「野球観」の再考を迫る驚きのドキュメンタリー:日本未公開野球映画を観る(37)
The Only Real Game(2013)
※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。
「インパール作戦」の地
驚くべきドキュメンタリーである。これほど意外な場所で野球が非常に真剣にプレーされていることは、当地の人々と本作を観た人々以外はほとんど誰も知らないだろう。
その場所とはインド北東部のマニプール州。旧日本軍のインパール作戦で知られるインパールを州都としてミャンマーと接しており、インド人というよりミャンマーやタイの人々に近い顔が目立つ地方だ。ここでは多くの住民が男女を問わず子どもの頃から野球に親しみ、グラウンドや空き地や野原で熱心にプレーしているという現実がある。
起源は第二次大戦中にさかのぼる。ここからヒマラヤを越えて中国への物資補給にあたっていたアメリカ空軍の兵士たちが野球を持ち込み、彼らが去った後も当地の人々はその楽しさを忘れず、あまり組織化はされないながらも何十年もプレーし続けてきた。
このことを知ったアメリカの人々が2005年にニューヨークでFirst PitchというNPOを設立し、マニプールの野球を物心両面で支援する活動が始まった。本作は当地の野球の歴史から始まり、2006年にFirst PitchがMLB機構と共同してマニプールにコーチを派遣したツアーでの出来事と、当地の人々の生活と野球との関わりが多面的に描かれる。
MLBから派遣されたのはジェフ・ブルーゲマンという、1980年にツインズ傘下でAAAまで行った元投手と、アジアでのコーチ経験の豊富なデイブ・パリーズという人物。彼らとFirst Pitchのメンバーが大量の野球用具とともにマニプールを訪れ、指導者の養成と、子どもや女性も含めて多くの人々に野球を教えていく過程は心躍る。
当地で野球は身近な存在であるため、なにがしかやったことのある人は多く、全く野球を知らない人々に教えていくよりもずっとスムーズに進む。この地方は近代ポロの発祥地であったり、クリケットやサッカーなど他のスポーツも盛んなためか運動センスの良さそうな人が多く、急速な上達ぶりは目を見張る。そしてそれは男女を問わず、むしろ女性の方がより積極的に野球を楽しんでいるようにも見える。
厳しい現実下での野球
マニプールの人々の野球を楽しむ様子には、それだけで心惹かれるものがある。しかしこの地方の現実は非常に厳しい。
もともとイギリス領インドの藩王国だったマニプールは第二次大戦後にインドに編入されて自治を奪われ、以後政府による抑圧を受けてきた。そのため武装した分離独立派が乱立し、政府軍との間に武力衝突を繰り返している(2021年3月時点での日本政府による危険情報は「レベル2:不要不急の渡航は止めてください」)。それは政府側のさらなる圧政を強めるという悪循環を生み、政府軍兵士による住民女性への暴行も絶えないという。独立派の方もテロ行為などを行い、住民は双方によって苦しめられているばかりか、失業率は25%に上り、HIVや薬物も蔓延して、日々を生き延びるのが命がけのような状況がある。
にもかかわらず、というか、だからこそ、なのかもしれないが、人々は野球を楽しむ。ほぼ世界中でプレーされているサッカーと違い、野球は平和で安定した国で盛んなスポーツというイメージがある(ラテンアメリカの一部は違うが)。マニプールはそのイメージと全く逆だが、彼らの野球を楽しむ姿はそうした現実の厳しさを感じさせない。厳しい現実から逃れるためというよりは、厳しいからこそ野球をするこの時間を何よりも大切にして彼らの「生」を充実させているように見える。
登場する当地の人々の中で最も印象的なデビカという女性は、技術的にもレベルが高く、指導者をめざしているが、日頃は公衆衛生部門でHIV感染者に関わる仕事をしている。彼女はこの地で野球を広めることの意義について、野球によって特に子どもや若者を薬物などの問題から引き離し、希望を持って生きることにつなげられると語る。彼女をはじめマニプールの女性は男性以上に圧政や暴力にさらされているが、それを跳ね返す強さ、たくましさと野球への情熱には圧倒される。
野球の楽しさのメカニズム
このような野球の魅力は他のスポーツと同じだろうか。確かに、身体を動かすことに共通する爽快さや楽しさはなにがしか存在する。しかしそれがどんなスポーツでも同じかといえば、そうではないはずだ。球技全般に共通する楽しさもあるだろうが、その中でも野球にしかない、しかも誰でも感じられるような魅力があるのではないかと思うのだ。
本作のひとつのクライマックスとして、政府軍の兵士が出てくる場面がある。現地の人々とアメリカ人がプレーしているとき、おそらく監視のためグラウンドにいた数人の政府軍兵士にも加わるよう誘ったところ、ずっと見ていた彼らが応じて打席に入った。初めて投球を打ち、走り、ベースを回る兵士たちは軍服を着て自動小銃すら携行していたが、楽しそうな様子は他の人々と全く変わらなかった。
投げられた球をバットで打ち返し、走ってベースを回るという野球の一連の動きには、特別な楽しさを感じさせるメカニズムがあるのではないだろうか。ボールをうまくとらえたときの爽快さや走り出すときの高揚感は言うまでもないが、打ち損じや凡打になっても走ってセーフになることもあれば、野手が落球して出塁、進塁できることもある。走者もただ走り続けるのではなく、危険な走路の中に安全なベースが3つあり、それらを経由してホームへの「生還」をめざす過程には緊張と緩和が絶妙に織り込まれている。また詳しいルールは複雑だが、基本動作は特にわかりにくいわけではない。インドの場合、人気競技クリケットとの類似がプラスになっている可能性もある。そして兵士のシーンでは、この野球の楽しさがもしかするといつの日か根深い対立を解くことにつながるかもしれないという希望が示唆される。
何のために野球をするのか
このようなマニプールの人たちの野球を見ていると、そもそも私たちは何のために野球をするのかという根本的な問いについて、あらためて考えてしまう。
本作で詳細は説明されていないが、マニプールの野球はあまり組織化されている様子はない。リーグや連盟はいちおうあるようだが、「草野球」の域を出ないだろう。それでも、これだけ多くの男女が熱心に野球をしているとき、「勝利」の意味が大きいとは思いにくい。
そもそも人が野球を始め、続けていくときの動機は、上述した原初的な「楽しさ」や、それに由来する充実感、充足感が大きいはずだ。しかし、組織的なチームやリーグに所属し、技能が上達したりポジションを得たり大会に出たりするようになるにつれ、勝利という目標、目的が加わり、楽しさという動機は相対的に小さくなりがちだ。
勝利には悪魔的とでも言うべき魅力がある。この魅力はしばしば肥大し、他のものを侵食する。確かに、チームとして勝利をめざすことはプレーヤーの上達を促し、上達は楽しさの一要素ではある。勝つことで強まるチームの結束も心地よい。
しかし、勝利のための努力や戦術が楽しさや充実を阻害することもしばしばある。「勝利至上主義」の弊害である。もちろん、負けるより勝った方がいいに決まっているし、下手よりうまい方がいいのは当然だが、それは野球がもたらす歓びの中ではほんの一部に過ぎない。
だとすれば、うまいプレーヤーが多くて強いチームやリーグや国の価値がそれほど高いわけではないことになる。そうすると、プレーヤーの性別や年齢もさほど重要ではないはずで、体力が最も高い「若い男性」に最も価値があるわけでもないのだ。
野球の価値はどう決まるのか
マニプールへの支援には、ニューヨーク市内ハーレムのRBI(Reviving Baseball in Inner Cities:大都市内部の荒廃した地域の子どもに野球とソフトボールのプレー機会を提供する、MLB機構が運営するプロジェクト)との人的交流プログラムが含まれていた。選考の結果、まずマニプールの2人の選手と、通訳も務めたギートという名のコーチのニューヨーク行きが決まって後日出発したが、2人の選手はアメリカ入国が認められず、結局ギートが一人で入国してハーレムやヤンキースタジアムを訪れた。そのときの興奮と、故郷で待つ野球仲間のために「本場」の野球をデジカメで撮影し続けた彼の気持ちは切々と伝わったが、ヤンキースタジアムもマニプールの粗末なグラウンドも、行われている野球の価値に優劣はないとも感じた。
確かにメジャーリーグは野球の最高峰で、野球をする者すべてが憧れる「夢の舞台」である。また、それに相応しい場であり続けるための努力や試みが常に高いレベルで行われていることも事実だろう。しかし、だからといってそれ以外の野球は劣っていたり価値が低いということにはならない。野球の価値や意味の中核を成す上述の楽しさや充足は、「最高峰」以外の場にも同じように存在できるからだ。
ここで言いたいのは「どんな野球も等価だ」ということではない。そうではなく、野球の価値は、上述のような楽しさやそれに由来する充足や躍動の多寡によって決まると言いたいのだ。野球がもたらす生の充実の度合いと言ってもいいだろう。そしてそれは勝利の数や勝利につながる力とはほぼ無関係であるはずだ。
インドの野球とMLB
MLBのマニプールの野球への支援に商業的な背景はほとんどなさそうだ。マニプールは選手の供給源としても、コンテンツとしてのMLBのマーケットとしても、近い将来にメリットが得られそうには見えない。そういった動機ではなく、アジアの一地方で「飛び地」のように野球が熱心にプレーされていること、しかしその地域がきわめて混乱した状況にあることに対して、野球の発祥国かつリーダーとして当然支援すべきという、かなり「純粋な」動機だったように思える。
とはいえ、インドという国レベルで見れば話は違うだろう。近い将来に中国を抜いて世界最大の人口を抱えることになるインドは、中長期的には野球のマーケットと位置づけることができる。おそらくそれを見据えて2019年にMLBはニューデリーにオフィスを開設したほか、子どもたちに野球を教えるプログラムをニューデリーやムンバイなどの大都市で始めている。
しかし本作に描かれるマニプールへの支援はそれに直接つながったわけではなさそうで、「損得抜き」のマニプール支援がその後どうなっているかは気になるところだ。当初は野球専用球場を建設する計画があり、設計も進んでいたが、州当局からの資金が得られず頓挫したことが本作で紹介されている。
『ミリオンダラー・アーム』と本作
本作を観てこうしたことを考えると、インドに関わるもうひとつの野球映画である『ミリオンダラー・アーム』(2014)の限界や問題も見えてくる。アメリカのスポーツ・エージェントがインドで選手をリクルートするために投球コンテストを行い、優勝した2人の若者をアメリカに連れてくるという実話に基づいているが、この作品においてインドは基本的に収奪や搾取の対象である。
2人の若者は渡米してメジャーリーガーになる夢を追う道が開かれたが、その夢はもともと彼らが持っていたわけではなく、「押しつけられた」と言ってもよい程度のものだし、コンテスト開催の動機も落ち目のエージェントである主人公の「一発逆転」の野望にあった。テーマのひとつは2人の若者の異文化体験や世界の広がりだが、むしろ彼らとの関わりの中でエージェントが人間的に成長する方が印象的で、つまりアメリカやメジャーリーグの側が得るものの方がずっと大きいのである。少なくとも、インド本国には何ももたらしていない。「野球未開の地」の若者が本場で挑戦するストーリーを面白く描いていて好きな作品だったが、本作を観た今は「収奪のストーリー」としか見えなくなった。
本作は野球のみならず人々や風景の映像も、また音楽も美しく、非常に心地よく観られる作品である。それだけに、戒厳令が続くマニプール社会の状況との対比が際立つが、映像作品としての完成度もきわめて高い傑作と言ってよいと思う。
最後に題名は、ベーブ・ルースの引退スピーチの「野球は世界でただひとつの『真のゲーム』」というフレーズから来ている。世界には他にも素晴らしいスポーツがいくつもあるだろうから、これを文字通りにとらえるべきではないと思うが、それでも野球には上述のような特別な何かがあるというメッセージには全面的に同意する。
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