東京という寂しい街
去年の9月に東京に出てきて、ちょうど1年が経った。
初めの半年はまだ学生だったため、内定先の会社で週3出社で有給インターンをしつつ、空いた時間で色々やってのんびり楽しく過ごし、今年4月には正式入社し、4月末に部署配属されてからちょうど半年が経過した。
初の東京生活。それなりにうまく楽しめている気はしているものの、正式に入社して以来、特にここ最近特に何か言語化し難い違和感を抱えながら過ごしている。
何か腑に落ちない感触がずっと続いている。
でもそれを言葉にできないまま、また土日を乗りこなし、5日間働いて、の日々を繰り返していた。
本編
就職してから半年間、一番強く抱えていたのが「孤独感」である。
これは、彼女が欲しくても中々いい人と付き合えず、どうすればいいか路頭に迷っている、みたいな簡単にイメージできるようなありふれた事象ではない。
まず、東京は人が多い。とても多い。
これほどまでに人が集まっている場所に住んだことないので尚更。人が多いと一見出会いも多く、交友関係も充実しそうな気もするが、それが大きな間違いだった。
東京は人が多い分、選択肢も多ければ、人生のパターンも多い。そして忙しい人も多い。人が多いからこそ皆それぞれの人生があるから、誰かと深く結びつくことが難しい。
例を挙げれば、自分は学生時代日本でも、留学先(ドイツ)でも、人口50万以下の地方都市で過ごしていたため、一定の友達やコミュニティができると、毎週のように会ったり遊んだりできていた。
でもそれが東京となると、それぞれが選べる交友関係や人生の選択肢が多いため、各々がそれぞれのベストを選んでいく。もちろん自分も。
そうなると、自分にとってはAさんがベストな友達と思っていても、Aさんにとっては自分は4番目、5番目の優先度である、みたいなことが生じやすい。
地方だとこれが全く生じないというわけではないのだが、比較的生じにくくはなると思う。そもそも会える友達の母数が限られていれば、その中から必然的に選ぶことになる。だから、初めは一方が相手のことをベストと思っていなくても、なんとなく会っているうちに関係性が深まり、お互いにとってのベストな相手になっていく、みたいなことは往々にして生じる。
特にドイツに留学していたときはそれをとても感じた。人口が10万人足らずのトリーアという都市に住み、大学の学部の人数は30人ほどで、加えて日本人留学生のコミュニティがあるくらいの交友関係の広さ。それは自分にとってだけの広さではなく、自分が毎週のように会っていたクラスメイトもそのサイズの交友関係で過ごしていたため、お互いにうまくニーズが取れていたのだ。
例えば、ドイツにいた頃に毎週のように会っていた日本人の友達もおり、彼は今東京に住んでいたりもするが、もちろんドイツにいた時のように毎週会うことはない。たまに会うことはあっても、またすぐ会おうとはならない。たとえ自分が望んでいたとしても。
皆それぞれの人生があるのだ。
仕事は忙しいし、もっと大事な友達もいるから。
ドイツにいる時は暇だから会っていてそれなりに楽しかったが、仕事も始まり忙しくなった今ではそうはならない、ということが起きるのである。
東京という街がそうさせる側面は大きくあるとも思うし、もう一つは、自分も含め、皆社会人になった、ということも大きい。
皆一気にこれまであった時間がなくなってしまうのだ。なんとなく意思決定をしていたこれまでとは打って変わって、週末を誰と、どう過ごすかを慎重に考えるようになる。
「本当に自分にとって大切な人とだけ時間を過ごしたい」
という考え方があるのなら
「自分にとって優先度が低い人からの誘いはもう断るしかない」
という思考を持つことは否定できない。
自分が東京でギリギリ学生だった時、学生時代気軽に会えてた友達に「また会おう」と誘うことがあった。
結果その時、これまでなかったほどその友達に白々しくされてしまい、会うことすらままならなかった。
学生の時にはあんなに気軽に会えて楽しめてたのに、なぜこんなに冷めた対応をされてしまうのか。あの時の、半年前の自分はそれが理解できなかった。正直腹立たしかった。
要は、自分にはその人と会う時間や、余裕や、希望があっても、その人にはそれが同じようにないのだ。
でも、今は正直それを理解できる気がする。
なぜなら自分もそうなってきている側面があるから。
東京で社会人をして、こんな忙しい中で、貴重な週末をこの人と会うことに使うのは…と思ってしまうことは正直否定できない。
予定を入れてしまっても、数日前になるとキャンセルしたいと思うこともずっと増えた。
勿論、心からその人に会いたくて、疲れていてもむしろ気晴らしになるくらいの関係の友達には何も考えずに会うことはできるのだが。
でも自分がそうやって大事と思っていた親友にも中々簡単に会えなくなってしまった。自分にとって魅力的に思えているということは、ある意味自分よりも上という見方もでき、彼にとっては自分よりも魅力的な友人がいて、自分に会うことは「余った時間でやること」とされている感じも伝わってきていた。それは彼らが悪いわけではなく、社会人で東京に住んでいたら起こり得ることだから、もう正直仕方ないと思う。
でも自分はどんどん孤独になっていく
そして特に今、自分にとって足りていないと感じるのは「ここに行けば自分の好きな人に会える」みたいな場所。
高校の頃は学校に行けば毎日好きな人に会えたし、大学の頃は孤独な時期もあったものの、サークルのような「各々とはそこまで強い結びつきはないのに、そこに行けば自分を受け入れてくれ、一定のつながりを感じられる」みたいな場所だったり、留学先の”人数が少ないクラス”みたいな場所があった。
でも今は圧倒的にそれがない。
会社も「リモートで自由に働ける」みたいな、学生の時に魅力的に映りがちな条件を軸に選んでしまったが故、会社に行っても人があまりいない、いたとしてもそこまで上司と会話することもない、みたいな環境になっている。同期も少ない会社のため、自分の部署には新卒は自分1人しかいないので、腹を割って悩みを話せるみたいな人は誰もいない。自分の人生と各々の人生が交わっていかない。
チームのメンバーとランチに行くような文化もないため「たわいもない会話をしたり、時に無駄な時間を過ごしたりする」という、コミュニティにおける、小さいようで大きな価値が欠如した状態になっているのだ。
時たま開催される同期との飲み会に参加することもあるが、正直同期との飲み会はうわべの話ばかりで全く深い話をできず、アプリでどうやったら多くの女性とデートできるかとか、ナンパをどうやったら上手くなれるかみたいな、いわゆる「表層」の話題がメインだった。
「正直今楽しい?」とか、そいつが内心どんなことに悩んでいて、自分も同じで…みたいなことを共有し合いたくてもできなかった。例えば、地方に配属されている同期もいたのだが、彼らには「実家も遠くて友達も周りに少ない中で、週末はどう楽しんでいる?」とかそういう話題を投げかけたいのだが、そういう雰囲気では無いから聞けなかった。むしろそういう話題は憚られているように感じた。
今となっては、同期も多い新卒一括採用をしている日系大手のような、会社の近くに社員寮があり、多少窮屈でも毎日を同期と共に過ごす、みたいな環境を持つ企業を選べばよかったのでは、と思ったりする。
でもそれは今だから気づけたことだな、とも同時に思う。
就活の時はそういった価値に気づけなかった。だから「自由か」「楽か」みたいな、学生時代の価値観で今の会社を選んだ。その選択に関しては全く後悔はしていない。
勿論、今与えられている環境以外で、自分でコミュニティを探す努力はしてみた。
上野にあるゲストハウスが運営しているバーに毎週のように通ってみたり、新宿のゴールデン街に1人で飲みに行ってみたり、近くの立ち飲み居酒屋に1人で勇気を出して行ってみたり。
でもどこに行っても、「ここに行けば自分の好きな人に会える」みたいな場所はできなかった。
行く回数が足りていない、とかもあるかもしれないが、何より同世代の日本人の友達ができなかった。逆に、外国人の友達はたくさんできた。(多くが日本への観光客のため、数週間したら帰国してしまうのだが)
外国人がそもそもそういう場に多かったり、フレンドリーであるという前提を忘れてはならないが、まず外国人は1人でそういう場に来ることが往々にしてある。勿論内向的な人もいるが。
バーなどに行っても、日本人は複数人で来ている人がほとんどのため、正直繋がるには壁がある状況がほとんどなのだ。外国人とは日を改めてご飯に行くことは何度もできたが、日本人の誰かと関係が積み上がることは、正直全くなかった。
東京には、出会う場がありそうで本当にないんだな、と何度思ったことか。
仮にあっても、金がかかるのだ。そして酒を飲まなきゃいけないのだ。(バーはその最たる例)
まず俺はお金を使うことがあまり好きじゃないことに加え、酒を飲むことも好きじゃないから、そういったコミュニティは一時的には良くても持続的ではないのだ。
誰か、金もそこまでかからず、酒も飲まなくてもクローズドなつながりを持てるコミュニティがあれば教えてほしいくらいである。(笑)
そういう意味では、福岡みたいな絶妙な地方都市の方が、クローズドなコミュニティに入りやすいという価値はあると思う。パブリックに街のお祭りの実行委員を募集していて、入ってみると意外と20代の同世代の人も多く、とても良いつながりができた、と言っていた友達もいた。東京でそういうコミュニティができるとしたら、そういうイベントなどが活気な駅の近くとかに移住するしかないように思う。要は「東京」というと広すぎるから、同じ駅とか同じ街とかではないとそういう強い繋がりはできにくい気がする。
今年の夏に、AbemaTVで放映されていた『世界の果てに、東出・ひろゆき置いてきた』という、東出昌大とひろゆきが2人で南米をバス旅するという番組が、面白くて観ていた。
そこで2人はキューバのイグアスへ訪れる。イグアスには、戦後の移民政策でパラグアイに渡った日本人と、その子孫などが850人ほど住む集落イグアス日本人移住地というものがあり、そこで日本人のいろいろな世代の人々や家族が暮らしていて、夜になると皆でご飯を作って食べたり、麻雀をしたり、違う家族の子供の面倒をみたり。とても素敵な雰囲気が流れていた。
「これだ」と思った。
こういったコミュニティにいれば豊かだろうな。そう思った。
南米という日本から遠く離れた、日本語が通じない国で、日本人がたまたま数百人集まった集落だからこそ、こういった深いつながりができるのだということ。確かにドイツにいる時は日本人留学生と深く繋がれていた側面もあるし、こういった「ある種隔離されたクローズドなコミュニティこそ真の繋がりの深さを生む」と確信した。
とはいえ「今の東京のこの環境を投げ出して、海外に行こう」そんなことはできるはずがない。自分が東京にいる理由は自分が夢を追いかけるためであったり、趣味を突き詰められたり、自分の人生上で一応一定の理由は持っているし、今すぐ逃げるリスクはある。
そして簡単に今の環境を捨てるやつは、どこに行ってもすぐに環境を軽んじて、見切ってしまうと思う。
内容的にも書いてきて疲れてきたので続きはいつか書く。多分書かない
何気ない日常の会話ができることが
どんなにか ありがたいことか