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ショートショート|「おかえり」が聞こえない家
休日の昼下がり、俺はかつての同級生とばったり出くわした。
学生時代、それほど親しかった覚えはない。何度かクラスが一緒になった程度。だが、顔を見たとたん妙に懐かしくなってしまい、思わず声をかけてしまった。
「あっ、久しぶり……」
少し高く、細い声で応じる友人。そういえば、内気な性格だったなぁ。学生時代の面影を残す彼は、少々戸惑った表情を浮かべている。
片手には、エコバッグ。パンパンに膨らんだ袋の口から、青ネギや牛乳のパックがはみ出ていた。量からして、四人家族くらいだろうか。
「買い物か? 嫁さんは別行動? すごいな」
男性も家庭に参加を、などと叫ばれはじめて久しいが、つい嫁さんに任せきりになってしまっている俺は心から関心した。料理なんて、特にダメだし。ひとりでスーパーに行ったところでどんな食材を買えばいいのか、想像もつかない。
褒められた側の彼は、相変わらず戸惑ったような笑みを浮かべている。
やはり、大して親しくもない同級生から突然声をかけられて、困っているのだろうか。独りよがりだったかもしれない。ここは早々に切り上げよう。
と、決心したところで、突然に彼が声を大きくした。
「よかったら、うち来る? すぐそこなんだ」
別れようとした途端の意外なお誘いに、逆に俺のほうが当惑してしまう。
そういえば、コロナ禍以降、他人の家に上がり込むという習慣も久しく経験していない。
少し迷ったが、お言葉に甘えることにした。
立派、とまではいかないが、きちんとした一軒家だった。
白とグレーを基調にした、落ち着いたデザインだ。
駐車場にはファミリーカー。後部座席にチャイルドシートが設置されている。
「持ち家?」
「まさか。借家だよ」
「はー。何部屋あるの?」
「そんな豪邸じゃないよ。普通の3LDK」
学生時代の彼を思い出す。グループの輪の中に入ってきても、あまり発言せず、ただいるだけ。目立たないやつだった。そんな彼も、ちゃんと家庭を築いているんだな。幸せそうで何よりだ。
などと、妙な感慨をふける俺。
彼は鍵をあけながら、玄関へと入っていく。
少し遠慮しつつ、その後ろをついていった。
「ただいまー」
彼の声が細いせいか、家族からの返事はない。
あがりかまちの手前に、子どもの靴が脱ぎ散らかされている。サイズを示す「17」の数字が、中敷きに書いてあった。まだ新しい。
その靴を揃えながら、「どうぞ、あがって」と口にして、彼は居間へと入っていく。
開け放たれたドアの向こうから、水の音が聞こえた。奥さんが、洗い物でもしているのだろうか。
「おじゃましまーす」
久々のセリフを吐きながら、俺も居間へと進んだ。
外観と同様に、白とグレーを基調としたインテリアで揃えられている。
彼以外には、誰もいない。キッチンも空っぽだ。
水道から出しっぱなしの水が、シンクに跳ね返って持続的なノイズを発している。
じゃばあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、きうぅっ。
彼が蛇口をひねり、水が止まる。
「適当に座ってよ。コーヒーでいい?」
無人空間に水が流れ続けていたことには一切触れずに、彼は訊いた。
「あ、うん。おかまいなく。奥さん、どこにいんの?」
「なんで?」
俺が言い終わるより早く、彼は質問をかぶせた。
ポットのお湯が、こぽこぽとインスタントコーヒーの粉を溶かす。
変な緊張感が、こめかみを通り抜けた。
「一応、挨拶しておこうかと思ってさ」
「いいよ、別に。座って」
妙にそっけない。
が、あまりしつこいのも失礼かと思い、俺は彼の指示に従って、ソファに腰掛けた。
壁際には木製のスツール。婦人用のファッション誌やら、絵本やらが並んでいる。
「お子さんは、何歳なの?」
彼は無言で、コーヒーをテーブルに置いた。
淹れたての蒸気が、立ち上っている。
なぜか、家族に関する質問にだけ、愛想が悪い。
疑問に思いながら、コーヒーカップに口をつける。
外見からはわからない、複雑な事情があるのかもしれない。
彼は、テーブル越しに俺と目が合う位置にあぐらをかいて、一口だけコーヒーをすすった。それから、目線をあちこちに移動させて、落ち着きなくしている。
「あ、部屋。2階の部屋、見る?」
膝を打って、彼は提案した。
てっきり思い出話にでも花を咲かせるものだと思いこんでいた俺は、思わず一瞬、返事に困ってしまう。
いや、他人の家にそこまで興味ないけど。
と、言うわけにもいかず、「ああ、じゃあ」などと曖昧な返事をしていると、彼は揚々と立ち上がり案内しはじめた。
まだ蒸気の漂うコーヒーを置いて、俺も立ち上がる。
まさしく、何の変哲もない家だった。
彼が何を見せたいのかもわからず、ただ言われるがままに、あとをついていく。
子ども部屋にはおもちゃが散乱し、やりかけの宿題が学習机に放置されていた。
赤いランドセル。女の子なのだろうか。あまり傷がついていないから、まだ低学年なのかもしれない。
もう一部屋、似たような間取りの7畳には、マイクやらカメラやら、配信用の機材がひととおり揃えられていた。
さてはこれが見せたかったのか、と思い「配信とかするの?」と探ってみるが、「いや、別に……」と興味なさげに言葉を濁されてしまう。
寝室まで見せつけられたのには閉口した。
シーツこそ乱れてはいなかったものの、ベッドの端に脱ぎ散らかされた女性もののパジャマが、妙に生々しくて目をそらした。
と、そこで妙な違和感に気づいた。
パジャマを脱ぎ散らかし、キッチンでは水を出しっぱなしにしたまま、彼の奥さんはどこへ行ったのだろう。
家中、くまなく見せられたが、どこにも姿がなかった。
彼の娘についても、だ。
おもちゃも宿題も出しっぱなしにしたまま、どこへ行ったのか。
それも、靴は玄関に脱ぎ散らかされていたはずなのに。
俺はふと思い立ち、寝室の中へ踏み込んだ。
先程までの気まずさを、不安と好奇心が上回った。
端に落ちたパジャマを手に取る。
肘のあたり、肩のあたり、へそのあたりに、きれいな折り目がついていた。
何の変哲もない女性用パジャマだ。
新品の。
「気付いた?」
声に振り返ると、彼は笑っていた。
白い歯をむき出しにして、嬉しそうに笑っていた。
「ぜーんぶ、新品。あっちのランドセルも、おもちゃも。子ども靴だって、新しかったでしょ? 車のチャイルドシートも、置いてあるだけだよ。他にも、化粧品とか、美容グッズとか、あ、スマホも3台あるけど。どれも、一回も使ってないんだ」
理解できなかった。
この家に来てからずっと感じていた違和感の正体を知ってなお、彼の行動が理解できなかった。
彼の奥さんは、洗い物の途中で姿を消したわけではない。
彼の子どもは、宿題の途中でどこかへ身を隠したわけではない。
この家には、そもそも彼以外の家族はいない。
家族が使うべき道具が、揃っているだけなのだ。
「意味が、わからない」
「何が?」
また被せるように、彼が聞き返す。
「こんなことする意味が、だよ。家族がいるふりして、必要のない服やおもちゃを買い揃えて……いったい、何がしたいんだよ」
「だって僕、もともとそういうやつじゃん」
こともなげに、彼は言い放つ。
出会い頭の、おどおどした感じは一切なくなっていた。
「グループの輪の中に入って、友だちがいる『フリ』するようなやつじゃん。久々に同級生と会って、嬉しい『フリ』するようなやつじゃん。だから、家族いる『フリ』だってするさ」
誰のために。
何のために。
問いただしたい疑問はまだ尽きなかった。
が、胸からこみ上げる奇妙な不快感が、耐えかねる域まで達している。
彼に背を向け、「帰るわ」とだけ言い残すと、俺は逃げるように彼の家を去った。
気づくと、自宅に帰り着いていた。
半ば無意識に鍵を開け、「ただいま」と口にする。妙に疲弊した声が出た。
「おかえり。遅かったじゃん」
普段通りに返ってくる妻の声。
ひょいと覗かせる、ノーメイクの顔。
当たり前の光景が、妙に嬉しくて、ほっとして。
俺は玄関に立ったまま、しばらく泣いていた。
<了>