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阪神淡路大震災・私の記録(3)給水車
1月18日
給水車が来ると聞いたのは、上ふたりの子どもからだった。たぶん…学校へ行けば何か分かるかもしれないと出かけて行き、聞いてきたと思う。
体育館が避難所になっていて人でいっぱいなこと、先生が忙しそうにしてたこと、学校の隣にあるYWCAが物資を配っていて鉛筆をもらってきたことなどと一緒に給水車の情報があった。
給水車が来るという場所に並んだ。私も他の人も水を入れてもらうために持っていたのは鍋ややかんだった。大地震も断水も予想だにしていなかったからポリタンクなど誰も持っていなかった。
予定時間になっても給水車はなかなか来なかったが、発災後に初めてもらえる水を皆が黙って待っていた。
給水車は遠いところの水道局からで、通れる道を探しながら来たので時間がかかったということだった。
ある日、給水車を待つ列の私よりも少し前におばあさんが並んでいて、その時の給水が私の前で終わってしまった。次の給水車はいつ来るか分からない。帰りかけた時にそのおばあさんに呼び止められた。幼児を連れていたのが気になっていたらしく「寒い中で待っていた小さな子が水を飲めないのはかわいそう」ともらったばかりの水をくれると言う。おばあさんも長い時間待ってやっともらった水だ。大切な水だからこそいただけない。お気持ちだけいただくと固辞した。
ある日は、給水車を待つ列の中に化粧した人がいた。飲み水にもことかく時に化粧なんかするとその分水を使うから非常識だ。と。言う理由で他の人から睨まれていた。
今なら、その人は化粧することで自分自身を鼓舞していたのかもしれないと思えるが、当時そんな余裕はなかった。
いつしか給水車は、遠くの水道局から自衛隊のそれに変わっていた。
貴重な水は飲み水や煮炊きにまわしたい。
食器はラップをして、箸は割箸をと洗い物を最小限にした。
電気が復旧したのは、この日か翌日かだったと思う。
……電気を流すことで漏電が発生し火事の原因になるとかでいったん全ての電気を停めて、安全が確認されたところから電気を通していたと後で聞いた。
テレビを付けてニュースを見て初めて、大きな地震で広く大きく被害が出ていることを知った。
高速道路が倒れ、落ちそうなバスがあり、あちこちで火や煙があがっていた。幼い頃に暮らした場所は家建物が無残な姿となっていた。通っていた小学校は校区のほとんど燃え尽きていた。実家の高層団地は上層階で接合部分がずれていた。
電気が使えるようになったので、何かしら温かいものを食べたような気がする。
炊飯器でお湯を沸かしてポットに入れ、ご飯を炊いておにぎりを作り、炊飯器でお味噌汁を作った。これが定番となり炊飯器に向かうのと、お水をもらいに行くこと以外してないという日もあった。