心が痛むなら、歯を抜いてしまえよ
「好きな人が、出来ました」
その言葉に動揺しなかったのは、彼女が姿を見せた時にすでに察していたからだったかもしれない。
いつも僕が来る前には待ち合わせ場所にいる彼女が、今日に限って僕よりも遅く現れたり。ミスドが大好きな彼女が、カフェオレしか頼まなかったり。そして、その左手の薬指にいつもはめていたペアリングが無かったり。
「……そっか」
そう、そもそもそんな話になるのではないかと思っていたのだ。
学会で海外に行ってくるといった彼女から連絡が来たのは、帰国したはずの日から2日経ってからだった。それまでは、1日に1往復はメールのやりとりはしていたはずだったのに。
続く言葉は出ず、自分のアイスカフェラテのストローに口をつける。氷が解けて水っぽくなったカフェラテなのに、牛乳のべたつきだけが舌に絡む。
「相手、聞いた方がいいの?」
言ってから、なんてヘタレた質問だろうと思う。気になるなら、もっと直接的な言い回しにすれば良いのに。
「……〇〇教授」
……やはりか。
あり得ない、という想いの前に、その感想が先に浮かんだ。
彼女の指導教官。彼女との会話には、よく彼の話が出てきた。人として尊敬している、ああいう教授になりたい――そう言って、彼女は決まっていた内定を蹴って、博士課程に進学したのだから。
おそらく彼女にとって、僕より魅力的だったのは間違いない。彼女は自分では気付いていなかったかもしれないが、比べるような物言いはたまに言葉の端に滲むことがあった。
それでも大丈夫かなと思っていたのは、彼が妻子ある立場で、年齢も2回り以上年上だったからであった。実際、おそらく大丈夫だったのだろう。
海外の学会で、2人で数日過ごすまでは。
(だっるー……)
嫉妬、虚しさ、復讐心、色々な感情が浮かんでは消える。彼女との2年間の思い出も、これから描くはずだった彼女との未来も。
だけど、自分の中での結論は変わらなかった。それはそれまでの恋愛で、散々傷つきながら学んだことだった、すなわち、
「わかった。別れよう」
きっぱりとそこでケジメをつけることだった。
追いすがって何かになることは、決してないのだから。
「……ごめんね」
「仕方ないでしょ」
仕方ない。仕方ないのだ。
彼女に言っているのか、自分に言っているのか。
「今日は、もう帰るね。荷物の話とか……また、落ち着いてからしよ。
連絡するね」
彼女は一人暮らしだったから、僕の荷物や服もいくつか彼女の部屋に置いていた。
ありがたい。もうあの部屋には、あまり入りたくない。
「……またね」
少し困ったような笑顔で、彼女は去っていった。
僕の反応は、彼女にとって予想内だったのか、予想外だったのか。
ここで怒らない僕だから、彼女は好いてくれたのか。
ここで怒れない僕だから、彼女は去っていったのか。
ほぼ水のようになったカフェラテを飲み干し、外に出る。3月なのに、まだ随分と寒い。長く吐いたため息が、忌々しいくらい青い空に溶けていく。
失恋は、いつだって虚しい。
就職の内定が出て喜んでいた先月が、まるで嘘のようだ。大学院1年の2月で早々に頂けた内定先は、彼女の実家からそう遠くもない距離だった。
今の大学からは距離があるので、遠距離恋愛になるのはわかっていた。だけど、彼女の実家から近いなら、会う機会は極端に少なくはならないだろうとか。そんなことを思っていたけど。
「人生はままならないねぇ……」
禍福は糾える縄の如し、昔の人はよく言ったものだと思う。そんなにうまいことばかり続かない。
……そうか。
ならばいっそ、もっと落ちてしまってもいいかもしれない。
「歯、抜くかぁ……」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
元々、歯のサイズと顎のサイズが合ってなかったのだと思う。
僕の人よりも大きいサイズの歯が、人よりも小さい顎のサイズに生えようとしていた。その結果起こったのは、前歯の大渋滞、もとい大戦争。
結果としてどうなったかというと、一番前の歯と三番目の歯の裏側に二番目の歯が生えてしまった。うーん、そこに二重になる必要あった?
「この歯、全く役に立ってないね」
「ですよね」
長年見てくれていた歯医者のおじいちゃんは物言いに容赦がないが、実際その通りだから頷くしかない。噛み切るのにも、咀嚼するのにも使えない。
就活の面接の練習で自分の喋り方を聞いたときには心底がっかりした。なんだこの舌足らずな喋り方は――あ、舌足らずになるんや。後ろの歯に引っかかるから。クソが。
「抜いちゃうのも手だけどね。磨きにくいから、虫歯になるかも」
「いやー、でも怖いっすよ……」
その時はそう言った。なんたって永久歯だ。子供の頃、乳歯がグラグラするのも怖かったのを覚えている。あの時ですら、あんなに血が出た。
それがまだピンピンの永久歯、しかも前歯。
どんなことになるのかの恐怖が先に立っていた。
しかし。
彼女と別れた帰り道で、僕は歯医者に予約を入れていた。もう失うものなど無かったから――いや、そうではない。
僕は、心の痛みと身体の痛みはどちらが強いのか、知りたくなったのだ。
よくあるマンガのシーン、自分の愛する人のために死ぬことは出来るか。これは、出来るかもしれないと思っている。でも、死ぬよりもつらい痛みに耐えることはできるか。
……出来ないのではないかと、素直に思っていた。
そしてちょっとだけ思っていた。
心が痛む余裕があるのは、身体が五体満足だからなのではないかと。
幸か不幸か、歯医者の予約は翌日に取れた。
そしてその晩、2日後に会おうという連絡が彼女から届いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「じゃあ始めるけど、2本とも抜くでいいんだね?」
「はい」
歯医者の椅子に寝かされながら頷く。当たり前だろう。なぜこんな怖いことを2回に分けてせねばいかんのだ。
そんな怒りを覚えそうになるほど、ビビり散らかしていた。そして若干の後悔を感じていた。早まりすぎてはいないか。生き急ぎすぎてはいまいか。
「麻酔しまーす」
歯茎への麻酔は何度やっても痛い。
右側の第二歯を囲むように4箇所。痛い。
左側の第二歯を囲むようにまた4箇所。痛い痛い。
「口をゆすいでください」
椅子が起き上がり、水の注いである紙コップを手に取って口をゆすぐ。ぼわっとした麻酔特有の、感覚が鈍くなったような鋭敏になったような不思議な感覚を感じる。
「じゃあ、少しして麻酔効いたら始めるね」
そう言って、先生は別の患者のところに行ってしまった。
僕だけを診てくれないのか。歯を抜くんだぞ。2本も。
ギュイーン、というドリル音が隣のブースから聞こえてくる。よく聞いた、虫歯を削る音だ。それくらいで済むなら良かったのに。
数分後、先生が戻ってきて椅子を倒される。口を開くと、つんつん、と金属で歯茎をつつき、
「麻酔効いてる?」
「らいりょうれふ(大丈夫です)」
「じゃあ始めます。痛かったら右手上げてね」
頷くと、口元に穴の開いたタオルをかぶせられる。
あ、葬式の時に遺体の顔にかけられるやつみたいだな。そう思った。
次の瞬間、感じたのは大きな圧力だった。
僕の歯に向かって、大型動物がタックルしている、そんな圧力。
「……よっ」
死!
あれほど早く人生で右手を振り上げたことは、多分ない。
「今度は麻酔、大丈夫?」
「はふん(たぶん)……」
そんなこと言われても、今まで虫歯の治療の時には大丈夫だった効き方だったのだ。前も。
先ほどのタオルが顔にかけられる。
自然と両手を組んでお腹の上に置いていた。神よ、召されます。
「じゃあ行きますよー」
ゴリっと、先ほどと同じ圧力がかかる。
今度は痛くない。痛くないが、押す力は感じる。寝ているのに首が持っていかれるのではないかというほどのパワー。今いったい何が起こっているのか。メキメキ、とかゴリッ、とか、おおよそ聞いたことのない音が響く。どこから? 口から!
「◎◎さん、ちょっと頭抑えてて」
「はい」
衛生士さんが頭をホールドする。力の逃げ場が無くなり、ますます歯にあってはならないと思うほどの圧力がかかる。抜けるというより、折れるんじゃないこれ? メキメキいってるよ?
「やっぱ深いなぁ、テコの原理で……」
テコの原理って、歯に使っていい言葉でしたっけー!?
一時間後。
「歯を抜いたところはかさぶたみたいになってるから。ガーゼ詰めてあるから、自然に取れるまで自分で取らないようにね。しばらく血は出ると思うけど、それは仕方ないから」
「……はい」
生きてた。
生きてるって素晴らしいって、素直にそう思えた。
僕は燃え尽きて真っ白になっていたし、先生も1時間戦ってくれた。僕だけに向き合ってくれてありがとう。
「抜いた歯、持って帰る?」
「一応……」
そう言って渡された歯は、正直引くほど長かった。
前歯は、見えている部分の2倍くらいの長さが歯茎に埋まっていることをその時知った。え、この抜いた穴埋まるの?
恐る恐る口腔内を舌で触る。空間が広い。今まで触れられなかった、一番前の歯の裏に舌が届く。
そしてその手前に、おそらく穴がある。ガーゼの感触と、血の味がした。
「右側、虫歯になってたね。抜いてよかったね」
ハハッ、と笑う先生に言いようのない感情を覚えながら、会計をして外に出る。
今日も突き抜けるような快晴だ。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。血の味がする。
「生きてた……」
一滴だけ、涙がこぼれた。
ああ、世界はこんなにも美しい。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「多分、これで全部だから」
「ありがとう」
翌日、デパートの広場になっているところで彼女から荷物を受け取った。彼女の左手には、ペアリングはない。受け取る僕の左手にも、ペアリングはない。
「……少し、話す?」
「そうだね」
前日の夜、麻酔が切れた時から深く鈍い痛みがずっと続いていた。
『ガーゼが自然に取れるまで取ってはいけない』
その言葉は呪いのように、口腔内での舌の動きを制限していた。
「……ちょっとね、思い出してたんだ。2年間のこと」
椅子に掛けると、彼女はこれまでの思い出を話し始めた。
僕は何も語らなかった。語りたくなかった。物理的に。
「全然ケンカしなかったよね、私たち」
「そうだね」
「もっと言いたいこと、お互いに言えばよかったのかも」
僕は当時実家に住んでいたが、前日の術後ほぼ家族との会話はしなかった。突然広くなった口腔内のスペース、舌の動きがともすれば穴に埋めてあるガーゼを穿ってしまいそうで怖かったのだ。
「君の優しいところ、すごく好きだった。
でもそれは例えるなら、私が吹雪で凍えてるときに温かい家を用意してくれるような優しさで、でも私が求めてたのはそばで温めあってくれるような優しさだった」
「……わかるような、わからないような」
「そこをわかってくれてないって、ずっと思ってた」
「そっか」
ダメだ、母音がoの言葉は舌がガーゼに触れてしまう。
「一緒に△△に行った時も、ちょっと同じことを思ったんだ。あの時さ――」
「あー、待って」
怒りでもなく、反省でもなく、悲しみでもなく。
意識が7割口腔内に持っていかれてたからこそ、残った3割の意識はシンプルに研ぎ澄まされていた。そして研ぎ澄まされていたからこそ、言葉は鋭利になった。
「君が〇〇教授のことが好きになったから別れるって話でしょ」
あっ。ヤバい。
「そこになんか価値観の話とか昔の話とか持ってくるのは違くない?」
ガーゼが、ガーゼがピロピロしている。
「今別れるために、後から理由付けをしているようにしか感じない」
「……ごめんなさい、そうかもしれない」
彼女は聡明で、そして優しかった。本当に気付いていなかったのだと思う。
そして僕は本気で焦っていた。ガーゼがピロピロしている。
「ごめん、もう行くね。荷物ありがとう」
口をゆすぎたい。
「うん……ごめんね。今までありがとう、またね」
「またね!」
言って、僕はデパートのトイレへと駆けだした。手洗い場、手で水をすくい、口をゆすぐ。吐き出した水の中に、赤い布が見えた。
「一日で……!」
恐る恐る、舌を穴先に付ける。やはり、ガーゼはない。
血の味がする。
この歯茎の穴は埋まるのだろうか、そんな恐怖にかられながら僕は心から実感した。
ああ、僕は今回の失恋よりも、歯の事後処置が気になっている――!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「俺はあんなに尽くしたのに、あの女酷いんですよぉ」
「そーだなーそーだなー、ヒドイヤツダナー」
数ヵ月後、こっぴどく振られた後輩の愚痴に付き合うことになった。話を聞くとどうも、別の男に寝取られたとのことだった。数か月前に聞いたような話だな。
「てか俺の家に男連れ込むとかありえますー? ホントむかつく」
「わーマジか、かわいそうすぎる」
「もうほんと立ち直れないっす。めっちゃ傷つきました。トラウマです」
トラウマ、心的外傷。そうか、心の傷だな。
「先輩もこないだそういえば振られたって言ってましたよね。2年も付き合ってたのに。でもめっちゃ普通でしたよね。サイコパスっすか?」
酷いことを言われた気がする。
しかし、この悩みを解決する術を僕はもう持ち合わせていた。
「いや、俺にとってはだけど、心よりも身体が無事なことの方が大事だったみたい」
「??? どういうことっすか?」
「一発で立ち直る方法、あるよ」
僕は満面の笑みで、後輩に向かって告げる。
「歯を抜いてしまえよ」
「サイコパスっすか?」