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愛と結合

お久しぶりです。
Twitter凍結の件もありまして伊藤三時に戻りました。今後とも、よろしくお願いいたします。

近況はと言いますと、特に何か変わったわけでもなく。強いていうなら薬が変わって前よりも安定してきたことや、それに伴ってお仕事のドクターストップがなくなったことで働き口が見つかったこととかでしょうか。
2月に入るまでは暇なので、今はハーブティーを飲んでこれを書いています。濃く煮出していたり、ジュニパーベリーを入れているのもあってか、ほんのり苦味を感じます。多分他の要素もありますが。

友達の企画のお手伝いをしたり、今年度はなかなか後半が濃いです。今も現在進行形でお手伝いをしていますしね。自分がやりたいことが見つからない時は、他の人の夢をお手伝いするのも手ですよと、教えてくれた大学の教授のことを思い出します。

人の日記というのは面白いもので、人に読まれることを意識しながら書いてしまうものなんだそうです。たとえ誰かに見せなくとも、だんだんと。そういう意味ではブログの文化は見られること前提ですから、そこから人間の精神性の在り方が少しは変わっているかもしれません。

日記といえば思い出す本があります。サムネイルに写っている本ではないのですが、『八本脚の蝶』という、二階堂奥歯さんが書いた本です。
この本についての話はいつかしたような気もします。文庫版ですと裏表紙に記載があるので書いてしまいますが、彼女は25歳の若さで自ら命を断ちました。この彼女が死ぬ直前までに書いていたブログをまとめたのが『八本脚の蝶』という本です。

彼女は本はもちろんのこと、さまざまなことに対する知見が深かったようです。フェティシズムに関しては特に、埋もれるほど好きな反面、批判的に話すことも本文中ですと感じられます。しかしそれ故(多分他に読んだ人がいたら『そうではない』と批判が来ることを覚悟してあえて言いますが)、その鋭い感受性と頭脳の性能の高さのあまりに絶望し、そして彼女の影響されているであろう作品、『ヘルタースケルター』の主人公のように、自ら崩壊を選んだように思えて、私は仕方ないのです。そして心の底が信じてやまないのです。彼女は、死をもって物語そのものとなることを選んだ人間だということを。

写真にある『愛するということ』という本は哲学の本で、この本の第一章の書き出しが私はとても好きです。一時期アクセサリーにしていたドックタッグ(ひと昔前に流行りましたよね)にその刻印をしていたほどには。

愛は技術だろうか。もし技術だとしたら、知力と努力が必要だ。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』

Love is an art.ちなみに、『愛は技術だろうか』を訳すと大体こんな感じだそうです。
愛は人間が元から持っているものではなく技術であることを主張し、そして人間は愛することについて修練せねばならない、のようなことが書いてあります。

愛すること、愛されること、そしてそれが具体的に形を伴って現されることを人間は重要視します。それなのに愛されたい、愛したい、と人は元々持っているはずの愛という名の概念をなぜ求めているのだろう? と個人的には思っていました。
キリスト教の知識が若干ですが必要なタイプの本なのでこの本をまだ読破はできていませんが(正直哲学書は読むのに時間がかかる)、『身体、または心の部分で人間が結合することを全て愛とすることに対しては、懐疑的な視点を持たなくてはならない』としています。

ところで『八本脚の蝶』の二階堂奥歯さんは、物語を愛したのでしょうか。それとも、物語と『結合』することを選んだのでしょうか。もし結合することを選んだのだとしたら、それが彼女の『愛の形』であったのか。はたまた、愛してはいないがつながりができることを未来に託して身を投げたのか。それとも単に持っていた病による衝動的自死であったのか?

いずれにせよ、死したものには口はなし、ですね。

私たちはつながることを愛と錯覚していることが多いですが、そこは改めてみて、修練に励むことをおすすめします。

愛と結合、でした。


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