ラファエル・サバチニの"The Strolling Saint 彷徨の聖者"
続スカラムーシュ以外も、「翻訳予定には入れてないけれど紹介しておきたい作品」に関する記事を #未訳 タグでアップしていくことにしました。
“The Strolling Saint” by Rafael Sabatini (First Published 1913)
16世紀イタリア、ゲルフとギベリン(教皇派と皇帝派)のパルマとピアチェンツァをめぐる争いを背景にした青年の成長譚。1913年(大正2年)初版刊行。
サバチニはこの前年にチェーザレ・ボルジアの評伝"The Life of Cesare Borgia"と短編集"The Justice of the Duke"、翌年にはスペイン異端審問所初代長官トマス・デ・トルケマダの評伝"Torquemada and the Spanish Inquisition"を刊行。作風の転換期にあたる作品です。
第一部 “在俗修道者”
舞台はボルジア全盛期から約20年ほど後の北部イタリア。教皇領ピアチェンツァ内にある架空の土地カルミナ及びモンドルフォの領主で皇帝派だったジョバンニ・ダンギッソラは、1525年のパヴィアの戦いでフランス軍と交戦し生死の境をさまよう大怪我をした。
その時主人公を身ごもっていた ダンギッソラの妻モニカは、夫の命と引き換えに自分の胎内にいる我が子を神と教会に捧げると誓願してしまう。そして父ジョバンニが生還してすぐに生まれた主人公は聖アウグスティヌスにあやかってアゴスチノと名付けられ、神への供物として狂信的な母親から俗世と隔離された状態で育てられることになる。
砦の外にはほとんど出してもらえず、字が読める齢になると、すぐに聖書とアウグスティヌス作の『De Civitate Dei contra Paganos 神の国』『Confessiones 告白録』を与えられるという幼年時代。勉強部屋に置かれているキリスト磔刑像は微妙にデッサンが狂っていて、見ているうちに不安になる造形の上、 ぱっくり空いた傷口にクリスタルをはめこんで強調しているという、ちょっと精神にキそうなシロモノで、 幼い主人公は見るたびに「こわい…」と思っているのだが、母はいつもそれを恍惚とした表情で見上げている……。
大事な跡継ぎをそんな風に抱え込んだ妻に父は怒り、神に逆らう夫に対して母は嫌悪をつのらせる。自分の存在が両親の争いの元になってるので、幼い主人公は当然のように萎縮して自罰的な性格に育っていく。
この母モニカ、夫や子供が自分の意にそわないことをすると、怒るのではなく被害者ムーブをするのですよ。私は貴方のせいで傷ついた、貴方はなんて酷い人なの…… という態度で相手に罪悪感を抱かせようとする。自分は神の教えに従って生きているから絶対正義、一歩も譲らない。非常に始末に悪いタイプ。
そんな風に幼い主人公は実母による軟禁洗脳教育で純粋培養されていくのだが、その間も外の世界では政治状況の激変があり、父ジョバンニ・ダンギッソラの領地カルミナが甥コジモの裏切りで教皇派に実効支配され、更に教皇クレメンス7世がフランス王と同盟するという、フランス軍を押し返すために死ぬ思いで戦ったジョバンニからすれば許しがたい大事件が起こる。
完全に反教皇モードになったジョバンニはクレメンス7世逝去のどさくさで教皇軍に反旗を翻すのだが、新教皇パウルス3世の庶子ピエール・ルイージ・ファルネーゼ率いる教皇軍と一戦して敗走、教会からは破門され、数年間諸国を逃げ回った末に死んだという知らせが妻子の許に届けられる。
父の訃報を運んで来た忠実な副官のファルコーネは、城内の皆から「マドンニーノ(女主人のご子息)」と呼ばれ軽んぜられていた主人公アゴスチノに「我が君」と呼びかけ、こっそりと武芸の指導をし……と少年を「男の世界」に導くメンター役になりかけるのだが、母モニカはそのファルコーネを極めてむごいやり口で追い出してしまう。しかもまだ幼いアゴスチノにプレッシャーをかけてファルコーネ追放に同意させ、自尊心を砕き罪悪感を植えつけるという念の入れよう。
その後も成長にともなってアゴスチノが自立心をみせる度に、母は容赦なく息子の心をへし折りにかかる。こういう母親なので、 アゴスチノ少年は性情報から徹底的に遠ざけられ、周囲に若い女がいない環境で育てられたのだが、どんなに抑圧されようと春のめざめというのは訪れてしまうもので、18歳になったアゴスチノは些細なトラブルからたまたま助けた下働きの娘をめぐって暴力沙汰を起こしてしまう。
外から知識を与えられなくとも、成長するにつれ人間の中にはエロスとバイオレンスの衝動は自然に生まれてくるものだが、母は「せっかく私が邪悪な世界から守って育てたのに!この子には父親の悪い血が流れているのよ!!」と絶望。
もう母の手には負えないと判断された主人公アゴスチノはピアチェンツァの学者の許に預けられて、そこで修練院に入る前段階の勉学を修めることになり、遂に生まれて初めて外の世界に旅立つのだが……という処で四部構成のうち第一部終了。
第二部 "ジュリアーナ"
毒親の許を離れてプチ留学した主人公アゴスチノは、滞在先の学者の館で教皇領ピアチェンツァの支配者エジーディオ・ガンバラ枢機卿(実在人物)、教皇派に寝返って父の領地カルミナを継承している従兄のコジモ・ダンギッソラ、著名な翻訳家のアンニーバレ・カロ(実在人物)などと出会い、また宗教書以外の文学哲学に触れることで急速に世界が広がっていく。
無菌状態からいきなり俗世に出た主人公は、学者とは親子ほど年の離れた若く美しい妻ジュリアーナの色香に抗うすべもなく陥落。
アゴスチノより十歳年上の美人妻は純情青年を誘惑する一方、夫の出世のために享楽的な権力者ガンバラ枢機卿にも接近、学者と不倫妻と高位聖職者の色と打算まみれの三角関係に巻き込まれたアゴスチノは、はずみから学者を殺害してしまう。姦淫(未遂ではありますが)と殺人の罪を犯してしまった主人公が恐慌状態で母の許に逃げ帰った処で第二部終了。
第三部 "荒れ野"
罪に怯えて逃げ帰った主人公アゴスチノに容赦ない叱責を浴びせる母モニカ。
「神に仇なす男の命を請う為に穢れない赤子の命を神に捧げたのに、お前がそんな穢れた人間に育ってしまったおかげで私は結果的に神に偽りの誓いをしたことになってしまった。己の罪を贖う気があるなら、私がこの世に罪を産み落としてしまったことを思い出させないように二度と私の前に顔を見せるな」
あまりにも非情ないいように、亡き父の乳兄弟で長年アゴスチノの家庭教師を務めてきた修道士ヘルバシオが見かねて割って入るが、我こそ正しい信仰者と信じて疑わない母はこれに惨い惨い侮蔑の言葉を返す。
このヘルバシオ修道士、家の都合で僧門に入ったものの自分は聖職に向いてないと悩み続けてきた人物なのだが、うちひしがれている主人公にこのような言葉をかける。
「母上を許しておあげなさい。貴方自身の為に彼女を許しなさい。あの人は己の行いの意味を理解していないのです。だから母上のために祈りましょう。限りなき慈悲を通じて主が彼女に謙徳と神の智慧を教えたまわんことを」
自分は場違いな所にいる、偽物の修道士だと悩み続けてきたヘルバシオが尊厳を踏みにじられた時に本物の「愛と赦し」に辿り着き、本当の意味での自省を知らない母モニカは無情にも我が子を追手に引き渡してしまう。
殺人の罪で捕縛され、ピアチェンツァに連行されたアゴスチノ。獄につながれ、明日には不倫殺人の罪で裁かれて絞首刑に処されるのを待つばかりの彼の許に、意外な助けが現れる。それは美人妻ジュリアーナの本命の浮気相手、教皇領ピアチェンツァの支配者エジーディオ・ガンバラ枢機卿だった。
権力をかさに放埓な生活を送っている枢機卿はピアチェンツァ市民からは相当恨まれており、ジュリアーナの不倫相手であることも周知されているので、仮にアゴスチノがまともな裁判で死刑判決をうけても「無実の男がでっちあげで真犯人であるガンバラ枢機卿の身代わりにされた」と信じ込んだ民衆が暴動をおこしかねない。
近日中に教皇軍のピエール・ルイージ・ファルネーゼが来る予定になっているのに、そんな騒ぎになったら私の地位が危うい、通行証をやるからさっさと逃げろ……とアゴスチノは牢から追い出されてしまうのだった。
罪を犯し、帰る場所も失い、あてもなく彷徨うアゴスチノは、オルサロ山中に庵をむすんで清貧な暮らしをしている隠者の噂を耳にする。民の相談に知恵を貸し、病を癒し、時折奇跡を見せる在野の聖者の庵には多くの巡礼者が立ち寄り、集まった浄財は貧しい人々に分け与えられ、その一部は多くの民の命を奪ってきた急流に橋をかけるための資金として蓄えられているという。
これぞまことの信仰の姿と感激し、モンテ・オルサロに向かったアゴスチノが庵に辿り着いた時、在野の聖人は臨終の床についていた。彼を看取ったアゴスチノは、自分も己をむなしゅうして隠者の後を継ごうと決意するのだった。
様々な神秘体験をしたり栄養失調で幻覚をみたりしつつ苦行による贖罪にはげむアゴスチノの庵に、ある日、兵の一団と若い女性がたずねてくる。その女性は亡き父ジョバンニ・ダンギッソラの友人、カヴァルカンティの息女ビアンカであり、ダンギッソラ家の跡取り息子である主人公を探しにきたのであった。
そして遅れてかけつけてきたヘルバシオ修道士、同行してきた傭兵隊長ガレオットが解き明かす驚愕の真相。在野の聖人と思われていたのはただの詐欺師で、橋の建設費の名目で募った寄付を懐に入れていた悪党だったというのだ。
アゴスチノが体験した数々の神秘現象には種も仕掛けもあるのだ、と全ての現象に合理的な説明をしていくヘルバシオ修道士。
そして神秘主義に逃げ場のないことを悟った主人公は遂に俗世に戻る決意をし、カヴァルカンティ家の本拠であるロンバルディアに向かうのだった。で第三部終了。
第四部 "世界"
主人公アゴスティノ・ダンギッソラが俗世に帰還したのが1545年5月。その頃パウルス3世が教皇領の一部を分けてパルマ及びピアチェンツァ公国を創建し、息子のピエール・ルイージ・ファルネーゼに治めさせようとしていた。
だがパルマとピアチェンツァは神聖ローマ帝国が権利請求しているミラノ公国の一部であり、第五次イタリア戦争の主戦場。皇帝としては本件に介入したいものの、教皇軍と正面からやりあうのは避けたい。ここはパルマとピアチェンツァが教皇領から切り離されてファルネーゼが支配者になった後、公国内の民に反乱を起こさせて、皇帝派が「解放者」として乗り込むという形がほしい。
そのような思惑にもとづいて、神聖ローマ皇帝カールⅤ世の忠臣フェランテ・ゴンザーガがミラノの旧家カヴァルカンティ家やダンギッソラ家に協力を要請してくる。
「庭を逍遥しつつ最も高く伸びた芥子の花を杖で打ち落とした傲慢王タルクィニウスがごとき暴政」に貴族たちの不満はつのり、ガレオットとカヴァルカンティの働きかけによって徐々に反ファルネーゼの同士が集まってきた。
(※ちなみにピエール・ルイージ・ファルネーゼの乱行の一例として、ファノ司教強姦致死事件も引用されております。https://en.wikipedia.org/wiki/Rape_of_Fano )
反教皇派による巻き返しの準備を進めるためにカヴァルカンティの城に滞在している間、息女のビアンカとアゴスチノの間には愛が育まれていくのだが、そんな時、ファルネーゼが愛人同伴でカヴァルカンティの領地を訪問、その愛人というのが例の不倫妻ジュリアーナだった。更に教皇派に寝返って父ジョバンニ・ダンギッソラを陥れた従兄コジモまでもがやって来た。ファルネーゼはカヴァルカンティ家を自分の陣営に引き込むために息女ビアンカとコジモの縁組をゴリ押し、更に縁組の邪魔者を片付けるためにアゴスチノを神聖冒涜罪で告発しローマに連行するのだった。
例の不倫殺人なら関係者一同保身のために真相は隠蔽するはずであるし、そもそもあれは一般犯罪を扱うロータの管轄なので教会から審問にかけられるいわれはない。そう信じてカヴァルカンティ家を守るために大人しくサンタンジェロ城に連行されるアゴスチノだったが、彼の犯した罪とは偽の奇跡を使って巡礼者から寄付を集めた一件なのであった。実際に仕組んだのは元々庵にいた偽坊主だが、知らぬとはいえ庵を引き継いで浄財を受け取っている以上、アゴスチノが神聖冒涜罪を犯していることに間違いはない。
絶体絶命のアゴスチノだが、そこに届いた一通の手紙によって危ういところを救われる。彼の助命と引き換えにカヴァルカンティがビアンカとコジモの結婚を承諾してしまったのだ。
ビアンカを救え!とロンバルディアに向け馬を飛ばすアゴスチノだが一足遅く、既に結婚式は済んでいた。そのままコジモの許に急行した彼が見たもの、それは花嫁の初夜権を譲られたファルネーゼがビアンカに襲い掛かろうとする光景であった。
間一髪のところで乙女の貞操を救ったアゴスチノたちだが、その争いの中で傷を負ったカヴァルカンティは後事を彼に託して死んでしまう。
荒淫無慚なる暴君討つべしと、1547年9月10日、ピアチェンツァにおいて遂に実行に移されるピエール・ルイージ・ファルネーゼ殺害計画。しかし従兄コジモはこの時ピアチェンツァにはおらず、ビアンカは法的にはコジモ・ダンギッソラの妻のまま。政変のどさくさでファルネーゼ諸共に殺害していれば面倒はなかったのだが、この段階でアゴスチノがコジモと決闘して勝ったとしても、ビアンカは世間から「愛人に夫を殺させた淫婦」と見なされて名誉を失ってしまう。結婚無効を教会に申し立てようにも、ファルネーゼ一族と事をかまえた今となっては聞き入れられるはずもない。
政変の結果、ピアチェンツァはフェランテ・ゴンザーガに占領されてミラノ公国の一部となり、アゴスチノ・ダンギッソラは今や帝国領となったビアンカの亡父カヴァルカンティの城に滞在しているのだが、そこに従兄のコジモ・ダンギッソラが「不法占拠したカヴァルカンティ領とコジモの妻ビアンカを返還しなければ破門する」という教皇の勧告書を持ってやって来る。コジモがピアチェンツァの政変で命拾いしたのは、この勧告書をもらうためにローマに行っていたお陰なのであった。
居城が帝国領になったとしても自分とビアンカ・カヴァルカンティの結婚は正式なものであり、舅が死んだ以上は自分が相続者なのだから本件に関しては皇帝も口出しできないはずと主張するコジモに対し、全ての決着は裁判でつけることになる。
主人公アゴスチノ・ダンギッソラは
第二部で犯した不倫殺人で一般刑法犯罪(教皇領内の司法組織ロータの管轄)
第三部で犯した宗教詐欺で異端審判(教皇庁検邪聖省の管轄)
そして第四部では土地と妻女の不法占有問題で起訴されて皇帝裁判所で審判をうけることになる。
神聖ローマ帝国皇帝代理ミラノ公フェランテ・ゴンザーガの御前で開かれる裁判。狡猾なコジモはアゴスチノに有利な証拠を使用不可にし、更にカヴァルカンティ殺害の濡れ衣まで着せてしまう。アゴスチノの命運は風前の灯、残りページ数もあとわずか、どうするどうなる……というところで大どんでん返し!
初読の時には「こんなの有り?!」と驚きましたが、この紹介文を書く為に再読したら第一部第一章からずっと丁寧に伏線がしかれており、これまでの展開で微妙な違和感を感じていたところも伏線でした……。
終盤が裁判ミステリというだけでなく、この長編小説自体が冒頭から大きな「騙し」要素のあるお話だったという……。
そしてミステリである以上、たとえ翻訳される可能性が1ミクロン以下しかなくともマナー的にネタを割る訳にはいきませんので、興味のある方はがんばってオリジナル版を読んでください。変な小説だけど面白いことは確かなので。(以上で本編紹介おわり)
「信用できない語り手」による歴史ミステリ
この小説、
第二部:うだつの上がらない学者とその若妻、堕落した高位聖職者の三角関係に巻き込まれた青年が犯す殺人事件と、その意外な顛末を描いたミステリ。
第三部:挫折からひきこもりになった青年が神秘体験をエサにした宗教詐欺に巻き込まれるミステリ。
第四部:家督と領地の相続権をめぐる法廷ミステリ。
と各部ごとにミステリ要素のある作品であり、特に第三部終盤で探偵役の修道士が詐欺の手口と神秘現象の解き明かしをおこなうあたりは、不可解な現象・さりげない伏線・謎の合理的な解決・犯罪とその隠された動機……と推理小説の謎解きフェイズのようで、エラリー・クイーンがサバチニを歴史ミステリ枠に入れたがった理由が非常に良くわかります。
そして作者のサバチニが意図しているのかどうかは不明ながら、本編内で展開されているドラマの外枠として、更に大きなミステリ要素もあるのです。
本作のタイトルは"The Strolling Saint"ですが副題に"Being the Confessions of the High & Mighty Agostino D'Anguissola Tyrant of Mondolfo & Lord of Carmina, in the State of Piacenza"とある通り、モンドルフォ僭主にしてカルミナ領主アゴスチノ・ダンギッソラの告白録であり、主人公アゴスチノの一人称で書かれています。
つまりミステリとして考えると「信用できない語り手」によって書かれた文章であり、「十代にして領内で女をめぐって暴力をふるい部下を不具にし、遊学先で恩師の妻と姦通した末にその夫を殺害して逃亡、法の裁きを逃れて山に潜伏し宗教詐欺をはたらき、その罪で教会から審問にかけられ、それから後も教皇軍司令暗殺一味に加わり、従兄の正式な妻を結婚初夜に強奪し、従兄の領地を不法占拠した極悪非道の暴君(罪深い息子に絶望した信心深い母は世を捨て尼僧院に入ってしまう)」が自己正当化のために書いた文章という可能性も否定できないのです。
「毒母に苦しめられながら育った少年の魂の彷徨を描いたドラマ」として読むも「神にも救えぬ生まれながらの悪党の罪にまみれた遍歴を描いたドラマ」として読むも読者の自由なのですよ……。