「毎日を大事に生きる。」
現在
一日中キーボードを叩いていたが、仕事はしなかった。想像していた以上に経理の仕事は難しくなく、午前中には割り当てられた仕事が終わってしまい、パソコンに向き合う私の午後は無気力だった。いくつもの転職サイトに登録したものの書類選考で落ちることを繰り返し、転職活動に疲れた私は仕方なく勧められただけの仕事に就いた。いつまでもお金がない生活などする余裕はなく、それ以外に選択肢はなかった。こんなはずではなかったと思うことが多くなった。若い頃は誘われる仕事に手を挙げるだけで済んだが、もう手を挙げる自信さえなくなった。
過去
進路については自分に合っている事柄を選んでこず間違ってばかりだった。祖父も父も叔父も同じ商業高校に進み、大人になった彼らは皆それぞれが商売をして自立した道を歩んでこられた。私は明確な意思もなく工業高校に進み、微塵も興味のない機械科目について学んだが、その知識や技能を活かした仕事に就いたことはなく、今更簿記検定を受けようとしている。そこで築いた友人関係と部活に打ち込み上京できたことだけが、その高校に進んだことに意味を持たせたのだった。大した知識も技能も夢もなかったが、上京すれば何とでもなると思い、高校に届いた求人票で所在地が首都圏の企業を選んだ。私以外の同級生は半数が県内、残りが県外への就職を希望していたが首都圏の企業を選んだのは私だけで、就職してからは文字通り我武者羅に働いた。給与をもらい、飯を食い、遊びたいときにただやりたいことをした。会社にはやりたいことなどなくただ働いている同期ばかりだったが、彼らは現在も同じ場所で働き、年賀状を見れば家庭を築いたことが分かる。上京すれば何とでもなると思った私だ、他にもできることがあると7年居たところを辞めるのは私くらいだった。それからは趣味や興味に任せたお金の稼ぎ方ができないかと考えたりしたが簡単ではなく、先ず派遣サイトに登録して色んな業種職種の仕事をやってみることにした。同じ場所で働き続けようと思える仕事があったが結果的には辞めた。
他人事
仕事をしているとき、飯を食うとき、遊んでいるとき、私の体が私のものでないような感覚がある。私の体が実際にしている動きに気持ちが乗っていないような、簡単に言えば他人事のような感覚だ。それが結果的に楽しかろうと、悲しかろうと、腹立たしかろうとどうでもいい、どうなってしまってもいいことであり、私のことではないことのように思えたのだ。そう思い始めてから私はなぜ生きているのだろうと考えるようになったところ、想像だったのか夢だったのか考えてしまった。固定できるまで繰り返し確認したそれが、天井にぶら下がり私を待っているように見えたとき、それ以上体が進まず手も届かない、というより伸ばさせないという誰かの意思を感じるのだ。それは明確に家族であり友人であり自分の嫁になる人だった。後に「生かされている」という言葉を知ったとき、失くしたくないものに囲まれている人間が発した言葉だろうと思った。けれど不思議と理解できたことから、私もそんな人間なのかと思えた。
郷愁
就職して直ぐは数か月に一度帰っていたが、現在では何年かに一度。特に帰省する理由もないと思っていた。ただ帰って誰かに会い昔を思い出したとき「地元で余生を過ごしてもいい」と思ってしまう。生まれた地でなら死んでもいいと思っていまう。郷愁の思いみたいなものを感じるまでにはならないだろうし、私の人生はもっと短いものだと思っていたし、どこかで死んでいたかも知れない瞬間は人生に幾つもあっただろうに、気付けば何十年も生きている。あの日、定期的に祖父の様子を見ている叔父から連絡があった。祖父は2日前に倒れ病院に運ばれ、もう長くないかも知れないということだったが、連絡があって数時間後には訃報を聞いた。
祖父
規則正しい生活をする人だった。朝は何キロも散歩に行き、庭を掃き洗濯をし、仏壇に手を合わし写経をし、好きなテレビを見て夜はビールを少し飲むくらいの毎日を過ごしていた。日曜日には車で私を迎えに来て、連れてきた熱い温泉に私を浸からせた。いつまでも牛肉のステーキやフランスパンを食べていたし、腰が曲がった姿を見たことがない。ご飯と汁物とお漬けもんでもあれば生きていけるだとか、100円でもいいから貯金をしなさいだとか言われた記憶がある。お酒を飲み過ぎるなくらいは言っていたかも知れないが、成人したときにはビールを贈ってくれた。色んな記憶と、成人式前にズボンを締めるために借りたベルトだけが形見のようになってしまった。何か大きなことを成し遂げなさいというようなことは言わなかった。私に対して何か夢を持ってくれていたかも知れないが、その背中が言ってくれていたのだ。当たり前の毎日を大事にしなさいと。生きるために生きているのだと気付いた。
どうとでも生きていける。私はまだ生きている。ただ生きるのみなんだ。