Ⅳ.なぜ酒呑ちゃんはえちえちしてしまうか? 3/3 ~酒呑童子に使命はあったか~

さて、前回の続きである。
今回はもうほぼ結論まで辿り着いているので、短めに終わる…つもり。

酒呑童子の「すぐえちえちしてしまう」性質に対し、
前々回の記事では竜宮(仙境)の住人としての「原像」との関連を見出していたが、
前回の記事では、本地垂迹の進行とともに、酒呑童子の「本性(本地)」が「第六天魔王」とみなされ確定していく流れがあることまでみていった。

FGOでもお馴染みの「第六天魔王」の概念に照らせば、「えちえちしてしまう」のは当然…と言えるかわからないが、先ずはその辺りを見ていこう。

<⑦ 酒呑童子は「第六天魔王」だからえちえち>


 先ず、第六天魔王とは何か、確認しよう。
 と言っても、概念が広範すぎる気もするが…第六天魔王はざっくり言うと(Wikipediaを引用すれば…)『仏道を妨げる魔』とされている。

 一方で、「天魔=第六天魔王」とする説明も(Wikipedia含め)あるが、これは少し「天魔」の意味を絞りすぎている。)
 とはいえ、この「天魔」の元締めが、第六天魔王であることに代わりない。この固有名詞たる第六天魔王の指す人物?こそ、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が悟りに至るための修行を邪魔した、FGOプレイヤーもお馴染みのマーラさんだ。

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 マーラはそもそもの仏教説話で、煩悩を掻き立てることでシッダールタの修行を邪魔した功績(?)を持つ。
 では、その邪魔の仕方が、“えちえち”だったのだろうか。実は、そのシッダールタの修行の妨害で行われた誘惑は、『徳川廻天迷宮大奥』で体験したような、五戒の逸脱とは誘惑の要素が異なっている。

 確かにシッダールタの煩悩を色欲(性欲という意味の色欲)から掻き立てる手を打った(手管に優れた3人の娘を送り込んだ)ため、「不邪淫戒」の方面からの誘惑は初期的にはあったといえるだろう。
 ただ、それをシッダールタが退けると、もっと直接的に、シッダールタを抹殺する手を打っている。つまり本質的には、シッダールタの「生きたい」という慾望を試した。
 しかし、シッダールタはこれも退けた。これをもって、マーラは敗北を認め仏教の守護の役割を負うこととし、またシッダールタは(寧ろ、このマーラの妨害のおかげで)生きる事への執着を捨て、悟りを開き覚者(ブッダ)となったという。

 この功績をもって、マーラという存在は、概念としての在り方を広げて、仏教徒の仏道を妨げる煩悩の象徴(シンボル)となった。
 といっても仏教における設定上は逆で、マーラは六道輪廻の最頂点、すなわち天界の六欲天の頂点にある「第六天(他化自在天)」の住人であり、煩悩の化身だから、シッダールタが覚者となり、煩悩を消ししめる存在となると困る。だから邪魔しに来た、という次第だ。

 という説明を順?に追わなくても、まあ、FGOの『大奥』をプレイしていれば認知していそうなものではあるが。マーラは、煩悩をもって、仏道を修めようとする者を誘惑する者、あるいは仏道を修めようとする者のなかにある煩悩それ自体といった性質を帯びてくることになる。


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 さて、マーラから酒呑童子に視線を戻す。
 一部の説話によれば、酒呑童子は第六天魔王の化権であるのだから、サーヴァント・酒呑童子にも、この「第六天魔王の化身(本人?)」の性質が備わっている。だから、第六天魔王(どちらかというと、仏道を修めようとする者の煩悩そのものを指す意味になってからの存在)よろしく、必然的に人の煩悩を掻き立てる性質を持っている。つまりスキル「果実の酒気」として表出するような、「えちえちしてしまう」性質を持つ、ということになる

 のかも知れない。



 FGOの世界で、酒呑童子が生来そういった性質だった(つまり、生来、第六天魔王の化身として存在していた)のか、あるいは死後、説話のなかで「第六天魔王の化身だ」という人々の幻想を得たことで、サーヴァントとしてそのスキルを持たされたのかは、判然とはしない。

 ただ、この点については、少しだけヒントがあるようだ。
 すでに気になっている方もいるだろうが、第六天より下の階層の欲界、第四天からやってきた鈴鹿御前との掛け合いで、「天魔」としての一定の立ち位置が見て取れるように思う。

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 しかしはやらず、これはまた後で分析しよう。


 第四天魔王の話に進んでいく前に、第六天魔王の設定の話をしっかりしておきたい。先にマーラの説明として紹介したが、この第六天魔王の棲む、六道の頂点、欲界の第六天を「他化自在天(たけじざいてん)」と言う。
 仏教的世界観としての世界の成り立ち、構造をまとめた仏典の代表として『立世阿毘曇論(りゅうせあびどんろん)』というのがある。これによると「他化自在天」は

“他の化作する所の宮殿園林一切の楽具の中に於て自在の計をなし、此れは我所なりと中に於て楽を受く。”
 (立世阿毘曇論第六)

とある。つまり、他の世界(欲界のみか?)に「我が世界(他化自在天)」であるかのように存在でき、その世界の快楽について自在にできる、という意味合いだ。
 この「他化自在天」の住人の、他の欲界のすべてを渡り歩き自分のものできるという在り方は、容易く【境界】を超えて【内部(平安京)】に侵入してきた酒呑童子の在り方と通じるところがあるようにも思う。
 そして、以前に、酒呑童子がこの「【境界】の超越者である」という性質が、『屍山血河舞台下総国 英霊剣豪七番勝負』で、カルデアのサーヴァント・酒呑童子がバーサーカー・衆合地獄として顕現し得た理由なのかも知れない、としても紹介したが、第六天魔王の「「我が世界(他化自在天)」であるかのように存在できる」という性質は、より強めにここに接続しているのかも知れない。

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 それはまあ妄想なわけだが、妄想ついでに。サーヴァント・酒呑童子のパーソナリティ、特に各種セリフにおける、賑やかを愛し(イベント開催中ボイス)、他者が慾望を満たすことを愛する(イベントにおける各種の店番ボイス)仕草は、この「他化自在天」の有り様の影響を受けているのかも知れない。
 
つまり、慾望をほしいままにしてきた「鬼」としての共感、賛同だけでなく、それ以上の、「他化自在天」としての「他人が満たす煩悩は気が向けば全て自分のものとできる(なってしまう)」という権能による超然的態度がセリフにニュアンスとして含まれているという妄想もできるかも知れない。

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 “祭りは好きやわぁ。人も鬼も、賑やかなのが一番やし”
  (酒呑童子 〔アサシン〕 イベント開催中セリフ)
“うちの前で我慢なんてしいひんでもええんよ? 旦那はんのどーんな欲も、鬼のうちからすれば……可愛い盛りよって”
  (酒呑童子 〔アサシン〕 『鬼哭酔夢魔京 羅生門』店番ボイス3)
“旦那はんの欲深さ、もっと見たいわぁ。うちに見せてくれへん?…だめ?”
  (酒呑童子 〔アサシン〕 『復刻 鬼哭酔夢魔京 羅生門』
   店番ボイス5)


<⑧ 『御伽草子』の酒呑童子はえちえちか?>

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 さて、この段は余談でかつ妄想を含む。(読み飛ばしてもOKです)
 前の説明で、酒呑童子を後世「第六天魔王」と認定するのは「伊吹山系」の説話の流れであって、『御伽草子』では本地に関する説明は強くない、と説明した。

 『御伽草子』で語られる酒呑童子の経歴は、以前にも紹介した。

“童子、あまりの嬉しさに、酔ひほれ申しけるやうは、「それがしが古を語りて聞かせ申すべし。本国は越後の者、山寺育ちの児なりしが、法師に妬みあるにより、あまたの法師を刺殺し、その夜に比叡の山に著き…」”
(大島建彦 校注・訳 『日本古典文学全集』13『御伽草子集』 酒呑童子)

となっているが、鬼に変わった点への言及がないということだ。
 しかし、指定されている越後には酒呑童子の説話が伝わっている国上寺という寺があり、これも以前に紹介したが、下記のように鬼に変わった経緯が伝えられている。

酒呑童子は、幼名を外道丸といったが、「絶世の美少年であり、多くの女性に恋慕され恋文をもらったが、貰った恋文を焼いたところ、その煙にまかれ、気がつけば鬼の風貌になっていた」

 だが、国上寺で語られる酒呑童子は可哀想すぎるのではないか?
 一体、本人が何をしたというのか。清姫伝説でさえ、安珍には「嘘をついて断った」という責めがある。
 また、国上寺で引き取られた稚児に女人との接触がある、という事自体に違和感があろう。

 従って(これは想像になるが)国上寺に伝わる「女人に恋慕され」という言及は、おおかた本来は「国上寺の僧の間で、男色の対象としての稚児に関する痴情のもつれがあった」という事だったのだろう。
 平安初期となると、多くの寺院で男色の文化が栄え、特に稚児に対してはそれを許すことに、仏道上の整合性を与える理論まで成立する頃である。

 また、寺院の中の痴情のもつれだと解釈すると「法師に妬みあるにより、あまたの法師を刺殺し」という『御伽草子』の言及にもつながってくる。

 さて、こう解釈してみると、『御伽草子』で酒呑童子が負った罪について(本来、法師を刺殺している時点でも重罪だが)男色の煩悩を掻き立てたことによって仏道修行を邪魔した点があるのだろう、という要素が出てくる。
 すなわちこれはマーラの領分にほかならない。

 従って、『御伽草子』の酒呑童子も「第六天魔王」という指定はないものの概ね「えちえちしてしまう」性質を持っていたのではないか、と思われる。(とはいえ『御伽草子』に描かれる酒呑童子は、『大江山絵詞』と違って、徹頭徹尾「身の毛もよだつ」姿なので、、考えすぎかも知れない。)


<⑨ それで、酒呑童子は “なぜ” えちえちなのか>

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 サーヴァント・酒呑童子は「第六天魔王の化身だから」えちえちしている、とするとスキル「果実の酒気」に理由がつく。
 つくのだが、その「意義」としての “なぜ” も問うていきたい。

 酒呑童子は第六天魔王の化身だからヒトの煩悩を掻き立て誘惑する、で話が終わると、あまりに迷惑なサーヴァントという事になってしまう…
 彼女自身は、まったくもってそれで良いと思っていそうな節もあるが。

 酒呑童子のパーソナリティ、気持ちの在り方に踏み込むことになるので、断定的なことは言えないが、最後にやはり、この要素だけ見させてもらいたい。


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 第六天魔王(マーラ)の概念は、先に説明したとおり、後世まで続く「一般化された煩悩」としても成立している。その土壌となる仏教の在り方は、時代を下るにつれてどんどん変わっていく(例えば大乗仏教が生まれ、日本に伝わった後も、変態的な進化を遂げていく…進化する、という事が仏教の強みなわけだが…この話はまたどこかでしよう(しないかも))。
 従って、第六天魔王としての酒呑童子の「意味」も、その語られた時代・国の文化に沿って理解しなければならない

 そして運の良いことに、前の記事で紹介した、酒呑童子を「第六天魔王」と断定している『曼殊院本』には「酒呑童子」の扱いかたの明確なガイドが載っている。
 『曼殊院本』の、酒呑童子の本性を「第六天魔王だ」と断定する直後の文章は、下記のように続いている。

“又酒天童子はこれ大六天魔王魔王也。明王のいとくをやぶり、仏法のために敵をなし、国土をさまたげむがために出現して鬼となる。”
(曼殊院蔵『酒呑童子』絵巻、下)

「仏法のために敵となり」という意味のことが書いてあるが、これは、どういう意味だろうか。そのままの意味だ。つまり「酒呑童子は仏法のことを思って敵となってあらわれた」という意味である。
 この文に続けて、

“これ善悪のふたつをあらはして人間にみせしむるなり。本地はみな一如なり。よくよくこのことはりを知るべし。”
(曼殊院蔵『酒呑童子』絵巻、下)

とある。もっと文章を下ると

“みなこれ善尺魔のことはりをあらはすも、善悪の道理を人間にみせしめむがため也。(中略)いまの世なりといふとも仏神をふかく信ずる物ならばあらたなるきどくのなどかなくてあるべきや。”
(曼殊院蔵『酒呑童子』絵巻、下)

という風になる。最後はお決まりの「もっとよく仏神を信じなさい」という話になっていくわけだが、真ん中に引用した「本地はみな一如なり」という言及が重要だと思われる。

 つまり曼殊院(天台宗)に伝わる説話では、「第六天魔王の化身である酒呑童子は、善悪の道理を人間に見せるため顕現したのであって、それは善玉の源頼光サイドと、本来は一つのものである」という風になっている。

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 時代を遡ると、「本地はみな一如なり。」という顕著な言及まではないものの、室町時代に成立している説話でも、「仏法のための存在だ」という言及がある。

“さてかのしゆてんどうじは大六天のまわうなり。明王の威徳をやぶり、仏法のためにてことごとくわが眷属にせんとくわたつるといへども…”
(竹僊堂旧蔵『酒天童子』絵巻、下)

 少なくとも、室町時代には酒呑童子は「第六天魔王」でありかつ「仏法の味方だ」という言及があったことになるだろう。


 そもそも、「第六天魔王」の元祖に大元になるマーラも、修行を邪魔するという行いの結果シッダールタが悟りに至ったこともあってか、仏道成就という如来の敷いた規定路線の上では「協力者だ」とみなされることがある。
 シッダールタが悟りを得てからは仏法を護る者となっていることからも、「第六天魔王は煩悩の象徴としてあらわれ、敢えて退けられることで、仏門に入った者の仏道成就を促す」という立ち位置で見られることが多い。

 説話における酒呑童子の役割は「煩悩の象徴」というよりは「悪の象徴」に近いように思うが、仏門に入った者より一般的な民衆に開かれた教条を担当しているのだろう。
 いずれにせよ、特に「伊吹山系」で語られていく酒呑童子は、この「仏法を支援する第六天魔王」の系統を汲んでいることは間違いない。


<⑩ 「天魔」に “使命” はあるか>

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 FGOの世界に視線を戻す。FGO世界でも、酒呑童子は生来、「仏法を支援する」ために悪事を為すという “使命” を負って「天魔」として日本に降臨したのかも知れない。あるいは、後世の人類のそういった幻想が英霊としての概念に影響を及ぼして “使命” を負った「天魔」の属性を持つサーヴァントとて顕現したのかも知れない。冒頭の項にも書いたが、どちらの順番なのかはどこまでいっても判然としない。と、言いたいところだが。


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 「天魔」といえば、明確に(少なくともサーヴァントとして)天魔の娘であることが示されている、鈴鹿御前の話題が捨て置けない
 しかも繋がりが明確に描かれている。
 まず、マテリアルによると、鈴鹿御前は酒呑童子に対して、本来の在り方は天魔なのでは、という疑問を持っている。

“「なんで鬼とかやってんの? アンタ、どっちかっていうと私らよりじゃん?」”
 (Fate/Grand Order material Ⅴ)

 鈴鹿御前の幕間1において、酒呑童子も、鈴鹿御前のことを(生来面識はなかったらしいが)「天魔の娘」として認識しており、

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(生前はともかく)サーヴァント・酒呑童子に「天魔」に関する紐付きが、多少なりあることは規定路線のように思われる。
 なんなら、茨木童子も自らを「天魔」と名乗るシナリオもあるが……初期のシナリオでもあり……茨木童子に関しては何をわかっていて何をわかっていないのかよくわからないので置いておこう……

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 ちなみに、鈴鹿御前は第四天魔王(兜率天)の娘となっているため、酒呑童子が第六天(他化自在天)の所属であれば、酒呑童子のほうがより上位の天に位置していることになる(先に説明したように、兜率天にある一切の楽具を自分のものにもできる)。

 鈴鹿御前は日本を魔国に変える使命を持って降臨していた事は明確だが、先の『曼殊院本』で「善悪の一如」が語られているように、もしかすると、その「意義」は、「魔国にする過程を経て、仏法を支援する」ことにあるのかも知れない。あるいは、そうやって回収されていく事は予想しながらも、やはり単に魔国化を目指すという、負け戦を予想した戦いを引き受けているのか。
 鈴鹿御前の幕間では「本来は鬼が日本を魔国化させるべきだった」という言及があり、魔国化の使命が、「天魔」一般としてのミッションであることは予想される。

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 いずれにせよ、このFGO世界における「天魔」の存在意義には明確な言及がないので妄想の域を出ないだろう。
 また、『深海電脳楽土SE.RA.PH』のシナリオでは鈴鹿御前がもう一度「天魔」の権能を取り戻し、その後は勝手にやりたい意図を持っていたことから言っても、過去の降臨時にその使命(あるいは意義)があったとしても、今は解き放たれているのかも知れない。

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 ただ、酒呑童子には、以前に言及したように、自らの「約束された敗北」という役割に対して自覚的なところがある。

 その理由のひとつには、後世、常に「【外部】に追いやられ討伐されるべき存在」としての幻想を受けながら霊基が成立したことも一因にある。
 と、思われるが、同時に「悪として(退治されることで)仏法を成立させる」という「天魔」であることに由来した “使命” を、まだ忘れていないからなのかも知れない。






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 「天魔」としての “使命” に、酒呑童子自身、自負があったのか?

 あるいは “使命” など認識せず、やりたいことをやっていただけなのか?

 そもそも、そういった後世語られた「仏法のために天魔がある」という言い分自体が、ただの幻想の押し付けでしかないのか?

 いや、もっとその前に、仏教的概念自体の付与(本地垂迹)そのものが、既に押し付けであって、やはり酒呑童子自身は本来、仏教とは独立した存在だったのだろうか?

 もし、そうであっても「退治されるべき【外部】の者であり続け」成立したサーヴァント・
酒呑童子にとっては、もはや、どちらでも良かったのだろうか?

 酒呑童子が「約束された敗北」を受け入れているのは、
 使命感なのか?
 諦めなのか?
 慈愛なのか?

 可能性は複雑に入り組んでおり、かつどこまでいっても判然としない。

 そしてここはサーヴァント・酒呑童子の気持ちを推し量る部分でもある。

 酒呑童子が語らない限りは、追求しなくていいところなのかも知れない。

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「えちえちしてしまう」話に戻してまとめると、“使命” のために「えちえちしてしまう」のか、やっぱり生まれながらに「えちえちしてしまう」のかは、いずれにせよ謎ではあるわけだが、要素としては

 酒呑童子は「竜宮・仙界の住人」だから、人間が魅了されて然るべき存在であり「えちえちしてしまう」という説

 酒呑童子は「天魔(第六天魔王)」として、ヒトの煩悩を掻き立て・悪の側面をみせて、逆に仏法を成立させる “使命” を持っているため「えちえちしてしまう」という説

 の2つくらいの仮説が立ってくる、ということになるだろうか。
 簡単ではあるが、これが結論になってくる。


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 さて、ここからは余談だが、のちのちの繋がりに書いておきたい。
 前回の結びに「仏教においても、とかく酒呑さんは【外部】を引き受けた」と書いた。しかし、仏法が成立するという既定路線に従えば、「【外部】と【内部】は、本来はひとつのものである」という視点が与えられる。

 それは一見、優しい迎え入れに思える。

 しかし、本当にそうだろうか?

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      ※ 画像は後日追加したもので、記事は画像のイベント前の作成

「【外部】は排除されることで我々の役に立つ “使命” を帯びて存在した」という幻想で【外部】を排除する理由を与えることは、「【外部】の者を排除した申し訳なさや後悔本当は【外部】の者にも【外部】の者なりの道理・世界があったのではないかという迷い」を消し去ることになる。
 いや、むしろ、この効能を期待して本地垂迹説が進行していったと見るべきだ。

 その理由は、ひとは、迷いや後悔の念を抱き続けるには弱すぎるから。

 いや、それは本当か?
 酒呑童子の説話を含む、まつろわぬ者を排除する説話を語り継ぐこと。あるいは、そうやって排除された者を神にまで祀り上げる行為は、そういった迷いや後悔を忘れないための所業ではないのか。

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 本地垂迹説を利用して、【外部】を排除することの正当性を求めたのは、本当は何者だったのか。それは紛れもなく、平安仏教を政治的に利用していた平安京の支配者、そしてなかでも、「武力」を担当し、平安時代以前は、ケガレを引き受ける「闇の者」でしかなかった武士の一族、つまり平安武士に違いない。
 酒呑童子に「仏敵」としての誅伐対象としての名分を、後世に至っては、「一如」としてまで仏教世界への同化を求めたのは、平安武士の【外部】の者への誅殺に対する浄罪の願いであり、
 それが、ただ、「闇の者」であることができればよかったはずのFGO世界の源頼光が嵌った陥穽、時代のイデオロギーの狭間でもあったのだろう。

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 本来、【境界】を超越していたものを、倒されるべき【外部】の者として規定してしまい、さらに排除した後悔すら忘却するあり方は、アヴェンジャーのクラスを成立させる流れに他ならない。
 本地垂迹説が、いまの日本というコミュニティ、国家を成立させるために不可欠な役割を果たしたことは間違いのない事実だ。
 しかし、それによって切り捨てられたものが間違いなく、かつ、相当に多くあったのだろう、ということは、酒呑童子クラスタの者としては、憶え続けておかなければならないのかも知れない。

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