26歳を目前にして考える「25歳永遠説」
お久しぶりです。いったんもめんでございます。
今月末でめでたく26歳を迎えるにあたり、ふと25歳であったこの一年に思いを馳せるようになりました。そこで、「25歳永遠説」を元にしながら、25歳で感じたことについて考えてみたいと思います。
ライフステージによる目線の違い
25歳といえば、ちょうど20代の真ん中です。学部を卒業し、新卒で会社に勤めれば、ちょうど3年目で仕事に慣れる頃でしょうか。大学院をを卒業した場合、1年目で社会人生活をスタートしたばかりとなりますね。
26歳を迎えようとする私にとって、25歳というのは特別な年齢のように思われます。「同じ年齢でも、人生のステージが分かれてくる」年齢であり、結婚する人や、早ければ出産している人もいます。自分の可能性を広げるために転職を考える人もいます。
学生時代においても、周りの人はそれぞれ特色ある人生を送っていました。ただ、社会人となった今ではそれぞれ人生のステージが異なることで、悩んでいることや考えていることの目線にも差がついているように思われます。
周囲の同年代は、自分と違うところで戦っており、違う悩みを持っているように思われます。頑張っている友人や知り合いを見るのは嬉しいものですが、仕事を含め、何とか日々をやり過ごしている自分を振り返ると、周囲の人々が随分と先を見ている気がして、焦りや寂しさが混ざったような気持ちになります。
理想と現実の違い
この一年間、ライフステージを順調に登っている同級生が、「もうアラサーだからさ、」と冗談交じりに笑うのを何回か見ました。その通りだな、と思う反面、少し置いて行かれたような気持ちにもなります。
社会人になって、選択の自由度が高まったと感じます。例えば収入であったり、ワークライフバランスであったり様々です。誰しもが軸を持ち、自らの判断基準で未来を選択していきます。周りの選択や決断を聞くごとに、「生きること」の解像度が上がっていくのを感じます。
置いて行かれたくなければ自分を変えればいいだけの話なのですが、考え方や、生き方を今までと変えるには多大なエネルギーを使います。表面上笑顔で誤魔化しながら、楽な方に流れたことも何度かありました。自分が怠惰に流されている中で、周りは必死に生きて、着実に人生のステージを登っていきます。
必死に生きる周囲の人々を理想として自分の現実を振り返ると、これまでの人生で感じたのとは別種の焦りや不安が募りました。
頑張ろう人生
焦りや不安が募る中、「うまくいくよ わたしなら」と言いたくなる場面がいくつかありました。今まで頑張ってきたんだからうまくいく、と前向きに自分へのエールを送る場面もあれば、どう足を踏み出せばいいのか分からず、空元気で口にする場面もありました。私で行くと空元気が多いかもしれません。
30歳まであと5年、家庭を持つかは分からないものの、自分を優先できる時間が少なくなっていくのを感じます。新たな道をいくのも、今を貫くのも自分だからこそ、空元気でもいいから、自分で取りうる選択肢を広げ、掴みとっていきたいなと感じます。
私の人生は、26歳を迎えるとともに、辞令の発令により急展開を迎えそうです。実際には永遠などというものはありませんが、「うまくいくよ わたしなら」と唱え、永遠に25歳の気持ちを忘れないまま、挑戦を続けたいものです。