いつからか人に優しくすることに臆病になっていた
今の世の中って人に優しい世の中なのかな?
そう考える機会が増えて来たように思う。
確かに物はいくらでもあるし、世の中はあらゆる”サービス”(それが本当の意味でのサービスであるかはさておき)で横溢している。
求めれば、物はいくらでも手に入る。お金を出せばそれなりの”サービス”を得られる。
なのに、心がこんなに空虚なのはなぜだろう……
こう思った経験はないだろうか?
人の心がどこか遠い……
自分が東京にいるからなのか、大都市特有の人の距離感でそう思うのかわからないけど、なんとなくそう感じる。
他人の心に触れるのを恐れるようになっている人が多くなっている印象だ。
それに自分の心に触れられたくなって人も少なくないんだろうな。「放っておいてよ」って感じで。
どちらもわかる。
私は一人っ子で、寂しがり屋なくせに一人でいるのが割と好きな方だが、それでも時折感じることがあった。
世の中ってなんて寂しいんだろう?って。
日本はそれでも人に優しい国だと思う。平均的に親切な人が多い気がする。
財布を落としても届けてくれる。
夜中でも一人で出歩ける。
困っていると英語でなんとか助けようとしてくれた。
道に迷っていると行きたい場所まで連れて行ってくれた。
来日経験のある私の知り合いの外国人に聞いても、このような回答が際立つ。
翻って自分は優しい人間なのだろうか? 最近だと、誰にいつ優しくできただろう?と考えてみる。
すると、人が困っているのを知りながら見過ごしてきた経験を思い出してしまった。
道で何か物を落として拾おうとするも、拾えないでいる高齢の方がいた。
彼女のそばを通りかかった自分はそれに気付きながらも通り過ぎてしまった。
約束に遅刻しそうで急いでいたからなのだが、今から思えば、なぜ拾ってあげなかったのだろうという後悔しかない。たかだか数十秒のために自分は見て見ぬフリをしてしまった。
一体いつから自分は忙しさを言い訳に人に対する優しい心を忘れてしまったのだろう?と考えてみた。
すると、思い当たることがいくつか出てきた。
いつからか私は人に優しくするのを恥ずかしがるようになっていた。
「あいつ、善人ぶってんじゃない」と言われた経験
私自身が人に優しくすることに対して臆病になってしまったのは、高校時代にまでさかのぼる。
思春期真っ只中にあったあの頃、人から何か言われることに敏感に反応していたあの頃。
仲間外れにされているクラスメイトBくんがいた。彼はイジメに近い行為を受けていた。「はぶられていた」のだった。そんな彼に私はある日声をかけた。
何を話したのか、よくは覚えていない。ただ、彼を不憫に思った気持ちは確かにあった。可哀想に思ってしまった。
彼がいつも一人で寂しそうに帰っていく後ろ姿がなんとも私の胸を締めつけたからだった。
彼はいわゆる「オタク系」で地味であったし、当時の私とは住んでいる水が合わないと思っていた。
でも、話してみると彼はオタクなだけに博識であったし、私は彼の知識の広さと深さに感心したものだった。内気で他の生徒とは趣味が異なるだけじゃないか。私はそう思って彼と親しくしていたのだけど……。
2ヶ月ほど経ったある日。休み時間から戻る途中で、ヤンチャ連中(私は徒党を組むのが嫌いで、かといって誰にも嫌われたくないといった日和見的な部分が当時の私にはあった)が私のことについてこう話しているのを聞いてしまった。
「あいつさ、優しいって言われてるけど、どこか善人ぶってるとこない?」
頷く声が後を追う。
「恩でも売ってんじゃないの? あいつ生徒会に立候補するらしいじゃん。でなきゃあんな奴とは親しくしないだろー」
「ああー」
「オレって善人ぶってんのかな? 優しくして恩を売ってるつもりなんかないのに……そういう風に見えちゃうもんなのかな?」
私の中で何かが揺らいだ。
自分がなんだか「カッコ悪い存在」に思われてきた。
それから私はBくんから声を掛けられても曖昧にしか応えないようになった。そして、Bくんのひとり寂しい後姿を見つめる日々が続いたものだった。
私は、彼に嫌われるのは心苦しいけれど、その他大勢の人に嫌われるほうがもっと恐かったのだ。
今振り返ると本当に自分の小ささに呆れてしまうが、こういった経験をお持ちの方は少なくないと思う。
心苦しい。自分の価値観の一つである「誰に対しても優しく接する」を他人の知らない価値観に沿わせてしまったのだ。
卒業してしまい、Bくんはもう憶えていないかもしれないけど、今でも悪いことをしたなと謝りたい気持ちになる。
それ以降、私は「人に優しくする」ことがどこか「偽善的」なのではないか?と思うようになってしまった。
そして、気づくと、どこか人に優しくしている「いい人」である自分をカッコ悪く思ってしまっていた。
たくさんの人を傷つけて、あえて心を冷たくすることで「カッコイイ、イケてる男」を演じていたのだ。
特に思春期の頃は、「いい人=モテない」なんていう変な考えに取り憑かれていた。
でも本心は隠せないものだ。自分は騙し切れるものではないのだ。
結局、自分の価値観に返ってくることができたのが、ここに至るまでにはもちろん長い道のりがあったし、今もまだ道半ばだと自分では思っている。
「人に優しくする」って簡単じゃないよね
人に優しくすることって大切だよね、と自分で言いながら、一方で人に優しくするのは簡単じゃないよね、とも思っている。
なぜなら、何を優しさだと思うかは人それぞれだから。
ここで以前に勤めていた会社の上司Aさんにご登場願おう。
正直に言う。私はAさん(女性の方)が苦手だった。
人に何か指摘するにしても、彼女の言葉はトゲがあるというのか、チクチクと鋭いのだ。
「何回も言ってるでしょ、なんでできないのよ!やり直し!」
いくら的を得る指摘をしていても、言い方が悪いと人は動かない。
人を動かすのは正しいか正しくないかよりも、感情だったりする。
当初は私自身も彼女が正しいとわかっていながら、「なんでそんな言い方しかできないのだろう」とばかり思っていた。
しばらくして、彼女の部下たち(私にとっても同僚たち)が彼女に対して軽いストライキを起こした。
物事が進まなくなってきたある日、私は思い切って、彼女に「人が動いてくれない原因と思われる彼女のものの言い方」について諫言してみた。
彼女は自分に対してキレるのではないか?とどこかでビクビクしながら。
ところが、彼女はそのことを自覚している様子で、「つい強く言ってしまう」傾向があることを悩んでいることを素直に話してくれた。
彼女はとても正確に物事を判断でき、細かいことまで注意が向けられるいい資質を持っていることを伝えながら、「人が動いてくれるような言い方」をしたら、きっとうまくんじゃないかと偉そうにも提言してみたのだ。
すると……
彼女は意外にも素直に「そうしてみる」と言ってくれたのだ。そして、私に他の者たちとの仲介役をお願いしてきた。
彼女の「変わろうとする」態度に、私も感心して、より良いチームづくりをしようと励むようになったのだった。
ここで、話を戻すと、上司のAさんとしては部下を正しい方向に導く、部下に自分の欠点に気づかせてあげようとしていた。つい口を出してしまうし、キツい口調になったしまってはいたが、それも彼女の部下に対する心遣いであり「優しさ」なのだと私は彼女と腹を割って話してみて気づいた。
そこでつくづく「優しさ」とは難しいものだと思った。
優しい言葉が必ずしも「優しさ」になるとは限らない。
時に現実的な、本人に目を背けたくなる事柄を気づかせることも一つの「優しさ」であったりする。
あの時、あの人にああいうこと指摘されて、その時は頭に来たし、ムカついたけど、今振り返ってみると、あの人は正しかったし、自分のためを思って言ってくれたんだな〜って思うことがあるが、まさにそれも立派な「優しさ」である思う。
「優しさ」とはちょっとした「気遣い」や「その人に対する思い」なのかもしれない。
あなたらしい「優しさ」を周囲の人と分かち合えばそれでいい
ところで、『ペイ・フォワード』という映画を観たことはあるだろうか。
11歳の少年の一つのアイディアが世界を変えるストーリー。
彼のクラスの新しい担任で社会科の先生になったシモネット先生は授業中にある課題を出す。
「Think of an idea to change the world. Put it into your action.(世界を変える一つのアイディアを考え、それを行動に移せといった意味で自分は解釈した)」
この課題について少年は一つのアイディアを提出する。
少年の一つのアイディアが世界を変える少年のアイディアが周囲に少しずつ変化をもたらしていきます。
衝撃的なラストにも注目。
私はこの映画を観て泣いた。そして、「人に優しく」することを心のどこかで偽善的に思っていた自分を恥じた。
「一人一人が誰かに一つでもいいことをしてあげることで、それが広まって社会全体が良くなる」
この考えを各々が心に真に抱き、それを行動に移せれば、世界は今よりもずっとずっと優しくなるに違いない。
もちろん、簡単ではないし、理想でしかないと思われるかもしれない。
それでも、
一日一つでも誰かが喜ぶ何かをすることはできるかもしれない。
あなたは、今、誰を喜ばせたいですか?
そして、
今日誰を笑顔にしますか?
まずは自分を笑顔にする!でもいいのだ。
あなたの笑顔が誰かを笑顔にするかもしれないのだから。
(終)