阪神淡路大震災・私の記録(7)「えっ?」と思ったこと
ちょっと話は前後するけれど「えっ?」と思ったことを書こ思うねん。
「気ぃ悪ぅー」なんもあるんやけど…それはそれで…ごめんしてもろて…
「えっ?何なん、腹立つ~」の話
すれ違いざまに
2月の終り頃、阪急六甲から坂を下って歩いていると赤い車が停まっていた。何もないとこで時おり花束を見かけたから花を手向けにかな…とか思いながら近くまで行ったらカップルがいた。若い男の子とヒールの女の子。
「ワーッ、こっちの方がぺったんこ~」「ここ、鉄だけや~」とか言ってるのが通り過ぎざまに聞こえた。
「えっ?何なん?」と思わず振り返ると、キャッキャと騒ぎながら潰れた家をバックにポーズを決めて写真を撮っていた。
もう、腹が立つやら悔しいやら…たまらんかった。直に見たせいもあるかもやけど、いまだに腹立たしいわ。
避難している母親に
震災当初、支援がすぐに行き届くはずなどなく、どこも物資が不足していた。
「おにぎり食べる?」「赤ちゃんのミルクあるけど、要る人いてない?」
「紙オムツ持ってきたよ。」と声をかけてる県外ナンバーの車が居ててん、
「ええ人やん、優しい人」って思うやろ?ちゃうねん。売りに来てるねん。
小さいおにぎりが1個1,000円、粉ミルクは10,000円、紙オムツはバラ売りやった思うわ。ぼったくりやろ。
けど、地震のショックとか怪我したとかで母乳が出んくなったお母さんやミルク育児のお母さんらは、赤ちゃんのためにミルク欲しいやん。子どもに食べさせたりたいやん。小さい子居てたらよけいに…お腹が空かせて泣く子が忍びないから…着のみ着のまま逃げてお金なくても買うやん。それでも無理しても買うやん。それに付け込んで、ほんま腹立つわ。
…恐いんが、その車に小学生の子が乗ってたこと。その子、目の前で親があくどいことしてんの見てそのまま大人になったら、どうなるんやろ思って「えっ?」ってなったわ。
「えっ?凄いな」の話
灘区のある病院で
発震の日、灘区の病院も被災し医療器具も薬類も散乱し大変な状況だったらしいが、怪我人を受け入れ続けていたそうだ。
停電の院内から使えそうな薬や器具を搔き集めて、暗い院内を出て寒風吹きすさぶ駐車場で治療にあたったそうだ。
それだけでも凄いのに、日が暮れて暗くなって来たら近辺の人達が車を出して来て、ヘッドライトで駐車場を照らして診療を助けたって、次いつガソリンを給油出来るかも分からへんのに提供したそうだ。
お医者さんもそのまま近くの人も「えっ、すごっ!」ってなったわ。
灘区の男たち
今は反社と言うが、あの時を任侠で支えた人たちの実話を書きます。
反社を賛美する気も応援する気もありません。事実です。
あの時、Yさんのとこ行けば何でもあると言われていた。
Yさんは関西の大物で全国的に顔がきくらしい、家は灘区にあった。
発災後すぐに全国的に声をかけたのか、翌日にはいろいろなものが豊富に揃っていた。
それらを誰でも利用できるようにと門を解放していた。
飲食物は、水はもちろん、ケーキや握り寿司まであったという。
赤ちゃんの紙オムツも粉ミルクも哺乳瓶も、生理用品もあった。
着換えの服も肌着も揃っていたそうだ。
紙オムツと粉ミルクを抱えたお母さんに「持ってたろ。」と強面のお兄さんが、おばあちゃんの代わりに水を持ち「運ぶわ。」といかついお兄さんが声をかけていた。片付けなどで疲れている親の代わりに子ども達の遊び相手になったりと、温かい世界が広がっていたという。
都賀川で洗濯していたら「水冷たいやろ、かわったろ。」と洗濯してもらった人もいたと聞いた。
この支援はけっこう長く続いていたようで、店の周りやお客さんからも「助けられた。」と言うのを聞いて、「えっ、ほんまに?すごっ」ってなったわ。
「えっ?びっくり」の話
ある日、上の子と中の子が別々にカセットコンロを持って帰ってきた。
聞くところによると、YWCAで数日後に届く予定のカセットコンロの申込受付の貼り紙があった。それぞれが別々のタイミングで貼り紙を見て「家に無いから、もらえたらお母さんが喜ぶやろ。」と、それぞれが申し込んでおいた、それをもらってきた。それぞれが内緒にしてて、びっくりさせようと思ってた。らしい。
YWCAに度々行ってて鉛筆とか文房具をもらってきてたのは知っていたけれど…さすが兄弟、同じこと考えてたって。
「えっ?びっくり」そして「ありがとう。めっちゃ嬉しいわ。」
カセットコンロは1台は家で、1台は店で豚汁を炊くのに使いました。