たけのこメモワール

 「なんでいつも名前が書き換えてあるんですか?ちゃんと書くのに」
「え?どうして?これで正しいじゃない」
「いいえ、私はいつも『サルエ』ってマークするのに、必ず『サナエ』になって返ってくる」
「当然でしょ。模試は遊びじゃないんだから。それより毎回訂正する人の手間を考えなさい。もうこれからはやめなさいよ」
 予備校で早慶クラスを受け持っていた時、小柄で可愛らしい顔立ちの彼女はお猿の真似や、手足をバタバタと使って何かしらふざけるのが常だった。
私は一切笑わないのに、彼女は2人連れで毎日のように私に会いに来ていた。不在時に対応してくれたある先輩チューター(クラス担任)が
「あの子だけは対処の仕方がわからない。どうしてあなたの話は聴くの?」
「簡単ですよ。ふざけても一切付き合わない。それだけです。そしたら、いつの間にか友達の横で大人しく話を聴いてます。本気で相談したい子がいるのに、時間が勿体無いでしょ」
「なるほど。早慶クラスにもあんな子がいるんだね」
「フフっあの子はうちのトップですよ」
「えーっ」
「前回の模試では全国一位でした」
「…」
 優秀な彼女は元々相談なんて何もない。どうかして難攻不落の私を笑わそうとしてるだけ。
 ある日クラスの男子が
「僕、次にどこの教室に行くのかわかりません」と尋ねに来た。
「だって、自分の時間割でしょ?わからないの?午前中は受講できたの?」
「はい、受けました」
「あっそう。それは良かったね。じゃあ見てあげるけど、なんでさっきまではわかって、午後はわからないんだろ。変な子ねぇ」
「すみません」
「まぁいいけど。はい、次は203教室よ。明日はちゃんとしなさいね」
「はい、ありがとうございました」
そそくさと彼は帰った。
しばらくして、カウンターに来たサルエちゃん達は
「さっき、H君が教室聴きに来たでしょ。」
「うん、そうだけど、なんで知ってるの?」
「私たちみんなで、あの壁の向こうに隠れて見てたんですよ。で、チューターになんて言われたか聞いたんです。そしたら『俺、変な子って言われた』ってめっちゃ嬉しそうでした」
「もう、私は忙しいの!あんたたちの遊びに私を巻き込まないでっ」
「へへっちょっとホワイトボード見てください」
「うん?あっ」
各チューターの予定を記入するホワイトボード。私の氏名の箇所が妙に字数が多い。
泰子の前に『光』を挿入して『光泰子』になっている。男子生徒の名前が『光泰』で、同じ『泰』の字があるから、名前を合体させて書いたらしい。いつ気づくか訂正するかをずっと待っていたが、焦ったくなってとうとう今になった。
「はいはい。もう、こんなことばっかりして。暇なら自習室に行って勉強しなさい」
「はーい」
笑わせるのが無理ならどんな反応をするのか。時には歌謡曲の歌詞を予備校生の心情に書き換え、見事な替え歌を作ってカウンターにそっと置いてあったりした。
 予備校の1年は飛ぶような勢いで過ぎて行く。いつも季節を先取りするからだろうか。
面談は12月までに3回する。そのうち個人面談は5月のみ。夏の講習会の前に前半の仕上げに親御さんを交えて行う。
 成績がトップで安定しているサルエちゃんの三者面談はもちろん短時間で終了予定。サルエちゃんと同行したお母さんが前に立ったタイミングで
「はじめまして、クラス担任をさせていただいてます」
「はじめまして、いつもうちの小猿がお世話になってます。ボスザルでーす」
そして二人して顔を突き出しお猿顔で
「キィキィキィ」
これには場所柄もわきまえず、ついに大爆笑してしまった。強い遺伝子についに私が陥落した瞬間だった。
 この年の生徒には個性派が多く、他にもたくさんのエピソードがある。
『面談』というと私もそうだったけれど、生徒は何かしら構えるもの。チューターとの顔合わせも兼ねた個人面談が5月にあり、もちろん全員することが前提の大事な面談。
 ある日三人の男子生徒が私を訪ねて来た。
「面談のことで来ました」
「あ、都合が悪いの?別の日にしようか?」
「いえ、多分どの日も都合は悪いと思います」
「うん?どういうこと?」
「僕らには面談は必要ないからです。でもすっぽかすのは、人として失礼じゃないすか。だから、こうやって断りに来ました。」
「あら、そうなの。失礼なのはちゃんとわかっているのね。」
「当然じゃないすか。僕らは高校の先生から『グッドボウイ』と言われてるんですよ」
「フフっそうなの。確かにね。三人ともよく一緒に来たね。じゃあ、今から一人ずつ面談しようね」
「はあ?」
「私もちょうど良いのよ今。別にあの日程じゃなくたって良いんだから。さ、あっちに行くよ、みんな」
「えーなんか俺たち何のために来たのか。」
お互いに顔を見合わせながら、私の後ろからついてきた。そしてその日からその子達は何かに付けて、チューター室に来るようになった。
「あのチューターどうにかなりませんか?」
「え?どうしたの?」
「なんか僕たちを目の敵にして。こないだなんか下駄でくるな!って。別に何を履いたって僕達の自由じゃないすか!感じわる〜。いっつも僕たちを見かけたらなんか言ってやろうと構えるんすよ。あんな大人にはなりたくないよなぁ」
「どうして下駄を注意されたか、理由は尋ねたの?」
「廊下に傷が付くからでしょ」
「そうじゃなくて、音がうるさいからよ。授業中や自習中に無神経に三人の下駄の音がしたら気になるでしょ。あなた達だってわかるでしょ?」
「ああ。それならそうと言えば良いったい。なぁ」
「別に目の敵になんかしてないって、ね。あんた達もあんまり構えないで、いい?」
「わかりました」
 そう機嫌を直して帰ってくれたと思ったら、あの子達がいう『あのチューター』が私のところに勢い込んで
「ねえ、あの子達どうにかならんの?なんか僕には反抗的でさぁ。注意してもダメなんよね」
四十前のベテランチューターが十九歳の生徒と同じことを言うのが内心愉快だった。
「そのことならたった今説明したから大丈夫です。なんか誤解があったみたいで」
どうも男同士は平行線になるとややこしい。その後もうちのクラスの個性派たちは何かと目立って、
「また、あのクラスか」
と言われたけれど、私はどの子も悪気がないのはわかっているので、(またやってくれたな)と笑って見過ごしていた。
 予備校は大学関連の情報が何より大切。なので時期に応じて分厚い本を何度も配布する。
1クラスが百人前後なので、限られた時間に配布し終えるのは結構重労働。でもあの個性派くん達は必ず手伝いに席を立ってきてくれる。男の子達がしてくれるとあっという間に終わるので、本当にいつも助かっていた。
 その子達の中心の子は、垢抜けたいわゆるジャニーズ系の細身のイケメン君だった。
「今度の3者面談、母親が来るんですけど、コロコロ転がってきますから。びっくりしないください」
さて面談当日、前の生徒の記録を書いていたら、ニコニコ機嫌の良い顔してそのイケメン君は入ってきた。大なり小なり面談は緊張するものなのに、まだ呼んでもいないのに入室して、例のお母さんはどうやら後ろにいる気配。
「はじめまして、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。ねえチューター、どうしてこの子はこんな成績しか取れないんでしょうか?」
「なん、それ」とイケメン君が反撃にでたかと思うと、ガッタンと大きな音がして、向かい合わせに並べた机が大きく歪んだ。
「机とか蹴らんでよ。信じられん、この人。面談中に机蹴ったりする?ふつう。ね、チューター僕が言ったとおりでしょ」
「(笑)お母さん、成績の話は後でしっかりしますが、彼はいつも配布物を手伝ってくれてとても助かっているんですよ」
「まあ、そうですか。この子がね」
そう不思議そうにまじまじと我が子を見るお母さんはまるで小錦関がパンチパーマをかけて、豪華なおしゃれをしているような方だった。(コロコロ転がって)と言っていたのを思い出して納得。
 特に問題もなく面談を終えたある日のこと。イケメン君のお母さんから電話があり、息子を電話口まで呼んで欲しいとのこと。授業のない時間帯で居場所はすぐに特定できない。でも友達の多い彼を探すのは案外楽だった。自習室に入り私が誰かを探していると感じた生徒が
「誰か探してるんですか?」
「うん、T君。見かけたらすぐにチューター室に来るように言ってくれない」
「わかりました」
チューター室に戻り、お母さんにとりあえず電話しようと思った時
「なんですか?」にこやかなイケメン君が現れた。
「あ、良かった。早かったね。あのこから聴いたの?」
「まぁ、いろんな奴からです」
「あそう、お母さんから電話でね。すぐにかけてあげて。この電話使って良いから」
「えーそんなら来るんじゃなかった。みんなチューターが僕を探してるって言うから来たのに」
「まぁ、そう言わずに。さぁ」
「はい」
「あんた、そこでなんしようとっ!家庭教師の先生がさっきからまっとうとに!はよ帰ってこんね!」
大きな声だから全部筒抜け。
「はい、わかりました。今から急いで帰ります」
(予備校に家庭教師。すごいなぁ)
 3月には悲喜交々に生徒達を送り出していた。あの個性派君達もその年の春には、それぞれ大学の門を無事通過した。夏にはいつも大学生になった子達が元気な姿で遊びに来てくれるのが、何より嬉しい。ただチューターにとって8月は夏の3者面談も終わり、最も余裕がある月で、思い思いに休暇が取れる時期でもある。その年の夏も飛び石のように休みを組んでいた。出勤したある日先輩から
「何度も訪ねて来た子がいたよ。いっつもあなたが丁度休みの日でね。O君ていう男子生徒。これを渡してって」
それはレンタルビデオ店の割引券だった。彼のお父さんは多くのビルを持ち、そのうちの一つに入っているテナントのチケットだった。
何回も来てくれたんだ。私も会いたかったし、電話することにした。
「あ、O君、お久しぶり。何度も来てくれたんだってね。ごめんね。8月だけこんな感じなのよ。良かったらまた寄ってくれない?」
「あのチケットもらいました?」
「うん、ありがとう。あのビルには時々行くから今度使うね」
「あ、それならもう良いです。まぁついでがあったから行っただけですから」
「そっか。で、元気にしてる?大学はどう?楽しい?」
「まぁまぁですね。楽しいかって言えば予備校の方が楽しかったすね」
「時々同じ話聞くね。充実していたのは予備校の方だって。でもこれからじゃない大学生の醍醐味って。夏休みが無理そうなら、冬休みに今度顔見せてよ」
「そうすね。わかりました。覚えてたらよります。へへ」
「うん、待ってるね。でも声を聞けて良かった。じゃあね」
「はい、失礼します」
あの頃からちょっと斜に構えた感じの子で、得意の英語の配点の高い東京の私大に進学していた。
 その年の推薦入試も終わり、受験校も決定して、いよいよ受験勉強も終盤の師走の末、二浪の生徒がカウンターに来た。
「小論の添削を貰いにきたの?」
「それもありますけど、あの。Oのこと知ってます?」
「O君?知ってるって。大学でしょ?」
「あいつ死んだんですよ」
「え?またぁそんなこと冗談でも言うもんじゃないでしょ。」
「いえ、ホントです。あいつ病気で死んだんですよ。」
「え?まさか…」
「クリスマスイヴにあいつ…」
「ええ?…本当に?」
「はい。とにかくチューターに知らせなきゃって思って。葬式あるし。結構辛い病気だったらしいです。あいつは3兄弟なんですけど、妹がもうやっぱり病気でいなくて。あとは来年卒業の弟だけです。」
「そうなのね。ご両親もお辛いでしょうね。わかった。ありがとう、知らせてくれて。」
翌日、大学生になったあのイケメン君もO君のことでカウンターに来た。
「あいつ、今年の夏何度もここに来たこと知ってますか?」
「うん、会えなかったから、電話で話したのよ」
「話せたんすか。良かった。あいつチューターに会いたがってたから。声だけでも聴けたんなら良かった」
「ご家族もこれからクリスマスが来るたびお辛くなるね」
「そうっすね。まぁあいつらしいんじゃないすか。絶対に命日を思い出してもらえるじゃないですか」
「うん、そう思うしかないかもね。」
お葬式にはもちろん参列するつもりでいた。しかし私の母の心臓の調子があまりよくなくて、検査の日が重なってしまっていた。
 お葬式の翌日、知らせてくれた生徒が来た。あの時と明らかに眼差しが違う。
「来ませんでしたね。俺待ってたんすよ、ずっと。きっと来てくれるって。来たのは別のチューターでした」
「ごめんね。せっかく知らせてくれたのに。行くつもりだったのよ、本当に。でもね母の病院に付き添わなきゃいけなくて。心臓の調子が良くなくてね」
「そうすか。ですよね。生きてるものの方が大事ってことですよね。よくわかりました」
「そんなふうに言われると辛いんだけど。行けなかったのは事実だから、どう言われても仕方ないか」
それからその生徒はカウンターには来なくなった。裏切られたような気がしたのだろう。彼は結局専門学校に進んだようだった。
私が知らせた参列したチューターが、お香典返しの品を無造作に私の机の引き出しに突っ込んであった。
 年が明け、センター試験が始まり、私大の本番も次々に行われていく。毎年のことでもいつも新鮮なドキドキや喜び、そして気持ちの切り替えが必要な早春。中には20校受験しても全滅の子がいるからだ。気落ちしている生徒の心を引っ張り上げ、願書を準備し前へ前へと背中を押す。
 そして、新しい年度の生徒を迎える準備へと私達の仕事もシフトする。4月に実施するクラス分けの試験の受付をしている時、
「こんにちは」
うん?と顔を上げた。見覚えのある顔がにっこり笑っていた。
「O君?」
「はい、弟です」
「やっぱりそうよね。背はずっと君の方が高いけど、よく似てるね。お兄さんのこと大変だったね、私もびっくりして。去年の夏に来てくれたのに会えなくて。電話で話したのが最期になったのよ」
「そうだったんですか。もう僕一人なんで。頑張ろうと思ってます」
「うん、そうね。私のクラスになるかどうかはわからないけど、いつでも何か相談したいことがあればカウンターに来たらいいよ。私にできることがあれば何でもするからね」
「はい、ありがとうございます。チューターのこと兄貴から聞いてます」
弟君に浪人生の陰はなく、明るい笑顔でそう言われて私は少し救われたような気がした。その日偶然受付をしていて良かった。いやもしかして、O君が引き合わせてくれたのかもしれないとも思った。
弟、妹共に相談に乗ることはそれまでもよくあることで、時にはウチの受講生でない受験生の相談に乗ることさえあった。
 その日カウンターで数人の生徒の相談に乗りながら、楽しい会話で時間が過ぎていた。その後私は別室に資料の閲覧のため席を一時間半ほどはずし、席に戻った次の瞬間
「あのぅちょっと良いですか?」
「うん、いいよ。なに?」
「私、福大に行きたいんですけど。今の偏差値じゃあ難しいですか?」
「あなたは西南・福大クラス?あなたのクラスのチューターには相談してみた?」
「いいえ、私はさっきからずっとここで見てました」
(見てた?)
そう言えば、この女の子さっき生徒達と話していた時に後ろにしゃがんでいたような気がする。見ていたのはあの時みんなと笑っていた光景を見てたってことか。
「あなた、もしかしてここに在籍してないのかな?」
「はい、広島から来てこっちで一人暮らしをしてます」
「一人暮らしなのね。できれば地元で受験勉強した方が良いと思うわよ。勉強以前に女の子が一人って、危ないしね。精神的にも辛いと思うよ」
「はい、確かにストレスのせいか、私自傷癖があって。ここまだ治ってないですよ」
そう言って私に見せた彼女の手の甲にはカッターでスーッと切った痕がたくさん残っていた。
「ほんとね。今のうちに実家に帰った方がいいわよ。食事はちゃんとできてるの?」
「過食症と拒食症を繰り返してます」
「そんな状態では受験勉強は無理よ。今すぐご両親に迎えに来てもらいなさい。いい?必ず連絡しなきゃダメよ。偏差値のことより健康を取り戻すのが先でしょ」
「でも私は福大に行きたいんです。これ模試の成績見てください。今からでも合格できますか?」
「偏差値だけの話で言えば、合格できないことはない。でもね、受験生はみんな入試まで勉強をし続けるの。だから水準はどんどん上がっていくの。ずっとあなたが同じように勉強したとしても今の偏差値をやっとキープできるだけなのよ。今より偏差値を伸ばすには、もっと努力が必要ってこと。わかる?でも現状では難しいと思う。それはあなたのせいではなくて、環境のせいだから。まず、それを改善するのが先決でしょ」
「うん、なるほど。わかりました。考えてみます」
「考えるなんて言わないで、とにかく早く行動に移しなさい」
「はっはい、そうします」
浪人をしていると精神的に不安定になる子ももちろんいる。
みんながサルエちゃんやイケメン君達のようにマイペースに過ごせるわけではない。宅浪は言うまでもなく、予備校に在籍していても思うようにクラスメートと同じように成績が上がらず、繊細な心が悲鳴を上げることがある。
そんな時どう対処したら良いのか。
私は『気にしてないようにしながら、気にする』ことにしていた。
「解答用紙に書いていたら、シャープペンシルの芯みたいのが斜めにスースーと見えてくるんです。そして、頭が痛くなって」
「そうなの、それは困るよね。集中するとそうなるのかな?」
「ていうか、緊張するとって感じです」
「なら、緊張をほぐす方法がわかれば、解決するかもしれないね。あんまり深刻に考えないで。ほら、お腹が痛くなる人がいるでしょ。それと似ているのかもね。私探してみるから、その方法を。ちょっと時間をちょうだいね」
数日後、カウンターに来たK君に『東洋の印を結ぶ』という指の組み方を紹介した。回答用紙が目の前に来た時に、『開始』の前のほんの数十秒の間、これをすると心が落ち着くらしい。私も試しにしてみて何となく緊張がその組んだ指の方に移って、気持ちが落ち着くような気がしたので、K君に紹介することにした。
「ありがとうございます、やってみます」
次の模試の当日、教室の窓からはK君は見えなかった。でも私からそのことを聞くのはよめようと思った。
次の日、K君が「昨日してみました。なんかちょっと違ったような気がしました。今までと。」
「あっほんとう!良かったね。良い方に慣れれば、すぐに気持ちのコントロールができるようになるかもしれないよ」
「はい、ありがとうございました」
 たまに見覚えのない生徒が、名指しで相談に来ることがある。
(名指しってことはウチのクラスってことよね。こんな子いたかな?私の記憶違いってこともあるし、でも確認したらこの子を傷つけるし。う〜ん。会話の中から探るしかない)ってわけで顔色を変えずに探り探り会話を続ける難しさったら。
平静を装いながら頭の中はフル回転。結局ウチの生徒から聴いて私のところに来た他のクラスの生徒だった。なんてことはない。下手なボロを出さずに良かった、ホッ
 予備校の4月は一種独特。高校を卒業したばかりの(あるいは昨年卒業の)若い子達が集まる教室はまるで曇り空の重ーい空気がドスーンとみんなの顔に被さった感じ。無理もない。おそらく人生で初めての挫折を味わい、これからの1年間も保証されているわけでもない。初日のオリエンテーションではまだ担任ではないが、チューターの仕事はここからスタートすると思っていた。
 どこかシラケタ彼らの顔を活気ある受験生の表情へと少しでも血色良くしたい。そんな意識を私の心の奥から自分の眼差しに置き換え、そして心の両手を広げながら、これから有意義な時間が待っていることを言葉に換えていつも届ける。どれだけの生徒が心に刻んでくれるだろうか。もしかしたら、私の自己満足だったかもしれないけれど。それでも自分の仕事に少しでも意味を持たせることができれば上々と思っていた。
そして、クラスの割り振りが決まり、またこれから生徒達と様々な時間を共有する毎日が待っている。
 ある朝のこと🎵〜街の歌が聴こえてきて、口笛で応えていたあの頃〜🎵
 (えっ?)
昨晩超満員で大揺れのコンサート会場で、私も一緒に歌ったあの歌がなぜ今ここで聞こえるのだろう?
そう歌いながら、笑顔の彼らはカウンターに来た。
「おはようございます。ひどいじゃないすか。僕らが一生懸命勉強してるのに、チューターはコンサートに行くなんて」
「な、なんであんた達知ってるの?」
「会場整理の友達が、お前んとこのチューターきとったよ」って。
(しまった。生徒の情報網は高速で広い。さすがにちょっと気まずいか。でもここは開き直って)
「私はね、大学に入っただけじゃなくて、卒業して働いてるの。だからいいのよ」
「えーっひでー」
「なんか、ノリノリだったそうじゃないすか。黄色い服なんか着て」 
(わっそんなことまで)
「めっちゃ目立ってたって。そいつ言ってました」
(さすがに恥ずかしい…でもここは強引に)
「そ、そりゃそうよ、楽しまなきゃ。そのために行ってるんだから」
「佐野元春、そんな好きっすか?」
「昨日のギターのピック、欲しいすか?」
「えっあるの?」
「そいつが今持ってます。チューターに渡したら喜ぶぞって」
「えーわーありがとう。嬉しい!」
「そんなに嬉しいっすか。じゃあ今度持ってきます」
予備校で生徒とチューターのする会話ではないかもしれない。でも何気ないこんな会話に、生徒達との距離の無さを感じ、気恥ずかしさもありながら、実は嬉しかった。
 今日も誰かが🎵〜ジャスミンガ〜ル〜♫や、🎵〜ガラスのジェネレーション〜♫と口ずさんでは予備校の廊下ですれ違って行った。
「明日ピック持ってきます」
「ほんと?ありがとう。じゃ『約束の橋』ね、『また明日』。もうこんな時間よ。気をつけてね」
「はい『また明日』」
次の日、象牙色のピックを受け取り、大事そうになでている私を見て
「そんなに好きっすか」
とあきれたように、でもニヤッと斜めから見るその子は、ちょっと楽しそうにそう冷やかした。
 私自身が受験生だった頃、壁にお気に入りの色紙を額に入れて飾っていた。その当時よく書店で販売されていた『中村都夢さんの小人シリーズ』。
竹林でひょっこり筍の頭がのぞき、それに背中合わせに可愛い小人さんが二人、にこやかな明るい表情で寄っかかっている。筍はまっすぐグングン伸びるだろう。大学でフランス語を専攻した私にはとても好きな単語があった。それは『メモワール』という一語。女性名詞、男性名詞で意味が異なり『卒論あるいは思い出』となる。予備校でもらったたくさんの『思い出』達。そして、それをくれた生徒達には筍のようにすくすくと若い力で真っ直ぐ伸びて欲しい。やがて彼も彼女も『卒論』を書き上げ、無事卒業し大学から社会へ羽ばたくだろう。その足掛かりとなった予備校で彼らと同じ空気を吸い、叱り、笑い、喜び、時に肩を落とし、大切な節目に立ち合うことができた幸せ。
悲喜交々も丸ごとひっくるめ、感謝を込めて魅力あふれる日々にこうタイトルを付けさせてもらった。
『たけのこメモワール』

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