ROCでのRevoの発言や「解釈の自由」を踏まえて、便宜上R.E.V.O.とは何だったのか再考
はじめに ~Revoの考える物語音楽とは~
先日、2024年6月29日と30日の2日間にわたって、『Revo’s Orchestra Concert』が開催された。
30日夜のトークコーナーにおいてRevoが発した言葉の一つが、ローランの中で話題となっている。
それは、「自分の中では、ポップスのメロディに物語調の歌詞を乗せたものは物語音楽とは呼ばない。音楽自体が物語となっていてこそ初めて物語音楽と呼べる」という意味合いの発言だったはずである。
これまでSound HorizonやLinked Horizonを追ってきた皆さんにとって、これは驚くには値しない発言だったであろうと思う。
Revoが作る音楽の中では、特定のフレーズやコード進行、楽器等が同一のモチーフを表すのに使われることが多々あり、歌詞では語られないような内容がSEやメロディから汲み取れるということも珍しくない。
しかし、このような形で、「Revoの考える物語音楽」が本人の口から明言されるのは初めてだったと記憶している。
すると、SNS上で必然かのように勃発した議論がある。それは、これまで一般用語としての「物語音楽」に括られてきた「ポップスのメロディに物語調の歌詞を乗せたもの」との対比である。
先に断っておくが、私は決して他の物語性のあるポップ・ミュージックが、サンホラの表現よりも劣っているなどと言うつもりは全くない。これから触れる「ポップスのメロディに物語調の歌詞を乗せたもの」の具体名を出すつもりもないので、どういった作品のことを指しているのかは皆さんのご想像にお任せしたい。
あくまでこれは、Revoのスタンスとしての物語音楽の定義についての話である。
サンホラ以外の「物語音楽」の中には、作者本人によるノベライズで新たな情報が発覚するなど、物語が音楽内だけで完結していないものもある。
これに関しては、物語性のあるボーカロイド楽曲の文脈が顕著だろう。
一方それらとの比較で、サンホラは音楽内で全ての物語が完結しているとされる。
本当にそうだろうか?
解釈の自由について
サンホラは、15年以上にわたり「解釈の自由」を徹底してきた。
それはもう偏執的なまでに。関係者による、9年前のアルバムの「公式解釈ともとられかねない発言」が即咎められるほど、ローランの想像の余地を大事にしてきた。「空耳に誇りを持ちたまえ」との公式声明も出たほどだ。
「解釈の自由」を徹底するあまり、Revoが細かく携わっているはずであるストーリーコンサートも公式見解ではなく一つの解釈に過ぎない、との前置きの上で行われている。
MärchenのコミカライズやRoman、Elysionのノベライズなど公式による出版物も、大部分は作家に委ねられた、あくまでも一つの解釈に過ぎない。
そう、思っていたのだが……
正直なところ、10周年祝賀祭やNeinのストコンあたりから、その立場に自信がなくなってきた。
10周年祝賀祭には間違いなくNoël本人が時空を飛び越えてやってきていて、Revoとデュエットまでしていた。ただの「似て非なる者」というポジションとは話が異なる。しかも観客参加型でNoëlという我々とは異なる世界線を生きる一人の男の人生に影響を与えてしまった。
Neinのストコンでは再びNoëlが登場する。 『西洋骨董屋根裏堂』では店主による「代金代わりにお前さんの1番大切なものを頂こうかしら。なーんてね♪」などという台詞が追加されていた。
これが「ただのストコン上での解釈」と断じられれば良いのだが、仮に『絵馬に願ひを!』のいわゆる『白い天井』トラックで聴覚または声を喪ったと示唆されているのがNoëlであるならば、Neinストコンでの店主の発言が非常に大きな意味を持ってくる。それこそ、こちらの解釈を規程してしまうほどに。
さて、そもそも解釈の自由とは何なのだろうか。
先ほども引用した『2024.04.24「解釈の自由」について主宰よりお知らせ』にはこうある。
必要となるであろう最低限の情報は《》内に明記されているからです。
これは考えてみれば不思議なことである。
「音楽や音の情報の中に物語の全てを詰め込んでいる」はずのRevoが、歌詞カードの情報はストコンやノベライズ・コミカライズと異なり、公式解釈だと認めているのだ。
じゃあ音で全てを語れてないじゃん!!!
これを言ってしまうのは野暮かもしれない。
だが、実際音だけで全てが伝わるようにはできていない、とサンホラは断じてしまうことができる。
ROCで演じられたからあえて触れておくと、『失われし詩』がどんな物語なのかは、音情報のみから察することはほぼ不可能(雰囲気程度なら伝わるが)で、歌詞カードが情報の全てといっても過言ではない。
そういう意味で、「サンホラは音の中に全てが入っているんだ!他の物語性のある音楽とは一線を画する存在なんだ!」と神格化しすぎるのもいかがなものかとは思う。
ともあれ、ここまでの情報を踏まえると、我々は「解釈」を行う際に、音で聞こえる情報と歌詞カードの情報は素直に受けて入れても良いが、コンサートやノベライズ・コミカライズ・MV等の情報はあくまで一解釈としての理解に留めておくべきだということになる。
便宜上R.E.V.O.とは何だったのか
少々話が逸れたが、今回論じたいのは便宜上R.E.V.O.とは何だったのか、である。
便宜上R.E.V.O.はNeinに登場する《遮光眼鏡型情報端末》で、過去と未来の様々な地平線から物語を【否定】または【改変】する能力を持つ。
と、思われている。
しかし、『絵馬に願ひを!』を通じて気付かされたことがある。
それは、我々=狼欒大神の行っている「解釈」と、便宜上R.E.V.O.の行っている行為は、どちらも同じ「赤(せき)の光」であるということである。
Neinでも絵馬でも、登場人物が作為的に操作される時に、赤いパルス波のようなものが発生する。
つまり、便宜上R.E.V.O.が行っていることは我々と同じ「解釈」であると考えられる。
ここに来て、先程まで論じていた「ローランにとっての解釈とは何か」という話が生きてくる。
ローランは、音の情報と歌詞カードの情報のみを確定事項とし、それ以外の部分については自由に想像の翼を広げて構わない。それが主宰の理想とする姿であろう。
そうであるからには、便宜上R.E.V.O.が行っていた行為も、我々ローランと同じく、音の情報と歌詞カードの情報のみを確定事項とした上で、描かれていない部分を補填することだったのではないだろうか。
『憎しみを花束に代えて』の舞台が現代イタリアだったからといって、原曲である『StarDust』の舞台もそうだったとは限らない。
『涙では消せない焔』にローランサン将軍が登場するからといって、「見えざる腕」や「緋色の風車」に登場するローランサンが将軍まで上り詰めたとは限らない。
便宜上R.E.V.O.もあくまで音と歌詞カードから拾えた情報のみを元に、「解釈」を行っていたと考えても良いのではないだろうか。
しかし、ここまで考えると齟齬が生じる。便宜上R.E.V.O.が行った行為は明らかに「解釈」の範疇を超えるのだ。
『愛という名の咎』ではエレフセウスが反乱を起こすきっかけとなる『星女神の巫女 -Αρτεμισια-』以降の物語をまるっと無視しているし、『忘れな月夜』ではエリーザベトが磔刑になる事実を無視している。
便宜上R.E.V.O.が行っていることはもはや我々ローランに許されているような「解釈」の域すら超えているのだ。
それゆえに、最後には便宜上R.E.V.O.自身がNoëlによって「もうやめてくれ」と否定される。
この物語を作ったRevoにとっては、音の情報と歌詞カードの間を補完するのは良いにしても、書かれている事実をまるっきり無視して新たなIFストーリーを生み出すことは「解釈」には含まれないのかもしれない。(勿論そういった二次創作を否定することとは話が違うだろうが……)
すなわち、便宜上R.E.V.O.とは我々ローランと同じ次元から物語を俯瞰できるいわば(地平線世界からすれば)上位存在であり、持っている権能は我々と同じ「解釈をする」ことである。
モチーフとなっている量子力学的に言えば、「観測者」と呼べる存在である。
しかし便宜上R.E.V.O.は《幻想の神々》の真似でもしようとしたのか、過ぎた改変を行った。そのためにNoëlに咎められる形で終了する。
以上から言えることは……
音と歌詞カードにはっきり書いてあることは、【否定】せずちゃんと受け入れて、描かれていない部分で想像の翼を広げようね!!!
……ということ、なのかもしれない。
あまり締まりが無い終わり方になってしまったが、改めて「解釈」とは何かについての考察だった。