「おかしみ」を抱きしめて生きる - 小三治さんと落語が教えてくれたこと

いつからか落語が好きになりましてね。
落語の面白さのひとつに、真剣に生きる人々の滑稽さってのがありますな。真剣に、馬鹿っ正直に生きるがゆえの滑稽さ。
 
江戸っ子てのは見栄っ張りで意地っ張りで気が強くそして気が短い(というように噺では描かれる)。現代の我々の「ふつう」から考えると、落語の世界にはどうにも滑稽な場面が多々あり、それが落語の笑いのひとつになってるんですな。
 
また、与太郎という存在に象徴されるように、のんきで、どこか間が抜けてたり、ときに知恵遅れだったり、そんな人々もじつに多く登場しますな。
 
誰が言ったか、「落語の笑いはひとを傷つけない」というのがありますな。
 
誰かをバカにしたり蔑んで笑うのではなく、なんでしょう、落語の笑いにはどこかほがらかな、包み込むようなあたたかさがあるから不思議ですな。与太郎さんはどこかのんきでモノ知らずだけど腕の立つ職人として描かれたり、(当たり前ですが)誰かの存在を全否定するのではなく、ゆるやかに許容しながら、ときに互いの滑稽さを笑いながら生きている様が、なんとも良い加減なんですな。これが江戸っ子の人情というものでしょうかねえ。
 
ぼくが特に好きだった噺家、柳家小三治さん。先日亡くなった際、小三治さんの人生や芸風を評する記事のなかで、このような言葉がありました。
 
<ひょうひょうとした語り口で、おかしみにあふれた高座が高く評価された>
 
「おかしみ」。なるほど、なんとも良い言葉ですなあ。
 
現代を生きるわたしたちも、誤解を恐れずに言えば、噺のなかの江戸っ子や与太郎さんの集まりみたいなものかもなあと思うんですな。ときを経ても同じ人間。ある部分では優れているひとも、ある部分ではポンコツだったり。見栄っ張りで意地っ張りで気が強くそして気が短い。
 
その至らなさを責めるのではなく、そのポンコツさ、その言動や存在のおかしみを、互いにまるごと抱きしめるように生き合えたらよいものだなと思うんですな。抱きしめられなくとも、なるべく切ったり切られたりせずに、おかしみを味わって生きていたいものですな。落語を聴くといつもそんなことを思うものです。
 
 
※2019年2月、生で観ることの出来た小三治さん。同じ時代に生きることが出来てとても幸せでした。

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