ソフトボール選手の夭折:日本未公開野球映画を観る(27)
Coming Home(2018)
※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。
父と娘のソフトボール部
前回に続いて女子ソフトボール選手の映画。
ピッツバーグ郊外の小さな町の高校のソフトボール部の監督を務めるジェイスは、一人娘のCJが4歳のときに妻を亡くし、以後彼女を一人で育ててソフトボールを教えてきた。CJは父の高校の主力選手となり全国大会に進むが、不治の血液の病気で倒れる。大会に同行した彼女は、決勝戦の最終回、一打逆転サヨナラの場面で志願して代打に出てランニングホームランを打つが、ホームインと同時に倒れ、還らぬ人となる。
意味や厚みの欠如
これだけである。上映時間は1時間28分ほどで、いちおう商業映画のようだが、演出、撮影、音声など技術的にもアマチュアに毛の生えた程度と言わざるを得ない。
まあ技術面はともかく、ただ一人の子どもを10代で亡くす親の心情を考えれば、結末には感情を動かされる。しかし、そのことを以てこのような作品を評価したいとは思わない。
女性アスリートが不治の病で夭折する映画といえば、クリント・イーストウッド監督のアカデミー作品賞受賞作『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)がある。これと比較すれば、本作の欠点は明らかだ。『ミリオンダラー・ベイビー』では、主人公がプロボクサーをめざし、トレーナーと出会って指導を受けるようになり、成長してタイトル戦に挑み、そこで大ケガをして全身不随となり、重大な決断をし、トレーナーがそれを受け入れ…、というストーリーにおいて、それぞれの経緯や選択はいくつもの意味を持ち、またストーリーを展開させる登場人物には厚みが感じられる。そのように作っていくのが劇映画だろうし、結末をめぐって批判や論争が起こったのも、作品が描いた意味や人物像ゆえだ。
しかし本作では、出来事や展開の意味や人物の厚みといったものがほとんど読み取れず(特にCJは全くと言っていいほど人物像が見えない)、ただいくつかのエピソードが時系列的に並べられて悲劇「的」な結末に至るだけなのだ。
『ミリオンダラー・ベイビー』はフィクションであるのに対して、本作は監督兼父親役のロッド・ハーマンセンの体験に基づくストーリーとされているが、問題はフィクションか事実に基づくかという違いにはない。本作は完全に父親ジェイスの側からしか描かれておらず、CJも含めて父親以外にとっての出来事の意味や、彼らがストーリーを動かす可能性は排除されている。従って、父親にとっては真実かもしれないが、それについての感傷的で雑な作りのモノローグにしかなっていないのだ。
私たちが生きる「ふつうの」現実にも多様に解釈できる意味があり、私たち一人一人は様々な側面を持って行為して現実を動かす、複雑な人間だ。シングルファザーと一人娘、強豪チーム、全国大会、病による夭折という「ドラマティック」な要素を並べたストーリーなのに、そうした意味や厚み、複雑さを全く感じさせないのでは、不特定多数の観客に届ける「作品」としては失敗か、そもそも「作品」にはなっていないと言うしかない。
数多くの作品を観る意味
試合の場面もイニングごとに展開をたどっていくだけだが、近い位置で撮っていることもあり、ソフトボールに特有のバットの芯に当てる難しさや、それが当たったとき、当たらなかったときの感触、短い投捕間や塁間の距離感、スピード感などはわりとビビッドに感じられた。とはいえ、こんなことは教則ビデオでも感じられるだろう。
本作の舞台はピッツバーグ郊外のコラオポリス(Coraopolis)という人口5千人余の町だが、この地名は終盤に唐突に出てくる。それまで舞台は不明で、こういう場合は球場の外野フェンスの広告に書いてある電話番号の市外局番を調べたりするのだが、そうするとテキサスのダラス近辺の球場であることがわかった。実際撮影地はテキサスとのことで、なぜペンシルバニア州が舞台なのかは不明である(ハーマンセン監督の地元か?)。チームはコーリー(Cory)・タイガースという名前で、コーリーとはコラオポリスの略称というか愛称らしいが、実在する高校、チームではない。
無いものを指摘する批判ばかりで申し訳ないが、こうした作品は単体で読み取れることは少なくても、他の様々な作品と並べたり比較したりするなかで何か見えてくることもあるだろう。だからこそ、数多くの作品を観ることに意味がある。