デザイナーが読むDesigns for the Pluriverse - 多元的なデザインとは何か?
たげん‐てき【多元的】
[形動]物事の要素・根源がいくつもあるさま。「多元的な考え方」⇔一元的。
筆者も参加するデザインリサーチ学会において、2019年4月、SIG Pluriversal Designという専門フォーラムが立ち上がり、にわかに最新のデザインリサーチ界隈ではPluriverse(多元宇宙)という言葉の盛り上がりを感じてきたので、まだ日本ではほぼ語られていないデザイン論ではあるが、本記事でお伝えしたいと思う。
ここで言うPluriversal Designとは、これまでの欧米中心、科学中心、人間中心デザインの外の世界にもっとフォーカスして、世界のポテンシャルの翼を広げようと言う意味で使われている。なのでデザインリサーチ 学会のフォーラムでは例えばアフリカの部族のデザインシステム("システム"と呼べるほど組織化されたものではないが、部族内に古くから伝わる"何か")の話があったり、人間をヒエラルキーの頂点とするのではなく、人間とそれ以外のエンティティをもっとフラット化していくアニミズムにも関連するような議論なんかが行われている。
本記事では、Pluriversal Designという言葉の火付け役ともなった、2018年にArturo Escobarにより書かれた「Designs for the Pluriverse: Radical Interdependence, Autonomy, and the Making of Worlds.」(現在邦訳版なし)のキーポイントを筆者が解釈し、まとめる。この本は私の所属するParsonsでも課題図書になったり、本noteでたびたび紹介しているTransition Designの参考文献にもなっており、昨年からアメリカのデザインスクール界隈では注目されているところである。
著者のEscobarはノースカロライナ大学の人類学の教授で、コロンビア出身の筆者が、欧米自らの自己矛盾を指摘するような、印象的な引用からこの本のメッセージを伝えたい。
「One-World World(世界はひとつ)という概念は、我々は皆「単一の世界に住んでいる」「単一の根本的な真実(自然)とその上にある多くの文化(かつその頂点は欧米)で構成されている」という欧米の支配的な思想を示唆している。
この帝国主義的な概念により、欧米は自らがその「世界」となる権利を勝手に主張し、「その他の世界」は彼らに従属するもの、もしくは2番目の位置、存在に値しないものとして低く見ていた。これはとても"ヤバい"概念だ。(p.86より)
“The notion of oww [One-World World] signals the predominant idea in the West that we all live within a single world, made up of one underlying reality (one nature) and many cultures. This imperialistic notion supposes the West’s ability to arrogate for itself the right to be ‘the world,’ and to subject all other worlds to its rules, to diminish them to secondary status or to nonexistence, often figuratively and materially. It is a very seductive notion […]” (Escobar, Designs for the Pluriverse, 86).
著者は過去にも
・Encountering Development: The Making & Unmaking of the Third World ('94)
・Territories of Difference: Place, Movements, Life, Redes ('08)
などの著作で、抽象的で普遍的(ユニバーサル)な処方箋ではなく、局地的で現在の体験に根ざした洞察の重要性を主張してきた。彼はHuman/Non-human, Culture/Nature, Man/Womanといった二元論の論理体系に全ての物事を押し込めようとする「欧米の抽象化」の呪縛を解こうとしている。
Designs for the Pluriverseでは、こうした二元論(Dualities)から思考を解き放ち、ものごとの多元性(Pluralities)の可能性を拓くため、Global South(南半球の発展途上国)の内政干渉主義と、欧米の帝国主義を結び付けようとしている。この二元論の終焉という主張、そしてそのラディカルなポテンシャルが彼の主張の骨子となっている。
第1章、第2章では、Escobarはなぜこの抽象化と二元論が問題なのかを説明している。人類学者の筆者は歴史を遡り、18世紀ヨーロッパで起きた啓蒙主義以来、デカルトの合理主義による精神/物質の二元論的体系が世界を支配し、欧米の「世界はひとつ(One-World World)」の概念を作り出したと主張している。それにより、(欧米)人類の文明がその他の自然を操作する、という観念体系が出来上がった。その結果、「自己」と「他者」という概念を通して、自然とのエコシステムは軽視され、現在我々が直面する複雑な問題(wicked problem)を生んでしまった。
そこで筆者はデカルト主義からの存在論的な移行(ontological shift)を提案している。第3章では、彼は人間同士や人間とその他世界とのインタラクションの重要性を説き、単一・直線的ではない、複数・双方向の関係性を有した存在論(relational ontology)を主張している。
第4章では、ではどのようにその移行を起こせば良いのかについて、デザインこそが鍵だと語っている。トニー・フライを引用し、デザインには文化を
・啓蒙主義(Enlightenment): 例えば非効率なものの排除のため、垂直的な組織が目的に従って、専門家による処置を行う など
から
・持続主義(Sustainment): 例えば全体繁栄のため、関係性の動的平衡を考え、水平的な意思決定を行う など
へ移行させる力を有すると主張する。
特にデザインは存在論的(Ontological)なもので、我々がデザインしたものは跳ね返って我々をデザインしているのだ。こうした双方向の関係性を有した存在論で考えなければならない。
第5章、第6章ではこうした多元世界に向けて、デザインの持つ2つの役割:
・媒介(Catalyzing via Designs for Transitions)
・持続(Maintaining via Autonomous Design)
について語っている。
最終章の自律的なデザイン(Autonomous Design)に関する議論では、筆者は「自律性・自治性」という単語を、単にある閉じたループの中での自治性ということではなく、ラテンアメリカの脱植民地に向けた活動を参照し、その土地固有のアクティビズム(place-based activism)と定義している。
すなわちここでの自律的なデザインとは、ナショナリズム、愛国主義、民族的本質主義(ethnic essentialism)のような近代の欧米の保守的体系とは全く異なるものである。
すなわち新しい文化やオントロジー、エコシステムが繁栄するための開放(openness)であり、区別(separation)ではない。
そして自律性とは多元性を意味する。自律的なデザインは多元性(多元宇宙)を活性化させ、維持するものだ。単一・普遍・本質・客観的な真実や文化といった「世界はひとつ(One-World World)」概念とは全く異なるものだ。
ここまでを読んで
直訳に近いのでなかなか難しい文章だったと思うが、私が一番腹落ちしたのは
多元的なデザイン(Pluriversal Design)とは、その土地固有のアクティビズム(Place-based Activism)だ。
という部分。全世界共通のアプリ、誰しも普遍的に使えるソリューション、という一元的(Universe)な考え方ではなく、その場所・そのユーザー・そのエコシステムごとに対応した、多元的(Pluriverse)で草の根的に未来を開放するソリューションが必要だということである。ということを踏まえて冒頭のツイートにつながる。
すなわちPluriversal Designは未来の可能性を孕んだ無数の小宇宙や代替世界が全世界規模で立ち上がってくる概念で、スペキュラティブ、インクルーシブ、タクティカルアーバニズムの成熟し融合した姿のように感じる。Pluriversal Designはデザインをもっと学際的に、局地的に、自律的に、民主的にしていくものなのだと思う。
西欧的合理主義からの脱却。調べてみると藤幡先生をはじめ、日本でもこうした問題提起をされている方はいるようで、まさにここに21世紀のスイートスポットがありそうだ。
以前、下記の記事でもEscobarについては少し扱ったが、なんとなく「あらゆる物事がつながっている」禅的な世界観があり、我々日本人にしてみたらまぁそれはそうだよね、という感じで驚きが少ないかもしれない。一方でこれが欧米から発せられたということは危機である。欧米の人々が自ら二元論の合理主義の限界に気付き始めたということだ。彼らが多元論的デザインに移行する前に、元々マインドセットのある日本は前述したスペキュラティブ、インクルーシブ、タクティカルアーバニズムといった自律的な多元論デザインの土壌を築いておきたい。まぁgoogleなんかはすでに企業全体で多元論を体現している、とも言えるが。。
理論はわかった。実践は?
さて、一方筆者のEscobarは人類学の教授であってデザイナーではない。美しい理論は語られているが、実践のデザインとしてどうこれを体現したら良いか、についてはほぼ語られていないのはこの本の残念な部分である。上述したように、これまでの単一・普遍的ソリューションに抗い、多元性や中間を受け入れることはデザイナー自身のマインドセットとアクティビズムに委ねられている。ファミコンの攻略本で言う、この先は君たちの目で確かめてくれ!みたいな感じだ。
現時点では、筆者は21世紀の複雑な問題に対応するには、これまでの二元論、前提、抽象化を捨て、デザインの媒介力、自律力、持続力を用いて局所的な多元宇宙を作っていかなければいけない、という理論を示した、という段階。
個人的には、2通りのアプローチで実践が今後整備されていくのでは、と考えている。
1つは、ボトムアップの草の根的なアプローチ。
タクティカルアーバニズムや、参加型スペキュラティブデザインみたいな事例が溜まっていき体系化されていくような流れ。Extrapolation FactoryのChris Woebkenの事例なんかが自分のイメージに近い。現在Parsonsで彼の授業に参加しているが、ひたすら演劇やボードゲームを作っている。一時的な未来の質感(temporary future reality)を作り、参加型でその場所のありうる未来を夢想する活動。
もう1つは、社会全体視点で未来を描くアプローチ。
こちらはCMUのトランジションデザインがやろうとしている、全体関係性やエコシステムを意識したデザインの実践。トランジションデザインのツールがもっと洗練され、デザイン思考くらいトランジションデザインが流行り、各地・各都市でプロジェクトが立ち上がってくるような流れ。
いずれにしろ参加型・局地的・突発的・思索的なワークショップのデザインやファシリテーションがこの類の、まだ市場に定義されていないデザイナーには必要な要件になっていくのではないか。
Escobarの動画も見ることができるので動画が良い方は。
まだまだ邦訳されてないデザイン論たくさんあるよ
個人的にはSpeculative Design以来、世界のデザイン論があまり伝来していないイメージなので、時間を見つけて今回のような「世界のデザイン論から」シリーズでもやりたいと思う。
参考文献
Arturo Escobar. Designs for the Pluriverse: Radical Interdependence, Autonomy, and the Making of Worlds. Duke University Press. 2018. 312 pages.
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