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「イップス映画」と現実の関係は?:日本未公開野球映画を観る(33)

The Phenom(2016)

※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。

「5連続暴投」からの回復

 イップスに陥ったメジャーの若い投手の過去と現在を描いたフィクション。インディーズ系ではあるが、近年では数少ないメジャーリーグを扱った話題作で、問題作でもある。
 ブレーブスにドラフト1巡目指名で入った19歳の投手ホッパー・ギブソンは、テレビで全国放送された試合で5連続暴投という大失態をやらかしてマイナーに落ちている。スポーツ心理学者でイップス治療の権威であるモブリーによるセラピーを軸に、高校時代の回想、マイナーでの生活など、時系列がわかりにくいシーンがいくつも連続するが、試合をはじめ野球の場面はほとんどない。
 もうひとつ軸になるのが父親との関係。ホッパーの父親も高校時代は有望な野球選手だったが在学中に道を外れ、その後は薬物犯による服役を繰り返している。ホッパーには幼少時から厳しく野球を教え、今も横暴に支配する。「マウンド上では決して感情を出すな。そして投手は常にマウンドにいる」というのが父が決めた理不尽なルールで、ホッパーはそれに抗わない。
 過去と現在を往還するエピソードが続くなかで、ホッパーは少しずつ変わり始める。獄中の父親への面会によって両者の関係にも変化が見え、イップス克服の可能性を示唆して作品は終わる。

現実との関係の不明瞭さ

 観る前から何よりも気になり、観てからも気になり続けるのがリック・アンキールとの類似だ。
 2000年にカージナルスで華々しくデビューしながら、ポストシーズンで突如コントロールを失って1イニング5暴投を含む大乱調が続き、その後も苦しんで投手を断念、打者としてルーキーリーグから再出発してメジャーに復帰したアンキールは今世紀で最も記憶に残るメジャーリーガーの一人だが、ホッパーは彼に酷似しており、本作がアンキールから着想を得ていることは、常識的に考えて間違いないだろう。
 「薬物犯で服役した父親を持つドラフト上位指名の若い投手の5暴投」というあまりにも大きな共通点に加え、アンキールの母校であるフロリダ州ポートセントルーシー高校の名前がホッパーの高校時代のユニフォームにも書かれているのは「似せすぎ」とまで見える。さらに、アンキールは本作公開の翌年にThe Phenomenonというタイトルの自伝を出版したが、その本でも本作でも互いのことは言及されていない。このように、アンキールと本作の関係が明らかでないのは、どうにも「もやもやする」ところだ。

 また、同じような症状に陥った過去の投手として「ハワード・グラス」という名前がセラピーの中で出てくるが、これは1972年に突然制球難に陥って回復せず引退し、イップスの「元祖」のように言われるスティーブ・ブラス(パイレーツ)を想起させる。ブラスは引退後長くパイレーツのコメンテーターを務めてファンに愛され、約30年後にコントロールが回復したが、「ハワード・グラス」は自殺したことになっており、ブラスをはじめ野球の歴史への敬意を欠いていると言わざるを得ない。

イップスをどうとらえるか

 このように実在の人物と似せながら違ったストーリーを作っていることへの違和感が否めない本作だが、もうひとつ違和感を招くのはイップスのとらえ方だ。本作では父親による抑圧がイップスの原因であり、ホッパーがそれを脱して自立していくことで回復に至るという道筋が示唆されている。
 これはイップスの原因を過去の出来事やそれによる心的な外傷に求め、そこに介入することで回復をめざすというアプローチなのだろうが、そのような方法でイップスが「治った」という話は聞かないし、現在のイップス治療で取られることはまずないだろう。「根本の原因」を明らかにするのではなく(そんなものはあるかどうかもわからない)、特定のプレーができなくなっているメカニズムに注目し、そこに手当てをするのがイップス治療の主流と言ってよい。
 現在苦しんでいる問題の原因を生育歴など過去の出来事に求め、その原因を解消することで問題の解決に向かうというのは、ストーリーとしては面白い。アンキールが制球に苦しんでいたときも、父親の問題はさんざん指摘された。しかし、こうして過去と結びつけてみても問題はまず解決しないし、解決のためには地味だがもっと効果的な方法があることがわかってきているのだ。

何を「解くべき謎」とするか

 その一方で、ホッパーが陥ったのは果たしてイップスなのかどうかもはっきりしない。ホッパーが抱える「問題」として明示されているのは「5連続暴投」という出来事だけで、その後も制球難が続いたのかはわからず、アンキールの場合と同じではない。モブリーはイップスの権威ということなので、ホッパーはイップスに苛まれていると見るのが妥当だろうが、「何が問題なのか」は実はそれほど明らかにされていない。
 前後関係が不明な「5連続暴投」だけをホッパーの抱える問題として提示し、その原因として父との関係をクローズアップしているからこそ、本作はすっきり受け取れないのだ。例えば、プロ入り以後のいくつかのエピソードを並べ、一連の何らかの不調や不具合、生き難さなどとしてうまく描けば、そこに至った背景として父との関係を置いても違和感はなかっただろう。
 ただ、これだと非常にオーソドックスなストーリーになる。それとは違うものにするために5連続暴投を「解くべき謎」の位置に持ってきたのかもしれないが、だとすれば、目を引くための仕掛けをアンキールの実話やイップスの見かけ上のミステリアスさから借りただけと言われても仕方ないだろう。

「野球映画らしくない野球映画」をどう見るか

 冒頭から連続する過去と現在のエピソードはそれぞれ興味深い。多くはホッパーともう一人の人物(モブリー、高校の監督、高校時代の恋人、マイナーの遠征先のモーテルで会った女、…等々)しか出てこないシーンで、そうした「対話」を重ねることでホッパーが自立や自由へと進んでいくことが示唆されているように見える。
 後半にはマイナーの球場で試合前にファンの男の子にカーブの投げ方を教えるという、野球ファン的に好感を持てる数少ないシーンがあるが、そこに父親が現れて「何を偉そうに教えているんだ」と割って入って邪魔をする。しかし、それまでほぼ父親の言いなりだったホッパーが、ここでは自分から切り上げて父親から離れる。これを自立や解放の兆しと解釈すれば、前後のつながりがようやく見えてくる。
 本作は批評家には好意的に受け止められている一方、観客からはあまり評価されていないようだ。しかし、評価するにせよ批判するにせよ共通しているのは、本作は(典型的な)野球映画ではないという指摘だ。野球のシーンはほぼ皆無で、上述のように現実の野球や野球界とは似て非なるストーリーが展開する。
 そこを気にすれば、共感するのは難しい。しかし、他者との対話を通じて父親の抑圧から少しずつ自立に向かっていく若者のストーリーで、野球はたまたま舞台にしただけ、と考えれば、個々のシーンの描き方はうまく、佳作に見える。もし舞台が他のスポーツなら筆者もそう感じた可能性は高い。
 野球映画やスポーツ映画のクリシェを用いない「野球映画らしくない野球映画」であることは長所でも欠点でもなく、本作の特徴だ。しかし野球ファンとしては、上述のような現実とのズレ(=イップスのとらえ方)及び現実(=アンキール)との関係の不明瞭さは、看過するには重大すぎると思えるのだ。

 最後にトリビア。
 モブリー役のポール・ジアマッティはMLBの第7代コミッショナーを務めたバート・ジアマッティ(1989年4月に就任し同年9月に在任中に死去)の長男である。
 フィルモグラフィーを見ると、本作の他に「準野球映画」と呼ぶべき出演作が2つある。モー・バーグを描いたThe Catcher Was a Spy(2018)、主人公の恋敵がホワイトソックスのオーナーの娘でコミスキー・パークのシーンがいくつかある『ベスト・フレンズ・ウェディング』(1997)だが、まあ出自とは無関係だろう。

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