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痛恨の一打を打たれた投手の悠然:日本未公開野球映画を観る(18)

Branca's Pitch (2013)

※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。

「世界中にとどろいた一打」

 ボビー・バレンタインは自身が「主人公」の映画"The Zen of Bobby V"の公開後、自ら映像制作会社Makuhari Mediaの立ち上げに関わり、エグゼクティブ・プロデューサーとしていくつかの作品を世に出している。マリーンズの本拠地から社名をとったこの会社が制作した野球に関する作品のひとつが本作で、ラルフ・ブランカについての1時間28分のドキュメンタリー。
 ブランカは1940〜50年代にドジャース他で通算88勝を上げたが、たった一球の失投ゆえに語り継がれる。それは1951年のナ・リーグで同率首位となったドジャースとジャイアンツが戦った3試合制のプレーオフ第3戦の9回裏、4対2とリードした1死2、3塁の場面で登板してジャイアンツの6番ボビー・トムソンに打たれた逆転サヨナラホームランである。これは、2位に最大13ゲーム差をつけていたドジャースが最後の最後に同じニューヨークのライバルであるジャイアンツにリーグ優勝を奪われた痛恨の一球で、初めてテレビで全米に中継されて何百万人もが見たため「世界中にとどろいた一打(Shot Heard 'Round the World)」と呼ばれる歴史的なプレーである。本作はブランカと2011年に自伝のゴーストライターを務めたデービッド・リッツへのインタビューを中心に構成されている。
 老いても毎日車を運転してオフィスに出勤する元気なブランカは撮影時点で85歳。あの一球のことばかり言われてきたことに不本意な思いはあるものの、悔いたり恥じたりせず堂々としている。悲劇的な幕切れではあったが、その後彼を力づけたのは多くのファンからの励ましの手紙だったという。ブルックリンのファンの寛容さと、47年に新人ジャッキー・ロビンソンに最初に声をかけたチームメイトの一人だったというブランカの人柄ゆえだろう。またトムソンとはその後親しくなって度々同席し、「試合には負けたが良き友を得た」と語っていた。

明らかになったサイン盗み

 この世紀の一打については、後に明らかになった事実がある。それはジャイアンツがサインを盗んでいたことだ。当時から噂されていたが、21世紀になって何人かのジャイアンツの関係者が公に認めた。センターにあったクラブハウスからコーチが望遠鏡で覗いた捕手のサインをライト側のブルペンにブザーで伝え、控え投手が動作で打者に伝えるという方法で、当時ルールで禁じられていたわけではないものの、アンフェアとされたのは今と同じだ。
 ブランカは移籍したタイガースで54年にこれを聞いたが、球史に残るプレーを汚さないため、また負け惜しみととられないために口外しなかったという。彼によると、トムソンは初めの3打席では伝達を見たが最後の打席では見ていないと言ったそうだ。しかしブランカはその言い分を信じていないらしい。

「一打」の後の60年

 本作はこの一投、一打を中心としたブランカのインタビューや彼とリッツのやり取り、サイン盗みを検証した記者ジョシュア・プレーガーのインタビュー、それに当時の映像などから成る。特に、翌52年にブランカとトムソンが一緒に『エド・サリバン・ショー』に出たときの映像は、それぞれがトニー・ベネットのヒット曲"Because of You"に自分の境遇をあてはめた替え歌を歌うという趣向で、あれだけ明暗が分かれた二人がまだ余韻のさめやらぬうちにこういう企画に乗ったことと、二人ともかなり歌がうまいことに驚く。
 本作は新しい事実を掘り起こしたり通説を覆したりしたわけではなく、60年後のブランカの姿をどちらかといえば淡々と描いているが、彼が悠然とした態度を貫いているのが印象深い。ただ、「一打」以後の60年間の出来事や生き方も取り上げてほしかった気がする。彼はケガもあってこの後の現役生活は精彩を欠いたが、引退後は様々な困難を抱える元選手や関係者、その家族をサポートする組織「BAT(Baseball Assistance Team)」の設立に関わって長く代表を務めるなど、エピソードには事欠かないはずだ。
 そして家庭人としてもエピソードがある。彼の娘メアリーは77年、父と同じドジャースOBで当時メッツの内野手だったボビー・バレンタインと結婚した。ボビーが本作の制作に関わった第一の理由はおそらくこの関係ゆえだろう。
 最後に、「一打」とボビーのつながりに思いを馳せた2005年の原稿を載せておく。

クローザーの悲劇と挽回
(「アメリカ野球雑学概論」第152回、『週刊ベースボール』2005年11月14 日号)

 パ・リーグ・プレーオフ第2ステージ、福岡ソフトバンクに2連勝して31年ぶりのリーグ優勝に王手をかけた千葉ロッテは、4対0とリードした第3戦の9回裏にクローザー小林雅英を投入したが、大きく崩れて同点とされ、延長10回にサヨナラ負けを喫した。
 これ以上ない痛手を負った小林を見て思い出したのは、86年にエンゼルスのクローザー、ドニー・ムーアを襲った悲劇だ。この年のア・リーグ・プレーオフでエンゼルスは、球団創設26年目にして初のワールド・シリーズ出場をかけてレッドソックスと対戦した。3勝1敗としたホームでの第5戦、5対2とリードしたエンゼルスは9回表にドン・ベイラーの2ランホーマーで1点差とされ、2死1塁の場面で肩を傷めていたムーアをマウンドに送った。守備固めで入っていたデーブ・ヘンダーソンに対して2ストライクを取ったが、落ちなかったフォークをレフトスタンドに運ばれ、6対5と逆転されてしまう。裏には同点に追いついたものの、11回に再びヘンダーソンの犠牲フライで突き放され、7対6でこの試合を落とした。息を吹き返したレッドソックスは残る2試合も連勝し、「あと1球」でワールド・シリーズを逃したエンゼルスは、初出場までさらに16年待たなければならなかった。
 その後ムーアは執拗にブーイングを浴びる。肩の不調もあって2年間で9セーブしかあげられず、89年に移籍したロイヤルズではファーム暮らしのまま6月に解雇。その1か月後、自宅の売却をめぐってトーニャ夫人と口論になり、ピストルで夫人を3発撃った後に自分の頭にも発砲して命を絶った。夫人は一命をとりとめたものの、3人の子供の前で起こったこの出来事は、アメリカ野球史上最大の悲劇のひとつとして忘れられない。
 ムーアが打たれたときに引き合いに出されたのが、ラルフ・ブランカの悲劇だ。51年のナ・リーグはドジャースとジャイアンツが同率首位でレギュラー・シーズンを終わり、3試合制のプレーオフが行われた。1勝1敗で迎えた第3戦、4対2とリードしたドジャースは9回裏1死2・3塁の場面でエースのドン・ニューカムに代えてブランカを救援に送ったが、ボビー・トムソンに3ランホームランを打たれ、ワールド・シリーズ進出を逃した。初めて全米にテレビ中継された試合で「世界中にとどろいた」と言われる一打を打たれたブランカは、翌年以降は背中の故障もあって12勝(1セーブ)しかあげられずに30歳で引退したが、その後は困窮する元選手や家族をサポートする組織(「BAT」=ベースボール・アシスタンス・チーム)の設立に寄与し、79歳になる今も球界で信望が厚い。
 そしてブランカの娘メアリーは、77年に元ドジャースのユーティリティー・プレーヤーと結婚した。その名はボビー・バレンタイン。レンジャーズとメッツの監督を経て千葉ロッテを率いるこの監督は、プレーオフ第5戦で1点リードの9回裏、再び小林をマウンドに送り、今度は見事に抑えてリーグ優勝を勝ち取った。野手出身のバレンタインだが、痛手を負ったクローザーの挽回にかける思いを誰よりもわかっているのかもしれない。

 なおブランカは2016年に90歳で亡くなった。死去に際してボビーはTwitterで「最も偉大な投手で歌手の一人だったラルフ・ブランカ」と讃えている。

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