まともに傷ついて、どうする。
※##NAME##のネタバレがありますので、読んでない方はご注意を※
児玉雨子が好きだ。
私がアンジュルムというアイドルを好きになった時から、児玉雨子の言葉と気付かぬままに児玉雨子の言葉を享受していた。
数年経った後、改めてしっかりアンジュルムを見たとき、児玉雨子の言葉を持つアンジュルムが好きであったと気づいた。無意識のまま児玉雨子は私を構成する表現者の1人だった。
文藝2023夏号に掲載された##NAME##
私は当初全くのフィクションであると思いながら読んだ。児玉さんはアイドルへの楽曲提供も多く、普段から年少のアイドルと接することもあるだろうし、その経験からこの物語ができたのであろうと思っていた。
一度読み終わった後に、創作のなかの子たちが鮮烈に生々しく存在していることに感動を覚えて流石児玉さんだなーと呑気に感じていた。
そして、その後に。創作の中の子の経験のかなりの部分が、児玉さんの実体験であることに気づく。衝撃だった。あまりにショックでその日は泣きながら寝ることになった。
私は児玉雨子が好きだ。
児玉雨子が何故好きなのか、##NAME##の感想とともに述べられたらなと思う。
うまく文章がかけるといいな。
1.少女を消費しない
定期的に炎上しすぎて、両陣営とも何を守りたいのかよくわからなくなる、萌え絵公共提示問題。性的に強調された萌え絵を公共の場所に提示するのやめませんかって、至極真っ当な意見に対して、萌え絵擁護側はどのような権利が迫害されているのか不鮮明なまま、表現の自由の侵害を訴える。
萌え絵が公共に掲示され、それを享受したい彼らの守りたい表現の自由とはなんなのか。私にはよくわからないが、彼らの少女の身体という記号への異様な執着は感じる。「少女の身体」という記号を享受する権利を公共の場で提示することで、その権利を誇示しているように見える。
少女は「少女の身体」という記号の意味を知らない。何故なら、本来記号に意味なんてないから。身体は身体でしかないから。見るための目、聞くための耳、歩くための足。身体の意味はそういう意味でしかない。
少女の身体という記号の意味を知らない年少の人間の、知らないという魂につけこみ、彼らは「少女の身体」を消費する。何かを確かめるように、何もしらないことを知りながら笑いながら利用する。少女たちは何も知らずにスクール水着をきて白いアイスキャンディーを食べている。究極的にグロテスクな描写だと思った。
大人に囲まれる少女たちには、今自分が何をしているかちゃんと理解して行っているのか都度確認するべきだ。
何も知らない少女たちはいずれ大人になる。その大人達からの重大な裏切り行為に気づいた時、身体的に精神的に大きな傷を負うだろう。尊厳が傷ついた状態で、社会と信頼関係を結ぶことに大変なハンディキャップを持つことになる。
2.矛盾
厳しい現実を乗り越える時、人間の自然な自己保全の方法として、自我を切り離すことがあるのは想像に容易い。主人公の精神の逃げ場所として、世界に没入している「両刃のアレックス」。その作者が、主人公を斧で切りつけるような悪事を働いていた。救ってくれていた世界が、実は自分を切りつけていた存在でもあった。
悪事は全て悪しか生まないわけじゃないのだろう。そんな単純ではない。
ジルコニアのキラキラは贋物じゃない。
また、被害者は被害者だけのアイデンティティを持っているわけじゃない。彼らは可哀想なだけの存在ではない。怒らなければならない、社会に訴えでなきゃならない存在ではない。
忌むべき記憶の中にあったとして、未熟ながらに語り合い、分かり合い結ばれた2人の関係はなににも変え難い光である。
悪事の全てを否定できないことを。主人公は思う。「必要なのは憤怒よりもまず救済だった。」否定すべきことを否定しきれない矛盾が心を切り刻む。
当事者が否定しきれない事柄を、非当事者が軽率に肯定し赦すことも完全に否定し断罪することも当事者を傷つけることになるだろう。
ではだからと言って、知らぬ存ぜぬでもいられない。当事者の、児玉さんの、痛みを知らないふりをすることはできない。児玉さんの痛みが存在することを私は知っている。
3.名前
憲法13条は、日本の人権政策の根幹部分である。すべて国民は「個」人として尊重されるのだ。日本国の最高法規はそのように規定している。
何者かに奪われた自己尊厳を取り戻す一つの方策として、主人公は自ら自分の名前を創出する。個人とは名前である。少女でも彼らでもないブランクのNAMEでもない。私たち社会は名前で個人を認識する。
主人公はみさが名づけた名前を自らの手で手に入れる、彼女は奪い返すのだ。彼らから言葉を尊厳を。
ちなみに、そのサポートをする司法書士の姿勢に私はとても感動した。
大袈裟な憐憫ではない、ただ専門職としての自分の仕事を全うすることで、人生を救うこともある。そういう書士に私もなりたいと思った。
4.百合
百合をテーマにした作品が私は好きなのだが、「百合」は度々その曖昧な言葉故問題視されることがあるように思う。曰く、女性同士の恋愛を百合などと曖昧な言葉にするべきではない。
私は曖昧な言葉であるからこそ、好きな言葉だ。人と人との複雑な関係性を黒か白かと綺麗にジャッジはできない。人と人と間にある愛情を、恋愛関係だけに独占させないでほしい。
美しい身体に魅せられることも、可愛い顔に惹かれることも、心を寄せ合うことも。恋慕の感情がなくとも存在する。関係性を恋愛の感情か否かを決めなくていい。もちろん恋愛の感情であったっていい。恋愛であったってなくたって。なんにしたって、私はあなたが大切で、あなたの存在に救われたのだ。
百合という曖昧な関係性が好きだ。
5.児玉雨子
児玉雨子が好きだ。
どうしようもなく惹かれる児玉さんの表現から感じる寂しさ。それが何なのか少しわかったような気がするから。一ファンとして、彼女の尊厳を守る人間でありたい。彼女の表現を享受する側の人間だからこそ、彼女の言葉を真剣に受け取る人間でありたいと思う。
児玉さんは、可愛い。誰の可愛いとも違う、児玉さんは可愛い。可愛いは沢山あるけど、児玉さんの可愛いさは唯一。
児玉雨子は可愛い。
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