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武本拓也『山を見にきた』|一切の支配がない空間をうみだす身体

武本拓也さんの上演『山を見にきた』をゲーテ・インスティトゥート東京で観てきた。複数回にわたって彼の上演は観てきているのだが、今日観たところで感じたいまの感覚を言葉にしておきたいと思った。できるだけ未見の方にも読める文章で、いつか彼の上演を目にしたいと思ってもらえるように。

前提として、これからも彼の上演には多くの言葉が与えられることだろう。批評的な難解な言葉が当てられるかもしれないし、素朴な言葉にもならないような感想が置かれるかもしれない。彼の上演そのものは限りなく多様な解釈を受け入れる見方ができるものだから。でも同時にそれらどんな言葉をも寄せつけない存在がそこにある。なにを言ったとしてもどんな言葉を与えたとしても、それは「観たそのひとの眼差しの仕方」が表れるにすぎない。そのひとがどのように彼の上演を「観たい」と思っているか、ひいては彼の上演を通してどのようにこの世界を「観たい」と思っているかが、まざまざと浮き彫りにされる。それでいて彼の体は現前としてそこにありつづける。彼の上演はそうしたものだと感じている。

その前提の上で、今日の上演を観て感じたことを書き残したい。

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彼の上演は、基本的に空間を歩くこと、立ち止まること、また歩きはじめることによって成り立っている。ひと言も言葉は発しない。もちろんもっと多くのこと(音を聴くとか、目を閉ざさないとか)が彼の体のもとでは行われているわけだが、彼の体がなにを行為しているかは問題ではない。彼の体そのものが空間全域に及ぼしている影響に着目する必要がある。彼の体はまぎれもなく空間全域を変容させている、にもかかわらずそこには一切の支配がない、のである。

7年前だったろうか、NHKホールでシルヴィ・ギエムの『ボレロ』を観た。学生席で4階最後列の端っこだった。彼女の踊りは圧巻で、ただその踊りは終わったときに最も強烈な印象を残した。ボレロの楽曲のクライマックスの高まりと共にギエムが踊り終えて暗転し、その一瞬あとに明転してカーテンコールが行われたそのとき、気づいたのだ。いままで彼女の踊りにじぶんの意識も身体もすべてが支配されていたと。そして支配されるとは、支配されているそのときには気づかない、解放されてはじめて被支配下にあったことに気づくのだ、と。

武本さんの上演はこのギエムの踊りの体験とはまったく異なる、どこまでも「わたし」が支配されることのない空間を生み出している。
空間を変容させるという意味においては、たしかに両者とも上演の最中に異様な別空間を生じさせる(能の上演の際の、空間の変容の仕方にも通じる)。立ち現れる空間がそれぞれどのように違うのかは説明がつかないが、媒介となる「体」が違うということだけはわかる。
武本さんの上演の「体」は、支配とは到底結びつかない脆さを有しているのである。ギエムの体が強く、武本さんの体が弱いというような話ではない。彼の上演はむしろこの点でほかの誰にも比較されることなく傑出している。

彼の上演の「体」は支配を生み出さない。身ひとつで観客たちの視線を一身に受け、無防備なままにその身がさらされる。それでいて受け身なだけではない、彼の「体」を媒介とした空間の変容が起こる。このような言い方を本人は望まないかもしれないが、いわば「依代」となる。なにかを降ろしてくるような依代ではなく、その空間における眼差しの権力性、言説の啓蒙性、身体の支配性を無化する、うつわとしての存在がただそこに立っている。歩いている。

みる/みられるを超えた関係性が彼の上演の空間には生じており、眼差しは権力性を有しない。彼の上演を語り解釈する多々の言説はすべて(この文章も例外ではなく)その書き手の世界の見方にすぎないことが、彼の「体」を前に明らかであり啓蒙はなされない。そして「男性の体」という、支配してきた側の者たちの業と歴史を受け継いでいる物理的な肉体存在にたいするアンチテーゼが現れる。

上演時の彼のような、こんな「体」のありようが「男性の体」としてでも存在しうると眼前に突きつけられるとき、多くのことは見直される必要がうまれるだろう。支配する/されるの二元論ではない時代がやってくる、もう目の前にも。

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