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薬に蝕まれた若い選手の「悲劇」:日本未公開野球映画を観る(51)

Curveball(2015)

※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。

失われた2つの命

 実力ある高校生投手とチームメイトが薬物依存に陥り、その結果2人とも命を落とすというストーリー。
 幼い頃からの親友で高校のチームメイトである投手のノーランとサム。ある日、サムはノーランを誘って違法薬物の売人の住む郊外の家を訪ね、薬を試す。以来、2人は次第に常習するようになり、将来を嘱望されたノーランと強豪だったチームの成績は下降していく。
 2人が喧嘩した日、ノーランが仲直りしようとサムの家を訪ねると、彼は誤って薬物を過剰摂取して死んでいる。これ以降、ノーランも深刻な依存に陥る。
 看護師であるノーランの母はこれに気づき、彼をリハビリ施設に入れようとするが、長期間順番を待たなくてはならない。そこで親しい同僚の協力を得て、山中の一軒家にノーランを「隔離」して手錠と鎖で拘束して薬物を断ち、依存からの離脱を試みるが、病院から盗んだ薬を投与する過程で失敗し、ノーランは母の腕の中で息絶えるという結末。

なぜ薬に依存したのか?

 2人はともに高校の野球部員だが、このことと2人が幼い頃に野球を通じて出会ったこと以外は、野球が特に意味を持たされているわけではなく、背景に過ぎないと言っていいだろう。
 ストーリーは上述のように救いがないが、彼らが薬物依存に陥った背景や経緯は、描かれているように見えて実はきちんと示されていないのが腑に落ちない。
 ノーランの家庭背景は悲惨である。彼と母に暴力を振るう横暴な父は、ノーランが幼い頃に銃を持ち出して殺そうとしたとき、横から母が射殺した(罪には問われなかったようである)。またサムも養親に育てられ、その養親は夫婦間の争いが絶えなかった。
 しかし今やノーランは将来有望な投手で、レイチェルという魅力的なガールフレンドとの交際も順調。彼女の父親はカレッジの体育部門の要職にあり、その意味でも期待が持てる。母との関係も良好だった。
 そのノーランが薬物を使うようになったのはサムの誘いがあったからだ。ノーランほど将来が開けているわけではないサムには、そのことによる鬱屈があったのかもしれず、だからノーランを誘ったという見方もできる。しかしそこは特に描写されず、むしろ「たまたま」薬に手を出した、という描き方である。
 きっかけが偶然でも依存が深刻化することがあるのは言うまでもない。また、今の生活は順調でも、過去に負った傷が依存につながることもあるだろう。その意味で、彼らの依存にリアリティが全くないわけではないが、必然性を感じることもできず、薬物依存の恐さや悲惨さばかりが強調されてしまっている。エンドタイトルに「薬物の乱用により誰かを失った人々に捧げる」という献辞が出てくることから、依存とその悲惨さこそが本作の主題なのかもしれない。しかし、だとすればここで描かれる依存までのプロセス(=2人の家庭背景、生育歴)は思わせぶりなだけだ。「ひょんなことから深刻な依存に至る」ことを描くのなら、悲惨な生育歴など持ってこないで、もっと恵まれたティーンエイジャーを主人公にすればよかっただろう。薬物依存に陥った若者を描いた『ベン・イズ・バック』(2018)や『ビューティフル・ボーイ』(2018)はそのように作られている。

「強制終了」の安易さ

 本作の特徴は、全くと言っていいほどの救いのなさである。映画は必ず希望や救済を描かなければならないわけではないが、これらを欠片ほども感じさせない本作の出口のなさは、問題意識の強さ、明確さではなく、むしろ薬物依存について深く考えることを放棄しているように見え、テーマについてのメッセージ性を逆に希薄にしている。
 薬物依存は確かに死に至ることもあるとはいえ、依存してしまった者の大多数はそれでも生きている。依存に完治はないと言われる通り楽な人生ではなく、持ち崩す人が少なくない一方、なんとかこの「病い」と闘ったり折り合いをつけながら自分の生き方や生きがいを見つけ、懸命に生きている人もいる。
 野球界にも清原和博やジョシュ・ハミルトンらの先例があるわけで、依存と人生を野球と関わらせた作品こそ観てみたい。前述の2作品は、野球はもちろん出てこないが、本作と同じ年代の若者を主人公にして依存を生きるというテーマに挑んでいる。しかし本作はそうした可能性を探ることなく、若い2人の死という形で「強制終了」してしまったわけで、それは悲劇的に見えても真の悲劇ではない、安易な幕の引き方だったと思うのだ。

 本作のタイトル写真は先頭に載せたノーランの後ろ姿のバージョンの他に、下のものもある。こちらでは2人の黒人が主役(級)に見え、ブラック・ムービーかとも思わせる。2人が演じるのはチームの監督とカウンセラーの役だが、実はさほど重要な役割は果たさず、出番も多くない。なぜこのように大きく扱われるかというと、2人はロックモンド・ダンバーとリン・ウィットフィールドという、テレビドラマなどによく出る俳優で、インディーズ作品である本作では際立って有名な2人だからである。
 また表題のCurveballは、ノーランの父が生前、「これが俺のカーブボールだ」と言って妻と子に酒瓶を投げつけるシーンから来ていると思われるが、単にそれだけで、やはり何らかの深い意味やメッセージは見出せない。

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