BUMPのスタジオライブ配信後記
ライブがなくても数年くらい我慢できるって、そう思ってた。
実際にそうだった。開催されたライブに行かないのは、胃が痛くなるほど辛いだろうけど、幸いにしてBUMPはライブ自体を開催しなかったから。
生歌が聞こえなくても、BUMPに会えなくても、私は大丈夫。
配信された曲は余さず聞いたし、彼らの曲を口ずさまなかった日はなかったし、ちゃんと大好きだから大丈夫。
藤くんがくれた曲は、いつだって側にいるし、なくなることはない。
事態が落ち着けば、また幸せな気持ちでライブに行こうって思ってた。
それまでは大丈夫、我慢できる。
それで、今回のSilver Jubileeだ。
今、見終わってすぐ、泣きながらこれを書いている。
私にとってBUMP OF CHICKENというバンドは祈りだ。
こんなことを言うと、またBUMP信者と笑われるかもしれないけれど、これだけはどうしようもない事実なので、臆さずに口にしたい。
本当に、祈りなのだ。
BUMPというバンドを通して、私はこの世界の優しさを信じている。
藤くんが「大丈夫だ」と歌うから、きっと大丈夫なのだと信じられる。
そしてライブで肩を寄り合わせた誰かが、隣で力強く拳を振り上げた誰かが、どこかでありがとうと声を張り上げた誰かが、突然泣き崩れた誰かが、微動だにせず藤くんの歌声に耳を澄ませる誰かが、この世界のどこかで生きているのだと知っているから、どだけ辛くても、どれだけしんどくても、今日も1日生きていこうと思える。
世の中は辛くて悲しいことばかりだけど、そんな世界のどこかで私と同じように、BUMPの曲に心動かされている誰かがいるのなら、その人の存在を信じて頑張ってみようと、そう思いながら暮らしてきた。
そんな人たちが、同じURL、同じハッシュタグの元で一堂に会しているのは奇跡のような時間だった。
そして、BUMPはBUMPのままで、やっぱり奏でている彼らを目にしてしまうと、どうにもこうにも心が動いて決壊してしまう。
やっぱり会えてよかった。
ライブ配信を見られてよかった。
柔らかな誰かが、生きていることが分かってよかった。
そう思いながら画面に向き合って、配信を見終えた今、私はどうしようもないもどかしさを抱えている。
突き上げた拳が、振り返した手が、返事がBUMPに届かない。
それが今、どうにもこうにももどかしくてたまらない。
私たちは画面越しに、BUMPの今を見ることができた。でもきっと、BUMPに私たちの今は見えていない。
BUMPに私たちの歓声は聞こえただろうか?
ここにいると、振り返した手は見えているだろうか?
突き上げた拳を、ありがとうの声を、彼らにどうやって届ければいい?
車輪が運んだその先でも、私たちはずっとあなたたちの側にいるのだと、あなたたちの曲と一緒に生きているのだと、2年間会えなくたってずっとずっと好きなのだと、ちゃんと伝わっただろうか?
彼らが、それを信じてくれているだろうということは分かっている。たとえその場で見えていなくても、それを知っていてくれる人たちだ。
それでもどうしても、彼らの前に姿を現して、その眼前でその手を挙げたいと思ってしまう。ここにいると教えたい。
ちゃんとここにいる。聞いてるよ。届いてます。
声援は聞こえましたか?アンコールは届いていますか?大好きです。
会えなくても我慢できると思っていた。曲さえあれば、直に会わなくてもどうってことないと思っていた。
今は少し違う。
どうしても、無性にライブに行きたい。
彼らに会いたい。