「お手伝い」「手伝う」に感じること
自分から発せられた言葉は自分の世界をつくる魔法のことば。
その言葉の持つニュアンスは自分の仕事の姿勢を形作りますので、普段の言葉遣いを変えると人生がちょっと変わったりもします。
日々、使っている言葉についてちょっと立ち止まって考えてみる。
「世界はことばでできている」はそんな企画です。
仕事上や家庭の大人同士のコミュニケーションで「手伝ってください」「手伝います」というコミュニケーションがとても嫌いです。(好きではない、ではなく、嫌いという強い感情。)なので、私は自分で何か同様のことをいうときは「やって♡」「やるね」「やっとくね」と、敢えて言います。
どうして「手伝う」を嫌いに思うのか、ちょっと考えてみたいと思います。
「手伝う」とは
辞書的な意味は上記の通り。助けて一緒に働く。手助けをする。助力をする。それそのものに対して思うところは強くはない。ここでも少し「助ける」ということに引っ掛かりを感じるのだけれど、それは本質ではないのでちょっと置いておきます。
「家事を手伝う」って夫が言ったら…?
この話、よく聞きませんか?夫が妻に「家事を手伝うよ!」ていうと、妻に怒られたって話。
「手伝う」と言っている側は、悪気はまったくないんですけれど、そもそも「家事」を「やろうか」ではなく「手伝う」と言っている段階で「自分の仕事ではなくてあなたの仕事なんだけれどちょっと荷物をもってあげるよ」というニュアンスになって、「家事」=「自分の仕事ではない」=「他人事」という前提が無意識にある気がしています。
結構これについては「手伝ってくれるって言ってるんだから「ありがとう♡」と言って夫を教育しなさいよ」とかいう人が居ます。実をとれよ、ってことですよね。わからなくもないです。
でも、私個人としては、「大人の他人同士が一緒に暮らして家庭を作っているのに、なんで妻が夫を教育せねばいかんのだ。」と思うわけです。
(この論争、たぶん、Xとかで話し出すとめちゃめちゃ炎上しそうだな。)
仕事で使う「手伝う」というワード
「手が空いている人が居たら手伝ってください」
「私その日余裕があるので手伝いますよ」
いいと思うんです。お互いの助け合いの精神。素敵です。
なんだけどちょっともやっとするんです。
なんで「やる」「する」ではなくて敢えて「手伝う」というワードを使うんでしょう。夫婦の時のような「家事を手伝うじゃないだろう」論争までは発展しなくても、色々思うところがあるのです。
「手伝う」に感じるニュアンス
私がこのワードに感じる嫌なニュアンスは大きく2つあります。
一つは、「やったことに対して手伝った側は責任がない」という感じ。
夫婦の家事分担のところでもかきましたが、「手伝う」というワードを発すると「自分の仕事ではないことをわざわざやってあげる」というニュアンスを感じて、やったことに対しては「あくまで他人事」「自分の関係のないこと」「それをわざわざやってるから、クオリティや責任まで保証しない」というのが前提になっているように思えるのです。
もう一つは、「手伝う側、手伝われる側の上下関係の発生」です。
・手伝ってあげる→手伝う側は、責任もないのに上から目線
・手伝って→依頼する側が、相手の力量を軽んじている気がする
これは私の被害妄想じゃね?と思われればそれまでなんですが、自律的に考えて動けない人をコマのように使っているワードに思える時がちょこちょこあります。
よって、私はその言葉が発せられるときの、責任のなさや相手への尊重のなさに「いやだな」を感じているのだなと、結論付けました。
だからどうしたいかというと…
殊、お仕事においては、「依頼されたことは責任をもって最後まで完遂する」ということをいつもやってほしいと思っています。
お茶を出す、コピーを取るひとつでも、それを作業や雑務にしてしまうか「仕事」としてプロの動きをするのかは自分次第。本来「お手伝い」の仕事なんて、仕事をする上ではないはずなのです。
経験の差やスキルの差はあっても、レポートラインや役職・職位で上下が決められていない限りは、同じ仕事をする者同士は立場に上下はないと思っていて。上下関係をつけたり上から目線でものを言うのではなく何かを分担するのであれば、ただ「やる」「する」でいいんじゃない?と思っています。
だから、「なるべく使わない」が今回の結論。
もし、私が無意識に「お手伝い」というワードを言ってることがあったら、こっそり指摘してくださいね。
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