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なりたがる金魚(短編小説)
他を知らないので、そしてあまりにも自分と違っているので、それが美しいのかどうか、私には少しの見当もつきませんでした。
それでも何故だか惹かれて、つい目で追わずにいられなくなるその毛並みを、私はいつもいつもガラスのこちら側から眺めていました。
彼はいつものびやかでしなやかで、仕草や行動のひとつひとつがとても優雅に見えました。
私には想像のつかないほど広い、この古びた屋敷の中を、彼はまるで自由に動き回っていました。
私はと言えば、縦も横もあっという間に終わってしまうこの狭いガラス水槽の中を、ゆらゆらゆらゆら泳ぐでも漂うでもなく、毎日毎日行ったり来たりするだけの時間を永遠に過ごしているだけだったのですから、はじめはそれはそれはあまりにも彼が羨ましく思えました。
何故彼はあんなにも自由で、私はこんなにも狭い水槽の中にいることしかできないのだろうと、いつしか私は考え始めました。
彼の体は三角の耳に細い脚が四本と、長く濃茶の毛が全身を覆っていて長い尾があるのに対し、私の体はうろこが身体中を覆い、赤や白や、光を反射しては時たま金色が光っているきりでした。
彼のように自由に地面を蹴る為の四本脚が自分にはないことを、私は心から悲しく思いました。
けれども唯一、私の尾ひれだけが彼の長い尾に似ていると知った時、私は初めて自分の体を、尾ひれを、泣きたくなるほど愛おしく思ったのです。
彼はいつも、私の側にはあまり近付こうとはしませんでした。
理由はわかりませんでしたが、私に全く興味を持っていないわけではなかったのでしょう、稀に彼が、遠くからこちらを眺めている時がありました。
彼の光る目からは何の感情も窺い知ることは出来ませんでしたし、ただじっとこちらに視線をくれているだけのように見えました。が、私にはそれだけで充分でした。
そんな夜にはきらりとする彼の瞳を思い出して、自分の体を尾ひれで包むようにして眠りました。
そうすると私は、まるで彼のような四本脚が自分に生える夢だって何度か見ることができたのです。
私自身に関する記憶は、とても曖昧なものでした。
いつから私はここで漂っているのか、それとも初めからここにいたのか。どこかへ帰る日が来るのを待っている気もしたし、自分の存在や見ているものはすべて夢なのかもしれないと思うこともありました。
そこから来るものなのか何なのか、私はここはどこか自然じゃないと、自分がここにいるのは何か不自然だと、私はいつも頭の隅でぼんやりと感じていました。
「君たち魚はどうしてずっとずっと水の中にいるの?息が出来なくて苦しくはないの」
ある日突然彼は私のすぐ側へやって来て、やはり感情はよくわからない口調で言いました。
初めて近くで見る、彼の例の光る瞳は、真っ直ぐに私を射抜きます。
「どうしてと言ったって、私はここ以外に行ったことも出たこともないんです。苦しいだなんて、思ったこともありません」
私は正直に答えました。
けれど、彼は少し困ったような、残念なような顔をして言いました。
「そんな筈はないよ。君は、何も知らないんだね。僕たちは水に何秒だって顔を沈ませていられないよ、苦しいからね。君は外へ出たことがないから、それを知らないんだ」
その彼の言葉を聞いた瞬間、私の頭は真っ白になりました。
彼は、何て頭がいいんだろう。彼は、一体私の知らないどれだけたくさんのことを知っているんだろう。
私は彼の知識にひどく感激しました。
そして、その彼がそう言うのなら、きっとそうなのだろうと思いました。
彼の言葉こそが、真実なのだろうと思いました。
私はその時初めて、一度でいいからここから出てみたいと、彼の言う苦しくはない空気を味わってみたいと、強く思いました。
彼の横で、彼と同じような呼吸をしてみたいと願いました。
「そんなに素敵なことを教えてくれて、どうもありがとう」
「……」
率直に思ったことを告げると、彼は何も言わずに眉根を寄せ、扉の向こうへと去って行ってしまいました。
その晩私ははっきりと思い当たりました。
今までどこか感じていた不自然さや違和感はきっと、彼が言った通りここが苦しいせいだったのだろうと。
考えてみれば、ずっと水の中にいるということは、やはりどうも不自然な気がしました。
彼のように、ガラス水槽の外で伸びやかにしている自分の姿を想像してみると、それは極めて自然でした。
また、それが至極当たり前のようにも思えました。
どうしてこんな簡単なことに、今まで気付きもしなかったのだろうとも思いました。
私はきっとずっと、この時を待っていたのだと思いました。
彼と同じように、このガラス水槽の外へと出る時を。
そう思うと身体中の血が沸き上がるようで、私は高揚しました。
彼の言う苦しくはない空気を想像すると、胸が高鳴りました。
幸福な予感が私を支配していました。こんなにも夜が楽しかったのは、その時が初めてで、そして最後でした。
次の日私は姿を見つけるとすぐに、彼に頼みました。
「このガラス水槽を、倒してもらえませんか」
「どうして?」
ゆっくりと近づいて来ながら、彼は尋ねます。
「ここでの呼吸が苦しいだなんて、私は知りませんでした。あなたが言うような苦しくない空気を、私も吸ってみたいんです。あなたのようにこの水槽の外に、私も出てみたいんです。私の力だけじゃ、ここからは出られないから」
「……」
今日も彼の瞳から、感情を読み取ることは出来ません。
「…押すだけでは難しそうだな。体ごとぶつかってみたら、何とかなるかもしれないけれど」
「お願いです。他に方法が思いつかないんです。…お願いです」
私は必死でした。彼の助けなしでは、私は一生このままだと思えました。それだけは嫌でした。
私はもうあまりにも長い間ずっと、この時を待っていたのです。
このガラス水槽の外に出る時をきっと、ただひたすらに待ち続けてきたのです。
そして、外へ出るなら今でなくてはなりませんでした。自分でも理由はわかりませんでしたがしきりに『今でなくては意味がない』という声が、頭の中で聞こえていたのです。
「……わかった。でもそんなことをして、君が安全な保証はできないよ。……なるべく上側に浮かんでいて」
そういうと彼は少し離れて、こちらを見つめました。
ああ。
やっとやっと、この時がやって来るのです。
私はようやく初めて、このガラス水槽の外へ、彼と同じ世界へと出られる時が来たのです。
水の外へ出て、私は彼と全く同じように苦しくはない、素敵な呼吸をすることが出来る、筈でした。
まるで、夢のように思えました。この時の私は、胸が張り裂けるかと思うほど緊張し、興奮していました。
あまりにも楽しみで楽しみで、私は他のことを考える余裕なんて、きっととうに失っていたのです。
「行くよ」
水槽に張られた水の、限りなく上側に私が浮かび上がるのを見て、彼は言いました。
「お願いします」
そう言って私は目を閉じました。
タタタ、と彼が軽やかに走る音がしてからすぐ、大きくドン、と鈍い音がしました。
続いて体に、とてつもない衝撃がありました。
音が聞こえてきたと同時に私は、水槽ごと床へと叩き付けられていました。
「大丈夫?」
少し体が濡れて毛がへたってしまった彼が、駆け寄ってきて言いました。
「なんとか、大丈夫です」
私はそう言おうとしたのに、全く声にはなりませんでした。
パクパクと口が動くだけで、息を吸うことも吐くことも出来ません。彼は不思議そうにこちらを見ています。
呼吸が出来ないのだと知るのに、しばらくの時間がかかりました。
私は初めて、呼吸が出来ないという苦しさを知りました。
同時に、それはとてつもない恐怖でした。
ガラス水槽の外は、想像していた世界とはあまりにも違いました。
体からは水分がどんどんと失われていき、全身に痛みすら覚え始めました。
どうしたらいいのか、もう冷静に考えることは出来ませんでした。
ただ苦しい苦しい痛い辛い、その言葉達が頭を巡り続けました。
彼がじっと私を見ています。
ああ、やっぱり今日も彼の美しい瞳からは、少しの感情も読み取ることは出来ません。
彼のような四本脚が欲しかった。
彼みたいに地面を優雅に歩いてみたかった。
彼と同じような、素敵な呼吸がしてみたかった。
でも結局それは、私と彼とではあまりにも何もかもが違ったのですから、はじめから到底無理な願いだったのでしょう。
涙が一筋流れました。
彼はいきなり私に顔を一際近付けると、大きく口を開けました。
何が起こったのか、私にはあまりにも一瞬ですぐにはよくわかりませんでした。
目の前が真っ暗になり、じめっとした暖かさが体を包みました。
間を置かず、ここは彼の口の中で、今から彼は私を食べるのだと理解した瞬間、私は瞬時にひどく安堵して、今まで過ごしてきた長い長い時間の中で、一番安らかで、そして穏やかな気持ちになりました。
幸福感だけが、最後に私の全てを支配していました。