ライターの心得/「質問状」との向き合い方
取材における「質問状」とはなにか
取材ライターであれば誰もが作成の経験がある、「質問状」「質問案」。
これ、なぜか厄介なものなんです。
以下は、編集の立場でなく、取材を依頼されたライター側からの視点になります。
そもそも質問状とは、取材相手に対して、実際の取材に先んじて具体的にどのような質問をするのかを記し、一覧にして送るもの。編集者が作成する場合もあれば、ライターが作成する場合もある。編集部を通して先方にわたり、ときに「この質問はNG」などのチェックが入り戻ってくる流れ。
ところが。こうした質問状を共有したはずなのに取材相手にはさっぱり伝わっておらず、先方の事務所やマネージャー、宣伝協力会社でストップしていることも多々あった。結果的に取材相手が質問状に接するのが当日の現場という、「意味のない」産物になることもある。(取材相手本人が)多忙だから仕方ないよね、と思う心と、ならばこちらで作らなくて良いのでは? という気持ちが揺れ動くわけだ(もちろん、質問状を作成するかしないかにかかわらず、質問したいことは簡単にメモして〈もしくは頭に入れて〉現場に持っていきます)。
「質問状」がほぼ必須になった理由
こうした対応を多く受けつつも、「質問状はいらないです」と先方から言われることは稀。というかエンタメ系ではもはや必須。とするならば、質問状がなぜ求められるかと言えば、先方(事務所や版権元)が質問をチェックして、取材当事者の気分を損ねてしまう可能性があるものをはじいたり、宣伝上不必要なものを取り除いたりするためである。検閲とは言わないにしても、それとよく似た事前チェック事項として機能する、インタビュイー側とインタビュアー側の、ある種の主従関係があるのでござる。特に大きなスケールの作品だとチェックが厳しくなる傾向で、質問状に対して表記統一(!)の赤入れをしてくる版権元もあるほど。なんかありがたい気もするけど、不毛にも思える(笑)。
確かに、取材相手に対して、取材設定とはまったく異なる話を無意味に切り出したり、質問に詰まって時間が無駄になったりと、ライター側の不手際もよく聞く。「ファンなんです!」と言って相手を困らせたり、取材対象となる作品をきちんと見ていなかったりする人もいるくらいだ。
そうした事故を事前に防ぐ意味合いがあるのはわかる。
が、取材相手に質問状がわたっていなければ本末転倒だし、取材の流れの中でNG項目に自然と突き進むこともあるし、事前の質問に答えるだけらば、メールインタビューで良くない? とも思う。先方が聞かれたくないワードをNGに指定されることがあるが、それが物語の根幹になっている場合なんかでは、取材自体が窮屈になることもそれなりにあった。
だが、最近は質問状をしっかりと読み込み、そこに回答メモを書き込んでくれて、それを片手にインタビューに答えてくださる方も多くなってきた。アニメなどの映像作品であれば、監督クラスの人はそうした対応の方が多い。実際の取材現場でも、インタビューの終盤に「ここの質問状にあること、まだお話ししていないのですが……」と、申告されてしまうこともある。もちろん、こういうときはそうした丁寧な対応に謝意を示しつつ、改めて回答をいただくのだが。
質問状があんまり好きじゃなかったのは
質問状のシステム、前段のような経緯もあって、あまり好きなものではなかった。前提として、半生を語るようなロングインタビューでない限り、取材内容というのはそのタイミングで「リリースされた(る)音源のこと」だったり、「これから公開される(た)映画」だったりすることが多い。つまり「質問」というのは本来、ここに集約される。「質問状などなくても良い」との考えにそれなりに賛同できるのは、「この作品に関する取材です。あとはよしなに話しながら進めましょう」という“ガワ”だけで十分であると考えるから。
その中で、過去のディスコグラフィーやフィルモグラフィーを振り返ることも、取材本人からの切り出しによって趣味や半ばプライベートな内容に派生することも当然ながらある。そうした対面取材ならではの自由度や飛躍が、質問状の枠内という「制限」をされては生まれにくくなってしまうという事情もある。ただ、コミュニケーションが上手な方、好きな方は、何も言わずとも質問状に縛られない取材になる。こちらとしてはそれで良い。現場が盛り上がりすぎる取材というのは脱線して原稿に使えないパートも多いわけだが、舵の方向を切り直して本題に戻すのも取材の醍醐味とも言えるので。
もちろん、クリエイターの中には対面でのコミュニケーションがあまり得意ではない方もいるので、会話が弾まない、という状況も生まれる。そうした場合、質問状というのはガイドとしてありがたい存在になりうる。そこで一問一答っぽくなるのも悪いことではない(少し話は逸れるが、個人的には、取材相手が質問に対して深く考えてくれている上での「沈黙」というのは、決して悪い時間ではない。むしろ貴重な時間だと思うし、そうした質問の中から新しい言葉や発想、クリエイターとしての哲学が滲むことが多い)。
また、大抵の場合、取材というのは事前に設定される取材日内で行われる。半日、もしくは丸一日の時間設定の中で、数にして4~5本(多い人は10媒体とかもありえる)、時間にして30分~1時間ずつ、代わる代わる媒体がやってきて同じ内容の取材をされることになる。つまり、何度も同じことを聞かれてしまうわけで、その返しもある程度定型にならざるを得ない。
なので、取材側としては、同じ内容を聞くにしても切り口を変えたほうが新鮮に感じられるので、質問状にはない切り出し方をしたりする。ここは取材の順番にも大きく影響される部分だ。
現在の「質問状」への向き合い方
で、個人的に質問状とどう向き合っているかと言えば、以前は全体のコンセプトは記しつつもめちゃくちゃざっくりしたものを作り、それを先方に通した上で、取材当日は質問状を起点にコアで幅の広い内容を質問していく、というやり方だった。ライターと取材相手というのは連載や単行本制作でもない限り一期一会に近い関係性なので、あとはその場の流れを読みながら進めていく。大まかな質問の主旨だけ自分で把握しておけば、これでなんとかなる。
だが最近は、もう少し具体的に記すようになった。上記のように、質問状を読み込んでくれるクリエイターが増えたこともあって、ある程度は質問状の流れに沿った中で聞いていき、メモをベースに話してもらいながら追加で補足してもらう、という手法。その中で2、3は質問状から離れた質問も加えて、現場の雰囲気・ムードを原稿に反映できるようにする(質問状外とは言え、あくまで流れに沿ったものであり、突飛すぎないことは当然重要。敢えて突飛な質問をして空気を変えるテクニックもあるが、発動するタイミングはなかなか難しい)。
媒体(編集者)と一緒に考えながら作成できる場合は楽しいよね
取材の面白いところは、ひとつとして同じやり方にはならないところ。相手が変わればこちらの受け身、質問の切り口も変わる(変えていく)。その繰り返しの中で、質問状の意義も時代によって変わってきたように感じる。
あと、媒体が質問状に対してどういう意識で臨んでいるのかが大きい。儀礼的に「質問状よろぴく」とライターに右から左へ流すところもあるし、「こういう質問にしましょう」と事前に方向性を決めながら一緒に作成していくのではまったく違う。前者のような媒体(編集者)が、インタビューのときにだけ張り切って口出ししてきたら腹が立つし(笑)、後者だったら全然OK。
とここまで書いてきて思ったのは、「コミュニケーション」として使用される質問状なら問題なくて、「事前チェックのツール」としてただお伺いを立てるものは「なんだかなぁ」と思う、ということなのである。
書いてて気づくことって、あるよね~。