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「パレスチナの猫写真展」を見た日の日記

「パレスチナの猫写真展」がすごくよかったので、内容を紹介するために感想文を書いた。
つもりが、感想文というより、日記になった。
日記です。

8月21日、高橋美香さんと安田菜津紀さんの二人展、「パレスチナの猫写真展」を見に行った。
会場は、三軒茶屋にあるキャッツミャウブックス。
以前から知っている、大好きな書店のひとつだ。

猫が必ずどこかに出てくる本だけを置いている猫本専門店です。売上の10%を猫の保護活動に寄付し、猫と本屋が助け合う関係を築いています。

https://x.com/CatsMeowBooks

Xのbioを紹介しただけでそわそわと立ち上がりそうな友人の顔が、いくつも浮かぶ。
ご想像の通りです。
夢のような場所だよ。とびきり可愛いブックカバーもつけてもらえるよ。そしてなんと、もと保護猫の猫店員さんたちが出迎えてくれるよ。
行くしかないね。

とはいえ、お店や猫店員さんたちについておしゃべりをはじめると止まらなくなりそうなので、今日は写真展と、写真のなかの猫たちのことに、話を絞る。

会場で限定販売される高橋美香さんの写真集『パレスチナの猫』(zine版)がほしくて、初日に行った。
開店直後の11時半だったのに、店内はすでに賑わっていた。
入ってすぐの部屋を見てから、先に進む。奥へと続く引き戸を開けようとしたところで、店主の安村さんから手指消毒用のハンドソープをさしだされた。
そうだった。猫店員さんたちにご挨拶する機会があるかもしれないから、ここで手を消毒するのだった。
実店舗を訪れるのは久しぶりだったから、この感じが懐かしかった。

奥の部屋に入るなり、みなさんからTシャツを褒められた。
その日私が着ていたのは、山中澪さんの作られた「パレスチナのことを話し続けよう」Tシャツだった。(現在は完売)


Hokuさんとtoriさんが呼びかけ人となって生まれた、『パレスチナのことを話し続けるzine』という冊子がある。


山中さんは、この冊子の表紙イラストを描かれた方だ。同じイラストをもとに制作されたチャリティのためのTシャツが、上にリンクを貼ったもの。
それぞれの生活のなかでパレスチナの話をしてゆこうね、の思いが詰まったかわいい絵と、パレスチナカラーの黒・赤・緑・白できりりと締まったデザインを、とても気に入っている。
せっかくTシャツに言及していただけたのだから、zineや携わっている人たちのことを紹介できればよかったのだけれど、もごもご言うだけに終わってしまった。

写真のこと。
当たり前なのだけれど、パレスチナにもいろんな猫がいる。
柄も大きさも毛並みも顔つきも、迎えてくれた猫たちは、一匹として同じところがなかった。
ふくふくとして毛艶がよく、顔も瞳もまんまるなひとがいた。
まっしろなおなかを出して気持ちよさそうに眠るひとがいた。
四つの足さきを泥で染め、眼光鋭く周囲を睨みながら歩くひとがいた。
場所は路地裏だったり、お店の前だったり、窓辺だったり、ベッドの上だったり。
どの写真も猫だけを切り取ったものではなく、その猫の生きる土地が、猫と生きる人々の生活が、写っていた。猫をアップで撮ったものでさえ、そうだった。

(会場の様子が伝わる写真を撮りそびれてしまったので、高橋美香さんのツイートをお借りしました……)

好きな写真が何枚もあった。
たとえば、高橋さんによる、茶トラの一家を撮ったもの。(光の加減で茶トラに見えるけれど、じっさいの色は違うかも)
お母さん猫と二匹のおちびが、真剣な目で何かを見ている。
その視線のさきにあるものは、一緒に展示された別の写真に納められていた。
鶏だ。立派な丸鶏。それを、肉屋のおじさんが捌いている。
一家は、おじさんがくれるわけまえを頼りに暮らしているのだそうだ。
その土地で生きる人と猫、それぞれの/一緒になった、生活の手触りに、悲しいわけでも感動的なわけでもないのに、泣きそうになった。

その肉屋さんだが、先日、お店の前の通りが破壊され、入口もブルドーザーで壊されてしまったそうだ。
展示を見た日の晩、高橋さんの投稿でそれを知った。
おのずと別の写真が頭に浮かんだ。
軽やかな足取りでゆく黒白のハチワレ猫を撮った一枚だ。
背景に、破壊された建物の瓦礫がどこまでも広がっていた。
撮影地は「ジェニン難民キャンプ」とあった。

ブルドーザーで入り口を壊された肉屋さんと、瓦礫の広がる難民キャンプ。
どちらも、現在イスラエル軍による激しい軍事侵攻に晒されているガザ地区ではなく、分断されて飛び地になっているパレスチナの2地区のうちのもう一方、ヨルダン川西岸地区にある。
シオニストはガザでの虐殺を「2023年10月7日」を起点に語ることで正当化しようとするが、イスラエル政府による暴力と抑圧は、1948年のイスラエルの建国以降、パレスチナ全土で繰り返されてきた。
世界の目がガザに集中する今この瞬間も、西岸では毎日人が殺され、営みが破壊され続けている。だが、ガザの状況あまりに酷すぎることもあって、言及される機会はずっと少ない。
写真のなかの猫たちが暮らすのは、そういう場所だ。

人間のいるところならどこにだって、猫はいる。
どんなに理不尽な環境であったとしても、それを「自然なもの」として受け入れて、生きている。
高橋さんの写真からも安田さんの写真からも、それが強く伝わってきた。

今回の展示に、ガザで撮られた写真は一枚もなかった。
ガザでは外国人の立ち入りが厳しく制限されてきた。20年以上にわたってパレスチナを撮りつづけてきた高橋さんも、長らく行けていないという。
漏れ聞こえてきた会話の中で高橋さんが口にされた言葉が、耳に残る。
「ガザは……今はもう、破壊、殺戮、という感じで……」

今回の展示で、もうひとつ印象に残っている言葉がある。
安田さんの写真に添えられていた「検問所のイスラエル兵も、猫には笑顔を見せていた」という旨のキャプションだ。(記憶が不確かで、表現は違うかもしれない)

当然のことだが、イスラエル兵にだって笑顔はある。猫好きもいる。務めを終えれば、誰かにとっての大切な人ーー友人、恋人、伴侶、親、子に、戻るのだろう。
そんな「ふつう」の人間が、シオニストによる政治と教育で、パレスチナの人たちを「人間以下」と見做すように歪められてしまっている。
その積み重ねの果てに、今がある。

写真は一匹の猫が広場を横切るところを撮ったもので、イスラエル兵は写っていなかった。それでも、添えられた簡潔な言葉の助けを借りて、カメラによって切りだされた1コマの前後で猫の瞳に映ったであろう兵士の笑顔が、見えた気がした。

(追記:公開時、この「猫には優しい兵士」の写真を「高橋さんの作品」として紹介してしまったのですが、それは私の記憶違いで、実際は「安田さんの作品」でした。大変申し訳ありませんでした。
上記の通り訂正させてください。
高橋さん、失礼な間違いを優しくご指摘くださり、ありがとうございました)

どの写真もほんとうによくて、友人に声をかければよかったな、と思った。
猫の写真展ならば、どんな人でも誘いやすい。
「猫の写真展」ならば。
そう思ったのは、「人の写真展」では、そうはゆかないからだ。

私がパレスチナの話をし続けるようになったきっかけのひとつが、LunchTrip パレスチナ西岸地区便 ~報道されない日常を見つめて~というイベントだった。十条にあるパレスチナ料理店ビサンで、店主のスドゥキさんから温かいおもてなしを受け、高橋美香さんの写真と語りにふれた。あの日を境に、パレスチナのイメージが大きく変わった。ゆえに、一人でも多くの方に高橋さんの写真を見てほしい、お話を聴いてほしいと思っており、隙あらば紹介している。
「インターネットだけを見ていると、パレスチナのイメージが悲しみや苦しみで塗りつぶされてしまいそうになります。でも、高橋美香さんの写真や語りは、そうではない、生きている人たちや続いている暮らしに目を向けさせてくれるものです。よかったらご一緒しませんか?」
パレスチナのことを気にかけ、心を痛めている人は少なくない。そういった人たちは、ぜひに、と言ってくれる。
ただ、すでに関わらないと決めてシャッターを下ろしている人には、届かない。
たったひとつの「いいね」すら、つくことはない。

パレスチナに関心がない人の中には、単に関心がない人と、意図して関心を持たないようにしている人がいるように思う。
後者の気持ちならば(もちろん、その一部だけだけれど)想像できるような気がする。

たぶん、人間は、重いのだ。
犬や猫をはじめとする他の種と比べればどうしたって近いから、そのぶん重くて、生々しい。自分が何の責任も負わないはずの遠くの他者であったとしても、同じ種であるがゆえに、完全に切り離すことは難しい。
写真や語りを通じて、ただその場所に生まれたからというだけの理由で不条理を強いられている人たちの暮らしにふれれば、相手と自分の立場の気が遠くなるような差を痛感し、負い目を感じる人もいるだろう。それが「悲惨」や「可哀想」な光景ではなく、ただ日々の営みを伝えるものであったとしても、なお。
そうなるとわかっているから警戒し、慎重に距離を保とうとする。

線を引くことは必要だ。
たとえば、自分自身や、みずからが責任を負う誰かを守ることは、その人にしかできない。何よりも優先されるべきことだ。それだけでもういっぱいいっぱい、すでに毎日が限界で、これ以上なにかを抱えたら、藁一本ぶんでも重さがくわわったら、潰れてしまう。そうならないように、遠い場所の苦しみや悲しみには意図的に目を向けないようにしている、そうしなければやってゆかれない、そういう人たちが、私の周囲にもいる。
ただ、その人たちも会って話せば、こんなにも人が殺され続けるのは嫌だ、辛くてたまらない、とそっと話してくれたりする。
であれば、その境界線を時々、一度だけでも、ちょっとずらしてみることはできないだろうか。
たとえば、ふだんその手の発言をしない人が「虐殺やだよ」と声に出してつぶやいたなら、その言葉は大きな力をもつ。
そうやって、これはどうしたっておかしいことだ、NOと言わなきゃまじでやばいよという空気を、みんなで作ってゆけないだろうか。もう人が殺されるのは嫌だよと思っている人たち全員が「ちょっとずつ」を差し出すことで、日本や国際社会の風向きを変え、各国の政府を動かし、まずはせめて現在進行形で続いている虐殺だけでも、止められないだろうか。
いまだにそんなことを考えてしまう。

現実は、そう簡単ではない。
当事者の顔と名前を知れば、語りを聞けば、そこから何か変わるのではないか。
そんな思いもあって、ハニーンさんやムハンナドさんと一緒にインタビュー記事を作った。
このアカウントでアップしたら、たくさんの人が受けとってくれた。
それでもやっぱり、シャッターを下ろしている人には届かない。

だけど。
猫ならば、あるいは。
人では届かないところにも、届くかもしれない。

人間の命が理不尽に奪われる世界は、猫が飢えたり危険に晒されたりしやすい世界でもある。その世界を少しでもましにするためのきっかけになってもらうというのは、猫にとっても悪い話ではないはずだ。

……と思うのだけれど、どうかね。
きみらに聞いたら、なんて言うかな。

そんなことを考えながら、写真のなかの猫たちを訪ねてまわった。

西岸で、ガザで、パレスチナで生きる猫たちは、その瞳に今、どんな景色を映しているのだろう。
一日も早く、生存ではなく幸せを願える日が来てほしい。
猫も、人間も、それ以外の命も。

キャッツミャウブックスというお店が好きなので、展示とは関係ない本も一冊は買うぞと決めていた。
ちょうどほしかった本がレジの横に平積みになっているのをみつけ、それにした。
小泉さよさんの『ねこの描き方れんしゅう帖』だ。

お会計を済ませたところで「ありがとうございます」と声をかけられた。
小泉さんご本人だった。
あわてた。
私は仕事柄、通勤時に「主張の強い」装いをすることができない。それでも小泉さんの缶バッジはデザインが可愛くて優しいので、ちょこんとリュックサックにつけている、会話のきっかけになってくれたこともある、などと、あたふたとお伝えした。


小泉さんは、それはそれは愛に満ちた、かわいく温かく自然な猫たちを描かれる方なのだけれど、イラストについての情報を発信するのと同じアカウントで、毅然とした言葉による虐殺反対の表明を続けられている。
小泉さんに限らず、作風における優しさを大切にされているであろう方のそうした発信にふれるたび、勇気づけられる。
優しい作品を作る方にとって、優しさとはかけ離れた言葉を投稿することはたぶん、それだけで傷ついたり消耗したりすることだ。
私の作風は優しくはないけれど、それでも「虐殺」なんていう強くて怖い言葉、できるなら一度だって投稿したくなかった。たとえ「反対」という打ち消しの言葉を伴っていたとしてもだ。
そういう「やりたくなさ」に目を瞑ってでも、これはやらなければならないことだ。そう思い、やっているわけなのだけれど。

優しくとか、穏やかにとか、整然ととか、感じよくとか、それだけじゃいられない時代になってきてしまったのではないか。私は最近、そんなふうに感じている。
みんなが深刻な話ばかりするようになったら怖いし息苦しいし、行きすぎれば全体主義みたいになっちゃうだろうから、そうなることを望んでいるわけではない。役割分担というのもある。雨が降ろうが槍が降ろうがひとつのトピックについての話しかしない人や、ゆるさが持ち味の人が、非常時にもいつもどおりでいてくれることで得られる安心感というのは、間違いなくある。そういった在り方を選択しつづける自由だって、各々が持っている。
ただ、そのような選択をしてもなお、おのれがいつもどおりを続けられることの特権性を突きつけられる機会が、これからは増えてゆくのではないか。
パレスチナに限った話ではなく。

写真展の会場で購入したものを、テーブルの上に並べた撮った写真です。

写っている本は4冊。内容は次のとおりです。

1.「国籍と遺言 兄への手紙:なぜ父は出自を語らなかったのか」
著者は安田菜津紀さん。表紙には、赤ちゃんを抱いた男性の写真が使われています。

2.「シロくんの日々」著者は高橋美香さん。猫のシロくんの写真集です。シロくんがベッドに横になっている写真が表紙になっています。

3.「ねこの描き方れんしゅう帖」著者は小泉さよさん。表紙には、かわいい猫のイラストがたくさん描かれています。

4.「パレスチナの猫」著者は高橋美香さん。パレスチナの猫たちを撮った写真集です。表紙には、眼光鋭くハードボイルドな印象の三毛猫が写っています。

この三毛猫の写真を使ったポストカードと、路地裏にたたずむ猫の一家を撮った写真(プリント)、書店キャッツミャウブックスのオリジナルブックカバーも、一緒に写っています。

色々買った。
かなりの出費になった。

このお金をガザに送るという選択肢もあったことを、考えずにいられない。
長く続けてゆくために、過剰な自制は禁物だと思っている。多少の我慢はしても、ぜんぶ断ったら続かない。そもそも、好きなものを買うことでそれを作った方に対価を支払うことが、間違っているはずがない。
それでも、たとえば美容室の予約をするとき、生き延びるのに必要なお金を得るために大切にしてきた長い髪を売らなければならなかったハニーンさんのことが、頭をよぎる。

さっき線を引くことについて書いたけれど、私にも、えらそうなことはなにも言えない。
映画『関心領域』を、私は他人事だと思えなかった。
自虐でなく率直に、これは自分だ、と思う瞬間が幾度もあった。

ガザでは今、大勢の個人の方が生き延びるためにSOSを発し、海外からの寄付を募っている。そうした個人の支援に対して消極的な人たちの多くは、その先に待つ自己矛盾や欺瞞をすべてわかった上で、むしろ良心や良識から線を引き、ここより先へは踏み込まないと決めているのだろう。
だけど、助けを求める人たちの存在を知りながら踏みとどまり続けるのは、とても苦しいことではないかと思う。
私にとっては、そうだった。それで、この家族だけ、と決めてサポートするようになったけれど、そうしたらそうしたでまた別の苦しさが続くだけだった。
みんな苦しい。
なにを選んでも、選ばなくても。
正解なんてどこにもない。
はっきりしているのは、この苦しさの原因である不均衡や理不尽は昨年の10月に始まったものではないということ。それだけだ。
私が知らなかっただけで、これまでもずっとそうだった。
そういう世界で、生きてきた。
ようやく知った今、できることをできる範囲で、やるしかない。

「引き続きそれぞれの場所で続けてゆきましょう。
 自分にできることを。時には、できると思っている以上のことを」
尊敬している人のこの言葉が、ずっと頭にある。

写真展の会場から職場に向かった。
着く直前、近くのトイレで「パレスチナのことを話し続けよう」Tシャツを脱いだ。かわいくて着やすいデザインだけれど、細々と詰めこまれたモチーフのなかに「虐殺」という文字(の一部)の書かれたプラカードが小さく描かれており、私はこれを、職場に着てゆくには「主張が強い」と判断した。
持参していた別のTシャツに着替えた。ロケット団のムサシとコジロウとニャースがクレーンゲームでピカチュウのぬいぐるみを取ろうとしているイラストがプリントされた、お気に入りだ。
あほらし、と思った。
あー、もうさー、私はなにやってるんだろ、ずっと。

寝る前に、展示会場で買った写真集『パレスチナの猫』をめくった。
猫を見ているというよりも、猫に見られていると感じた。

写真展会初日の夜に放送された番組。
安田菜津紀と佐藤慧さんの『Radio Dialogue』に、高橋美香さんがゲストとして出演された。写真展とあわせて、多くの方にふれてほしい。

本文には書けなかったけれど、安田菜津紀さんは私が尊敬するジャーナリストのおひとりだ。ユーチューブやポッドキャストで聴けるラジオ番組『Radio Dialogue by D4P』には、パレスチナのことをふくむ大切なことを日々教えてもらっている。
ご著書の『それはわたしが外国人だから?ーー日本の入管で起こっていること』も、広く読まれてほしい一冊。やさしい言葉で書かれており、漢字にはルビがふられている。小さな方々にもぜひ。

猫とパレスチナつながりで、最後に宣伝を。

↓は、ガザにいるハニーンさんと日本から彼女をサポートするチームが一緒に作ったチャリティグッズです。収益は全額ハニーンさんへの寄付になります。
この白い猫が誰なのか、どうしてこの子なのか、その解説をふくむハニーンさんの思いを、リンク先の商品ページでお読みください。(なぜかサムネイルの言語が英語になってしまうのですが、リンク先は日本語です)


ハニーンさんと作ったインタビュー記事も、併せてお読みいただけますと幸いです。

追記:
今パレスチナで起きていること(とこれまでずっと行われてきたこと)について知りたい方や、自分のいる場所からできることを探している方に、おすすめしているサイトです。まずはここを訪ねてみてください。ひとりぶんの小さな力の使い道がきっとみつかります。


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