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雲の海

ベルデ・コロールは疲れ果てていた。

自宅玄関に入った一歩目で箒を立て、二歩目で魔女帽子を引っ掛けて、三歩と四歩の合間にパンプスを脱ぎ捨てる。

シワにならないよう、ローブの扱いだけは丁重に。裏地は今年流行のラベンダーカラー。ちらりと目に入るだけでも多少心が穏やかになる、ベルデのお気に入りだ。

ウィッチ・クラフトとファッションを両立するデザイナーとして、会社勤めを始めて四年。新人ともベテランともつかないベルデからすれば、初めて単独でプロジェクトを乗り越えたこの一週間は過酷の一言につきた。

もはや自宅でこうやって一息つけるのも久しぶりのように思える。できることならアルコールでも摂りたいところだったが、もう十時を越えているので食事をするのも気がひける。

そも、次の日には後悔することになるのだ。ベルデは明日の自分に呪われるようなことはしない主義だった。

そう思うと一刻も早く眠ってしまいたいものだが、体は疲れ切っているのに頭だけが冴えている。棺桶ベッドでもあればよかったのだが、あれが発売された頃のベルデはまだ新入社員で、懐に余裕がなかった。

──事故こそ起こっているものの、人気商品だったのだからそろそろ新作を出しても良さそうなのに。

ハァ、とため息をつくと、ベルデは周りを見る。

眠れないときのために作り置いていた魔法薬は、一週間で使い切ってしまった。今から作るような気力はないし、使い捨ての温感アイマスクもストックがない。

代わりに、買ったきり放っておいたままになっていたバスボムがあった。

箱の裏に書かれた説明を読みながら、ユニットバスへ向かう。

住居選びの際は少し小さいと思っていたのだが、今はこのコンパクトさがありがたい。杖を一振りすればすぐに清潔さを取り戻すし、湯を張るのにも時間はかからない。

手早く服を脱いで洗濯機に放り込む。魔法の発動は明日の自分に任せ、ベルデは再びユニットバスへ。湯が溜まる前に体を清めると、早速バスボムの包装を剥がす。

乳白色の球体は思ったよりも滑らかで、粉っぽさは少しもない。鼻を近づければ分かる程度の、ほのかなラベンダーの香りがする。

まだ湯を入れている途中の浴槽へ沈めれば、にわかに泡が立ち始める。細かく白い泡が湯面を埋め尽くす様は、確かにパッケージに書かれた通りの「雲の海」を思わせる。

丁度いい深さになったところで蛇口をひねり、湯を止める。少し膝を曲げて座れば、泡が鎖骨の辺りに触れるくらいだった。

天井を見上げると、ミントグリーンのタイルではなく、濃紺の夜空と銀色の月があった。バスボムに内蔵された幻影魔術が、夜の雲海を映し出しているのだ。

少し高めの水温に暖められて、ベルデのこわばった神経もほぐれるようだった。指を組んで腕を上に伸ばせば、頭もようやく眠気を受け入れてくれる。

ふわりとあくびを一つ。後はバスボムの包装で強調されていた注意書きの通り、湯船で眠らないように注意するだけだった。




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射月アキラ
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