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エンドロール:01

人生で闇を見た時とかに、不定期に朝から断捨離をするのだけれど、今年の秋の断捨離は午前四時から始まった。服を捨て本を捨て、確定申告では使わなそうなレシートを捨て、鞄とかも時期的に使わないデザインのものは捨ててく。大丈夫、麦わらのバッグなんてチクチクしてるから滅多に使わん。こんなもんもそんなもんも意外と使わん。捨てろ捨てろと捨てまくり、ゴミ袋は6袋になりました。

これを朝になってから共用のゴミ捨て場に出しに行く。うちの住んでいる地域はゴミの基準がガバガバなので殆どが燃えるゴミだ。汚れているプラスチック製品とかもそう、全部燃えるゴミになる。ゴミの日を気にすることがあまりないから楽だと感じる。
そしてゴミ袋がなくなった部屋で、私は一息ついて、眠りについたり、また再び断捨離を始めたり。この日は流石に寝たけれど。

話が変わるけど、人生って必ず終わる。しかも何回も。普通でもだいたい百回は終わると思ってる。だから人生って何回もある。いや、何百回もある。やり直しは効かないけど、また始めることは何回だって出来る。

人生が終わった瞬間?
例えばテストで0点とか、メンタル潰れた時とか、社会的にあ、死んだって思った時とか。あとはなんだろう、際たるものは失恋の時とか。

ある意味断捨離は私が「あー、そういや人生終わったな」って思った時の儀式みたいなものである。断捨離が終わるとまた空いたそこに新しいものが詰め込まれていくのが基本的な流れ。デトックスとか、心の新陳代謝とか、そういう感じになるんだと思う。

断捨離が終わると本当にスッキリする。やり残したこととか、終わったこととか、そういうものも全部捨てるから。中にはとっておきたいものもあったりするけれど、それはそれ、これはこれ。わからないものもじゃんじゃん捨てていく。あ、これは使わないなって思うものも。値段を気にすることなくじゃんじゃん捨てていくのである。

起きて気がついたら朝を過ぎて昼で、ご飯を食べなくちゃなぁと考える。何を食べようとか考えて結局いつもの納豆ごはんにした。お酢を入れてタレ入れてカラシ入れて、ごはんにかける。私は日常に戻ってゆく。
この考える行為こそが私を私たらしめている。きっと細胞レベルまで考えることに特化しているのだろうなあと思うこともよくある。断捨離の時は思考を放棄しているようでしていない。思考、これこそが私の全てなのである。

人生のエンドロールは何度だってやって来る。だから大丈夫さ、また新しい物語を始めればいいじゃないか。

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