恋愛万事塞翁が馬【柊 優斗】①
「今日は雨だってさ、折り畳み傘をもっていきなよ?」
出掛間際に姉ちゃんにいわれ、僕は折り畳みの傘を通学カバンに突っ込んで、急いで玄関を飛び出した。
僕の少し前を歩くのはクラスメイトであり、隣の席でもある星野さん。
後ろ姿でもわかってしまう。
巡りくる初夏の風にそよそよと黒髪がなびいている。
空をみると彼方に、薄暗い雲は迫っていた。
なるほど、確かに雨かもな――そうぼんやり考えていたら、星野さんは後ろを一瞬だけふりかえった。
「柊くん、おはよう」
心地よい透き通った声でそういわれ、僕は軽く会釈で返す。
顔が少しだけ熱く感じられるが、すぐさま騒ぐ風が冷ましてくれた。
おはようと返したいのに、その一言が今日もいえない。
心と連動するように、その暗雲は確かに僕へ、そして学校へと迫りはじめていた。
滑り込むように教室に入り、僕が席に座ったその瞬間に、校庭にひとつ、またひとつと雨粒がつきだした。
なるほど傘を持ってきてよかったと安堵する僕とは裏腹に、クラスメイトは何人か「嘘でしょ」「晴れって思ってたのに」とざわつきだす。
隣の席の星野さんも、どうやら折り畳み傘を持ってるようだ。
いや、机の中に置きっぱなしにしていたようだ、というのが正しいだろうか。
やがてパラパラと音が変わりだすと前の席の柴田が僕の方に振り返った。
「なあ柊、傘もってきた?」
頷きながら、僕はカバンから出した折り畳み傘を見せつける。
「持ってきたよ、柴田は?」
「いつも通りさ、勢いでなんとかなるかなって。つまり、持ってきてない」
結果を知っていても、柴田は勢いで進むことが多い。
明るくクラスのムードメーカーでもある彼のそれがいい所でもあり、悪い所でもある。
「柴田の無鉄砲な性格は直らないな」
「織田信長ってよんでくれ」
「それは鉄砲を使った方だろ」
「お、テスト範囲バッチリだな!光秀くん」
「だれが光秀だ。寝首をかくぞ」
僕との会話にひとしきり柴田は文字通り腹をかかえて笑った後、
「いやー復習完了。でさ、消しゴム貸してくんない?お前予備あるだろ」
「ずいぶんと長い前置きだったな」
いいたかったのはそれか、と呆れつつ僕は常にもっている予備消しゴムを柴田に渡した。
「ありがと!今度借りを返すな。鷹で」
「鷹狩りかよ……」
ため息しつつ教科書を机へとしまう。
何やら横からの視線を感じて星野さんの方へと視線を移した。
バッチリと視線が合い、視線が一瞬絡み合う。
でもそこで「どうかした?」なんて気軽にいえる関係じゃない。
毎度話しかけたいとは思いつつ、恥ずかしがって何もいえない――弱虫だ。
その沈黙をやぶるように、担任の矢沢先生が教室へと入ってきた。
明るい栗色な髪が今日も緩やかに巻かれている。
もう少ししたら産休に入るため、矢沢先生のお腹は少しだけ大きくなっている。
よいしょ、といいそうなほどにゆっくりとした足取りで壇上にあがり、通常通りの朝礼がはじまった。
「今日の朝礼のちょこっと小話は……故事です」
外の雨足が強まり、天井に響き渡る雨音が大きく変わる。
黒板にカツカツ、とチョークの音が響き、梅雨の旋律がはじまった。
ああ、雨もありなのかもな――まどろんでいた矢先、担任の先生が「柊くん」と、僕を指してきた。