阪神淡路大震災・私の記録(2)店と道中と
17日 昼
店の様子を見に行こうと車を出す。
信号は点灯しておらず、道路はうねったり割れたりしている。
その道の両側のそこここに段ボールや板切れが貼り付けてある。
まだ携帯電話が普及していなかった時代で連絡方法は限られていた
「○○に避難しています」などの無事を知らせるものもあるが、
壊れた家の前に「○○が中にいます」「○人埋まっています」などと書かれたものもあった。
「ガス漏れしています」と危険を知らせてくれるものもあったが、数珠つなぎになった車はそのまま通り過ぎた。
橋の手前に車が2~3台停まっていて、橋の向うにいるの膝から下が見えない。前の車の男性だろうか何人かでどこからか板を持って来て、橋のところで何やら作業をしていた。それが何だったのかは橋を渡る時に分った。土台からしっかりと造られていた橋の高さはそのままだが、前後の道が陥没して大きな段差ができていたのを板で坂道を作っていたのだ。向こう岸の膝から下が見えない人たちも同じような作業をしていたのだと思う。その人達のおかげで橋を渡ることができた。
車で10分ほどの距離に1時間くらいかかった。
店は
建物の1階3軒並ぶ路面店の真ん中に店がある。その前の歩道は凸凹で剥がれた壁が落ちていた。停電しているし危ないし、子どもに車から降りないように言った。
歪んだシャッターをこじ開けるとガラスが降って来た。店の前面のガラス壁が割れていた。ドアが開かないので割れたガラスの間から店に入る。
店内は什器や割れた食器類で足の踏み場がない。
酒瓶が割れていて、入るだけで酔っ払いそうなくらい酒の匂いが充満している。
厨房に入ると、厚さ1寸の大きな100kgを超える鉄板が台から落ちていた。その台の上に取り皿が1枚だけ無傷のまま載っていて、どんなふうに飛ばされたかと不思議だった。
製氷機のドアは開いていたが氷は溶けずに残っていた。が、ガラスや陶器の破片が混入しているかもしれず使うことは諦めた。
業務用冷蔵庫のカウンター型のは傾き、縦型の大きいのは壁に寄りかかって倒れるのを免れていた。地震前の姿は無かった。
でも、惨状を嘆いている時間はない、家族5人の飲食物を持ち帰らなければならない。傾いた冷蔵庫のドアのすき間から食材を取り出し、食べられるもの使えるものを集めた。ペットボトル飲料や割れずに残った瓶ビールも懐中電灯も持った。日が暮れる前にと家路についた。
帰宅後
玄関に近い部屋からお膳とテレビ以外の家具を出して一緒に寝られるようにして、必要なものを近くに置いた。
火事
これは当日だったのか翌日なのか定かでないが、たくさんの人と真ん中の子と近所のアパートが燃えるのを見ていた。
炎の中に人がいるのを皆が口々に心配していた。あちこちで燃えてるから消防は来れないと言う人がいた。火事が多発しているのは確かだった。
「早よ消せや」という声がした方を見ると1人の消防士がいた。
その人は「水が出ないんです」と言って泣いていた。
……この場面と、燃えて鉄骨だけになったアパートだけを覚えている。