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ガザからの声 〜アイマンさんとリハーブさんに聞きました〜

<はじめに>

 この記事は、パレスチナのガザ地区にいるハンマード家のみなさんへのインタビューの、第3回です。
 各回が単体で完結していますが、第1回から通してお読みいただくと、語り手のみなさんの生き様やガザ地区の過去と現在の状況などをよりよくおわかりいただけるのではないかと思います。

 今回お話を聞かせてくださったのは、お父さんのアイマンさんと、お母さんのリハーブさんです。
 ご自身やご家族のことに加え、ともに1960年代生まれのおふたりが2023年10月7日以前から続いていきた占領と抑圧を個人としてどのように経験されてきたのかを、それぞれの視点からお話しくださいました。

※全文無料でお読みいただけます。
 本文の最後にある「購入手続きへ」より記事をご購入いただきますと、売り上げがアイマンさんとリハーブさんへの寄付になります。
 また、<アイマンさんとリハーブさんへのインタビュー>の終わりに、寄付先へのリンクを貼りました。そちらもあわせてお願いいたします。


<アイマンさんとリハーブさんへのインタビュー>

●語り手のプロフィール

Mr. Ayman Mohamed Hammad(以下、アイマンさん
・58歳、男性
・お名前の”Ayman”は「祝福」「幸運」といった意の言葉。「神のご加護を」という願いもこめられている。
・出身地:エジプト
・特技:農業。アラビア語とその文法。
・趣味:花や木を育てること。動物を飼うこと。

Mrs. Rehab Abdel Karim Salah (Hamad)(以下、リハーブさん
・57歳、女性
・お名前の”Rehab”は「広い」という意味の言葉。
・出身地:クウェート
・特技:料理、アラビア語とその文法を教えること、パレスチナの歌をうたうこと。
・趣味:刺繍と裁縫

軍事侵攻が激化する前の、リハーブさん(左)とアイマンさん(右)
リハーブさんの手がけた刺繍作品

●それぞれの子ども時代について

―プロフィールを拝見して意外に思ったのが、おふたりの出身地についてでした。リハーブさんはクウェート、アイマンさんはエジプトのお生まれなのですね。おふたりともご家族はパレスチナ出身と伺っていますが、どのような経緯で海外にいらっしゃったのですか?

リハーブさん
「父がクウェートで教師として働いていたため、そこで生まれ育ちました」

アイマンさん
「私も同様です。父がエジプトで柑橘類の貿易の仕事をしていたんです」

―お仕事の関係だったのですね。親御さんはどんな方だったのでしょうか?

リハーブさん
「両親ともに心優しく愛情深い人たちで、私のことをとても大切に、特別に扱ってくれました。
 父は数学の教師でした。科学が大好きで、私たち子どもに教えることに対して情熱を燃やしていました。いつも勉強を手伝ってくれたんですよ。思いやりにあふれた、優しくて寛容な人でした。
 一方、母は教育を受ける環境が整っていなかったため、学業を途中で諦めざるをえませんでした。当時の親たちは女の子が教育を受けることを好まず、早く結婚させようとするものだったのです。母は読み書きが得意ではありませんでしたが、学ぶことに熱心だったので、きょうだいみんなで彼女を励まし、読み方を教えました。母もまた、私たちが学ぶことを支え、応援してくれました」

アイマンさん
「父は自力で成功した人で、非常に仕事熱心でした。ほとんどの時間を国外で過ごしていたため、顔をあわせることはめったにありませんでした。優しかったけれど、愛情を表に出すことは好みませんでしたね。子どもの教育に情熱を注いでいました。
 母は専業主婦で、愛情深く、心優しい人でした。私たちの面倒をみて、父の不在を埋めてくれました。母は父にとって2人目の妻で、私たちは大家族でした」

―ごきょうだいはいらっしゃいますか?

リハーブさん
「はい。3男4女、7人のきょうだいがいます。とても仲が良く、おたがいのことが大好きで、大きくなって部屋が分かれるまではひとつの部屋で一緒に眠っていました。勉学のために国を離れたり生活環境が変わったりするうちに直接会うことはなくなり、今はSNSで連絡をとりあうのみとなっていますが、思いあう気持ちは変わりません」

アイマンさん
「異母きょうだいもふくめると、姉妹が11人、兄弟が5人います。父は2度結婚したのですが、もうひとりの妻は別の国にいたため、そちらの一家と私たちのあいだには、家族としてのつながりはありませんでした」

―将来の夢はありましたか?

リハーブさん
「私の夢は、エンジニアになってきょうだいたちと暮らすことでした。みんなと離れ離れになることなく、ずっと一緒に生きてゆけたらと願っていました」

アイマンさん
「将来の夢は、警察官でした。それから、両親やきょうだいたちと同じ国で一生を過ごすことを望んでいました。ですが、彼らとは離れて生きることになりました」

―子どもの視点から、当時のパレスチナの状況をどのようにご覧になっていましたか。

リハーブさん
「祖国から遠く離れたクウェートの地にいたため、パレスチナのことはもっぱらテレビで見ていました。現地の状況を目にすることで、大きな影響を受けました。人々の苦しみを感じ、彼らの身に起こったことを悲しみ、パレスチナに行って彼らを支えたいと切望していました」

アイマンさん
「エジプトとパレスチナを行き来し、人々の肩にのしかかった不正を自分の目で見ました。悲しい思いをし、たくさん泣きました。すべての不正が私の国から消えることを望んでいました」

●おふたりのこと

―長女のハニーンさんから、おふたりは大学時代の同級生だったと伺っています。

リハーブさん、アイマンさん
「はい。私たちはイエメンのアデン大学で会いました。ふたりともアラビア語を専攻していたんです」

―なぜアラビア語専攻を選ばれたのでしょう? また、具体的にどのようなことを学ぶ学科なのですか?

リハーブさん
「子どもの頃から言葉を使うのが得意だったのと、アラビア語を教えてくれた先生方が大好きだったのとが、アラビア語専攻を選んだ理由です。学科では、アラビア語の文法、修辞学、文学、批評、韻律などについて専門的に学びました」

―なるほど。日本で言うところの国文学科のような感じなのですね。
 そのアラビア語学科でともに学ぶうちに、恋に落ち、やがてご結婚されたということですが……さしつかえなければ、おたがいのどんなところが好きかをお聞きしてもよいですか?

リハーブさん
「優しくて思いやりがあるところ、私を愛してくれるところやその愛情の伝え方、子どもたちとのすばらしい接し方、親切で一緒にいて楽しいところです」

アイマンさん
「優しくて思いやりがあるところ、家を清潔に居心地よく整えてくれるところ、子どもたちを立派に育ててくれているところ、困難な時に私の側に立ち、支えてくれるところです」

―ありがとうございます! 思わず顔がゆるんでしまいます。
 大学卒業後はアデンで2年間教師のお仕事をされて、そのあとハニーンさんが生まれたのですよね。そして、1994年に起きたイエメンの南北内戦をきっかけにパレスチナへと移られた。
 このとき、他の国に移住するという選択肢はあったのでしょうか。どのような理由から、ガザを選ばれたのですか?

リハーブさん・アイマンさん
「ヨーロッパの国に移住するという選択肢もありました。ですが、祖国に愛着があり、また、親族のそばで暮らしたいという思いも強かったため、ガザを選びました」

●お子さんたちのこと

―おふたりには、8人のお子さんがいらっしゃいますね。

リハーブさん
「はい。生まれた順に、ハニーン、ディーナ、ムハンナド、ナーディーン、アーヤ、サジャー、ミーナ、サルマー。ムハンナドが唯一の男の子で、あとはみんな女の子です」

―ハニーンさんとムハンナドさんから伺ったそれぞれのお名前の由来が、とても印象的でした。おふたりのインタビューを読んでくださった方からも、心に残ったエピソードとして挙げていただくことが多いです。よろしければ、お子さんたちのお名前の由来と名づけの理由を、改めて聞かせていただけますか。

リハーブさん
「『ハニーン』の意味は『切望と憧れ』です。家族から離れた海外で彼女を出産したため、この名前をつけました。

『ディーナ』は、大好きだった幼なじみにちなんでつけた名前です。『公正に国を治める女性』という意味の言葉です。

『ムハンナド』の意味は『剣』。剣のように強くあってほしいという願いをこめました。

『ナーディーン』は、当時観ていたドラマの主人公からとりました。とても好きなキャラクターだったんです。意味は「希望」です。

アーヤを出産したとき、私は大量出血で彼女を失いかけました。あの子に会えたのは、神が奇跡を起こして最後の瞬間に彼女の命を救ってくれたおかげです。それで『アーヤ』と名づけました。『しるし』または『奇跡』という意味です。

五女の名づけは、長女のハニーンによるものです。ハニーンには美しくて礼儀正しいサジャーという友人がいたのですが、その子の名前をもらうのはどうかな? と提案してくれたのです。『静けさと安らぎ』という意味も気に入り、それで『サジャー』になりました。

六女のミーナは、お腹にいたころはずっと男の子だと言われていたんです。なのに産まれてきたのは女の子だったので、神様からの贈り物だと考えました。それで『神からの贈り物と恩恵』という意味の、『ミーナ』という名前をつけました。

『サルマー』は、夫のお母さんにちなんでつけました。夫はお母さんを深く愛していて、彼女の名前を再び生かしたいと願っていたのです。意味は『無事で救われた者』です」

―ありがとうございます。おふたりがお子さんたちと一緒にかさねてこられた日々が、ひとつひとつのお名前から次々と浮かびあがるようで……伺っていて、胸がいっぱいになりました。
 8人のお子さんたちを育てる日々は、どんな様子だったのでしょうか。印象的なできごとを、いくつか聞かせていただけますか。

リハーブさん
「子どもたちを育てながら、一緒にいろんなことに取り組んできました。あらゆることを教え、彼らが重要ですぐれたひとになれるよう心がけていました。全員の勉強をみるために、ひとりひとりに私の時間を割り当てていました。
 トラブルも絶えませんでした。例えば、ムハンナドが生まれた時のことは決して忘れられません。眠っていたムハンナドに、ひとつ上の姉のディーナが塩素(系の洗剤)をかけようとしたのです。すんでのところで気がついたのですが、ムハンナドは息が止まりかけていて、急いで病院に連れてゆきました。末っ子のサルマーが灯油を水だと思って飲んでしまったときのことも忘れられません。こちらも間一髪で助けることができました」

―年の近い小さな子が8人もいたら、毎日がトラブルの連続ですよね。そういえば私も子どものころ、学校から持ち帰った墨汁のボトルを食卓に出しっぱなしにしていたら弟が間違えて飲んでしまった、ということがありました。母からものすごく怒られたなあ……。

リハーブさん
「美しい思い出もありますよ。私はいつも子どもたちを甘やかし、さまざまな遊び場に連れて行ったり、親子で一緒に楽しめるようなおもちゃを買ってあげたりしました。ムハンナドはいつも小さな車のおもちゃに乗って庭で遊んでいたのですが、ある日、急に姿が見えなくなってしまい、そのまま帰ってこなかったことがありました。探しにゆくと、なんと小さな愛車を通りに停めて、その中で眠っていたんです」

―小さなムハンナドさんが、おふたりに見守られながら過ごしていた子ども時代のことを想像したら、胸が温かくなりました。でも、同時に、苦しくもあって……。
 子育てのお話を伺ったことで、すべての大人がかつては子どもだったという当たり前のことの意味を、改めて考えさせられています。大人がひとり殺されるということは、抑圧と占領の下で、それでもその子を守り育ててきた人たちと、周囲の人たちの手を借りながら成長してきたご本人の、長い時間のなかでひとつひとつ積み重ねてきた営みが、まるごと奪われるということなのですよね……。
 たったひとりの身に起きるだけでもとんでもないことなのに、ガザの保健局から正式に報告されているだけで、すでに4万2千人の方の身に起きている。なぜ世界各国の政府はいまだにこれを許しつづけているのでしょう。どうして私たちは、これを止められずにいるのでしょう。

長女ハニーンさんと次女ディーナさん
長男ムハンナドさん
三女ナーディーンさん、四女アーヤさん、五女サジャーさん、六女ミーナさん、七女サルマーさん
現在、長きにわたる避難生活を送るみなさん。
一緒に写っているお子さんたちは、ハニーンさんの息子さんのアーダムさんとノアさんです。

●2023年10月7日以前の生活について

―今回、侵攻が激化して避難を強いられる以前は、どちらにいらっしゃったのですか?

リハーブさん
「私たちはガザ市の北、アル・サブラ地区に住んでいました。地中海沿岸に位置する美しく活気のあるエリアで、わけても海岸はお気に入りの場所でした。子どもたちと泳ぎに行ったり、ボートやラクダに乗ったりしました。かつて私の子どもたちを連れていった公園に、最近はハニーンの子どもたちを連れてゆき、楽しい時間を過ごしていました」

―どんなおうちにお住まいだったのでしょうか。

リハーブさん
「とても居心地がよく、美しく、暖かい家でした。庭ではバラ、オリーブ、レモン、オレンジ、グアバの木を育てていましたが、今やすべてが失われました。私たちの家は爆撃で破壊されました。子どもたちの思い出や私と夫の思い出も破壊されました。なにもかも灰になりました。私は涙を流しながらこれを書いています。彼らは私たち全員の心を壊しました」

―辛いことを思いださせてしまって、ごめんなさい……。

「謝らないでください。あなたの質問に答えながら、過ぎ去った日々を思い出したり美しい記憶と再会したりできるのは、幸せなことなのですから」

― ……ありがとうございます。……質問を続けます。
アイマンさんは、動物を飼うのがお好きだと聞きました。侵攻前はなにか飼われていましたか?

アイマンさん
「はい。ハト、ニワトリ、アヒル、スズメ、ウサギ、ネコを飼っていました。みんな我が子のように可愛く、とても愛着を持って世話をしていました。
 一度、庭で飼っていた鳥たちが嵐のせいでみんないなくなってしまったことがありました。落ちむ私に、妻がサプライズで新しい鳥たちを買ってくれました。私は彼らを大切に、子どものように可愛いがりました。
 ですが、戦争で家が破壊されたとき、私はすべてのペットを失いました。救えなかった自分を責めています。彼らのことを思うと胸が痛いです」

―お話を伺っているだけでもつらいです……。
 ムハンナドさんからは、愛犬のエースが爆撃を受けて崩れた家の下敷きになって死んでしまったと伺いました。ハニーンさんの愛猫カラザも、検問所で奪われてしまったと……。軍事侵攻が激化してから、いったいどれだけのペットたちが、文句も言えないまま殺されたり飼い主から引き離されたりしてきたのでしょう。本来は、愛されて幸せになるために生まれてきたはずの命なのに。

軍事侵攻が激化する前に住まれていたおうち。
すべてが空爆で破壊された。


―侵攻が激化する前は、どのような一日を過ごしていらっしゃったのでしょうか。

リハーブさん
「起床すると、各々ベッドを整え、私はみんなの朝食をこしらえました。朝のコーヒーを飲んでから、子どもたちを学校に送り出し、夫は仕事に行きました。その後、市場に行って食料を買い、子どもたちと夫のために食事の支度をしてから、他の家事をこなしました。子どもたちが学校から、夫が仕事から戻ると、居間のテーブルに集まりました。休憩してから、子どもたちは宿題をし、必要に応じて私と夫も手伝いました。宿題を済ませた後は、みんなで座り、おしゃべりを楽しみました。夕食をとり、少しのあいだテレビを見てから、早めに寝ました。美しく平和な生活でした。すべてが恋しいです。あの素晴らしい、心安らげる日々に戻りたいです」

―2023年10月7日以前に、日常生活のなかで恐怖を感じたり暴力に晒さられたりしたことはありますか?

リハーブさん
「はい。ここガザでは、常に戦争と軍事侵攻が現在進行形で繰り広げられています。安全や安心といったものは、存在しません」

●2023年10月以前から続いてきた、占領と抑圧の歳月のなかで

―リハーブさんが今しも仰ったように、パレスチナで起きていることは、昨年の10月に突然はじまったことではありません。
 ともに1960年代の後半に生まれたリハーブさんとアイマンさんは、長きにわたる占領と抑圧と、その中でパレスチナに起きたいくつもの大きな出来事を、個人としてどのように経験してこられたのでしょうか。

第一次インティファーダ(1987年〜1993年):イスラエルの占領に対してパレスチナの人々が起こした民衆抵抗運動。ストライキやデモ、投石などを通じて非武装の抗議行動が行われた。

リハーブさん(当時19歳)
「当時住んでいたクウェートから、ガザを訪れました。ユダヤ人(*原文ママ。インタビューのあとに「後註」があります)が幼い子どもたちを捕らえ、軍の駐屯地や刑務所へと連れ去るのを目撃ました。まだ9歳にもならないような子どもたちをです。彼らは許可なく家々に押し入り、罪のない家主たちを連行し、拷問していました」

アイマンさん(当時20歳)
「当時はイエメンにいました。インティファーダを直接経験することはありませんでしたが、精神面では非常に大きな影響を受けました。パレスチナにいる仲間たちの身を案じていました」

・オスロ合意(1993年):パレスチナ暫定自治協定が成立し、パレスチナ解放機構(PLO)とイスラエルが初めて和平交渉を開始することに合意。和平への機運が高まった。

リハーブさん(当時26歳)
「イエメンで、長女のハニーンを出産したばかりでした。夫はパレスチナの軍隊(*)とともにガザおり、ハニーンと私も後から彼に合流するつもりでした。
 しかし、いざガザに向かおうとすると、占領軍によって阻まれました。訪問許可を得るまで入境は許されず、私たちはカイロの空港で待ちました。リビアへと国外追放され、そこで一ヶ月ほど待機している間に、夫が訪問許可を取得してくれました。
 それからガザに着き、ようやく夫と再会し、ユダヤ人たちが去った後の故郷で自由を味わいました」

アイマンさん(当時27歳)
「イエメンから、パレスチナの軍隊(*)とともにガザに来ました。自由と勝利を感じられた、素晴らしい経験でした」

*おふたりがともに用いられた” Palestinian forces”という言葉をそのまま「パレスチナの軍隊」と訳していますが、正確には、PLOの部隊のことだそうです。イエメンを含む中東諸国に亡命していたパレスチナの人々が、それぞれの亡命先でPLOなどの組織を作っていた。オスロ合意の後、そうした人々の多くが組織とともにガザや西岸地区に戻った、という背景があります。


・第二次インティファーダ(2000年〜2005年):オスロ合意後も和平が進展しないなか再び始まった、イスラエルの占領に対する大規模な抗議運動。

リハーブさん(当時33歳)
「あれは本当に酷い経験でした。当時、私のお腹には娘のアーヤがいたのですが、ユダヤ人に催涙弾を投げつけられ、そのせいで窒息しかけました。生死の境を彷徨い、お腹の子どもも失うところでした。
 占領軍は、通りにあふれたデモの参加者に爆弾を投げつけました。ただ平和的な手段で要求を表現する自由を求めていただけの人たちが、虐殺されました」

アイマンさん(当時34歳)
「私はパレスチナ自治政府の軍人として、指導者の指示に従い軍務を遂行していました。任務中に何度もイスラエルの軍事侵攻に遭いました。その際に足を負傷し、今もその傷に苦しんでいます」

ガザ虐殺(ガザ紛争)(2008年12月27日〜2009年1月18日)

リハーブさん(当時41歳)
「非常に困難な戦争でした。どこもかしこも虐殺とミサイルだらけで、家々が爆撃され、あらゆるものを破壊され、子どもだろうが大人だろうが女性だろうが障害があるひとだろうが関係なく殺されました。私も、いとこたちを何人も失いました。
 爆撃の後、彼らは陸路でガザに侵入し、戦車で子どもや女性を轢き殺しました。彼らは誰に対しても容赦がなく、あらゆる種類の拷問をパレスチナの人々に加えました。当時の私たちは、生活を維持するために必要な最低限のものすら一切持っていませんでした。彼らがライフラインを遮断し、食料や電気などすべてを奪ったのです」

アイマンさん(当時42歳)
「悲惨な経験でした。包囲が始まったことで、電気や水など生きてゆくために必要なあらゆるものが失われてゆきました。心を寄せていた大切な人たちをたくさん失いました。家を失い、建てなおしました。ですがそれも、今回の戦争で再び失いました。私たちは避難を余儀なくされ、爆撃の下で非常に困難な日々を過ごしました」

―以降も、2012年、2014年、2021年と、イスラエル軍はガザに対して大規模な軍事侵攻を行ってきました。なかでも2014年には、空爆と地上侵攻が51日間にわたって続き、死者2,251人、負傷者約11,000人、全壊・半壊家屋18,000戸という大きな被害がもたらされたと……。

リハーブさん、アイマンさん
「非常に厳しく、痛ましい経験でした。ですが、今のこの戦争と比べると、あれすらもバケツのなかの一滴に過ぎなかったのだと感じてしまいます。
 当時は子どもたちがまだ大人になっていなかったので、常に彼らのことが心配でした。何が起こっているのかをまだ理解していなかった子も、いとこが殉教したときは遺体を見て怯えていました。あの日のことは決して忘れません。神様のおかげで、どうにか過ぎ去りました」

―つい3年前の2021年にも、11日間にわたって侵攻が激化していた期間がありました。

リハーブさん
「あの戦争で、私たちは人生で初めて『炎の輪(”Ring of Fire”)』(*)の音を聞きました。残酷かつ凄まじい戦争で、一日一日が千年のように感じられました。爆撃が迫っていたので家族みんなで階段の下で寝た夜もありました。炎を見ました。厳しい夜が続きました。すべての生活手段が断たれ、水も電気も食料もなく、検問所も閉鎖されました」

―ごめんなさい。「階段の下で寝た」という部分が、うまく理解できませんでした。おうちの中にある階段の下、という意味ですか? 階段と爆撃がどう関係しているのでしょうか。

「階段の下は、窓や扉がない閉ざされた空間になっているんです。そこならばミサイルの破片が入ってこないので、眠る場所に選びました」

―……ということはつまり、防空壕やシェルターのような、爆撃の際に避難するための場所はない、ということですか……?

「残念ながら、爆撃から身を守ることができる場所はありません。これに関してはもう、運命と命を神に委ねるしかないんです」

*リハーブさんが「炎の輪(”Ring of Fire”)」と呼んだのと同じものを、四女のアーヤさんは「炎の帯(”Belt of Fire”)」という言葉で呼んでいました。どちらも、ロケットやミサイルが長時間にわたって連続して発射される状況を指すようです。「炎の帯」は、大量の攻撃が空中で炎の帯のように見える様を、「炎の輪」は爆発に周囲を取り囲まれ四方八方から攻撃を受けている感覚を表現しているのだと解釈しました。いずれにせよ、私には具体的に思い描くことすら困難な状況です。

―おふたりからお話を伺えば伺うほど、今起きていることが10月7日に空から突然降ってきたかのように語られることの理不尽さを痛感させられます。
 現在の状況の凄まじさと比べたら、過去の侵攻は「バケツのなかの一滴」だ。
 リハーブさんが仰っていたのと同じ意味あいの言葉が、あちらからもこちらからも聞こえてきます。どうしてこうなる前に止められなかったのか。今もなお止められずにいるのか……。最悪が更新されつづけるいっぽうですが、せめて今ここで、一秒でも早く、止めたいです。

●2024年10月末現在のこと

―イスラエル軍によって家を破壊されて以降、おふたりはご家族とともに避難生活を余儀なくされています。四女のアーヤさんから、みなさんがこの1年のあいだに5度にわたる移動を強いられてきたと伺いました。そのいずれもが “退避勧告“という名の爆撃予告、強制退去命令を受けてのものだったと……。
 現在は、どちらにいらっしゃるのでしょうか。

リハーブさん
「ガザ南部のデイル・アル=バラフに。小さなテントで、夫と子どもたちと一緒に暮らしています(*)」

*ご家族のほかにも、甥(あるいは姪)っ子さんのまだ幼いお子さんたちがいらっしゃり、12人がひとつのテントで暮らしているそうです。

12人がこの小さなテントで生活することを強いられています

―現在の生活の状況について教えてください。

アイマンさん
「何からお伝えすればよいかわかりませんが……戦争と、それに伴い高騰する物価のせいで、非常に悲惨かつ困難な状況が続いています。私たちは寄付に頼りきりになっています。支えてくださる方々の善意は、決して忘れません」

―現在は、どのような一日を送っていらっしゃいますか。

アイマンさん
「毎朝目覚めると、妻と私はお互いに仕事を分担します。私は薪を集めて火をつけます。妻は子どもたちの空腹を満たすために何らかの食料を買いにゆき、みんなの食事を準備します。息子のムハンナドは水を得るために長い列に並び、娘たちは服を手で洗います。私たちは疲れ果てています。さまざまな病気に心身を苛まれながらも、自分たちのことは自分たちの手でなんとかしなければならない状況です」

現在の生活の様子。
三女のナーディーンさんが「母は、パンを焼くために毎日長い距離を歩かなければなりません」と投稿されていたのは、もうだいぶ前のことです。イスラエルによる物流遮断が長引くにつれて物価の高騰と品不足は悪化する一方で、最近ではガザのあちこちから「小麦が手に入らなくてパンを焼くことができない」という声が聞こえてくるようになりました……

―今の生活に、どのような困難を感じていますか。

リハーブさん、アイマンさん
「私たちの生きる暗い日々は、それ自体が非常に困難なものです。慈悲もなければ特定の目標もなしに至るところを爆撃する大砲やミサイルの音で目を覚ます、そんな毎日。あらゆる瞬間において、常に死にさらされつづけています。
 また、私たちの娘のひとりは、精神的な病気とともに生きています。本来であれば、安定した、安全で安心できる環境と、症状をおさえるための薬を必要とする病気です。残念ながら、現在の厳しい状況においては、これらを満足に提供することができません。他の子どもたちのことも、ミサイルから守る術はありません。子どもたちに安全と安心を与えられないことが、なによりも苦しいです」

―みなさんがいらっしゃるのは“人道地帯”と呼ばれている地域ですよね。イスラエル軍による“退避勧告”を受けて攻撃対象にならない場所へと避難したはずなのに、その避難先にどうしてミサイルが降ってくるのか……。

リハーブさん
「残念ながら、ガザは至るところ危険だらけです。安全な場所など存在しません。私たちはあらゆる瞬間、あらゆる場所で死にさらされています」

―もしも占領や暴力に脅かされずに暮らせるとしたら、どこに住みたいですか?

アイマンさん
「私は自分の国を愛しています。今でも非常に愛着があり、失われてしまった安心と安全が恋しいです。
 その一方で、日本に住んでみたいとも強く思っています。私も妻も子どもたちも、日本の人たちが大好きなので。人生で最も困難な状況や日々において、私たちを助け、励まし、支えてくれているのが、日本の人たちだからです」

―……想定していなかったお返事に戸惑っています。「嬉しいです。ぜひいらしてください」と手放しに喜べたらよかったのですが、残念ながら、今の日本は移民の方にとって暮らしやすい環境だとは言い難いというのが、私個人の見解です。少しでもましな方へと変えてゆかなければなりません。
 それから、もうひとつ。アイマンさんやご家族のみなさんは、いいえ、私が間接的にお顔やお名前を存じあげているガザの方の多くが、いつも丁寧にお礼を言ってくださいます。「大好きです」というような言葉をみかけることも多々あります。
 でも、こうした言葉にふれるたび、私は、嬉しさよりも苦しさや後ろめたさを感じるんです。他の方のことはわかりませんが、少なくとも私に関して言えば、みなさんのお手伝いをしているのは、思いやりがあるからではありません。同じ状況になったときに誰も私を助けてくれないのでは困るから。ここまで人権や国際法が踏み躙られ続けているのに止められない世界が怖いから。そういった自分本位な気持ちからしていることです。今のこの状況を作ることに加担してしまっている身として、せめて自分にできることをしたい、という思いもあります。いずれにせよ、まったくもって感謝されるようなことではありません。だから複雑な気持ちになるんです。
 一方で、モニターの向こうにいる相手を好きになるという感覚ならば、私にもあります。アイマンさんとリハーブさんのこともそうです。お話を伺ううちに、勝手ながら、もっとおふたりのことを知りたいと思うようになりました。インタビューのためではなく友人として、モニタ越しではなく対面で、おしゃべりがしたいです。
 いつか解放されたパレスチナで、もしくは日本で、あるいはまた別のどこかで、お会いできたらと願っています。

 すみません。自分の話が長くなりました。
 あと少しだけ、質問させてください。

―現在の状況を、世界に対してどのような言葉で伝えたいですか。

リハーブさん、アイマンさん
「ここは非常に悲惨な状況にあります。あらゆる瞬間に、あらゆる場所が爆撃されています。彼らは無警告かつ無慈悲に家々を爆撃します。その家の所有者の頭上で、です。数えきれないほどの遺体が、今も瓦礫の下にあり、腐敗しています。そこかしこで誰かの身体の一部にでくわします。どこにいても血の臭いがします。食料を得ることが困難で、高価な価格で入手可能です。人々はテントに住んでいます。テントは寒さやミサイルの破片から守ってくれません。私たちは水、食料、電気、薬など、生きるため、人間であるために必要な、最低限の品すら欠いています。それらはすべてなくなってしまいました。今や、街は幽霊のようです」

―最後の質問です。おふたりにとって、幸せとはなんですか?

リハーブさん、アイマンさん
「幸せとは、安全で、平和で、心配事がなく、安心していられることです」

―この記事を読んでくださった方へメッセージをお願いいたします。

リハーブさん、アイマンさん
「私たちハンマード家一同は、人生で最悪の日々を過ごしています。私たちはジェノサイドに晒されており、生きるために必要なあらゆるものが不足しています。この記事を読まれたみなさんが、私たちの現状に心を寄せ、この困難な状況下で味方として支えてくださることを望んでいます。あなたたちのおかげで、私たちはより強くなれます。私たちを忘れないでください。
 時間がありません。生き延びたいです。
 あなたの支援は私たちの命を救うだけでなく、闇の中で希望の光となってくれます。私たちが、今のこの人生のなかで新しい機会を得たいと願っていることを、どうか知ってください。自由なパレスチナの心より、愛をこめて」

―リハーブさん、アイマンさん、本当にありがとうございました。

ハンマード家のみなさんをサポートするクラウドファンディングはこちらです。

・サイトは日本語非対応です。
・オレンジ色の"Donate Now"(寄付をする)ボタンを押して、飛んだ先のページで任意の金額を入力してください。いっけん25ユーロ以上でないと寄付できないように見えますが、金額の欄に直に数字を打ち込めば、5ユーロから可能です。
・Tip(GoFundMeに渡る手数料)は、スライドバーを左右に動かして変更できます。(0も可)。
・匿名で寄付したい場合は「Don't display my name〜」にチェックを入れてください。

 リハーブさんとアイマンさんは、最終的にはご家族でガザからエジプトへと脱出することを望まれています。
 国境の検問所を越えるには大金が必要です。また、現在は検問所が閉鎖されており、ふたたび開かれるまでの日々を生き延びるための食費や生活費や医療費もかかります。仕事をしてお金を稼ぐ手段が奪われている現在、GoFundMeがみなさんの唯一の収入源で、これが途切れてしまうと生きてゆくことができません。
 たくさんの方が少しずつ出しあうことで、どうにか繋げてゆきたいです。
 何卒よろしくお願いいたします。

<インタビュー:後註>

註1:ハンマード家のみなさんのお名前の表記について

 聞き手の糸川にはアラビア語の知識がありません。ゆえに、日頃パレスチナの方のお名前を書く際は自分の判断でカタカナに直すことはせず、ご本人による表記(たいていの場合、英語のアルファベット)をそのまま使用しています。ただし、ハンマード家のみなさんのお名前に関しては識者の方から最も原語の音に近い日本語表記を教えていただく機会があったため、カタカナで記しています。

註2:「ユダヤ人が幼い子どもたちを捕らえ、軍の駐屯地や刑務所へと連れ去るのを目撃ました。」をはじめとする、「ユダヤ人」という表現について

 当インタビューでは、ご本人の使われた言葉をあたうかぎり原文のニュアンスを損なわない形で訳すよう心がけています。該当箇所をはじめ、リハーブさんが「ユダヤ人」という言葉を使われた箇所は、すべてそのまま日本語に訳しました。
 その上で、聞き手であると同時に非当事者である私の立場から、自分のようにパレスチナに目を向けるようになってまだ日が浅い方に向けて、補足をさせてください。
 「ユダヤ人/系であること」と「シオニストであること」は、イコールではありません。イスラエルによるシオニズムに対して批判的な立場をとっているユダヤ系の方は、世界中に大勢います。その一例が、米国を拠点に活動する団体“Jewish Voice for Peace”です。当団体は、ユダヤ系の立場からイスラエルの占領政策や人権侵害に反対の声を上げており、その様子はたびたびメディアでも取り上げられています。


<聞き手による追記>


 リハーブさんとアイマンさんへのインタビューは、機械翻訳の助けを借りながらメールで行いました。また、インターネットの環境や使用端末、使用言語(英語)の関係で、おふたりと私が直接会話をすることは難しかったため、三女のナーディーンさんと四女のアーヤさんにやりとりを仲介していただきました。

 ガザにいるほぼすべての方がそうであるように、ハンマード家のみなさんも、劣悪な栄養状態と衛生環境、医療システムの破壊、過酷な避難生活のストレスなどさまざまな原因からくる心身の不調を、常時抱えています。そのうえ日中は飲み水や食料の確保に追われ、夜は爆撃の恐怖や不安や空腹や痛みでろくに眠れず、ネット環境は不安定、スマートフォンを充電するために遠くまで出かける必要があり……といった状況では、心身が休まる暇などありません。
 そのような過酷な状況にありながら、聞き手として十分な知識を備えているとは言い難い相手から投げかけられる数十の問いに答えていただくのは、どんなに大変なことだったか……。想像するだけで気が遠くなり、同時に、身が引き締まります。
 リハーブさんとアイマンさんが聞かせてくださった声をひとりでも多くの方に届けたいです。
 お読みくださったみなさまも、お力添えいただけますと幸いです。

●ベイト・ハヌーンにあった家のこと

 歌人の山中千瀬さんが「文學界2024年9月号」に、ハンマード家のナーディーンさん、ハニーンさん、ムハンナドさんから聞いたお話をもとにつくった短歌連作「会ったことのない妹たちのこと」が掲載されています。ひとりでも多くの方にお読みいただきたい作品ですが、ハンマード家のみなさんをご存知の方には、特に強くおすすめします。

 同じく山中さんの描かれた、ナーディーンさんへのインタビューをもとにした漫画もぜひ。


 山中さんの短歌と漫画に、共通して出てくる地名があります。
 ガザ北部に位置するベイト・ハヌーン。かつてそこにはナーディーンさんたちのおじいさまの建てた家があり、いくつもの休暇を家族で過ごしたのだそうです。
 この家にまつわる記憶についてお父さんのアイマンさんに伺うと、次のように話してくださいました。

「私たちはよく自分たちの土地(*ベイト・ハヌーンにあった家のこと)を訪れ、楽しい時間を過ごしました。オレンジやレモンなどの柑橘類を摘んだり、ネットを張って子どもたちや親戚とバレーボールをしたりしました。昼食には肉を焼きました。私は肉を焼くのが得意なんですよ。
 夜になるとシートを広げて火を焚いて、朝まで起きていました。おしゃべりをしながら、笑いあって過ごしました。
 本当に美しい日々でしたが、今では惜しむことしかできません。占領によって土地が完全に支配下に置かれ、私たちの思い出はすべて消されてしまいました」

 お話の最後の部分については、長女のハニーンさんからも次のように伺っています。

「占領者が父から無理やり土地を奪い、そこにバリケードを立てました。あんなふうに涙を流してくずおれる父を見たのは初めてでした。今も忘れることができません」


●三女・ナーディーンさんのこと

 ハンマード家の三女ナーディーンさんは、ご結婚を機にガザを離れ、現在は海外で暮らしています。昨年の秋に軍事侵攻が激化して以降は、ガザのご家族を支えようと遠くから尽力されてきました。じつは今回のインタビューも、ナーディーンさんからいただいた「もう一度、私たち家族のことを記事にしてくれませんか?」というDMをきっかけにはじまったものでした。

 そのナーディーンさんですが、今から約3週間前、10月頭の投稿を最後に、Xをお休みされています。

「今日、人生最悪の報せを受けました。親友がガザで殉教したのです。打ちのめされています。この悪夢はいつ終わるのですか?彼女がいないことにどうやって慣れればいい?彼女がとても恋しいです。また誰かを失うのではないかと思うと、怖くてたまりません😭😭😭💔💔💔」

「心がひどく痛みます😞
戦争が終わったら、親友に会いにゆきたいと思っていました。
でも、彼女は殉教してしまいました。
堪えています。アカウントを妹のアーヤに預け、しばらくここを離れます。親友を悼んで下さる皆様に感謝を。どうか私の家族を忘れないでください。」

 大切な人たちがいつ殺されてもおかしくないのに自分だけが離れたところにいて何もできない苦しみを、ナーディーンさんはXでたびたび吐露されていました。

 少なくともまず停戦が果たされないかぎり、この苦しみは続きます。

●四女・アーヤさんのこと

 ナーディーンさんがXをお休みしているあいだ、ナーディーンさんのアカウントは四女のアーヤさんにゆだねられました。
 いつも優しく細やかなメッセージをくださったナーディーンさんがいなくなってしまった当初は、寂しさと心細さがありました。ですが、アーヤさんとやりとりをはじめてすぐに、少なくとも後者は消えました。
 アーヤさんは、心をこめた言葉を送ってくださる方です。のみならず、こちらの言葉を受けとる際も、耳を澄ませるように丁寧に受けとってくださいます。私たちは波長があうようで、インタビューのためのメッセージ交換をかさねるうちに、事務的な話の合間におたがいの写真を送りあったり、いつか一緒にカフェでお茶をしたいね、などとおしゃべりするようになりました。

 でも、どれだけ距離が縮まったように感じても、アーヤさんと私のあいだには、果てしない隔たりが存在します。それを痛感させられるできごとが、毎日のように起きています。

 たとえば、10月14日。
 この日の未明、ガザ中部にあるアル・アクサ病院で、避難民の方のテントが並ぶ一画をイスラエル軍が空爆しました。生きたまま焼かれて殺された方のことが大きく報じられたのを、目にした方もいらっしゃるかと思います。
 この病院は、アーヤさんたちが避難生活を送るテントのすぐ近くにありました。爆発音を聞いて現場に駆けつけたアーヤさんは、自分が目の当たりにしたものについて、次のように投稿されています。

「私達が今日、目の前で人々が灰になるのを見たなんて、あなたには想像もできないだろう😭😰😭
誰も何もできなかった。
炎が激しすぎて近づけず、ただ叫びながら見ているしかなかった。
人々が燃えるのをみんなで見ていた。
彼らの体は火に焼かれ、私達の心も焼け落ちた😰」

「あなたには想像もできないだろう」

……本当に、そのとおりです。

 人が生きたまま焼かれるということ。それを目撃してしまうということ。
それがどういうことなのか、私には想像もできません。
 リハーブさんから「爆撃が迫っていたから階段の下で眠った」と聞いても爆撃と階段の関わりが理解できないし、アイマンさんの「どこにいても血の臭いがする」という言葉に具体的な臭いを嗅ぎとることは難しい。
 (今のところはまだ)爆弾が降ってくる危険のない空しか知らない私には、現地で起きていることの意味や重さが、なにひとつとして、本当にはわかりません。
 どれだけお話を伺ったところで、この感覚は変わりようがないものなのだと思います。

 それでも私は、みなさんが話してくださるのであれば、その語りをこれからも聞きたいです。
 途方もなく遠いけれど、でもやっぱり、ちっとも遠くなんかないじゃないか。
 血の通った声に耳を傾けることで、何度もそう実感してきたからです。

 いつか、アーヤさんとカフェに行きたいです。
 ハニーンさんとも"a potato tray with meat"(とハニーンさんたちが呼んでいる、正式な名前のないおうちごはん)を一緒に作る約束をしています。

 その日を少しでも近づけるために、自分にできることを続けてゆきます。
 決して同化はできないし、すべきでもない非当事者の立場から。
 この状況を止めることができずにいる当事者のひとりとして。


 この理不尽を止めるために、自分にできることを探している方へ。
 あなたのいる場所からひとりぶんの力でできることが、たくさん紹介されているサイトです。
 ここを訪ねたり、こんなサイトがあるよと周囲に紹介することも、「できること」のひとつです。


 以上で本文はおしまいです。
 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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