見つけるような試みやソリューションがあまりこの国には無いように思う。双方が双方の主張を一方的にするだけで、橋を渡す、和を尊ぶという考え方がないから、国としては分断されたままなように感じる。私はそれを今所属する組織の中で言っていかなければならない。
私はここに日本人がアメリカでデザイナーをやる意義があると感じており、日本人の考え方で世界を変えるチャレンジがある。これが私が生涯賭して果たすべき天命なのだと思う。
4. LGBTパレードとインクルーシブデザイン
6月下旬にはプライド・パレードというLGBT文化を讃えるパレードがNYでも大々的に開かれた。自分のアイデンティティを主張し、多様性を認める。それ自体はとても意味のある活動であるとは思うが、これが多様な価値観を認め合っている社会です!インクルーシブな世の中です!と言われると何か違和感があるように思う。
それはおそらく、前章でも述べた話と関連するが、保守派、リベラル、LGBTなど、それぞれがそれぞれのコミュニティで価値観を主張するが、異なる派閥が混ざり合ったり溶け合ったりすることがあまり無いように思うからである。
ああ、そういう価値観の人もいるよね、分かる分かる、と「認め」はする、が、認め「合って」はいない。お互い同じ時空間に存在はしているが、異なるコミュニティの理念や深い価値観にまでは入っていかず、腫れ物には触れるなといった感じで基本的には無関心だ。LGBTの私も、こうして自信を持っていいんだ!と、こうしたパレードで同族の価値観を共有する人は感化されるが、ノーマルなheterosexualな人など、異なるコミュニティの人は何ができるだろうか?もっとどういう包摂・参加の仕方があるだろうか?
こうした活動により逆に実はアメリカ社会やコミュニティの分断が進む可能性があるのではないかと若干心配しており、真のインクルーシブネスとは何かを問い続ける必要がある。議論をして分かり「合えない」状態と、議論を放棄して分かり「合わない」状態は、どっちが危険だろうか。
5. 人種とサービスデザイン
人種についても同様のことが言える。Black Lives Matter活動以降、Social Equity(社会的平等)やインクルーシブデザインの重要性が問われ始めているものの、アジア人への差別やヘイトクライムはまだまだ至る所に存在し、逆にアジア人コミュニティの中ではもっと強くならなければ!お互いサポートしなければ!と結束を強めている。
この分野に関しては、現在銀行に所属する身としては、社会的平等を意識した新しいタイプの銀行をリサーチしている。
例えばCheeseというオンラインバンクは、アジア人が経営するレストランやスーパーマーケットで買い物をするとポイントが多くもらえるというベネフィットがある。同様にDaylightというLGBTQをターゲットとしたオンラインバンク、Latinoをターゲットとする銀行など、様々なものが出てきている。
こうした新しいプロダクトがコミュニティ内の結束感やコミュニティ内における経済を生み出すことは事実である。ただ上でもさんざん述べてきたように、こうした各コミュニティに特化して、同族を囲い込み、排他的にサービスをデザインしていくことがあるべき未来像なのかと考えると、私は個人的にはそうは思わない。もっと異なる人間が人種・性別・国籍・主義を超えて溶け合いシナジーを生み出している姿、そんな組織や社会を私は創っていきたいと考えている。
私の現在の組織でのマネージャーはインド人の女性だが、旅先で出会ったキューバ人と結婚したと聞き、私の思い描いていたインド人へのステレオタイプは崩れ去った。そういうセグメントから、もっと学ぶべきことがこの国にはあるのではないだろうか。
今はそうした取り組みをできる所から自分の所属する組織でも始めているところである。せっかく多様なメンバーがいるので、突撃!お宅の食文化と称して、初回は同僚のメンバーとマンハッタンの一蘭へ行き、私のソウルフードたるラーメンを紹介した。多くのアメリカ人はラーメンの麺は固さが選べることも知らなかったりと、いかに自分の持っている常識が他者に通じないか、分かり合えないかを分かり合うきっかけとなった。
それが契機となり、次回はジャマイカ料理に行くことになった。いかに異なる部門やスキル、個人を交わらせるアクティビティを生み出していけるか。それは日本の企業であっても変わらず、昨今のあらゆる組織にとって重要な事項であるだろう。
6. アメリカと多元的なデザイン
ここまで見てきた通り、アメリカでは思想・性別・人種等々、アメリカではあらゆる領域での分断が顕在化していることを改めて体感している所である。
経済格差もまた大きな分断を生んでいる。ついつい普段接触する自分の周りの人々(優秀で、収入も良いホワイトカラー)がアメリカの大多数だと錯覚してしまいがちだが、この国はそんな一枚岩ではないことを認識できているデザイナーは、この国ではまだ少ないように思う。
そうした人間社会の多元性、さらにはそれを超えて人間と人間以外の種、人間と自然との相互作用の中で磨かれるインタラクションといった、多元世界のためのデザイン(Designs for the Pluriverse)という新しいデザインの領域も登場しているところであるが、今、私が感じているのは残念ながらアメリカではまだこれができるレベルに無いということである。
人間同士でさえ真に分かり合い認め合うこともままならない中で、どうして人間がそれ以外の種と分かり合うことができるだろうか。
(ガンダムのようなテーマになりつつあるが)
なので、いま私が改めて立ち返っているのは人間への回帰である。
アメリカではペルソナ1つ立てるにも、前述したような思想・信念・性別・宗教など全ての人間観を可視化しなければ、人種のるつぼであるアメリカ人への本当の共感は不可能である。我々の常識とは全く異なる宇宙人・異星人とコンタクトし、彼らに対してデザインするような態度が必要だ。お互いを分かり合うために。それを私は自分自身のマニフェストとしている。
その「分かり合う」最小単位の積み重ねで、どうすればもっとアメリカという社会全体は分かり合えるのか?を訴えていきたい、というのが私のロジックだ。
こうした分断された社会が行き着く先にある、私が1つ危惧する未来は
現在の「人間中心」から「自己中心」へと進んでいく未来である。
自分の思想が・性自認が・コミュニティが繁栄すれば良い、その他はどうでもいい、という価値観、そしてパーソナライゼーションや最適化などの技術が導く先には、自分が快適なら良い、その他の世界はどうだっていい、という超個人主義の社会が待っている。それも1つの未来のシナリオだが、きっとそうではない未来もあるはずだ。
現在、東北大学工学部の客員准教授として、このような「そうではない未来」を夢想するプロジェクトも進めている。今年はいくつかのイベント等も実施していく予定なので、興味がある方はこちらもチェックして頂ければ幸いである。
おわりに:最近の活動
長々と語ってきてしまったが、私は語り部でも思想家でもない。デザイナーなのだ。だからその思想や夢想をデザインで実践しなければ無価値である。最後に、そうした未来に向けて打ち続けている最近の活動をいくつかアップデートしておきたい。
アメリカでの仕事
以前noteで記事を書いてからあっという間にアメリカのJPモルガン・チェース銀行に転職して1年が経とうとしており、上で述べたような自分の思想を反映しつつ、アメリカの銀行・経済・社会・人間の未来をデザインで夢想するチームを作っている。
具体的なプロジェクトの内容はここでは書けないのだが、会社における自分のミッションの半分以上は人を変えていくことにある。
未来のプロトタイプを通じて、現在のプロダクトの視点しかない人をもっと未来へ。
未来のデザインの存在意義を通じて、数字を追うことでしか評価されない人をもっと社会的意義やパーパスで評価される人へ。
JPモルガン・チェース銀行初のスペキュラティヴデザイナーとして、全く新しいデザインチームを作り、新しいタイプのデザインカルチャーを醸成しているところである。
職種としても、新しくFutures Srategistという全米初の職種を作ってしまい、自分の下に付くデザイナーを探し始めているので、アメリカの労働ビザがある人限定ではあるが、興味ある方はぜひエントリーして頂ければ幸いである。(近日LinkedInにて公開予定)
デザインの布教活動
今年は世界でのプレゼンスを伸ばすべく、今日ここで述べたような自分のデザイン論を英語で話す機会を積極的に作っていきたいと思っている。先日はSpeculative Futures Parisのイベントに招待頂き、直近やっていることを90分語り通した。Youtubeがそのうちアップされると思うので、公開されたらここにリンクを記載したい。
日本でのプロジェクト
毎日アメリカの仕事が終わるとオンラインで日本の仕事に切り替えという感じで依然200%で稼働しており、プロジェクトベースで日本の企業のお手伝いもさせて頂いているが、コロナ禍でコニカミノルタ株式会社のenvisioning studioと一緒に実施してきた、未来探究プロジェクトが最近公開された。
スペキュラティヴデザイン・トランジションデザインを用いて組織のビジョンを創成するというチャレンジを行い、様々な概念を伝道しながら、想像力を鼓舞しながら、方法論自体を発明しながら、コニカミノルタのデザイナーの皆さんと共創形式で、組織に未来を夢想する種を蒔いた。
最終成果物が何になるか定まっていないところからスタートし、やりながら決めていく、その回発想して出てきたたものを見て次何をするか考える、といった不確実性の高いプロジェクトながら、制約なく自由に、やりたかったことを全てやらせて頂いた(コニカミノルタさん、ありがとうございます!)。
大企業の組織はindigenous wisdom(先住民の知恵)の宝庫で、「未来に飛ぶために過去を見る」という未来の考古学的な態度を大事に、実践ではコニカミノルタ150年の歴史やスピリットを紐解きながら、コニカミノルタ-ismを未来に持っていく船頭を務めた。
組織のビジョンなど、抽象度の高いデザインにおいては、デザイナーはあくまでも水先案内人で、自分色のデザインに染めるのではなく、組織の過去と未来の繋ぎ手である社員の皆さん1人1人の心に火を灯し、組織や所属コミュニティの "ism" を未来に継承していけるように背中を押すのが役目だと思っている。
ウェブサイトでは、プロジェクトの中で夢想した、コニカミノルタが描く未来の断片を悠久の歴史の流れの中に垣間見ることができる。これがきっかけとなり、未来からまた次の未来が社内で創造されたり、コニカミノルタの過去の歴史と接続したりといった、過去から未来へ流れる、組織ローカルな、だけど叡智の詰まった歴史の河が動的に編み上げ続けられていくことを期待したい。
また、改めて日本のインハウスデザイナーのレベルの高さを感じた。もともとの資質があるので、ちょっと背中を押してあげれば、皆未来へ想像や妄想の翼を広げることができる。遊び心や想像力、夢や希望を物語ること、小学生の頃は皆やってたのに、オトナになるとなぜかできなくなっていく "アレ" を、もう一度オトナたちに思い出させてあげること。その力で未来をちょっとマシにしていけると信じること。それが私が生涯やっていくことなのだろうと思う。
アメリカで家を買った
それから、アメリカ(NY)では昨今のインフレに伴って賃貸の値段が尋常じゃない程上がってるので、思い切って家(マンション)を買った。
NYの中心部ではないが、自然も多く、ジムやプールも付いており、何よりフィンランドサウナが付いているので仕事帰りに毎日ととのうことができるようになった。客人用居室くらいならあるので、ぜひ遊びに来て下さい。
今日ちょうど業績不安のMetaが「ここにいるべきではない社員も多くいる」と強く現行社員を鼓舞すると共に、当面の新規採用人数の削減も明言するなど、メガテックカンパニーの先行きも不透明だが、アメリカでレイオフを怖がっていてもしょうがないので、万が一の場合は売ればいいくらいのつもりで構えている。
こうした組織のビジョンやパーパスがあるはずの企業でも、最近Metaに転職した友人も既にレイオフを心配しており、現行社員はかなりプレッシャーを感じているように思う。
今月、日本に一時帰国します
最後に、この7月は3週間のバケーションを取ったので、今月日本に一時帰国することになった。コロナ以来、3年ぶりの帰国である。
アメリカに拠点がある今、私が「帰る」のは日本なのか?アメリカなのか?
既に日本には多くのデザイン論客がいる中、日本に私の居場所はあるのか?
など、二拠点生活で多くの疑問を抱えながらも、7/22-8/7の予定で、主に東京にいる予定なので、お仕事・講演・飲み会のお誘いなど、ぜひよろしくお願いします。
最終的には肉体がどこにあろうと、世界中の必要な人から必要な時にクラウドのように呼び出してもらえる、Iwabuchi as a Service (IWaaS) という概念になりたい。それが自分自身をスペキュラティヴデザインの作品と見立てた、私の目指す21世紀の「自由な」働き方。
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