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フォークダンスDE成子坂・桶田敬太郎さんと過ごした日々のこと。と、これから。

人生においてはっきりと「師匠」と呼べる人が、貴方にはいらっしゃるだろうか?

三十余年しか生きてないハナッタレの僕だが、ありがたいことにそんな方に出会うことができた。
芸人時代、毎週のようにネタのダメ出しをしてくれた、フォークダンスDE成子坂の桶田敬太郎さんだ。

「そんなん、違う違う」って本人は言いそうだけど。

僕について

6年間程、僕はお笑い芸人として活動していた。

1年目、養成所の卒業審査の結果事務所に所属できなかった僕らコンビは、事務所のオーディションで所属を勝ち取るためにフリーライブに出てはネタを磨く日々が続いていた。

正直な所、自分達のネタには自信があった。

ライブに出れば上位入賞することもしばしば。先輩たちからは「ホントに1年目かァ~!?」なんて、湘北高校に入学したばかりのゴリみたいな事を言っていただけることもあった。(ありがたい話だ)

でもだからこそ…事務所オーディションに合格できないことに焦りを感じていた。


出会いの理由

芸人やライブ主催者からの評価も悪くないしライブでもそこそこウケている。
ただ、どうしてもオーディションに引っ掛からない。

悶々としていた僕らに、とあるライブ会社の社長がこんな声をかけてくれた。

「フォークダンスDE成子坂の桶田さんが若手を探してるらしいんだけど、ネタ見せに行ってみない?」

エッエッエエエエエ!?…と声にならない声を上げたのは相方の方だった。

養成所時代、自己紹介がてら好きな芸人を挙げるタイミングがあった。
みんなが現在テレビなどで活躍する芸人を挙げる中、相方が挙げたのが成子坂さん。
その敬愛ぶりは、憧れすぎたが故に初ネタ見せのダメ出しの後、「僕らと成子坂さんの何が違うんですか?」とネタ見せの先生に食って掛かるほどだった(お察しの通り、相方はややイタい奴だった)。

僕はと言えば、恥ずかしながら成子坂さんの事は知らなかったものの、調べれば調べるほどにネタはもちろん、そのドラマチックな逸話に魅了されていった。

ダウンタウンの再来と言われていたこと。
名前をググれば必ず『天才』の二文字が付いて回ること。
鬼のスケジュールで行った単独ライブ後に、突然解散したこと。
ボケの桶田敬太郎が今何をしているか、全くわからないこと。
そして。
ツッコミの村田渚が急逝したことで、二人が揃うことはもう既にありえなくなってしまったこと。

つまり、お笑い界に残る『神話』の一つのようなもの。
僕にとってのフォークダンスDE成子坂はそんなイメージだった。

そんな伝説の芸人、桶田敬太郎にネタを見てもらえる。
ハナッタレだった僕らが、断るわけない。

コンビを組んで、2年目の事だった(確か)。

出会い

初めて桶田さんに会った日を、昨日のことのように覚えている。

場所はなんの変哲もない、区の公民館。
そこの部屋の一室に、桶田さんはいた。

現役時代のイメージに比べてふっくらしていたものの、鋭い眼光、やや前に付き出した口元、そしてメガネ(この時はサングラスだったが)の真ん中を人差し指でクイッと持ち上げる癖が全てを物語っていた。

「正真正銘、桶田敬太郎だ。」

僕ですら緊張していたのだ。
成子坂さんに憧れ、そうなりたいと10代の頃から思っていた相方のそれは、僕と比べ物にならなかったに違いない。

「桶田です、よろしく」
僕たちの緊張をよそに、桶田さんはサラリと口を開いた。

「じゃあ早速、ネタを見せてもらおうかな」

いきなりか…!

もちろん、ネタを見てもらいに来たのだが「桶田敬太郎にネタを見てもらえる」という非日常への準備が、なんとなく出来ていなかったんだと思う。

「覚悟を決めなくては」

どこかフワフワしたまま、コントの道具をセットする。
気持ちを落ち着けて…いざ!

…と、いうところで桶田さんがおもむろに口を開いた。

「あ、オレ、横からネタ見るけど気にせずな。ネタは横から見るようにしてるのよ、色々見えてくるから」

ネタ見せは、本来なら演者と向かい合って行うもの。

ところが、桶田さんが見る場所は真横。
劇場で言うところの『ソデ』からの角度だった。

これが天才によるネタ見せ―――。

いつもとは明らかに異質な雰囲気の中でのネタの出来は、果たしてどうだったんだろうか。
ただ、誰もいない目の前の空間に向かってガムシャラにネタを披露した僕らは、真横から見ていた桶田さんに及第点をいただいた。

そしてその日から、神話の中の芸人に必死で食らいついたスーパーぺえぺえ若手コンビの物語が始まったんだ。

…なんてカッコ良く書いてみたが後日談。
その日から僕たちは桶田さんに何回とネタを見てもらったが、その後一度たりともネタを真横から見られたことはなかった。
「緊張するからたまには横から見てくれないかな~~」なんて思うくらい、もうなんの変哲もなくめちゃめちゃ真正面から見られてた

何年か桶田さんと関わりをもたせてもらって、性格もなんとな~くわかった今だからこそ聞きたい。

桶田さん、初めてネタをお見せしたあの時、、
絶対ふざけてましたよね?

初営業~ちくしょう、またやられた~

初めての営業は群馬の、とあるショッピングモールだった。

初営業ということもあり、桶田さんも一緒に着いてきてくださることに。

僕たちコンビと、桶田さん。
1時間以上電車に乗っている間、桶田さんの現役の頃の営業の思い出をたくさんしてもらった。(ここには書けないようなことも聞いた。夢のある世界だ。)
桶田さんが時々してくれる昔ばなしが、僕たちは大好きだった。

ショッピングモールの片隅で細々とネタをするんだろうな~と思っていた僕らは、会場について度肝を抜かれた。

ステージは正面玄関入ってすぐの吹き抜け。
座席だけで50席以上はある上に、2階からも3階からも見える形だ。

極めつけはこの日の為に作られた、僕たちのふてぶてしい宣材写真と共に、「お笑い芸人『ノオト』がやってくる!」とデカデカと印刷されたステージ用パネル。
あまりの大きさに、僕たちは頭を抱えた。

「やばい…『誰だよ』感が半端ない…」
「『やってくる!』なんて、ビートルズじゃねえと成立しねえよ…」

いや、そもそもパネルを見てもらえないくらいお客さんが少なかったらどうしよう…。

楽屋で不安に押しつぶされそうな僕らを見て、桶田さんはフフッと笑っていた。

スタッフの方が呼びに来てくれて、いよいよ僕たちの出番だ。

「ま、まあ、客がゼロだったとしても話のネタになるしな!」

そんな風に思いっきり保険をかけながらステージに出た僕らは思わず目を見張った。

50席くらいの座席はギチギチに埋まっており、立ち見の方もたくさんいた。
2階、3階に向かって声をかけると、みんな笑顔で手を振り返してくれた。

僕たちが誰かなんてどうでもいい。
その空間には「芸人っていうものを一目見てみたい!」と思うじいちゃんばあちゃん、パパママ、がきんちょ達のパワーがパンッパンに溢れていた。

本当に楽しかった。
お客さんに求めてもらい、お店の方々に感謝されて、お金までいただける。
芸人をやっていてよかった。心からそう思えた。

無事に初めての営業を終えて楽屋に戻ると、待っていた桶田さんがニヤッと笑いながら言った。

「まあ、良かったんじゃない?」

これは…褒められたのか…?まあいいや。褒められたことにしておこう。

帰り際、ステージ上で役割を終えて静かに吊るされているあの大きなパネルを見て、桶田さんが僕に言った。

「春山、あのパネル貰っていけば?初めての営業の思い出になるで」

確かに、いささか大きすぎる気もするがクライアント様が作ってくださった想いの籠ったパネルだ。
そんなパネルを思い出として貰っていけば?と助言してくれる桶田さん。
僕たちの思い出まで演出してくれるなんて、流石だなあ。

モールを出て東京行の電車を待つ間、パネルと一緒に桶田さんに写真を撮ってもらった。

マジでミスった。
流石にデカすぎる。

写真を撮りながら桶田さんはゲラゲラと笑っていた。
横から見るネタ見せに続き、僕は桶田さんにまんまと担がれたのだ。

相方も桶田さん側に加わり、まるで1人でパネルを持って電車に乗ろうとしているような僕。

隣にも座ってもらえず、一人にさせられる僕。

「こんな大きいの、恥ずかしいっすよ~~ww」
「なんでこんなもん持って帰らせたんすかぁ~~ww」

そんなお決まりのやつも、一切許されない孤独感。

乗り換え駅内を歩くのも辛かった。
なにせデカデカと写真がプリントされた『やってくる!』パネルを、プリントされている本人が持っているのだ。

あまりにも大きすぎるから片手では持てないし、両手で持つと空気の抵抗を受けるわ視界が悪いわでとにかく何もかもうまく行かない。

初営業でのせっかくの感動はどこへやら、僕ははっきりとパネルを貰ったことへの後悔を感じていた。
「(さっさと電車を乗り換えよう…。)」

そんなことを考えていた時。
四苦八苦する僕を歩きながら見ていた桶田さんが、突然駅構内を走り出した。

「え!?ちょっ…!」

そんな桶田さんを見て、何かを察したように相方も笑いながら走り出す。

「(ふざけんな…一人にされてたまるか…!)」

バカみたいに大きなパネルを両手で持ちながら、僕も走り出したのだった。

桶田さんのスピードに、置いていかれないように。

三重、渚さんの元へ。

夏。
僕は事務所の社長、お世話になっている作家さん、そして相方を愛車ラパン(実家の)に乗せて、一路三重県を目指していた。

目的はただ一つ、村田渚さんのお墓参りをすることだ。

『桶田さんが育てた次世代のスターを作る』

そんな目標に向かって事務所一丸で走り始めるに当たり、お墓参りを発案したのは桶田さんだった。

適当なことは言えないが、心機一転お笑いに携わる桶田さんなりの『ケジメ』だったのだろう。

先に三重県のご実家に帰省されていた桶田さんと合流し、桶田さんの車に乗り換えて目的地へと向かう。

渚さんのお墓は、三重県の山の中、ご実家のほど近くにある。
そして、そこはつまり成子坂のお二人が出会い、二人の『オモシロ』を見つけて、育んだ場所でもある。

こんな山奥から高校を卒業したばかりの二人が都会に出て、今でも語り継がれるような芸人になるなんて誰が想像しただろうか。

ご実家から10分ほど車を走らせた後、車を降りて小さな、本当に小さなレンガのトンネルを歩いて抜ける。

とても見晴らしのいい場所に、村田渚さんのお墓はあった。

東京都内から愛車ラパン(ゴリゴリの軽)を6時間近く一人で運転し続け、やっとたどり着いた渚さんのお墓。

神話の中で亡くなっていた、渚さんのお墓が当たり前だが実在していることに、僕は感動したのだった。

軽くお墓を拭いた後、まずは桶田さんが静かに墓前に手を合わせた。

お墓に手を合わせるとき、人はだれしも故人に思いを馳せるものだ。

桶田さんが渚さんのお墓に向かって手を合わせて思いを馳せていた瞬間。
僕は確かにお笑いコンビ『フォークダンスDE成子坂』がそこに揃ったことを感じた。

大げさかもしれない。でも恐らく、あんな不思議な感覚を今後の人生で味わうことはないだろう。

そんな桶田さんを、相方もほとんど泣きそうな顔で見つめていた。

次に相方が手を合わせようとしたとき、桶田さんは相方に500mlペットボトルのコカ・コーラを手渡した。

「墓の手前当たりの土に撒いてやってくれや…。」

…なるほど。桶田さんはお酒を飲まない。
代わりにいつも、呑みの席ではコーラを頼んでいる。

渚さんのお墓参りの時は、お酒を備える代わりにコーラを撒いてあげているのかも。その役回りを相方に託したわけだ。

相方なりの気遣いだったのだろう。コーラを受け取ると彼はキャップにコーラを少し入れ、お墓と土の境目辺りに、そっと撒いた。

大役を終え、晴れ晴れとした様子の相方。同じコンビとして僕も誇らしかった。

ところが。これに異議を申し立てた人間がいた。

何を隠そう、桶田さんその人である。

「あ、違う違う。貸してみ」

そう言ってむんずとコーラを相方から受け取ると、桶田さんはどばぁっと中身を墓前の土に撒いた。

ほんと、打ち水みたいな勢いで。どばぁっと。キャップとか使わず直で。

唖然としている僕らを気にも留めず、「ほれ」と桶田さんは相方にコーラを手渡した。

「合ってますか?これ、本当に合ってますか?」と、さっきとは全く別の理由で泣きそうになりながら、コーラを墓前の地面に撒く相方。

その姿はまさに「家で缶の酒を開けたものの飲みながら寝落ちしてしまい、次の日大量に残った缶の中の酒をシンクに捨てている時のあの感じ」の撒き方だった。っていうか、もはや垂れ流してた。

桶田さんはそんな相方の様子を、冗談とも本気ともとれる顔でじっと見つめていた。
成子坂が揃ったと言う神聖さは、とっくに無くなっていた。

腑に落ちない様子で相方が墓参りを終え、次は僕の番だ。
特に撒くものも無さそうなので、安心して墓の前に立つ。

「ツッコミが上手くなるように、お願いしときな」

墓前で手を合わせる僕に、桶田さんは笑いながらこう声をかけた。

冗談か本気か、これなら僕にも分かった。

ツッコミについて。

新中野の事務所で、何回ネタを見てもらったかわからない。

新ネタを持って行って桶田さんに見てもらう。
ボケの質や構成の改善点などのフィードバックをいただく。
次の週に直したものを持っていき、また見てもらう。
そんなルーティンだった。

当然だが桶田さんの要求は高く、厳しかったと思う。
特に指導を受けたのが、僕のツッコミだ。

「春山、それじゃワンテンポ早い」
「今度は遅いな」
「フレーズをもっと繰って」
「それじゃあ笑いが起きるイメージがせんのよな」
「おもしろくないなあ」

ネタを見てもらっていた期間、僕がツッコミで褒められたことは一度もなかったと思う。もちろん、原因は僕の力不足だ。

悔しかった。どうすればいいツッコミというものになれるのか。本当に心の底からいつも考えていた。

でも…お笑いを辞めて芸人としてのプライドだとか、そんなものを全て捨てた今だから言えることがある。

桶田さんが描いているツッコミのイメージや雰囲気を僕に指導するときに、そこにいつも渚さんを感じさせていたことをご本人は気づいていただろうか。

気づけば僕は「いいツッコミになりたい」ではなく、「ネタ見せで桶田さんにいいツッコミだと思われたい」と思うようになってしまった。

そしてそうなる為に、僕はネットに上がっている成子坂の動画を改めて片っ端から見た。

桶田さんに焼いてもらった自縛をBGMとして家で流しっぱなしにしてみたりした。

わからなくなり過ぎて一度も会ったことのない渚さんが夢に出てきたこともあった。
確か夢の中で自分のツッコミについて相談したんだったと思う。その辺の記憶があやふやだが、渚さんが何も言わずにニコニコしていたのはなんとなく僕の頭の中に残っている。

そう、僕は追い込まれていたのだ。

そもそも僕は渚さんと見た目から声の質まで何もかも違う。地の底から湧き上がるような低い声の大男な僕が、あんなに通る声を持つ渚さんになれるわけがない。

桶田さんが気に入るツッコミにならなくても、芸人として面白いツッコミが出来ればいい。
本当はそのはずなのに、目指すべきものがいつのまにか変わってしまっていたと思う。

僕の考えすぎかもしれない。
でもツッコミの話をする時の桶田さんは、渚さんの話をしている時よりも強く渚さんを近くに感じさせている瞬間だった。

一度事務所のみんなで話していた時、「今、桶田さんがキングオブコントに出たらどこまで行けそうですかね?」という話題になったことがある。

「んー…準決勝くらいなら行けると思うで。」
そう答えた後に、桶田さんは一言、こう付け加えた。

アイツとならな。

キングオブコントの準決勝まで行くことがいかに大変か、一応芸人をやっていた僕にはよくわかる。

でもこの時の桶田さんの言葉が、「かつてテレビで活躍していた元・芸人の栄光にすがった驕り」だとどうしても思えなかった。

なぜなら桶田さんは、本気でそう思っていたからだ。

渚さんとだったら、今でもなんだって出来る。
驕りではなく''自信''が、桶田さんの中にはあったからだ。

魅力的なコンビ芸人たちはみんな、『コンビで共有できる面白さ』に対して自信を持っていそうな人たちばかりだ。

ダウンタウン、さまぁ~ず、サンドウィッチマン、おぎやはぎ、バナナマン、千鳥、かまいたち…。

彼らはお客さんを笑わせるのはもちろん、自分たちだけが思う確固たる『面白い』を持っている。

その二人だけで持つ『面白い』はお客さんだけでなく、持っていない芸人たちにとってもまるで聖域のように見える。
そのコンビだけが持つ聖域にお客さんは魅了され、芸人たちは畏怖と羨望の眼差しを向けるのだ。

そしてフォークダンスDE成子坂も、そんな確かな聖域を持っていたコンビなんだと思う。
その聖域を見つけたから、桶田さんは渚さんとならなんでもできると思っていたのではないだろうか。

仮にこれでキングオブコントの1回戦で落ちたとしても、二人でゲラゲラ笑って来年の対策を練っていただろう。
そんな強さが、聖域を持つ芸人にはあるように思う。

そしてそれは、手に入れたくても手に入れられない芸人がほとんどだ。

結果的に僕たちコンビは、逃げるように桶田さんが作った事務所を退所した。
そして程なくして、本当にどうしようもない理由でコンビは解散。好きな人がいた僕は、結婚をするために30歳になる年に芸人を辞めた。

1年目の評価やライブのウケ、そして桶田さんの出会いなど、「持っている」と思った瞬間もあった。
でも、結局僕らは何も持っていないコンビだったのだ。

事務所を退所して1年ほど経ってから、久しぶりに桶田さんに電話で連絡をとる機会があった。

野暮用を伝えた後、桶田さんは先週も会ったような口調で「最近どうなん?」と聞いてくれた。

コンビを解散した時の事。
きちんと就職して、サラリーマンをしている事。
結婚する予定の事。

芸人を辞めた人間にありがちな、ある程度ベタなエピローグを桶田さんは笑いながら聞いてくれた。そして電話を切る際に、最後にこう言ってくれた。

「またみんなで飯でも。おまえは好かれてるからな」

電話を切ってから「そう言えば桶田さんにギリギリ評価してもらえてたのって人間性だけだったなあ」と思った。もちろん、ありがたいことだ。
そしてなんとなく、飯の予定はしばらく実現しないだろうなあ、とも。

結果的に、これが僕と桶田さんが交わした最後の会話になった。

訃報

今年の1月、所属していた事務所の社長であり、フォークダンスDE成子坂の兄貴的な存在として現役時代から親交のある方から突然、そして久しぶりに電話をいただいた。

久しぶりの方からの電話というところで嫌な予感がしたのだが、ずばりその予感は的中することになる。

「敬太郎が、亡くなった」

もちろん、ショックだった。
ただ一方で、「やっぱり」という思いが確かにあった。

何となく心の中で昔から、「桶田さんって、急にいなくなりそうだな」と思っている部分があったのだ。
突然お笑いの世界から消えてしまったイメージが、そのまま残っていたのだろうか。

実は昨年の11月に亡くなっていてそれをしばらく黙っていてほしい、という遺言も「桶田さんらしいわ~」と思っている。

あんなにイタズラ好きで、豪快で、でもシャイな天才が、おめおめと死ぬわけないんだから。

いやさすがに隠し通すのは無理っすよ、桶田さん。
ご自分の影響力、どれだけあると思ってんすか。

遺言とは言えそのままにする訳にもいかず、社長主導で本当にささやかなお別れ会が開かれた。

会場は桶田さんが手作りで作り上げた劇場、「しもきたドーン」。

当日は爆笑問題のお二人や古坂大魔王さん、ますだおかだの増田さんなど錚々たる方々が駆けつけてくださった。(太田さんが会場内の桶田さんの写真をじっとご覧になっている姿が印象的だった)

しかしそんな豪華なメンバーはもちろん、いつもの事務所メンバーの中に桶田さんがいないことが、より桶田さんの死を強調してしまっていた。

フォークダンスDE成子坂、そして僕の『これから』。

さて。
なぜ僕が今回、こんなにつまらない文章をダラダラと書き綴っているか。

実は現役時代から今日まで、僕は桶田さんとのエピソードはもちろん、その名前すらSNS等のツールで出すことはほとんどなかった(一度桶田さんが亡くなった後、とあるげーにんが僕たち「ノート」と桶田さんのことをあくまでファン目線でnoteに投稿していた際に、少しご意見したくらいだ)。

なんとなく、本当になんとなくだが気軽に桶田さんの名前を出すことは憚られていた。

でも…今回初めて、本気で桶田さんについて記録させてもらった理由。

それはこんなプロジェクトに声をかけていただいたからだ。

名作コントが女の子たちの不思議な旅で蘇る『其れ、則ちスケッチ。』

「自分たちのコントを古典化して残したい」
「自分たち以外のなにかに、自分のコントを演じさせたい」

生前、桶田さんは常々こんな野望を口にしていた。(これホントは僕らコンビがやるべきことでした…力不足ですみません桶田さん…!)

このプロジェクトはそんな桶田さんの『遺言』を実現させるために立ち上がったプロジェクトだ。

またそれと同時に日本が誇る2つの文化、『お笑い』×『アニメーション』を融合させて羽ばたかせる『挑戦』でもある。

プロジェクトメンバーは、桶田さんはもちろんフォークダンスDE成子坂に深い縁のある方々。

そんな方々に、恥ずかしながら僕も(圧倒的ザコにも関わらず)参加させていただくことになった。

事務所を逃げるように辞めた僕にまで声をかけていただいて、こんなに嬉しいことはない。本当にありがとうございます。

また、今回のプロジェクトを快諾して下さった関係者の皆様、なによりご遺族の方々に心より感謝申し上げます。

今回初めてしたためた桶田さんについての文章は、あの時逃げるように事務所を去った僕なりの『謝罪』であり、「成子坂さんの名前を借りる以上恥ずかしいことは出来ない」という『僕なりの弔い』でもある。

今回の僕の記録が、フォークダンスDE成子坂という神話のちっぽけな一端を担うことが出来たら…そして少しでも賛同して下さる方が増えてくれたら…こんなに嬉しいことはない。

なにより、今回のプロジェクトを成功させてあらゆるエンターテインメントファンの方々にご満足いただけることを心より願っています。

『其れ、則ちスケッチ。』プロジェクト
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余談~桶田さんと飯~

夜21時を回った頃。事務所のグループLINEが鳴る。

発言者は…桶田さんだ。

「誰かヒマな人いません?飯でも」
「僕、空いてます!」
「お、空いてるのは春山だけかな?最寄り駅どこだっけ?」
「阿佐ヶ谷です!」
「じゃ、車で迎えに行くわ」

こんな風に桶田さんにご飯に誘われることがたくさんあった。
この日参加できたのは、たまたま僕だけ。

阿佐ヶ谷駅で拾ってもらい、環状八号線に出る。

桶田さんにご飯に連れて行ってもらう時は、なぜか環八を通ることが多かった。この日もご多分に漏れず、神奈川方面に下っていく。

混雑気味の環八をのろのろと進む。社内にかかる昔の洋楽が心地いい。

対向車線のライトを助手席でぼんやりと眺めていると、突然桶田さんがボソリとつぶやいた。

「スターを目指さないとな…」

「え?」

「スターを目指さなあかん。最近出てないやろ?スターって。テレビに出た瞬間パッと目を引くような、そんなスターにならんといかんで。そのためにはな、圧倒的な衝撃や。『なんや今のボケは!?』『なんやこいつらのセンス!』そんな圧倒的な衝撃と無敵感がないとな。今、お笑い業界って停滞してるやん?でもな、そろそろ時代が変わるで。波はいきなり来るで。その時に慌てないように準備して、スターにならないとあかんで、自分ら」

桶田さんが亡くなった翌年の2020年、いわゆる第七世代がバラエティーを席巻している。僕たちもお笑いを続け、万が一にも売れていたらここの括りに入っていただろう。

テレビをつけると、かつてライブを共にした先輩や後輩が活躍している。そこでもう戦えないことに、悔しさや寂しさを感じているのもまた事実だ。

桶田さんの言う通りだった。令和になってすぐ、芸人たちを取り巻く様相はあっという間に変わった。きっと僕たちが目指した新しい世代の中でのポジションは、とっくに誰かに取られてしまっただろう。

お笑いだけではない。表現するコンテンツはコロナと言う情勢も相まって、急速に可能性を拡大、変容していっている。

今回のプロジェクト、とても難しいプロジェクトに間違いない。でも、この新しい時代に、新しい作品に(スーパー鬼クソ雑魚なりに)参加できることが楽しくて仕方ない。

このプロジェクトを見た桶田さんにいつかお会いした時。

「まあ、良かったんじゃない?」

そうやって言ってもらえるだろうか。

そしてその隣に、夢で見た時のようにニコニコ笑っている渚さんがいたら。

きっと僕は泣いてしまうだろうな。


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