日記_220130

今日のコムドットの動画、好きだったな。

自分たちが吃音のメンバーや色盲のメンバーをそれぞれイジっても、それは吃音とか色盲みたいなハンデで悩む人みんなをイジっているわけではなくて、ハンデがあってもこれだけ明るく振る舞えるし、理解してくれる友達はいるって希望を与えていきたい……という趣旨の話を、まさにそのハンデ持ちの二人がしていたのがとても良かった。

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このイジりは自分たちの関係性ありきのもので、みんなに他人のハンデをイジっていいなんてメッセージを発信しているわけではない、という線の引き方が私はとても好きだ。


声の大きい繊細な人のお気持ちに配慮しすぎる「やさしくてきれいな社会」を、たぶん私はちょっと息苦しく感じていて。誰かの好きなものは絶対に誰かの嫌いなもので、誰かを救う言葉は常に誰一人絶望させない言葉ではあり得ないと思っている。直接的に誰かを傷つけることが面白さではないけれど、誰かが面白いと思うものはどこかで誰かを傷つけている。多分。


誰が言うかは何を言うかと同じかそれ以上に大事な要素で、私が冒頭で触れたシーンを好意的に受け止めた背景には、少なからず私がコムドットを好意的に見ていることがある。

昨年、緊急事態宣言下での飲み会で大炎上したコムドット。私が彼らのことを知ったのはその炎上よりも後で、彼らが少し大人になってからだった。

私はユーチューバーに興味がなかったおかげで、ツイッターのオタクたちが持っているコムドットに対する悪い印象も特になかった。なんとなく好きになって毎日投稿を見るようになり、もうすっかり情が湧いている。可愛くて仕方がない。

好意的に見るうちに、彼らがどのように「誤解」されていくかも何となくわかってきて。さすがにかわいそうな誤解もあれば、ちゃんとした大人を挟めば避けられるものだけれどね…と思う「誤解」もある。


話を戻して、自分がいいと思ったシーンについて、これは私が彼らを好きだから好きだと言えるシーンかも、とわざわざ言い訳するのにも理由がある。半年かけて彼らの「誤解」の作り方、作られ方を見てきたのもそうだけれど、特に最近、彼らを親の仇のように嫌っている人の熱量に最近衝撃を受けたこと。

「奥さんと外に出たときに微笑ましいって思ってもらえたら嬉しいよね。俺って絶対そう思ってもらえないから、将来は海外に行くんだけど」

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まだ23歳で、自分の会社で働く友達の人生も背負って、ハンデ持ちの自分が明るく振る舞う姿で同じような人に勇気を与えたいと語って、でも自分の言葉や正義がまっすぐ伝わらない人がいることも自覚していて。幼気で可愛い。

動画上のコムドットって、外部の社会人のことを「大人」と呼ぶところとか、幼さというかイタさは目立つけれど、それを差し引いたり含めたりしてもまあまっすぐで可愛い。レッドブルとPCを撮って深夜に働いてるアピールとか、新卒みんなするでしょ。終電後の帰宅をインスタのストーリーにあげた頃もあったでしょう。私から見た彼らってその感じだ。実年齢もそうだし。可愛くない?寝てないアピールが激しい大学生や新社会人。コムドットってそれなの。

何の話だっけ。

そう。彼らの1月30日の動画を見て、メンバーの色盲や吃音をネタにするのは自分たちの関係性ありきのことで、世間に対して他人のハンデをイジっていいというメッセージを発信しているわけではない、という線の引き方が好きだと思った。同時に、同じ言葉を無責任な言い訳だとか屁理屈だと断ずることは、少しの悪意や敏感ささえあればとても簡単だとも感じる。

それでも私は彼らの、自分たちの言動の意図を幼くも拙くもまっすぐ表現する不器用さとか、皆の受け取り方は知らんけど発信側としてはこうだよって割り切る器用さとか、好きだなあっていう話でした。それだけ。このシーン好きだなって切り取ると私の意図と違う見方をされることもあるかなと思ったらこんな長い日記になってしまったけれど、結論としてはコムドット幼気で可愛いよっていう話です。おやすみなさい。よっぱらっぴ。さやかでした


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