大瀬子公園、七里の渡しインタビュー
今回は大瀬子公園、七里の渡しについてのお話を港まちづくり協議会の村瀬利男さんにお聞きしました。
学生)
本日はお忙しい中お時間をいただきありがとうございます。よろしくお願いします。
村瀬さん)
よろしくお願いします。
学生)
早速ですが、11月1日からスタートする「熱田歴史探訪」のデジダルスタンプラリーのスタンプポイントの一つとして大瀬子公園が設定されています。今回は熱田区役所からのご紹介で大瀬子公園についてのお話を村瀬さんにお伺いさせていただきます。
学生)
大瀬子公園は、昔は魚市場であり、織田信長の時代から存在していたという話がありますが、本当ですか?
村瀬さん)
そうですね。織田信長の時代にはもう既に問屋というのは4軒ほどありました。清須の方へ運んでいたという歴史があります。
学生)
そうなんですね。織田信長の時代、つまり江戸時代に4軒ほどで始まった問屋さんが、最終的にどれぐらいの規模になったのでしょうか。
村瀬さん)
4軒が8軒に一度はなったのですが、その内また半分の4軒で始めました。
学生)
問屋の4軒ないし8軒は非常に大きなイメージであったのか、または点在していたイメージなのか、どちらでしょうか。
村瀬さん)
問屋はこの近辺に固まっていました。名古屋(この近辺の人たち)の魚所といえばこの4軒でした。
学生)
問屋にはどれくらいの業者の人たちが出入りしていたのでしょうか。
村瀬さん)
4軒はお互いの株を持っていましたので、株を持っている仲買人が買いに来て、仲買人が小売りに出していました。
学生)
その4軒の問屋さんは、当時はどこのお魚を扱っていたのでしょうか。
村瀬さん)
瀬戸湾や瀬戸内、また遠州灘、紀州灘などで獲ったお魚を船で持ってきていました。日本地図でいうと太平洋あたりから多く獲っていたことになります。
学生)
七里の渡しと大瀬子公園の船着き場の違いはなんですか。
村瀬さん)
七里の渡しの方に人が渡るための船着き場で、大瀬子公園の船着き場は漁船が集まる船着き場があったんだよ。
学生)
そこに集まる船はどんな船だったんですか。
村瀬さん)
七里の渡しは桑名まで行く海道を渡るので帆船だったのですが、大瀬子公園は手漕ぎの船で、6人~8人くらいの少人数の船だったかな。
学生)
当時の漁獲方法はどうやっていたんですか。
村瀬さん)
当時は現在のような定置網漁業はしてなくて、網や釣り竿を行い、大瀬子公園に戻っていったよ。
学生)
魚はどこから持ってきたのですか。
村瀬さん)
遠くは紀伊から持ってきていて、冬の雪が降った時は、雪に埋めて鮮度を保っていたそうです。
学生)
市場の造りはどんな感じだったのですか?
村瀬さん)
魚市場は屋根と柱で簡易的な造りだったね、屋根には、魚を拭くような布や、ロープなどが鶴下がっていたよ。
学生)
どのへんに何の魚を捕りに行っていたんですか。また何の魚が一番とれていましたか?
今のお話だと仲買さんを相手にしているふうにお伺いしましたが、例えばそこで売られている魚はどのような人たちが購入、消費していたのでしょうか。
村瀬さん)
マグロやブリなどを色々な人が買いに来ていました。市場では朝と夕方に魚の取引をしていました。
学生)
当時の市民の方たちからすると魚はどんなような存在だったのでしょうか。今より特別なものだったのでしょうか。
村瀬さん)
魚は日常的によく食べられていたものなので特に珍しいものというわけではなかったです。
学生)
当時は豚とか牛などを食べずあまり動物性たんぱく質をとっていなかったと思います。多くの栄養を魚から取っていたんですかね。
村瀬さん)
そうですね、熱田の台所事情を支えてきたものなので、この市場の存在というものはとても大きいです。青果市場は他にもありましたが、魚市場というものはここしかなかったので。
学生)
魚の流通の中枢を担っていたんですね。
学生)
大瀬子公園付近は昔熱田の魚市場として機能していたことを学べました。本日は貴重なお話ありがとうございました。
村瀬さん)
ありがとうございました。