タケ先生のバースデーパーティー
※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。
先日、タケ先生こと菊池武夫さんのバースデーパーティーを今年もレフェクトワールで開催していただいた。
WORLDスタッフのみなさんがどれほどタケ先生の薫陶を受けて来られたのか、どれほどタケ先生が多くのスタッフさんから慕われ、愛されているのかが毎年一目瞭然で伝わってくるこのパーティー。
そこには大きな会社にありそうな業務としてのイベント感や、やらされている感は微塵もなく、スタッフのみなさんは「今年は、どうやってタケ先生を驚かそう、どうやって喜んでもらおう」と毎年本気で準備をされる。
それにしてもバースデーパーティーとはいえ、これほど雑音や不純物が皆無で純粋な大人のパーティーというのも稀有に思える。
これがタケ先生の人徳による賜物以外の何ものでもないことは、少しでもご一緒されたり話をされたことのある方ならおわかりになるに違いない。
昨年3月、ぼくは13年振りに開催されたという渋谷ヒカリエでのタケ先生のショーにお招きいただいた。
それはそれは華やかな世界で、ぼくの知る華やかさとは別次元の華やかさだった。
最後にステージに登場され大観衆の喝采を博するタケ先生の姿を見たぼくは、いま更ながら改めて偉大な方だと認識をした。
いま更だったのは、偉大さを頭では理解していたけれど、華やかなステージに立たれているタケ先生とぼくが店でお会いする普段のタケ先生とがどうしても頭の中で繋がらなかったから。
それほど普段のタケ先生はいつも気さくで、ぼくは初対面のときからその印象に驚かされた。
傲りとは無縁の方でお会いするといつも柔和な表情で話しかけてくださり、またそれはぼくに対してだけでなくうちのスタッフに対しても同様で、その温厚篤実な人柄は相手が誰であってもそこに何ら分け隔てがない。
世の中は決して平等でなく、天は二物を与えずと習ったはずのことわざは、ぼくのような人間を慰めるためのものであって、神様は選ばれし者に二物どころか三物も四物も与えるのだという現実をタケ先生にお会いするたびに思う。
そう思うと、たまに遭遇することのある天から二物を与えられた人というのは、凡人から見れば妬みの対象にさえなりかねないけれど、タケ先生のように三物も四物も与えられた方になると年齢性別問わず愛される人になるのだと気がついた。
パーティーも終盤に差しかかった頃、この日の主役であるタケ先生はスタッフさんたちが和やかに歓談されているところを抜けられ、レジカウンターにいたぼくとスタッフのところまでやって来られた。
先生の手には財布が握られている。
「今日は、ありがとう。今のうちにお会計をしてください。ぼくが払うから。あの人たち(WORLDのスタッフさん)が払うと言うと思うけれど、払わさないで。ここは、ぼくが払うから」
ぼくは「タケ先生のお誕生日なのに、ご本人からなんていただけません」と慌てて幹事の方を呼びに行った。
これこそが華やかな舞台で多くの来場者から喝采を博していたあのタケ先生の普段の姿、それを象徴するかのようなエピソード。
あれほどの方なのに、というよりもあれほどの方だからこそなのだと思う。
ぼくがタケ先生に初めてお会いしたときの印象は、その後何度お会いしても変わらない。
「オーラというのは、その人が発するものでなく受ける側の問題」と誰かが書かれていたけれど、その通りだと思う。
そして受ける側がそう感じてしまうのは、ご本人にお会いする以前にメディアなどを通してその経歴や写真、映像、または人伝に聞く話などの情報によってイメージが形作られ、それらがオーラを生み出す要因になっているのだと思う。
考えてみれば、ぼくがこれまで実際にお会いしてきたそれぞれの業界で実績のある著名な方々は、初対面こそこちらが勝手に緊張することはあってもどの方も近寄りがたいといった雰囲気は微塵もなかったし、話してみると驚くほど気さくな方たちばかりだった。
そしてこの方たちは、気さくなだけでなくとても気配りの上手な方々というのも共通点だった。
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