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阪神淡路大震災・私の記録(4)お風呂

友人宅に

発災から10日ほど経って市内北区の友人と連絡がついた。互いの無事を喜んだ後
「お風呂と洗濯しにおいで」と言ってくれた。嬉しかった。
翌日、10日分の洗濯物を車に積み込み家族と共に友人宅を訪ねた。
中央区から北区へ、山ひとつ越えた友人宅の周囲は何事もなかったかのようにコンビニもスーパーも商店も営業していた。

友人宅に着くと、もう一人の友人家族が来ていた。
彼女は北区の奥の方の高層マンションに住んでいて、子どもが5人いる。住まいの方は被害が出ていて、避難所暮しでお風呂も洗濯もできないと、洗濯物の詰まった袋を幾つも携えていた。

彼女は、地震の最初の揺れで目を覚ました、11階で振り回されているような揺れだったと話し始めた。
「出るで!毛布被って、なんでもいいから靴はいて、階段で行くで!って子どもらに言うて、玄関へ行ったら、縦長の大きな下駄箱がドアにもたれかかっってて、通れられへんようになっててな。下駄箱持ち上げて、支えてる間に外に出させて。ほんまに火事場の馬鹿力やで。」と少し笑うと
「必死で階段かけ降りて、駐車場で固まっててん。明かるうなってきて靴みたらな、全員かたちんばで、大きさ違うんはええけど両方とも右とか、掛け布団を巻き付けてたり…、こんなかっこで よう階段降りれたなぁって感心したわ。めちゃくちゃやったわ。」と続けた。
「けど、みんな無事やったから、良かったわ。」
「ほんまになぁ~」

交替でお風呂をもらい洗濯する間に被災状況や援助物資などの情報交換をした。子ども同士も兄弟以外のお友達と遊べて楽しそうだった。
10日ぶりのお風呂は、最高に気持ち良く、生き返ったように感じた。
帰る時には夜になっていた。
街灯が道を照らし家々から灯りが漏れて来て、見慣れた当たり前の景色が失われたことにやりきれない思いになった。

銭湯へ

1月の終り頃、近所の銭湯が制限付きで開けてくれると知り、出かけた。
雪が舞う寒い日だったが銭湯の前には人だかりが出来ていて、入るのにしばらく待った。
「水を汲み上げるポンプと薪をくべる窯を応急処置してな、また休むんやが、休む前に、皆に風呂に入ってもらおう思って開けたんやと。えらいやっちゃあ。」と訳知り顔のおじいちゃんが誰彼なしに言っていた。話しかけられた方も「ほんまになぁ、ありがたいこっちゃで。」と応じていた。

入浴は入れ替え制で人数制限と30分だったかの時間制限があった。
女湯は子どもや年寄りを連れた人が多くごった返していた。洗うのもぬくもるのも交替、浴槽のお湯を洗面器で汲んで使う人もいた。
浴槽のお湯は三角坐りで膝頭が出るくらいの深さで、手ですくったお湯を身体にかけながら浸かった。
子どもを連れていると時間ははあっという間に過ぎたが、ありがたかった。
ちなみに、男湯の浴槽にはたっぷりとお湯があったそうだ。女性はシャンプーとかお湯の消費量が多いから仕方なかったと思う。

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