刑務所からメジャーへ:「忘れられた」野球映画を観る(1)
『盗塁王ルフロア−鉄格子から大リーガーへ』
One in a Million: The Ron LeFlore Story (1978)
※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーでの「公開」とは、劇場公開、映画祭での上映、ビデオやDVDの発売、テレビでの放映、インターネット配信など、形態にかかわらず日本語タイトルがついて日本語字幕版や吹き替え版が存在する作品、という意味で使っています。これらがひとつでもあれば「日本公開」と考えますが、これに該当しても現在日本語版をほとんど観ることができない作品もあります。こうした作品は「忘れられた」野球映画として取り上げます。
ここでも結末まで紹介していますので、ご了解のうえお読み下さい。
「百万人に一人」の才能
服役中に野球の才能を見出され、メジャーリーガーになって盗塁王やオールスター出場を果たしたロン・ルフロアの半生を描いたテレビ映画。ルフロアについての詳細は末尾に載せた原稿を参照いただくとして、彼の自伝『ブレイクアウト−刑務所から大リーグへ』(稲葉明雄訳、講談社、1978)を原作とするこの映像は最近まで未見だった。
本作が放映されたのは1978年9月で、タイガースでメジャー・デビューして5年目、初めて盗塁王を獲ったシーズン終盤のことだ。キャリア的には最盛期と言っていい時期で、CBS系の全国放送でもあり、サクセスストーリーとして描かれているのかと思っていたが、むしろ悲哀を感じさせる描写が強い印象を残す。刑務所に入るまでと入ってから出るまで、 そして家族の場面の比重が大きく、野球の場面は思ったほど多くない。
特に結末は、メジャー3年目の春に2歳下の弟が死亡し、ルフロアが生家のあったスラムを訪れる場面となる。この弟ジェラルドはもともとルフロアより「出来の良い」子で、兄は成功してから再三忠告していたが、結局周囲の厳しい環境から脱出できず、自宅で銃弾の暴発により短い生涯を終えた。
最後にルフロアは、スラムで遊んでいた男の子に「ストリートの言うことは聞くな。人の言うことを聞け」と伝えるが、こうした環境で育って当たり前のように犯罪と受刑を繰り返して短い一生を終える者はいくらでもいる。刑務所で彼の野球の才能が「百万人に一人」であることに気づき、知り合いを通じてタイガースに紹介してくれた受刑者もおそらく同じで、入団が決まって出所していくルフロアを見送った後の寂しげな表情が心に残る。
塀の中/外の明暗
本作ではこうした人々が収容される刑務所の薄暗さと、野球の世界の明るさが残酷なほど対照的に描かれている。特に刑務所の内部はこの形(「パノプティコン」の完成形のような)で、ルフロアが収監されたときに下から見上げる場面は絶望を際立たせる。一方野球界は、もちろん偏見や差別もあるとはいえ、トライアウトをしてくれたタイガース(ビリー・マーティン監督らが本人役で出ている)や、分け隔てなく接してくれたマイナーリーグのチームメイトの描写を見ると、なんと明るい世界かと思う。この両方の世界で野球はプレーされている。
ルフロアは絶望の世界から脱出して輝かしい世界の一員となり、一時はスター選手の地位も手にしたが、その後の人生もずっと満たされていたわけではない。その原因がすべて彼の育った環境にあるとは言えず、これも詳しくは下記の原稿に譲るが、本作が醸し出す悲哀はそれを予見しているようにも見える。
テレビ映画の全盛期
1970年代のアメリカはテレビ映画の全盛期と言ってもいい時代で、スティーブン・スピルバーグ監督の『激突!』などの名作、佳作が生まれている。今も繰り返し放送される『刑事コロンボ』もそうで(これはテレビシリーズだが)、本作も画面の質感や音楽の使い方がよく似ている。
野球映画でも佳作は少なくなく、例えば少し後になるが、83年にディズニー・チャンネルで放映されたTiger Townはやはりデトロイトとタイガースを舞台にした印象深い作品だ。これは『ロイ・シャイダーのファイナル・イニング』という邦題でビデオが発売されているが、自動車産業が斜陽になりつつあった当時のデトロイトの雰囲気が切ない。
35mmフィルムで撮影されたテレビ映画は放映後に劇場公開されることもあり、本作も後にスペインなどの劇場で上映されたようだ。日本ではテレビでのみ放映された。
「塀の中」からメジャーへ
(「アメリカ野球雑学概論」第521回、『週刊ベースボール』2013年2月4日号)
まもなく39歳になるウーゲット・ウービナが7年ぶりに現役復帰した。2005年までにエクスポズなど6球団で237セーブを挙げた右腕は、この年母国ベネズエラの自分の農場で5人の労働者をなたで襲い、ガソリンをかけて火をつけたため殺人未遂で起訴され、14年7か月の刑に処せられた。しかし服役態度が良かったため昨年末に仮釈放され、ベネズエラのウィンター・リーグのカラカスのチームと契約し、メジャー復帰をめざして再出発した。
刑務所などの矯正施設にいた経験のある選手の中で最も知られているのは、史上初めて両リーグで盗塁王をとったロン・ルフロアだろう。デトロイトの荒廃した地区に生まれたルフロアは幼い頃から盗みや薬物に手を出し、15歳のときに強盗の罪で5〜15年の不定期刑を科せられて州刑務所に服役した。運動能力に優れ頭も切れるルフロアだが、服役するまで正式にスポーツをした経験はなく、野球は全く未経験だった。しかし所内の野球チームに入るとすぐ頭角を現し、対外試合に出るようになる。仮釈放が決まった73年5月、慰問に来たタイガースのビリー・マーチン監督に同囚らがルフロアのプレーを見るよう口々に訴えたため、マーチンは出所後にタイガー・スタジアムに来るよう伝えた。こうした売り込みは数多く、球団はたいてい取り合わないが、ルフロアが外出許可を得て球場に出向くと、トライアウトを受けることができた。そこで非凡な打撃と強肩を見たタイガースは彼との契約を決めた。
ルフロアはマイナー・リーグをあっという間に駆け上がり、翌74年8月にメジャー・デビュー。59試合に出て打率.260、23盗塁を記録して才能を見せる。翌年は伸び悩んだが、76年には開幕から30試合連続安打など絶好調で、ファン投票でオールスターにも出場した。78年には盗塁王(68個)、エクスポズに移籍した80年にも97個でタイトルをとった後ホワイトソックスに移籍し、82年に34歳で引退したが、彼はプロ入りしたとき年齢を4つ若く偽っていたことを認めている。
アメリカはつまずいた人間の再起に比較的寛容な社会だが、それでもメジャー・リーガーが前科者であることには反発もあり、ルフロアは野次や中傷も受けた。しかし当時のタイガースには、若い頃教護院に入っていた代打の切り札ゲイツ・ブラウンがおり、ルフロアに親身に助言していた。チームに溶け込んだルフロアはトラブルを起こすこともなく、彼の半生は『100万人に1人』という題名でテレビ映画にもなった。引退後はメジャーの審判をめざしたがかなわず、短期間で終わったシニア・リーグでプレーしたり独立リーグの監督も務めた。ただ、メジャー傘下で職を得ることはなかった。
一方ウービナがめざすように、メジャー・リーガーが服役後に復帰した例は稀だ。2000年10月、ロッキーズのボビー・シュナードという28歳のリリーフ投手は妻に暴力を振るい拳銃で脅した罪で1年の刑が決まって収監されたが、服役は野球のシーズンオフに「分割」で務めることが認められ、最初の2か月の服役を終えて翌春はキャンプに参加。この年もメジャーで8試合に投げた。その後もオフには刑務所に戻ったが、メジャーには戻れずマイナーや独立リーグでのプレーだった。
「刑務所からメジャーへ、メジャーから刑務所へ−アメリカ刑務所野球史をたどる(2)」より抜粋
(『学校と非行』第2号、2018年)
引退後フロリダに移り住んだルフロアは、88年にはメジャー・リーグに審判員として復帰することをめざして審判学校に入学するが、採用されず断念した。
翌89年には「シニアプロ野球リーグ」に参加する。35歳以上のメジャー経験のある選手を集めて結成されたこのリーグで打率.328と活躍した。翌シーズンも好調を維持したものの、観客動員は不振が続き、リーグ戦は年末に中断して再開することはなかった。ルフロアは球界の主流で職を得ることを望んでいたが、実現したのは基盤の脆弱なシニア・リーグや、独立リーグの監督を短期間務めるなどの散発的な仕事だけだった。
これら以上に彼の名前がメディアで取り上げられたのは、99年9月にタイガースの本拠地タイガー・スタジアムが閉鎖されるときだった。翌年からの新球場移転に伴い、88年にわたる歴史の最後の試合では多くの歴代OBが出席してセレモニーが行われ、ルフロアもそこに名前を連ねた。
しかし試合の後、先妻との子の養育費を長年にわたって5万ドル以上滞納している容疑で逮捕された。保釈金を払って釈放されたが、思い出の地タイガー・スタジアムの最後の日にこうした形で報道されたのは何ともばつの悪いことだった。2007年にも再び養育費の未払いで逮捕され、11年には動脈の疾患で3回にわたる手術の末、右足の膝から下を切断した。63歳にして義足での生活になり、表舞台への復帰はさらに遠のいた。
引退後のルフロアは表舞台に戻れないまま年齢を重ね、不本意な思いを募らせた。これはプロ入り前の犯罪歴ゆえだろうか。
そう見るのは無理がある。教護院からタイガースに入ったゲイツ・ブラウンは、ルフロアにバトンタッチするように75年に引退したが、78年にはコーチとして復帰し、84年のワールド・シリーズ制覇まで務めた。だとすれば、二人の引退後を分けたのは、プロ入り前ではなく後のことだったのではなかろうか。
ルフロアはホワイトソックス時代や引退後に何度か逮捕された。いずれも微罪で、それだけでプロ野球の仕事に就けなくなるわけではなかったが、前歴がよく知られていたため、こうした出来事によって「やっぱり」と思われた面があるのではないか。前歴のない人間なら「ちょっとした過ち」ですませてもらえても、ルフロアのような過去があれば、それが本性のように見られたり、仕事のオファーを躊躇させることにつながったのかもしれない。一度過ちを犯した人間は、更生したことを証明し続けなければ社会に受け入れてもらえない。
こうした経験を経て、ルフロアは過去を悔いるようになっていった。彼のメジャーでのキャリアは26歳からの9年間で終わった。その理由を彼は幼い頃からアルコールやドラッグに手を出して不摂生を続けてきたことと考えた。若いときに正しい助言をしてくれる人がいれば生活は乱れず、早くから才能を開花させて殿堂入りだってできたかもしれない、というのだ。確かに、野球経験がなかったのに短期間でメジャーに上がり、オールスター出場やタイトルを手にした事実を見れば、その才能は飛び抜けたものだった可能性が高い。しかし、だからこそ実際に手にしたものだけでは満足できず、過去を悔やむことになったのだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?