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今も僕は何者でもない

はじめに

この物語は、僕の人生に起きた実際の出来事に基づいて書いています。
高校三年生でファッションデザイナーを志すも、三十六歳でも何者にも成れず、これまで経験した苦悩や葛藤、たびたび訪れる幸運について書いています。

プロローグ

僕は、自分の人生が不幸だと思った事は一度も無い。
でも、単に「幸せな人生」という言葉だけで言い表す事も出来ない。
例えば、何不自由のない生活、一戸建ての家に住み、両親の仲が良く、休みの日は家族で旅行に出かけ、進学校に進んで留学もでき、社会人では順調にキャリアを積み上げていき、奥さんや子供に恵まれ、車や家を買う、そういう幸せな人生ではない。
僕の人生は、「幸せ」というよりも、「幸運」という言葉の方が近いのかもしれない。
僕の人生を振り返ると、どんなにつらい出来事があっても、幸運と呼べるような出会いや出来事が何度も訪れた。
もし、それらの幸運が訪れない人生だったら、僕は自分の人生を不幸だと思っていたのかもしれない。

66~79

66.原宿にいつも一人で行っていた
生まれ育った岩手の高校から東京の高校へ高校一年生で転校し、嫌がらせを受けて憂鬱な日々を過ごしていた。
神がかりのおばあさんと出会い、続けていれば良い事があると思うよと一言だけ言われ、憂鬱な高校生活を変えるために、いろんな人と仲良くなるために努力をした。
気づけば高校三年生に成り、高校で話す人が増えたものの、お洒落が好きな友人は一人もいなかった。
休日は原宿にいつも一人で行き、服とスピリチュアルな無言の会話をしていた。
「きみはどうしてそのデザインに成ったんだい?」
服を手に取って無言のまま話しかけ、服から無言の返事を受け取って会話をしていた。
服だけが友達だった。
友人がおらず、自分一人だけで原宿にいても、カッコいい服に出会った時は、他の何ものにも代え難い高揚感や幸福感があった。
いつか、ストリートスナップに撮られないかと、自分なりにスタイリングやヘアスタイルを工夫してみたが、一度も撮られる事は無かった。
ストリートスナップに撮られる事は諦めて、自分だけのスタイルを模索するため、雑誌には載っていない、自分だけの服を探していた。
中学二年生の時から、僕はずっとヴィジュアル系のMIYAVIが好きだった。
チョキチョキやTUNEの雑誌に飽き始めていた僕は、ヴィジュアル系の雑誌を見ては、自分のファッションに要素を取り入れようとしていた。
MIYAVIは、毎回異なるテーマで、いろんなメイクやファッションをしていた。
でも、その着ている服のセンスは僕の方が上だと思っていた。
負け惜しみみたいな話だが、僕がMIYAVIに勝てるのは、ファッションしかないと思っていた。
既製服はどうしても誰かの何かと重なりがちになるため、僕は古着屋をメインで回っていた。
ヴィンテージの何かとかではなく、一点物。
デッドストックとかではなく、どこの誰が何のために作ったか分からない、見たことのない古着に惹かれた。
僕は一点物という言葉にとても魅力を感じた。
一点物で僕の感覚にフィットした時は、自分だけが独占できるスタイルだと思えてとても嬉しかった。
イギリス限定のレインボーのラメの糸で加工されたドクターマーチン。
叶姉妹の男版みたいなラビットファー。
ラメが織り込まれたスキニーデニム。
育ての母である工藤さんのおばちゃんは、紫色とヒョウ柄とゼブラ柄が好きで、僕の趣味では無かったのに、気づけば、ヒョウ柄のライダース、紫色のベロアのカーディガンなどの服を無意識に選ぶように成っていた。
とにかく、他の誰も手に取らないような、でも自分にとってはカッコいいと思える服を探していた。
そうして、毎週のように原宿に通っている時、僕はふと気が付いた。
もしかすると、僕は美容師よりもファッションに魅力を感じているのではないかという事に。
もともと、お洒落キングの奈良さんなど、サロン系のイケメン達に影響を受けて美容師を志していたが、彼らのファッションに魅力を感じていた事に気が付いた。
そうか、僕はお洒落をして人の髪を切りたいとも思っていたが、本当はファッションに強烈に惹かれているのか。
そう気づいた一方、僕はファッションデザイナーに成れる訳が無いとも思った。
ファッションデザイナーは、ストリートスナップに撮られるようなお洒落な人で、絵も上手くて、才能やセンスが有る人だけが成れるものだと思っていたからだ。
しかし、それを言えば、美容師も同じではないかと思った。
美容師も、ファッションデザイナーも、どちらも才能もセンスも必要なはず。
そして、生まれた瞬間から才能やセンスがある人はいないはずだから、後天的なものであるはずだとも思った。
であれば、美容の専門学校に入って美容師を目指そうとしていた事と、服飾の専門学校に入ってファッションデザイナーを目指す事も同じではないかと思った。
一度きりの人生、本当にやりたい道に進みたいと思った。
僕は、自分の才能もセンスも自信が無かったが、もしかしたらファッションデザイナーに成れるかもしれないという、ファッションがただ好きという気持ちだけで、服飾の専門学校に進む事に進路変更をした。
もともと、美容の専門学校はバンタンデザイン研究所と決めていたので、コースを美容からファッションに変更すれば良いくらいに思っていた。
インターネットで調べる事も当時はできなかったので、バンタンのAO入試を受ける事にした。


67.バンタンのAO入試に合格する

恵比寿にあるバンタンの学校に行き、AO入試を受けた。
試験は無く、単に意気込みを語るだけの内容だった。
後日、合格の通知が自宅に届いた。
僕は、担任の先生が嫌いだったが、一応は担任なので合格したことを報告しようと思った。
「先生、バンタンに受かりました。」
すると、担任は顔を真っ赤にしながら僕にこう言った。
「お前な、バンタンって無認可校だろ?いろいろ調べてそこにしたならいいけど、調べてからそこにしたのか?」
僕は、認可校よりも無認可校の方がカッコいいと思っていたので、それを否定された気持ちで苛立ちながらこう答えた。
「僕は、認可とか無認可とか気にしていないので。他の学校は調べていませんが、もう決めた事ですし、合格したので今更に成って変える事もできません。」
それを聞いた担任は、食い下がらずに続けてこう言った。
「まだ入学金は払っていないんだろ?だったら、まだ間に合うから、進路相談室に行きなさい。」
僕は、担任が説得してきたものの、全く聞く耳を持たずに断った。
「進路相談室には行きません。バンタンに決めたので。」
これで、この話は終わらせようと思ったところ、担任が怒鳴って言った。
「いいから進路相談室に行け!」
僕が進路相談室に行くと言うまでこの話は終わらないなと気づいた。
「はい、行きます。」
そう言って、僕は進路相談室に行く事に成った。
「すみません、担任に進路相談室に行けと言われたので来ました。」
進路相談室のおじさんは笑顔でこう言った。
「そうですか。進路はどうするつもりですか?」
僕はふてくされながら答えた。
「ファッションデザイナーに成りたくて、バンタンのAO入試を受けたんです。それを先ほど担任に伝えたら、無認可校だろとか言われて、進路相談室でもっと調べるようにと説得されて来たんです。」
おじさんが分厚い冊子を手に取り、僕に見せながらこう言った。
「そうですか。専門学校もいろいろありますからね。無認可校っていうのは、専門学校ではないんですよね。なので、認可校だから良いとかではありませんが、認可校も含めて検討された方が良いとは私も思います。」
なるほど、このおじさんも言うのだから、そうなのかもしれないと思った。
その冊子には、大学や専門学校の説明と、評価が明記されていた。
バンタンデザイン研究所の評価は△で、「名前が先行している印象」と厳しい評価が書かれていた。
服飾の専門学校で◎の評価の学校が二つあった。
エスモードジャポンと文化服装学院だった。
エスモードはパリ校も有る、パリの技術が学べる学校で、企業が求める技術がしっかり身に付き、就職も安定していると書かれていた。
一方の文化服装学院には、歴史あるマンモス校、有名デザイナーも多数輩出していると書かれていた。
僕は、岩手の中学や高校では、学年のクラスが少なく、もっとたくさんの人と知り合いたいと思っていたので、マンモス校に憧れがあった事を思い出した。
マンモス校には少し興味が有るかもしれないと思い、文化服装学院の説明会に参加する事にした。


68.文化服装学院に決める

文化服装学院の説明会を受けた時、学校の設備の充実度に驚いた。
図書館も、実習室も、何もかもが充実していて、正直なところ、バンタンでは見た事が無いものが沢山あった。
そして、決定打と成ったのが、新設されたコースの内容だった。
これまでの専門学校は二年生や三年生で卒業する事が一般的だったが、来年度から四年生まで通えるコースが新設されるという話だった。
この時、他に四年生のコースに通える専門学校は無かったので、僕はこのコースしかないと思った。
あっさりと、バンタンではなく、文化服装学院に通う事に決めた僕は、入学試験を受けてなんとか合格した。
担任にも報告をして、僕はファッションが好きな友達ができると毎日が楽しみで、高校卒業のタイミングが待ち遠しかった。
そして、ようやく高校卒業の日が訪れ、僕は東京に来て一番の笑顔が出た。
嫌いだった高校を卒業できる事、そしてファッションが好きな人たちと出会える事。
これ以上の幸せは無いと思った。
この時に、神がかりに成ったおばあさんの言葉を思い出した。
「続けていれば、良い事が有ると思うよ。」
僕は、高校を変えずに続けた事で、文化服装学院という道を見つける事ができたと思った。
あの一言は僕の人生における価値観形成やターニングポイントのひとつだった事は間違いない。


69.文化服装学院に入学

文化服装は一つのクラスが五十人ほどあり、九クラスあった。
僕のコースのみ一つのクラス、他は基礎科というクラスだった。
新設されたコースという事もあり、どの先生からも新設コースへの期待は高かった。
他のクラスと比較して、プライドが高かったり、優越感に浸っている生徒が多い印象だった。
最初に仲良くなった人は、小池という男性だった。
小池は、同い年なのに、ロン毛で髭が生えていた。
高校を卒業したばかりなのに、三十代の風貌をしていて、大人びていた。
一緒に昼飯を食べたり、タバコを吸ったりしながら、常に時間を共にしていた。
しかし、彼の会話に僕は付いていけていない事をことごとく思い知らされた。
小池と僕は、互いにどういう服を作りたいかという話をした。
小池は、実験的な服を作りたいと言っていた。
僕は、実験といえば、理科みたいな印象を持っていて、ビーカーに液体でも入れて、何か服を作ろうとしているのかと思ったが違った。
漫画のおそ松くんのシェーのポーズの状態で立体裁断をした後に、それを普通に人が着たらどのように見えるのか気になると言っていた。
僕は、全く理解ができなかった。
そして、ギャルソンやヨウジ、マルジェラみたいに既成概念を覆すようなブランドを始めたいとも言っていた。
僕は、ギャルソンもヨウジもマルジェラも知らなかった。
小池にどういうブランドか聞いても説明をしてくれなかった。
数日後、小池は千田という男性と仲良くなり始めた。
その二人で仲良くなり、僕はその輪には入れてもらえなかった。
きっと、僕には教養や中身が無いため、話をしても無駄だと思われたと思った。
他にも、トラッドという言葉の意味がわからず、どういう意味か聞いた時も、ダルそうに答えてもらえなかった。
僕は、わからないことを人に聞いても教えてもらえないという現実を思い知った。
誰も教えてくれないのであれば、自分で調べるしかないという結論に至った。
この経験を機に、僕は一人で図書館で調べる事を始めた。
まともに本を読んだことのない自分が、図書館にいる。
不思議な経緯だと思いながらも、高校の時に暇潰しでいつもいた図書館に何か縁を感じていた。
小池が読んでいた書籍でヴィジョナリーズというタイトルの本がある。
この本は、二十三人のデザイナーの哲学がインタビュー形式でまとめられた書籍だった。
川久保玲、山本耀司、マルタンマルジェラなど、僕が知らなかった人たちのインタビューが載っているので、まずはこの本を読むことから始めた。
そのあとは、ブランド毎の写真集を広げてみて、哲学とヴィジュアルの両方で知見を深めることにした。
しかし、少し調べただけでは、全く全体像が掴めず、何が足りないかも分からないまま、ただひたすらに調べることを続けた。
他にも、ヴィヴィアンウエストウッドやアレキサンダーマックイーンなど、知らなかったデザイナーを一人ずつ知っていき、その人たちの産み出す作品や世界観に酔いしれていった。
最初は、自分の無知や無教養が悔しくて調べ始めたことが、次第に快感や興奮に変わり、気づけば僕は図書館で調べる事が至福の時間になっていった。
もっと知りたい。
ただそれだけだった。
もっとたくさん、もっと深く知りたい。
欲求は尽きるどころか、知れば知るほどに強くなっていった。

70.コムデギャルソンのドキュメンタリーで涙を流す
デザイン論という授業があった。
色彩や形が人に与える影響を学ぶという授業内容だった。
先生の名前は覚えていないが、女性の先生だった。
デザイン論の教科書は存在するが、授業は教科書通りではなかった。
僕は、教科書に書いてある内容を教わるのであれば、教科書を買って一人で読めば良いという考えだったので、教科書通りではない授業に魅力を感じていた。
「今日はビデオを観ます」
先生は、そう言いながら教室の電気を暗くして、窓際の席の生徒にカーテンを閉めるように指示をした。
そして、ビデオの映像が流れ始めた。
「世界は彼女の何を評価したのか」というタイトルだった。
コムデギャルソンのドキュメンタリーだった。
僕はまだ、コムデギャルソンについて名前を知っている程度の知識しかなかった為、興味津々で画面を見つめた。
内容としては、コムデギャルソンの何が世界のバイヤーやデザイナーから評価されているのか、コムデギャルソンの内部で働く人たちと、外部からの目線で語られていた。
そこで流れてきたコレクションがボディーミーツドレス・ドレスミーツボディーだった。
いわゆる、コブドレスと呼ばれるシーズンのコレクションだった。
僕は、そのコブドレスを着たモデルが歩くシーンをじっと見つめていた。
上手く説明はできないが、身体の内側から地震のように震え、血液がマグマの様に熱く全身を駆け巡った。
そして、気づいた時には涙が出ていた。
このドキュメンタリーで泣いている生徒は一人もおらず、僕だけが泣いていた。
感銘、感動、衝撃、新鮮、嫉妬、高揚、一言では表現のできない感情がそこにはあった。
僕は、この授業の後も、映像資料室で同じドキュメンタリーを観た。
それでも、まだ飽き足らず、YouTubeで検索して何度も視聴をした。
なぜ、涙を流したのか。
それは、学校の教科書の応用では絶対に作れない服だったからだ。
文化服装の学生が作る作品は、どれも似たようなデザインばかりで苛立ちがあった。
原型操作からしか生まれない服に、僕は疑問を抱いていて、コブドレスが僕の気持ちを代弁してくれているように思えた。
華やかな美しさではなく、従来の美の定義には無かった、新たな美の提案をできるコムデギャルソンの服作りにとても感銘を受けた。
一見すると醜い、何が良いのかさっぱり分からないような服を、これは美しいですよねと提案できる川久保さん、それを美しいと思える視点を持ったジャーナリストやバイヤー、共感するデザイナーが世の中に存在する事がとても素晴らしいと思った。
僕も川久保さんのように、新たな美の提案ができる人に成りたいと思った。


71.都市とモードのビデオノート

小池から教わった中に、ヨウジヤマモトのドキュメンタリー映画があった。
それが、都市とモードのビデオノートだった。
僕は、映像資料室で視聴して、またも衝撃を受けた。
服に対するヨウジさんの哲学を聞きながら、実際にパタンナーと共に服を作る光景に衝撃を受けた。
基本的に、学校の授業では、クラスメイトの女子生徒をモデルにする。
スタイルが良いひとばかりではない。
だから、当たり外れがある。
ヨウジさんは、ヨーロッパ体型のモデルさんに服を着せて、歩かせたり、立ち止まったモデルさんをまるで彫刻を眺めるかのように三百六十度から見回して、一瞬で掴んだひらめきを逃さないように、ハサミを手に取って、モデルさんの着ている服にハサミを入れる。
それで仕上がった服の美しさ、人が着て歩いて初めて生まれる美しさ。
ハンガーに吊るしているだけやマネキンに着せているだけでは見ることのできない、布地の揺れ動く美しさに僕は衝撃を受けた。
基本的に、デザイン画は静止画であり、パターンを引く時も静止、クラスの女子生徒に着せる時も、生徒は静止している。
つまり、学校で習う服作りは静であった。
一方、ヨウジさんの服は動であり、ある意味で対極に位置する作り方だった。
この作り方をするには、フィッティングモデルさんの用意も必要だし、パタンナーも同席している必要がある。
一学生が真似できるような環境もスキルもなかった。
僕は、いつかヨウジさんのように、モデルさんを歩かせてフィッテイングとカッティングをしながら服を作りたいと思うようになった。


72.加茂克也さんのプロフェッショナル仕事の流儀
デザイン論の授業で、映像の資料がないので流せないが、先生が先日観たNHKのドキュメンタリーがとても良かったという話をしていた。
ヘアデザイナーの加茂克也さんが、コムデギャルソンのジュンヤワタナベのコレクションのヘアメイクを担当するという内容だった。
家に帰り、YouTubeで調べて、早速視聴をした。
加茂さんは、ジュンヤさんから抽象的なデザインのテーマを一言だけもらって、大きければ良いというだけの情報で、加茂さんは手を動かしながらデザインを探っていた。
頭をミラーボールに見立てて、鏡で頭を覆うデザインを提案していた。
しかし、ジュンヤさんはすぐに却下した。
「出直しますか」
そう言って、ミラーボールという話は良かったが、普通のミラーボールではダメだと言った。
そして、加茂さんはアトリエに戻り、出直すためにデザインを探った。
ミラーボールの反射するという要素だけ残して、髪に割れた鏡を貼り付けて、長さやシェイプのバリエーションを作って提案して採用された。
デザインの真剣勝負を目の当たりにして、どちらも妥協の無いせめぎ合いを観た。
それ以来、コレクションのヘアメイクも、注意して観るようになった。
これがきっかけで、ドキュメンタリー番組を観ることが趣味になった。
ファッションのドキュメンタリーを片っ端から観て、それ以外にも建築家の安藤忠雄さんなど、ファッション以外の分野のドキュメンタリーを見ながら、いろんな人の生き様に触れては自分を奮い立たせていた。


73.期限後

文化服装学院は厳しいと言われている事は知っていた。
実際、何がどう厳しいのか分からなかった。
次第に、その厳しさが分かった。
課題の提出期限がタイトなスケジュールであり、期限を守れない生徒には非常に厳しい扱いがされることだった。
課題の提出期限に間に合わないと、先生や副担任から執拗に課題提出を求められた。
僕は、自宅で宿題をやる習慣がないまま生きて来たため、いつも学校で宿題の続きをやっていた。
それでは間に合わないので、他の生徒は自宅で徹夜をして宿題を終わらせてから先生に課題の進捗状況を見せていた。
僕はというと、今日も課題をやってきていません、すみませんと謝ってばかりだった。
隣の席の女の子に定規を借りていて、毎日忘れ物をするので呆れられていた。
クラスの壁には、期限後「伊藤」といつも張り紙があった。
大抵、いつも僕を含めた三人の名前が貼られていた。
クラスメイトも先生も、まるで人間のゴミを見るような目で僕を含めたその三人をみていた。
うち一人は半年後に自主退学をした。
もう一人も二年生を終える頃に自主退学をした。
授業についていけないし、課題も提出しないのでスキルがほとんど身についていなかった。
僕も退学するような人間だったのに、僕は退学を考えることは一切なかった。
課題はやらないし、スキルも身についていないが、ファッションに対する興味が日に日に強くなる一方だった。


74.中川原

僕と同じように、中身が無くて相手にされない男子生徒がいた。
彼の名前は中川原(なかがわら)。
高校の偏差値は七十を超えていて、東大に行けるレベルの頭の良い学校を卒業していた。
名門の大学には行かずに、文化服装学院に行かせて欲しいと親に頼んで来たので、親に恥をかかせない道を歩みたいと言っていた。
彼は、勉強はとてもできた。
しかし、それ以外はほとんどできなかった。
例えば、会話。
彼は、ろくに会話もできなかった。
何か話しかけても、「おー」とか、「それ」とか、そういう返事しかできなかった。
最近で言うところの、「それな」しか言わないタイプの人だった。
一緒にいるのに、まるでこちらが独り言を話しているかと思うくらい、会話になっていなかった。
ガリ勉だった為、ファッションの事もほとんど知らないし、音楽もほとんど聴いてこなかった。
だから、彼と何の会話をすれば良いか分からなかった。
僕は、彼の事も避けようとしていたが、僕が一人で昼に行こうとすると、決まって僕に一緒に昼に行こうと話しかけてきた。
仕方なく一緒に行くことにして、独り言のような昼休憩を過ごしていた。
僕は、どうにかして彼と会話を成立させようと、いろんな話をした。
毎朝、ニュースを見ては、彼が興味を抱きそうなネタを見つけて、彼に話をした。
いつからか、彼も次第に会話ができるようになってきた。
それ以来、彼と学校帰りも一緒に過ごすようになり、仲良しになった。
ある日、僕の家で課題をやろうという話になり、服を一緒に縫っていた。
僕は、教科書を見てもさっぱり何の事か分からず困っていたところ、彼は教科書を見ずに僕に縫い方を教えてくれた。
普通に記憶できる内容ではない手順を彼は完璧に記憶していた。
「なんでこんなの覚えられるの?」
僕は素直な疑問を彼に投げかけた。
「プロになるんだから、これくらい覚えとかなきゃなって。」
彼は、はにかみながら答えた。
ここで、僕と彼の志の差と、頭の作りの違いを思い知った。
僕だってプロになりたいけれど、こんなの覚えられない。
彼は、授業の点数も良く、縫製の技術もクラスでトップレベルだった。
複雑なデザインはできずとも、高度な縫製技術を活かしたデザインを彼は得意としていた。
僕は、技術を伴わない、突飛なアイディアを求めていた。


75.クラスメイトに自分のデザインのファンができる

クラスメイトの一人に、いつも他人の悪口を言う男性がいた。
彼の名前は高嶋(たかしま)。
周囲の誰からも嫌われていて、僕も高嶋が嫌いで関わりたくなかった。
しかし、彼はいつも僕に話しかけてきた。
「お前のデザイン、まじカッコいいよな。」
彼はいつもヨウジとリミフゥを着ていた。
僕は、褒められているのに、嫌いな人間だったので気分は良くなかった。
彼に褒められても嬉しくなかった。
僕が、いつも適当にあしらっているのに、彼はいつも僕に話しかけてきたので、仕方なく彼と話すことにした。
いつも、褒めてくるので、仲良くなりたくてお世辞を言ってきているのだと思うようになった。
「本当に俺のデザインが良いと思っているのか?」
そう僕が彼に聞くと、彼はこういった。
「そりゃそうでしょ。お前のデザインは最高だよ。」
なんだかよく分からないが、本当なのであれば悪い気もしなくなってきた。
彼は続けてこういった。
「お前だけ、みんなとは違う景色を見ている気がする。」
この言葉で、きっと本当なのだと思えた。
独自の美意識と視点で服を作っていると言ってくれたこと。
ヨウジヤマモトをいつも着ていることから、本当だと思うことにした。
それ以来、僕と高嶋は一緒につるむようになった。
彼は、ヨウジ以外のブランドにはほとんど興味を示さなかったが、僕が他のデザイナーの良さを語ると、彼も興味を持って聞いてくれた。
彼は、自分にはデザインのセンスが無いと言っていた。
絵も下手、センスも無い。
だから、デザインセンスが良いお前には絶対に勝てないと思ったと言ってくれた。
みんながライバルで、お互いにセンスを認め合いたくない中で、彼は素直に自分には才能が無いと自覚して言っていた。


76.兄と一緒に初めてサマソニに行く
僕は、兄からの影響で、いつの日かビジュアル系よりも、ハウスやテクノなどの電子音楽を中心に聴くようになっていた。
シガーロスなどの、ポストロックも好きで聴いていたが、聴く曲の大半は電子音楽が占めていた。
エイフェックスツインは特に好きで、頻繁に聴いていた。
兄から連絡があった。
「夏フェスに行った事あるか?今度、サマソニにエイフェックスツインが来るから一緒に行こう。」
僕は、夏フェスに行った事がなかったので少し不安だったが、エイフェックスツインが観れるのであれば絶対に行きたいと思い、兄と一緒に行くことにした。
会場に着くと、兄の友人達が五人いた。
みんな、僕より十歳くらい年上だった。
兄に言われるがままに着いていき、いろんなアーティストのライブを観て周りながら、兄は解説をしてくれた。
ブンブンサテライツ、ナインインチネイルズ、エイフェックスツイン、ゆらゆら帝国、ザブルーハーブ。
これらのアーティストを、たった一日で観る事ができた。
この日は、過去の夏フェスの中でも、一番豪華だったと思える、とても良い日だった。
これ以来、僕は夏フェスに行くようになった。
そして、夏フェスが近づくと、自分が知らない出演アーティストの曲を聴いて、新たに自分の音楽の幅を広げる事を今でも行なっている。


77.スティーブ・ジョブズ
当時、iPhoneが発売されたばかりで、クラスメイトのほとんどはまだガラケーだった。
僕も、最初はiPhoneをただのおもちゃか、パソコンオタクのコレクションだと思っていた。
しかし、実際に手に取ってみるとiPhoneの革新性と可能性を知った。
パソコンでしか視聴できなかったサイトが手のひらで見ることができた。
当時は、自宅や学校などに置いてあるパソコンでしか、インターネットを閲覧することができなかった為、とても衝撃的だった。
ファッションコレクションの勉強を、本屋か図書館かパソコンで行っていた時、出先でいつでもどこでも、コレクションを閲覧できるという事に興奮した。
また、iPhoneのデザインとして、当時画期的だったのはボタンがないということだった。
周りはボタンのある携帯を持っていて、人とは違うものが欲しかった僕にとってiPhoneは怖くもあり、可能性もある、未知のアイテムだった。
そして、iPhoneを買うためにauからsoftbankに乗り換えて、携帯料金も自分で支払うことにした。
それ以来、iPhoneを開発したスティーブ・ジョブズにリスペクトの気持ちが生まれた。
巷では、スティーブ・ジョブズの仕事のやり方や発想方法に関する書籍が多く出版されていた。
そこで、知った情報の中で、スティーブ・ジョブズの服はイッセイミヤケのタートルネックとリーバイスのデニム、靴はニューバランスという決まったスタイルであるということだった。
何年も同じスタイルを維持している理由として、意思決定の回数を減らす為だという事を知った。
例えば、毎朝、今日は何を着ていこうかと、スタイリングに悩む瞬間など、無意識のうちに選択を求められる瞬間が一日に何度も訪れる。
その無意識の選択の度に、意思決定を行う。
しかし、人間は一日に意思決定をできる回数が限られており、個人差はあるが、本当に大事なことを決めたい時にその意思決定の残りが少ないと、重要な決断ができないということを知った。
だから、スティーブ・ジョブズは、意思決定を不必要に行わないように、ルーティンを決めたり、着る服を同じにしていることを知った。
Facebookのマークザッカーバーグも、意思決定を減らさないために同じ服を着ていると知った。
それまでの僕は、毎朝のスタイリングに時間をかけ、何度も着替えたりしていた。
スタイルを固定することで、他の事に頭を使えるように余力を残したいと思うようになった。


78.ミニマルと佐藤可士和の超整理術
僕は片付けができなかった。
苦手という言葉は嫌いで、言い訳であって、苦手ではなく、できないと表現する。
部屋の片付けもできなければ、思考の整理もできなかった。
当時、ジルサンダーのデザイナーをラフシモンズが務めていて、彼の洗練されたデザインに感銘を受けた。
それ以来、ミニマルとは何か、自分なりに調べたり考えたりしていた。
デザインというと、何を付け足すかという、プラスの発想だが、ミニマルは真反対に、何を削ぎ落とすかというマイナスのデザイン手法だった。
そのためには、何が無駄で、何が必要か、整理する視点や考え方が必要だった。
そんな時に、ドキュメンタリーを観ていた中で、佐藤可士和さんのプロフェッショナル仕事の流儀を見つけた。
可士和さんは、一つのプロジェクトの作品を一つの箱に収まる分しかストックしないとか、デスクには物が置いていないなど、可能な限り必要最小限の空間で仕事をしていた。
洗練された環境にミニマリズムを感じ、可士和さんの考え方をもっと取り入れたいと、超整理術という書籍を購入して熟読した。
物の整理だけではなく、思考の整理にも触れていて、整理をすることで物事の本質が見えてくるという考え方に感銘を受けた。
日常生活のあらゆる事に応用させようと思い、例えば財布にはレシートを入れないとか、ポイントカードを捨てるとか、必要最小限のものを常に見つける作業をするようになった。
そのせいか、物事を見るときに、何が必要で、何が不要であるかを仕分けする視点が芽生えた気がする。


79.親から学費が払えないと言われる
僕の実の父は低所得で、僕が中学二年生までは田舎の山奥の団地で貧乏な生活をしていた。
それが、父が変わると生活水準は何倍にも増え、僕が高校生の時は毎日のように高級料理を食べていた。
比較的、裕福な家庭環境だった。
しかし、僕が文化服装の二年生になる頃から、状況は一変した。
親の収入が激減していたのだ。
笑顔が絶えない家庭環境から、毎日のように暗い雰囲気が家中を覆っていた。
散財をしていた親は、貯金をせずにいて、収入が減っているのに生活レベルを落とすことができずにいた。
ある日、僕は母から話があると言われた。
「景祐、学費が払えなくなったから、学校を辞めて欲しいの。」
収入が減っていることは知っていたが、まさか、学費が払えなくなるほどとは思っていなかった。
僕は、『うん、わかった』と言うことができなかった。
もう、この時にはモードに対する愛や希望で満ち溢れていて、学校を辞める選択肢はなかった。
授業もまともに受けていないのであれば、学校を辞めたって同じだと言われるかもしれない。
それに、学校が全てではないという意見も有るかもしれないが、僕は学校を続けたかった。
「学費は、奨学金を申請してみるよ。それでダメなら学校を辞める。」
そう母に告げた僕は、部屋に戻り、机に肘をつけて、頭を抱えたまま数時間その状態で夜を過ごした。
翌日、奨学金の話を聞くために学校の窓口に相談に行った。
書類を書いて、審査が通ればどうにかなる事が分かった。
僕は書類を作成し、奨学金を申請した。
数週間、結果が出るまでの間、何も手につかず、ひたすらお金のことを考えていた。
この頃から、抜け毛が増え始め、金がない事への恐怖感が常に付きまとうようになった。
想像以上のストレスが自分にかかっていたのだ。
審査結果が出て、無事に奨学金を受けることができた。
僕は、まだファッションを志すことができると分かり、幸運に感謝をした。

80〜99

80.服を全て燃やす
金が無い。
一日中、金が無くなる、金が無い、金が足りないという恐怖に多大なストレスを感じていた。
デザインにも全く集中する事ができなかった。
ファッションを知れば知るほど、服が欲しくなる。
けれどもお金が無いから買えない。
行きつけの美容院に行く金も惜しい。
お洒落が好きで、ファッションが好きで、文化服装学院に入ったのに、オシャレができない状況がとてもストレスだった。
かといって、数百円で売っている古着をお洒落だと自分に言い聞かせて着こなすという選択も取りたくなかった。
着るなら、ヨウジヤマモトやコムデギャルソンなど、コレクションブランドの服だけを着たかった。
コレクションブランドの服は一着も持っていなかったので、仮に頑張って数万円の服を一着買った所で、それをヘビロテしたり、安い服と組み合わせるのも嫌だった。
ではどうすれば良いか。
僕は、服が欲しいのに買えないことがストレスなのであれば、そもそも服を欲しいと思わないようにすれば良いという結論にたどり着いた。
この考え方は、スティーブ・ジョブズや佐藤可士和さんの考え方から強く影響を受けている。
そして、僕は自分の持っている服を全部捨てようと決意した。
持っている服を捨てて、毎日同じようなスタイルにする。
髪型も坊主にすれば髪型にこだわる事もない。
僕は、鎖骨くらいまで長かった髪をバリカンで全て刈り落とした。
そして、自宅に高嶋と友人に来てもらい、自分の部屋の服や、物など、あらゆるものを捨てた。
服は、ヤフオクやフリマで売るということはしたくなかった。
これらの服は、僕のためにあった服で、僕以外の人のための服ではない。
そう言い聞かせて、僕は燃えるゴミに自分の服を全て入れた。
何袋もパンパンに詰めて、燃えるゴミに捨てた。
罪悪感、感謝の気持ち、これで良いのだろうかという不安、でもそうするしか無いという切迫した状況、言葉では言い表せない複雑な気持ちのまま、自分のお気に入りの服たちを燃やすことに決めた。
僕は、この瞬間にファッション愛の魂を金に売ったと思った。
しかし、未来のファッションのために現在のファッションを捨てるのだと自分に言い聞かせて、僕は燃えるゴミに捨てたことを自分なりのロジックで正当化した。


81.ヘビロテミニマリズム
持っている服を全て燃やした僕は、自分の着る服が無くなった。
では、何を着るか。
真っ先に浮かんだのは、スティーブ・ジョブズのスタイルだった。
彼のスタイルを参考にし、ボトムはリーバイスのジーンズ、靴はニューバランスにしようと決めた。
リーバイスのデニムも数多くあり、どのモデルにするか決められずにいた。
そこで、リーバイスのデニムを調べる中で、「定番」と呼ばれるモデルが有ることを知った。
ベーシックであり、基本であり、普遍的である、飽きのこない魅力があるデザインが定番と呼ばれるアイテムだった。
僕が中学や高校のとき、アメカジ雑誌で「男の定番アイテム」という見出しを見ることが嫌いだったことを思い出した。
毎月、同じようなテーマで、どのページをめくっても同じような内容で、男のロマンだとか、こだわりだとか、そういうのを目にするだけで嫌悪感があった。
数十年前のスタイルを現代にそのままトレースをしているだけで、僕には現代の美意識が入っていない、「古い服はかっこいい」という価値観が嫌いだった。
古かろうが、新しかろうが、ダサい服はダサいし、カッコいい服はカッコいい。
古着だから良いとか、新品だから悪いとか、そういう時間軸だけで語られるファッション観が嫌いだった。
なので、僕は、単に古着をトレースするのではなく、復刻版を買うことにした。
定番の復刻版。
復刻版は、当時にしかなかった設備で織られた生地や附属品を再現するというこだわりの上で成り立つ品であり、僕はそこに魅力を感じた。
だから、リーバイス501XXのリジットの復刻版を自分のキーアイテムに決めた。
次に、ニューバランス。
僕は、ニューバランスのスニーカーほどダサいスニーカーは無いと思っていた。
履くならナイキ。
そう思っていたが、ファッションの欲求を捨てるために、むしろダサいと思っていたアイテムに良さを見出すことにした。
それで、ニューバランスの定番を探し、スティーヴジョブズが愛用していた1300というこれまた復刻版のスニーカーを見つけて購入した。
最後はトップス。
飽きのこない、毎日着れる服。
それはTシャツだった。
色も何も無い、真っ白なTシャツに決めた。
タバコを吸うので、ポケットは欲しいと思い、僕はヘインズのポケット付きTシャツを十枚ほど購入した。
これで決まった。
リジットのデニムは履けば履くほど味が出てくる。
僕は、このスタイルをユニフォームとして毎日生活をすることに決めた。
今までのファッションとの別れ。
禁欲的なファッションの始まりだった。
これで、僕は、自分がオシャレをしたいという欲求を、スタイルそのものから削ぎ落とすため自己洗脳を何度も繰り返した。


82.文化三年生

東京コレクションに参加していたとあるブランドのデザイナーが文化服装の卒業生だった。
そのデザイナーを招いて、紙で服を作るというプロジェクトがあった。
このプロジェクトは数日で終わる内容ではなく、数ヶ月かけて行われるプロジェクトだった。
四分の一のサイズで服の形を作り、それを実物サイズに拡大して着せる。
グループのメンバーはランダムで決まったそうだが、比較的仲良しグループで構成されていた。
そのグループには高嶋も中川原もいた。
グループワークに参加するためには、個々の課題を終わらせている必要があったが、僕は自分の課題をろくにやらず、グループワークに一向に参加できずにいた。
中川原と栃久保(とちくぼ)は、課題を終えてグループワークをやっていた。
次第に、中川原と関わる機会が減っていき、最初は気にしないでと言われていたが、徐々に距離を置かれ始めていた。
そして、最終的には会話すらしないくらいにまで嫌われてしまった。
僕は、中川原に申し訳ないと思いながらも、自分は変わることがなく、課題をやるような人間にはなれなかった。


83.伊藤は口だけ
ある日、クラスメイトの女の子とカフェに行き、タバコを吸いながら、たわいもない会話をしていた。
その時に、女の子がこう言った。
「けいちゃん、みんなに何て言われているか知ってる?」
どういう流れかよく覚えていなかったが、いきなりそう聞かれたような記憶がある。
「課題やるって言って全然やってこないよなアイツ、とかそんな感じ?」
僕がそう答えると、彼女は深刻そうな表情で教えてくれた。
「みんなから口だけって言われてるよ。伊藤は口だけだって。」
それを聞いた僕は、意味は同じでも、口だけと呼ばれている事は知らなかった。
「あとは、偉そうとかも言われてるよ。」
言われている事は事実だし、何も否定できなかった。
それが、僕はとても悔しかったし、これまでに経験した事の無い程の悔しさと怒りが込み上げてきた。
心の中で自分の怒りの声が聞こえて来た。
『偉そうなのは、何者でもないのに人を評価しているお前らだろ…。』
『文句があるなら面と向かって言いに来いよ…。』
『教科書に載っている服しか作れないくせに偉そうなのはお前らだろ…。』
『一人じゃ何も言えないくせに、群がって強く成った気になりやがって…。』
怒りの言葉が出てくるものの、クラスメイトから陰で言われている内容は認めざるを得なかった。
クラスメイトに対して、自分が劣っていることを認めたくなかった。
僕は、常に劣等感を感じていた。
他の人は、絵が上手だったり、縫製が得意だったり、勉強ができたりした。
そうでない人でも、クラスメイトの大半は期限内に課題を提出していた。
でも、純粋にモードが好きで、本当にセンスが良かった人は一人もいないと思っていた。
僕は、どの学年になっても、ほぼ毎日のように先生に怒られ、なぜ課題をやってこないのか、約束したのになぜやらないのかと説教を受けているだけだった。
学校で何かを教わっていたというより、説教を受けに行っていたようなものだった。
それが、情けないし、悔しいし、自分を変えたいけれど変わらない。
俺はなんてダメな人間なんだ。
自尊心なんてものは一年生の夏頃に無くなっていて、三年生には強烈な劣等感や自己嫌悪として、僕をネガティブな思考に変えて行った。
僕に直接に何かを言ってくれる存在は、親とか、仲の良い人とか、先生だけだった。
それ以外の、僕を嫌いな人間は、僕に対して面と向かって指摘や文句を言わず、陰口だけでしか言えないという事をこの時に学んだ。


84.休学

僕は、四年生に進むための学費と生活費が奨学金だけでは確保できないことに気がついた。
それから、どうするべきか、奨学金を貰えるようになったのに、まだお金のことで悩んでいた。
デザインのことを考えたり、やるべきことに集中をしたかったが、いつもお金をどうしようという事が頭の中にあり、全く目の前のことに集中することができずにいた。
バイトをしながら金を貯める選択肢もあったかもしれないが、その当時の僕は、学業とバイトを両立させられるほど器用なことはできないと思っていた。
考え抜いた結果、僕は休学をしてバイトで学費を貯める事を決意した。
誰にも相談せず、自分で決めた。
グループの落ちこぼれだったもう一人の友人も金が無いから休学をするといっていた。
友人と一緒に窓口に行き、休学の手続きを行なった。
親から、バイトをするのであれば、アパレルに関係のある仕事にしてほしいと言われて神田にある生地屋を選んだ。
友人と一緒に生地屋のバイトの面接を受け、どちらか一人が受かるという内容だった。
僕は必死にアピールして無事に採用された。
友人は、むしろ落ちて良かったと言っていた。
僕は、生地屋以外に新宿の本屋でもバイトをすることにした。
生地屋は週五で一日七時間勤務。
本屋は週四で一日五時間勤務だった。
生地屋と本屋のバイトが重なる日が一週間に二回有り、この日の事を「九時二十三時」と呼んでいた。
それくらい働きながらも、何かのコンテストでグランプリを獲りたいと思っていた。
休みたいから休学しているんだろうと思われたくなかった。
学校を休むと書いて休学だが、学校に行くよりも大変な一年にしたいと思っていた。
僕は必死で働いた。
生地屋の仕事が終わってから、急いでJR神田駅から、中央線で新宿駅まで移動した。
そして、タバコを一本だけ吸えるか吸えないかくらいのタイミングで本屋に到着し、そこから五時間また経ち仕事だった。
九時から十七時、十八時から二十三時だった。
それ以外の日は、自宅でデザイン画を描いていた。
エイフェックスツインのAvril14thをエンドレスリピートで聴いていた。
部屋は薄暗い灯りにして、デザイン画に集中していた。
アロマディフューザーからヒノキの香りを出しながら、その灯りだけで机に向かってデザイン画を描いた。
僕は、コンテストに受かりたかった。


85.生地屋と本屋で掛け持ちバイト
神田の裏路地に入ると、燻んだ色のビルが立ち並んでいた。
今にも崩れそうなビルの一階がオーダースーツのお店だった。
二階は事務所と、スーツ生地がストックされていた。
三階は生地の通販の在庫が所狭しとびっしり敷き詰められていた。
反物で置いてある生地の隙間に、ハギレと呼ばれる、数メートルから数十センチの余り生地が置いてあった。
保管されているとは言い難いくらい、乱雑に置かれていた。
それらの反物やハギレにはマメフと呼ばれる札を針金で止めて、通し番号をつけていた。
この通し番号も、人によって使うペンも文字のサイズも異なるため、一見してそれだと分かるには経験が必要だった。
僕は雑用仕事をメインで任された。
どこにあるかも分からない生地を、オーダーが入るたびに生地を切る先輩の机に置くという内容だった。
どこに何があるかも分からず、一つの生地を探すことに時間がかかった。
もちろん、僕の要領の悪さも有るが、整理整頓されていない環境の影響が大きかった。
在庫が二十センチほどしかない一枚のハギレを探すのに一時間を要したこともあった。
電気も無い、薄暗い倉庫。
窓が一つだけあり、そこから差し込むわずかな光だけで、どうにか生地を探していた。
そして、窓に目を向けると、オレンジ色の電車が見えた。
中央線だった。
中央線は、神田から新宿に行ける。
僕は、新宿にある文化服装学院に復学するために、今このバイトを決めた事を、その中央線を見るたびに思い出した。
毎日のように、何度も心が折れそうになったが、僕は中央線を見るたびに、今ここにいる目的を思い出して、自分を奮い立たせた。
どの先輩からも、使えない人間だと思われていた。
どうにか、おちゃらけキャラで乗り越えようと思ったが、まずは仕事ができないと話にならないよね、とでも言われているかのように冷ややかだった。
しかし、事務にいた二十代の若い女性三人は僕のおちゃらけキャラを面白がってくれて、女性とは仲良くなれた。
一番きつかったのは、おじいさんとの時間だった。
このおじいさんは、歴が長く、裏番長だった。
おじいさんなのに、毎日何時間も立ちながら生地を切っていた。
僕は、そろそろ生地を切れるようになりなさいと言われ、おじいさんから生地の切り方を教わることになった。
しかし、教わるといっても、いいか、見てろ、というような教え方だった。
職人でもないのに、職人のような、見て覚えろというスタイルだった。
僕は、見て覚えようと思ったが、要領も記憶力も悪く全く覚えられなかった。
一日中ずっと怒鳴られていた。
怒鳴られて萎縮する人はいるが、僕は怒鳴られることには慣れているので、特に怒られる事や、怒鳴られる事は平気だった。
しかし、問題は、僕が全くできるようにならない事だった。
ある日、本当に出来なさすぎて、おじいさんが怒鳴った。
「そんなんならもうやめちまえ!」
僕は、自分がこの仕事を覚えられないから、そろそろ違う仕事を探さないとなと考えがよぎったりしていた時だった。
僕は、クビ宣告をもらった事で、そのまま仕事を辞めようと思い、挨拶もせずに自分のロッカーまで向かおうとした。
するとなぜか、おじいさんが僕を呼び止めた。
何を言われたか覚えていないが、とりあえず、そこの生地を切ってくれと言われた記憶がある。
僕は、辞めようと決めた直後にまたバイトを続ける事になった。
高校の時、神がかりになったおばあさんから続けていれば良いことあると思うよと言われた事を思い出した。
また、逃げ出そうとしていた。
環境のせいにして、自分が変わらないまま、他に居場所を求めようとしていた。
それではいけない。
環境ではなく、まずは自分を変えること。
その日から、僕は言われたことをどうすれば直せるかわからないが、できる限り頑張っている人と思われようとした。
誰よりも早く動く。
誰もやりたがらないことをやる。
誰もやっていない事をやる。
自分ができる事の中で、自分を良く思ってもらえるように行動をした。
そのあたりから、怒られる回数が減っていき、たまに褒めてもらえるようになった。
生地屋にいれば、生地の知識が増えると思っていたが、そんなことはなかった。
オーダースーツもやっているから、テーラリングの知識も少しは増えると思ったが、そんなことはなかった。
僕は、復学することだけを目標に必死に掛け持ちバイトをしていた。
生地屋のバイトが終われば、次は本屋のバイトが待っていた。


86.本屋でバイト

バイトをするなら、タワレコが良いと思っていた。
音楽に詳しくなれる気がしたからだ。
今ではストリーミングサービスがあるが、当時はないので、音楽の情報も知っている人から聞ける環境が良いと思っていた。
タワレコのバイトを応募したが、書類選考で落ちてしまった。
バイトも落ちるのかと思い、どこに応募しようかと考えた。
僕は、自分には教養がないので、まずは世の中にどのような本があるか、把握できれば、自分には何が足りないのか分かるのではないかと考えた。
そこで選んだバイトが本屋だった。
小説は読まないが、ビジネス書は好きで読んでいるという話を面接でして受かった。
もの覚えが悪く、他のバイトよりも任される仕事は少なかった。
それに、他のバイトは大学生や大卒で、自分よりも頭がキレて勉強もできて、教養もある人がいた。
僕は、自分がいかに無知であるかを、その人たちと話すたびに思い知らされた。
神田にある生地屋のバイトが十七時に終わると神田駅まで急いで行き中央線に乗る。
十七時半頃に新宿駅に着き、そのまま走って本屋のあるルミネに着く。
タバコを一本吸えるか吸えないか、休憩は数分程度。
エプロンをつけて、そこからまた五時間立ち続ける。
一週間に二回は、この生地屋と本屋の出勤が重なった。
丸一日の休みは基本的になく、生地屋が祝日で休みになった日だけ休むことができた。
五月の子供の日に一日休み、その次の休みは七月の海の日だった。


87.休学中のコンテスト

そうして、バイトを掛け持ちする中でも、僕はただ働いていただけと思われたくなかったので、コンテストに応募をした。
HEP FIVEという大阪のファッションビルのコンテストに応募をした。
僕は、三年生の時に誰も縫えない素材を縫ってみることをテーマに、コルクボードを縫う研究をしていたので、コルクボードと布帛を混ぜたデザインで応募してコンテストに通過した。
問題は制作だった。
いつも悩んでばかりで全く進まなかった。
それを見かねた高嶋が、彼も授業の課題があるのに、僕の手伝いをしてくれるといった。
土日は学校が休みなので、高嶋が僕の家に来て作業を手伝ってくれた。
手伝ってくれたというより、ほとんど高嶋がやってくれた。
それくらい、僕はデザインもろくに思い浮かばず、思い浮かんでも、具現化ができない落ちこぼれっぷりだった。
コンテスト一週間前になっても裁断が終わったくらいで、形にはなっておらずとても焦りを感じていた。
間に合わない。
二人とも、間に合わないとわかっていた。
高嶋が言った。
「俺も大阪に行くよ」
僕は、高嶋の交通費を出せるほどの余裕がなく、ありがたいけど、金がないから気持ちだけで良いよと伝えた。
「自腹で行くから気にすんな」
高嶋は、親から大阪の旅費を出してもらう話をすでに交渉していた事を教えてくれた。
僕がお願いしたわけでもなく、彼が自らの判断で交渉していた。
そうして、僕と高嶋は一緒に大阪に向かう事になった。
まだ形になっていない状況で、大阪行きの新幹線に上野で乗車した。
立体裁断用のボディーも持って、大きな荷物で乗り込んだ。
乗車中、二人で一つの服を手縫いで仕上げようとしていた。
途中、京都駅を通過した。
僕は、京都に行ったことがなかったので、
「おい!京都駅だぞ!」
と興奮して高嶋に話しかけると、
「いいから、黙って縫え。」
そう言われ、僕はデザインをした本人より、手伝ってくれる高嶋の方が真剣にやっている事に気付かされた。
僕は、常に地に足がついていなかった。
今もそうかもしれないが、自分が置かれている状況を自覚できない人間だったと思う。
そして、大阪に着いても完成せず、コンテスト三時間前に、大阪の路地裏でボディーを組み立てて、ボディーに服を着せて手縫いで最終調整をした。
コンテストが始まると、僕の服は遠くから見ても、近くから見ても、よく分からない服だった。
他の服を見ていた時、先輩で文化服装の大学院に通っている玉田さんの服が出てきた。
完成度が高く、彼の服には圧倒的に負けていると思った。
僕は、何も受賞することができなかった。
玉田さんは大学院を卒業後にコンテストの副賞でパリへ留学し、サカイを経て、tamme(タム)というブランドのデザイナーとして活躍している。
他にも、あらゆるコンテストで賞を総ナメにしていた、大学院に通う高橋さんは、ホールガーメントという無縫製ニットの作品を作っていた。
僕が大学院の前でタバコを吸ってデザインを考えて悩んでいる時、いつも新作のニットを高橋さんが持ち歩いていた。
布帛の服は、デザイン、パターン、裁断、縫製というプロセスが必要だ。
しかし、ホールガーメントは、デザインとパターンさえできれば、あとは機械が全てやってくれる。
その間に、違うデザインとパターンを作れる。
最短ルートで結果を出せる超インテリだと思いながら高橋さんを見ていた。
ホールガーメントを使う生徒は一人もおらず、ニットは手編みが当たり前と思われる中、あり得ないスピードで高橋さんは試作品を作っていた。
布帛にかかる労力より圧倒的に短い時間で、どんどんと新作のニットを作っていた。
高橋さんの卒業コレクションを観た三宅一生さんは、彼を天才だと評していた。
高橋さんは、そのまま三宅デザイン事務所に入り、イッセイミヤケのメンズデザイナーを経て、CFCLというブランドを立ち上げ、パリコレに参加している。


88.パターンを描けるデザイナー
デザイン画を描いて服にする。
ファッションデザイナーのイメージ。
僕もそうだった。
しかし、文化でパターンを勉強し、いろんなデザイナーを知る中で、パターンが分かるデザイナーと、そうでないデザイナーがいることに気がついた。
自分が良いと思う服のデザイナーはどちらだろうかと、比較してみた時に、パタンナー出身のデザイナーの服が好きだということに気がついた。
僕は、パターンの苦手意識が強くあり、自分はパタンナーには成れ無いだろうけれど、パターンの分かるデザイナーに成りたいという、矛盾した理想像を漠然と描いていた。
パタンナー出身のブランドは、遊びや自由が少ない傾向に見えた。
思いもよらぬシェイプや、ディテールについては、パタンナー出身では無いデザイナーの方が多い印象だった。
僕は、それのハイブリッド、パターンも分かるし、自由でユーモアのある服が作れるデザイナーになりたかった。


89.同級生の彼女

僕には同級生の彼女がいた。
僕は休学をしているので、学校では会うことができなかった。
僕はバイトとコンテストに集中していたので、彼女の事を全く考えていなかった。
ある日、彼女から家に行っても良いかと言われ彼女が家に来た。
しばらくすると彼女はとても悲しそうな顔でこう言った。
「私ね、今日、誕生日なの。」
僕は、彼女の誕生日すら知らない人間だった。
「ごめん。誕生日すら知らなくて。」
「いいの。」
そうして、いつからか、彼女から連絡が来なくなった。
高嶋から聞いた。
「お前の女、栃久保といい感じみたいだな。」
僕は耳を疑った。
彼女に問いただすとクラスメイトの栃久保と浮気をしていた事がわかった。
結局、その時は関係を続けたが、彼女が卒業すると同時に、地元の長野へ帰る事となり別れることになった。
「アパレルに就職しないの?」
僕が元カノに質問をするとこう答えた。
「私ね、気づいたの。けいちゃんみたいにファッションに情熱を持っていないことに。そんな熱意を持っていない事を、いつも一緒にいて気づかされたの。私は、イラストを描いたりする方が楽しくて、ファッションじゃないなって思ったの。」
僕は、それを聞いて、一人の人間が目指していた道を断つ要因に、自分の熱意が作用していると知って言葉が見つからなかった。
僕が諦めたら、この思いすらも無駄にしてしまう。
自分は、諦めてはいけないし、絶対に結果を出そうと決めた。

90.復学
バイトの掛け持ちで百万円以上を貯め、復学する事になった。
復学をするということは、一個下の後輩と肩を並べるということだった。
先輩と言われていた存在が、後輩から同期と思われる。
そして、その後輩だった同期になった人たちからも、僕は見下されていた。
結局、どこに行っても、僕は見下される存在だった。
先生からも愛想を尽かされていた。
コレクションを制作しなければいけないのに、テーマが見つからないと言いながら、月日がどんどんと過ぎていった。
現状を変えるためにはコンテストしかないと思っていた。
コンテストでグランプリを獲って、みんなを見返したいし、そのお金で次のステップ、例えば大学院とか留学に繋げたいと思っていた。
何か、ヒントを得られないかと、いつも図書館に入り浸っていた。
高校の時と同じように、僕の居場所は図書館だった。
授業をサボって図書館にいた。
担任からは「そんなに図書館が好きなら図書館に住めば?」と言われる始末だった。
ある日、僕が全く課題をやらない様子を見た担任が言った。
「あなた、本当に頭が悪いと思う。病気なんじゃない?病院に行ったら?」
たしかに、僕は何かの病気か発達障害かもしれないと思い、その日に学校が終わってから新宿のメンタルクリニックを受診した。
しかし、病気でも発達障害でも無いと言われ、僕はただのクズ人間なのだと自覚した。
気休めの処方箋で、気分の明るくなる薬を貰って飲んでみたが、全く何も変化は起きなかった。
このまま、どうすればファッションデザイナ―になれるのか、全くわからなかった。


91.ここのがっこうに応募

そんな中、リトゥンアフターワーズのゴミのコレクションを思い出した。
僕はこのコレクションに衝撃を受けた記憶があった。
何が衝撃だったかというと、絶対に着れないし、着たくないし、もはや服ではないのに、金髪のモデルさんが着てランウェイを歩くと、とてもカッコ良いコレクションとして成立していたからだ。
バイヤーに向けたものでもなく、消費者に向けたものでもない、ここからビジネスに繋がるわけもないのに、このブランドは何をしているのだろうかと不思議に思っていた。
リトゥンアフターワーズのインタビューを見たりしながら、プライベートスクールここのがっこうの存在を知っていた。
ジョンガリアーノやアレキサンダーマックイーンを輩出したセントマに留学する事はできない。
アントワープシックスやマルタンマルジェラを輩出したアントワープに留学する事はできない。
しかし、ここのがっこうの講師は、セントマを首席で卒業した山縣さんのみならず、アントワープを首席で卒業した坂部さんもいると分かり、絶対にここのがっこうしかないと思っていた。
留学する事はできなくても、日本で海外仕込みの教育を受けられるのであれば、素晴らしいことだと思った。
しかも、学費も十万円くらい。
ここのがっこうに通うことで道が開けるのではないかと考えた。
それに、国内のファションコンテストではなく、海外のファッションコンテストに照準を当てていたことも魅力的だった。
また、文化服装学院では、国内のコンテストすらもどうすれば通過するかというノウハウを持った先生がいなかったため、海外のコンテストに通過するノウハウを持った人に教われる機会にもとても興味があった。
文化三年生の時、担任の先生に僕がここのがっこうに興味があるという話をしたところ、鼻で笑われた。
それよりも、早く就職した方が良いと言われた。
僕は、先生がそう言うのであれば、ここのがっこうに行くことは正解だと思った。
先生の言うとおりにしていれば、先生からはよく思われるかもしれないが、決まったレールの上をただ歩くだけになるからだ。
僕は、上級コースであるアドバンスドコースを受けたいと思い、ポートフォリオを作って応募した。
後日、メールが届き、落選したと通知があった。
であれば、初級コースのプライマリーコースを受けたいとメールで返信をしたが、もう締め切ったので次期で応募して欲しいと返信があった。
生き急いでいた僕は、どうしてもプライマリーに今期から通いたいと言ったが無理だと言われた。
そのまま、半年ほど悶々と過ごし、次期のタイミングではプライマリーコースを応募して無事に受かった。


92.亮太と出会う

これでようやく本当のファッションを学べると楽しみにしていた。
ここのがっこうのクラスメイトは皆んな個性的で、キャラが濃かった。
一人、異様に大きなサイズのスケッチブックを持っている男性がいた。
それも、A2サイズくらいの、鞄には絶対に入らないサイズのスケッチブックだった。
その男性は、髪がモジャモジャだった。
ボサボサではなくモジャモジャ。
決して不潔ではなく、清潔感のあるモジャモジャだった。
モジャモジャに見えるようなパーマをしているのだろうと思った。
僕は、青春パンクが苦手だったので、そういう雰囲気を感じる風貌から、この人とは仲良くなれそうにないかもなと勝手に思った。
授業の休憩時間にタバコを吸いに外の階段に出た。
十九時も過ぎていた頃、外は暗く、階段に灯りもなかった。
一人でタバコを吸っていたところ、そのモジャモジャの彼が来た。
「お疲れ様です」
どちらも、同じようなタイミングで挨拶をした。
初めての環境で誰かと会ったら挨拶をするくらい当然のことだし、特別に何かがあって挨拶をしたわけでもなかった。
タバコを吸う人が他におらず、僕と彼だけで二人の空間になった。
彼は、エコーを吸っていた。
エコーは、当時一番安いタバコで、パッケージも柿みたいなオレンジ色で、肉体労働者のおじさんが吸うタバコという印象だった。
基本的に、ファッションを好きと言っている人で、エコーを吸う人を僕は見たことがなかった。
大体、マルボロとか、セブンスターとか、マイセンとか。
あとはコンビニで売っていないような、無駄に黒いカッコつけのタバコや、甘い匂いがするタバコとか、そういった類のタバコであって、彼みたいにエコーを選ぶ人なんていなかった。
「エコー吸っているんですね?安いからですか?」
僕が彼にそう聞くと、彼は照れくさそうに答えた。
「安いってのもあるんですけど、味が好きなんですよね。雑味というか。エコーって、他のタバコ葉のあまりを寄せ集めているらしくて、味が安定しないんですよ。当たりハズレがあって、それも楽しんでいるんですよね。ああ、今日はハズレやとか。」
彼のセリフから、単に節約のためにこのタバコを選んでいるのではなく、本当に好きでエコーを吸っているのだなという事が伝わってきた。
僕は、エコーは安いだけのタバコだと思っていたが、値段以外の良さを知ることができた。
彼は、残り葉のブレンドを楽しんでいると言い、タバコが好きで、自分なりのこだわりや楽しみ方を見出している人だと分かり、次第に興味を持ち始めた。
僕はというと、ヨウジさんの影響からハイライトを吸っていた。
「ハイライト吸っているんですね。」
今度は彼が僕のタバコについて質問をしてきた。
「ヨウジさんが好きで、その影響です。ただのミーハーなんですよ。」
「僕もミーハーですよ。」
そんな調子で、お互いにタバコをきっかけとして会話が始まった。
「どんなブランドが好きなんですか?」
彼はマルジェラが最初に好きになったブランドだと言った。
ギャルソンも好きだと言っていた。
彼の見なりからは、全くマルジェラもギャルソンも想像がつかなかったが、彼の話を聞いていると、外見ではなく、哲学的な点において影響を受けていることが次第にわかってきた。
好きではないものを好きであるかのように語ることはできない。
好きなものを語る事は、自分の価値観を嘘偽り無く説明する行為だと思っている。
だから、彼が好きなもののを話を聞きながら、僕と近い価値観を彼も持っているような気がした。
コムデギャルソンをお笑い芸人に例えるとダウンタウンという話になり、お互いの意見が一致したものの、彼はヨウジヤマモトはウッチャンナンチャンだと言った。
僕は、ウッチャンナンチャンよりも北野武じゃないですかと議論をしたりして、話が盛り上がった。
そうして、彼と話す中で、自己紹介をしていなかった事に気がついた。
「僕、伊藤って名前です。年齢は二十四歳です。お名前は?」
「村上って名前です。僕らタメですね。」
そうして、自己紹介が簡単に終わり、同い年とも分かり、親近感が湧いてきた。
「僕、友達がいないんで、友達になってもらえませんか?」
いきなり僕が、告白にも似た流れで彼に友達になってもらいたいと伝えた。
「僕も友達いないんでぜひ。」
この時から、僕と村上は友達になった。
「なんて呼びましょうか?村上くん?」
僕が彼にそう言うと、
「亮太(りょうた)って名前なんで、亮太って呼び捨てで良いですよ。」
彼がそういうので、僕もすぐに返事をした。
「じゃあ、僕は景祐という名前なんでお互いに呼び捨てで。」
そうして、僕と彼は呼び捨てで呼び合う仲になった。


93.一枚の紙で自分を表現

ここのがっこうの最初の宿題は、自分を一枚の紙で表現するという内容だった。
夜に自宅で考えていたが、何をすれば良いかわからず、悩んでいたところ、亮太から電話がきた。
「調子どうすか?」
「全然ダメ。亮太はどう?」
「俺も全然ダメ。」
「何をしていいかわからないよね。」
そういう何気ない会話をして、特に解決の糸口も見つからず、タバコをお互い吸いながら、雑談だけの電話が終わった。
授業の時に、クラスメイトが各々に用意した作品を持ってきた。
僕は、マインドマップのように、紙に文字を書く事しかできなかった。
各々が用いた一枚の紙で何を表現したのかプレゼンが始まった。
一人は、特大サイズの紙を折って紙飛行機を作ってきたと言っていた。
これで、遠くまで飛べる、遠くに行きたい自分を表現したらしい。
正直なところ、僕には、それは単に楽をして理論武装しただけではないかと見ていた。
一人は、自分の汚物やゲロを絵の具に混ぜたカオスなコラージュをしてきたと言っていた。
それが美しさに昇華されていれば良いが、単に絵の具と自分の体から出てきたそれらを混ぜただけで、嫌悪感だけが残った。
そういう僕は、単に文字を書いただけ、デザインすらまともにできない、頭で考えて結局何もできないやつの間に合わせだった。
これがここのがっこうか。
なんだかよく分からないなと思っていた矢先、一枚の畳が机に置かれた。
四角い畳だった。
紙ではなく、タタミ。
そうか、畳に紙を乗せるのか。
そう思ったが、畳しかなかった。
畳には、油性マジックペンで下手くそな大きな文字が書かれていた。
内容は、お母さんへの感謝の気持ちがびっしり綴られていた。
それを持ってきたのは亮太だった。
僕は、やられたと思った。
一枚の紙という条件に対して、僕も含め亮太以外の全員が材質を紙に固執していた。
亮太は、一枚のまで合っていたが、材質を紙ではなく畳にズラしていた。
他に材質をズラして来た人はいなかった。
講師の山縣さんが亮太の畳を良いと言っていた。
「畳に何か乗っていたら、もっと良かった。」
僕は、訳が分からなかったが、そうか、そういうことかと気付かされた。
結果的に良ければ、多少の条件は無視しても良いのだと気づき、この時点で亮太の潜在的な実力を見せつけられたのだった。
僕は、それなりに自分で調べたりして、いろんなものを見てきた。
本物とそうでない物との見分けが、自分なりの視点でできていると思っている。
カッコ良く言えば、審美眼だ。
僕には、亮太が、クラスの他の誰も比べものにならない、本物のそれを持っている事が分かった。
でも、少しだけ、計算が入っているようにも見えて、どこまでがピュアで、どこからが計算なのか、または計算が一切入っていないのか、彼のそこがまた不思議な魅力を掻き立てた。
ここのがっこうの授業での休憩時間や、授業終わりの飲み会でも、いつも僕の隣には亮太がいた。
身につけるファッションが好きというだけではなく、デザイナーの哲学やそのクリエイションに、心の底から惹かれていて、自分もそれを体現したいと考えている事。
この考えが共通している人と僕は仲良くなりたかった。
承認欲求や自己顕示欲を満たすためにファッションデザイナーを目指したり、名乗ったりするのではなく、過去のモードに純粋に心から惹かれていること。
僕は、本当に仲良くなりたかった亮太のような人と知り合う事ができて幸せだと思った。
また、亮太と出会えたきっかけの、ここのがっこうという環境は、間違いなく自分が求めていた場所だとも思った。


94.のりピー

亮太の他に、不思議な作品を創る女性がいた。
のりピーと呼ばれていた。
彼女は、立教大学に通っていて、頭のキレるクレバーな一面も在りつつ、一筋縄には行かない独特なユーモアのある感性を持っていた。
基本的に、クラスのプレゼンで一位と二位は、亮太かのりピーのどちらかだった。
のりピーは、誰とでもコミュニケーションが取れて、常に明るく、人の輪をどんどん広げる力を持っていた。


95.ここのがっこう最終プレゼン

授業は土曜のみで、あっという間に全十二回の授業が終わりを迎えた。
僕は、結局自分が何をすれば良いか見つからず、カッコ良いと思った画像をフォトショップでコラージュして、それらしきことを言う、その場しのぎのプレゼンしかできなかった。
周りにも、先生にも見透かされている事は分かっていた。
最終プレゼンに来たゲスト講師含め、散々なコメントだった。
「カッコつけてる。」
「まだ自分が何者か分かっていない。ユーモアがあるなら、それも含めて見せていく必要がある。一からやり直した方が良い。」
「セルフプロデュースはできるかもしれないが、結局は中身が無いことが最後まで課題として残っている。」
僕は、このコメントを録音していて、後で聴いても聴くのが嫌になるくらい絶望的な瞬間だった。
後日、プライマリーコースのクラス展示が行われることになった。
僕は、展示するような作品も無いので、展示に参加せず終えようと思った。
すると、展示当日に亮太から電話がかかってきた。
「何してるの?」
「家にいるよ」
「展示やらないの?」
「うん、出すものがないから。」
「手伝うから来なよ。」
「いや、本当に無いんだよ。」
「絶対に来た方が良いよ。」
「いや、俺はいいよ。」
「待ってるから、来てね。」
「うーん。わかった。行くよ。」
亮太は、こんなどうしようもない僕に、展示に来るようにと、何度も何度もしつこく言ってきた。
僕は、この亮太の気持ちを無視する事ができなかった。
誰に見せたい訳でもない、何が伝えたいかも分からないコラージュ写真を並べて展示に参加をした。
正直、他のクラスメイトの展示を見るような、精神的な余裕は僕にはなかった。
そうして、僕のプライマリーコースは終わった。


96.コンテスト

僕は、ここのがっこうで変われると思っていたが、環境が変えてくれるのではなく、結局は自分で変える必要が有った事をまた思い知らされた。
文化四年生も後半に入り、周囲は就職活動をしていた。
どこに受かったとか、どこを受けるとかそういう話をしていた。
僕は、就職をするのであれば、ヨウジヤマモトかコムデギャルソンのパタンナーに成る以外に選択肢は無いと思っていた。
しかし、遅刻ばかりで、成績もCばかり。
劣等生を雇う企業なんてある訳が無い事は分かっていた。
試しに面接を受けてみようなんて気持ちで受けるのも嫌だった。
だから僕は、就職以外の選択肢を考えた。
文化服装学院の学内コンテストが有り、これでグランプリを獲得すると、大学院の一年分の学費が免除されるという副賞があった。
僕は、これに賭けようと思った。
他にも、ソアロンコンテストというトリアセテートを使用するコンテストにも応募をした。
幸い、どちらもデザイン画の選考を通過して、作品制作に取りかかる事になった。
問題はここからだった。
僕は、通過したものの、コンテスト用の服を二作品も同時進行で作れるような器用な人間ではなかった。
ここで、またしても高嶋が僕を手伝ってくれた。
彼は既に学校を卒業していて、ユニクロでアルバイトをしていた。
アルバイトが無い日に僕の家に来て、パターンや裁断、縫製などの一連の作業を対応してくれた。
僕が指示を出して、それを高嶋がやってくれた。
高嶋が具現化を担当してくれて、高嶋がいないと何もできなかった。
学内コンテストで作品をモデルが着て歩いた。
何も受賞できなかった。
コンテストの後に審査員に直接コメントを貰える機会があった。
ゴスロリブランドのデザイナーからはこう言われた。
「文化服装に来ている時点で普通なんだよなぁー。就職してから、遅刻しないとか、挨拶をするとか、そういう事が大切なんだよなぁー。」
独り言なのか何か分からないが、ダサい服を作っている人のアドバイスほど響かないものは無いと思った。
そして、もっとダサい服を作っているデザイナーなのか何なのか、何者か分からない人にはこう言われた。
「デジタルプリントって安っぽいんだよな。」
当時、デジタルプリントの服は主流ではなく、僕としては少し先を行っていると思っていた。
ダサい人に安っぽいとか言われて、僕は非常に腹が立った。
むしろ、こんなダサい人たちに僕の服を褒められなくて良いとすら思った。
ダサいクラスメイトも、ダサい審査員も、ダサい誰からも、僕を褒めて貰わなくて良いと思った。
一方のソアロンコンテストでも受賞することができなかった。
僕のデザイン画を選んだデザイナーからは、デザイン画と実物が違い過ぎていてコメントができないと言われた。
そこには、紙で服を作るプロジェクトを企画したデザイナーも来ていた。
僕は勇気を持ってコメントを求めに行ったが、そのデザイナーはコメントをすることなく、付き人みたいなデザインを本業にしていない人にコメントをさせた。
「後ろのまとまりをもっとこうしたら良いかな。」
全くアドバイスが響かなかった。
デザイナーでもない人間に僕のデザインの何が分かるんだという気持ちで、そのデザイナーも付き人も僕は更に嫌いになった。
「そう言えば、ビューティフルピープルの二人だけ、君をとても褒めていたから、話を聞きに行けば?」
ビューティフルピープルは、リアルクローズに対してパターンメーキングで実験的なアプローチをしているブランドだ。
なぜ良いと言われているのか全く分からなかったので、話を聞きに行くことにした。
デザイナーの熊切さんと戸田さんに会うなり、二人はとても笑顔で興奮した表情だった。
熊切さんは僕にこう言った。
「凄い良かったよ!握手しよう!いやー、僕と戸田はね、君の作品が一番良いと思ったから、どうしても一位にしたかったんだけど、他の審査員達が誰も賛成してくれなかったんだよね。シャツのパターンを分解してドレスにするっていう発想は凄く面白いよ。僕だったらここのヒモを剣ボロにするかな。いやー、良かったよ。」
僕は、その言葉がとても嬉しかった。
この時、僕は何も受賞ができなかったので、大学院や留学をする事はできないと受け入れた。
しかし、来月に卒業を控えているものの、僕は就職も進学も決まっていない事に焦っていた。
そして、試しに熊切さんに勇気を出して言ってみた。
「僕を雇っていただけませんか?」
すると、熊切さんは笑顔でこう答えた。
「ウチは今、人を募集していないんだよね…。」
そうか、そうだよな、こんな流れで就職が決まる訳が無いよなと思いながら、落ち込んだ表情の僕を見て、熊切さんは続けてこう言った。
「ギャルソンとか、アルバイトを募集していると思うから受けてみたらどう?多分、ギャルソンは合うと思うよ。」
ギャルソン出身の熊切さんがそう言うなら間違いないと思った。
無理だと思っていたが、コムデギャルソンで働けるかもしれないと希望を持つ事ができた。
「アルバイトの応募してみます!ありがとうございます。」
僕はそう言って、熊切さんと戸田さんと笑顔で別れた。


97.コムデギャルソンのアルバイトに応募

熊切さんのアドバイスを受け、僕はコムデギャルソンのアルバイトに応募する事に決めた。
しかし、コムデギャルソンはホームページがなく、アルバイトの求人も見つけられなかった。
コムデギャルソンの本社に電話をして、アルバイトの応募をする手続きを確認することにした。
コムデギャルソンの電話番号を知ることはすぐにできたが、手が震えてなかなか電話をかけられずにいた。
落ちたらどうしよう。
そんな事を考えたって何も始まらない。
まずは、応募をしなければと思いながら、勇気を出してコムデギャルソンに電話をした。
「はい、コムデギャルソンです。」
僕は、コムデギャルソンに電話をかけているという事が、怖くて仕方がなかった。
「御社でアルバイトをしたく電話いたしました。履歴書を御社に送付すれば宜しいでしょうか?」
僕が尋ねると、電話を受けた人はこう答えた。
「あいにく、今はアルバイトを募集しておりませんでして、いつ募集するかも未定の状況です。申し訳ございません。」
そもそも、募集をしていないという事を想定していなかった僕は、回答を受け入れる事ができずにいたが、募集をしていないのであればどうしようもない事は分かっていた。
「分かりました。失礼いたします。」
そうして電話は終わった。
僕はこの瞬間、卒業を来月に控えているのに、卒業後の進路が決まっていない事に絶望した。
コンテストの希望も、ギャルソンでアルバイトの希望も全て失った。
僕は、卒業後にどうやって生きていくかを考え始めた。


98.卒業コレクション

文化の四年生は、修了制作としてコレクションを発表する事が目標だった。
このコースのメインテーマであり、このコレクションのために通っていたと言っても過言ではないくらい、最後の目的でみんな取り組んでいた。
僕は、いつまで経っても、アイディアが浮かばないとか、まとまらないとか言いながら月日がどんどんと過ぎていった。
周囲のクラスメイトからは完全に距離を置かれ孤立していた。
最終納期までに八ルックが無いと卒業ができないという内容だった。
僕は、ニヶ月前になっても何も進んでいなかった。
それを見かねた高嶋が手伝ってくれると言った。
高嶋は、ユニクロの有給が貯まっていると言っていた。
僕のために、高嶋は有給をすべて使って二週間休んだ。
タダで、無償の愛で、落ちこぼれの僕の服作りを手伝ってくれる事になった。
僕が学校に行っている間、高嶋は僕の家で作業をしてくれた。
僕は高嶋にLINEで指示をして、それの進捗を確認する。
点検と呼ばれる、先生のチェックを一つのルックにつき最低五回は受けるという決まりがあったため、数着を同時進行で少しずつ縫い進め、まとめて学校に持っていき、その間に高嶋が縫ってくれるという連携プレーだった。
今思っても、高嶋がなぜあそこまで僕にフルベットしてくれたのかは分からない。
でも、本当に、心の底から僕に対してリスペクトをしてくれていたのだと思う。
最終的に、どうにか納期に間に合い、卒業をする事が約束された。
卒業コレクションは、ランウェイ形式か展示形式での発表を選べたが、僕はどちらもできなかった。
教室のハンガーラックに吊るされて、ただのゴミ同然で見られていた。
作品は、まるで僕の立場を反映しているかのようだった。


99.高嶋がユニクロの正社員になる

一緒にブランドをやろう。
僕がデザイナー、高嶋はマネージャーという役割で、二人でブランドを始めようという話をしていた。
しかし、高嶋の父から反対され、その話は無くなった。
高嶋はコレクションブランドのインターンを経験したことで、絶対にコレクションブランドで働きたくないと言っていた。
「俺さ、見ちゃったんだよ。安月給でボロ雑巾みたいにこき使われて、デザイナーの文句を言いながら何度もトワルを作って、食費まで削って生活している人たちを。俺は、そこまでしてファッションに携わりたいかと自分に問いかけた時に、答えはノーだったんだ。俺には、伊藤みたいなデザインセンスも情熱も無いから。ユニクロで正社員になって、順調にキャリアを積み上げる事が自分には合っていると思う。」
高嶋はそう言って、アルバイトから正社員登用の面接を受け、正社員になった。
今では年収が七百万円は貰っていると言っていた。

100~119

100.Twitterで仕事を見つける
文化服装に通っていた友人の女性が、アパレルには就職せず、派遣会社の事務を正社員で担当していた。
ある日、彼女のツイートが目に入った。
「誰か仕事を探している人いたら連絡ください」
まさに僕の事だった。
進学する学費も無いので、働く以外に選択肢は無く、働こうにもどこで働くか決まっていなかった僕には、藁にもすがる思いだった。
ギャルソンやヨウジ以外では働きたくないという、劣等生のくせにプライドだけは高かった僕は、どんな仕事でも良いと思っていた。
彼女に連絡を取ったところ、インターネット回線のキャッチの仕事だと言われた。
まずは、話を聞こうと思い、青山にあるオフィスに出向く事に決まった。
ギャルソンやヨウジの直営店を通り過ぎて、派遣社員の説明を受けるために青山を歩いた。
そのまま、僕はインターネット回線のキャッチの仕事をすることに決まった。
興味の無い、インターネット回線の研修を受け、ろくに覚える事もせず仕事を始める事に成った。
五十代くらいのおじさん二人と僕三人で、軽自動車の後部座席に乗り、むさ苦しく会話もろくに無いまま、郊外にある家電量販店まで移動をした。
家電量販店では、シャカシャカと音のするダサい青いジャンバーを着て、ティッシュを手に持ち、ティッシュを受け取ったお客様にその流れでインターネット回線の勧誘をするという内容だった。
ファッションデザイナーに成ろうとしていた自分が、こんなダサい仕事をする事に成ってしまったと、終始反省をしながらティッシュを配った。
このキャッチの仕事は週末限定であり、三月はどうにか耐えられるが、このままでは四月以降に生活ができない事は分かっていた。
僕は、週五で勤務できる仕事をどうにか見つけたいと思っていた。
何回かキャッチの仕事をしたところ、新たな仕事の話が舞い込んできた。
「伊藤くん、コールセンターの仕事とか興味ないかな?週五で働けるんだけど。」
僕は、断る理由がなかった。
「ぜひ、やらせてください。」
「じゃあ、派遣先との顔合わせが有るから、そこにスーツ着用で行ってね。」
「分かりました。」
そのやり取りの後、僕は気がついた。
僕はスーツを持っていなかったのだ。
持っている服は、リーバイスのジーンズとヘインズのTシャツだけだった。
スーツを着ないといけないのか。
そう思いながら、どんなスーツを着るかと考えた。
洋服の青山で買えばいいものを、僕はブランドのスーツにしたいと思っていた。
ギャルソンのオムドゥはおじさんの印象があるから、ヨウジに行ってみよう。
ヨウジの店内に入ると、いつもは一階がレディース、地下一階がメンズなのに、この日だけ一階にメンズが並べられていた。
僕はいつもレディースを見て回るので、少し残念な気持ちになった。
そのまま、メンズの服を見ていると、店内の一番奥にコスチュームドオムというベーシックなスーツラインが並べられていた。
「スーツお探しですか?」
「あ、はい。」
「ぜひ、着てみてください。」
そう言われ、何を着ようかと見ていたところ、三つボタンのスーツが目に留まった。
しかし、少し攻め過ぎかもしれないと思い、二つボタンのスーツを着ることにした。
「これ、着てみてもいいですか?」
「ぜひ。パンツはこちらが合うと思いますよ。」
店員さんがそう言いながら、ツータックのパンツを用意した。
僕は、コスチュームドオムのセットアップを着た瞬間、今まで着た服からは感じた事の無い感覚が有った。
優しく包み込まれる感覚、空気を感じる感覚、布と共に生きている感覚。
自分の上に服という布が乗っているというよりも、自分と布とが一体になりつつも、近くもあり、遠くもある、絶妙な距離感を感じた。
高揚した僕は、即決で買うことに決めた。
「これください。」
「ありがとうございます。」
「ネクタイや靴はどうされますか?」
靴は、個人的にもっと良いものが有りそうだなと直感が働き買わなかったが、ネクタイは買うことにした。
そうして僕は、社会人一年目のスーツが、ヨウジヤマモト・コスチュームドオムのスーツに決まった。
どういう職に就くかによるが、個性を求められない仕事において、個性的な服装を着る人間は、職場環境において孤立したり、指示命令や規律に従えない自我の強い存在である事を、語らずに主張していることと同じである事を、当時の僕は気づいていなかった。
スーツもファッションであることに気づいていなかった。
ファッションはアイデンティティの表現手段であり、自分はどういう人間で、どう考えているかを、会話をする前に相手に主張するものだという事を、この時は自覚をしていなかったのかもしれない。
基本的に、保守的な仕事において、個性の主張はその職場環境を乱しかねないため、個性の主張する人間は厄介に成りかねない。
クリエイターや表現者など、個性的な主張を求められる人にこそ、ヨウジヤマモトのスーツは合うのであり、コールセンターの仕事にヨウジヤマモトのスーツは合わない。
数ヶ月後に自覚する事とは知らずにヨウジのスーツを買った。
後日、派遣先との顔合わせがあった。
「うちの職場は、若いと二十代前半から、上は五十代くらいまで、幅広い年齢層です。この仕事に受かった場合、仕事はいつ頃まで続ける予定ですか?」
僕は正直なところ、コールセンターの仕事なんて一ヶ月で辞めて、お洒落な仕事を早くやりたいと考えていた。
それを正直に言えば採用されるはずもないので、僕は絶対に採用される回答を瞬時に考えた。
「三年くらいはいたいと思います。」
「…三年ですか。それなら問題ないですね。」
盛り過ぎたかと思い、逆にネガティヴに受け取られたかもしれないと思ったが、とりあえず長期で働く予定だという事を伝えた。
無事に採用され、僕はコールセンターで働く事となった。


101.コールセンター勤務

五反田の古びた雑居ビルに、おじさんが集まり、狭くむさ苦しい部屋で研修が始まった。
僕は、インターネット回線に全く興味がなかったため、研修開始の一時間後あたりから研修について行くことができずに寝ていた。
頑張って起きていようと思ったが、気づいたらまた寝ていた。
そんな調子で、教わった内容もろくに理解できないまま仕事が始まった。
全く何も分からない。
自分はなぜここにいるのだろうか。
ヨウジヤマモトを着てコールセンター勤務。
見た目だけヨウジヤマモト、実際は派遣社員のコールセンター勤務。
ファッションデザイナーになりたいと言っている。
ダサい。
見た目の前に、自分の生き方のダサさに落胆した。
劣等感。
これ以外の言葉があるならそれを使いたいが、僕は自分がファッションデザイナーに成ると意気込んでいて、ファッションの道に進んでいないことを深く反省し、自分自身を責め続けた。
お前は何をしているんだ。
どうしてこうなったと自分にひたすら問い詰め続けた。
努力を怠って生きて来たのだから、こうなるのは必然だったと自分に答えた。
僕は、自分の置かれた状況を理解しつつも、本当の意味で受け入れる事ができなかった。
仕事が終わり、Twitterを眺めれば、ここのがっこうのクラスメイト達がいつも楽しそうに会話をしていた。
僕にとってデザイナーとは、川久保さんやヨウジさんのように、寡黙な存在だった。
みんなでワイワイしているそれは、僕にとってのデザイナー像とは違う在り方だった。
ここのがっこうや文化服装に通っていた時は、授業の内容も毎回違うし、新たな発見や気づきが多く有ったが、コールセンターでは、毎日が同じことの繰り返しだった。
機械、ロボット、そう、人間ではなく、チープなロボットにでも成った感覚があった。
僕は、ファッションデザイナーに成りたかったのに、ロボットになっている。
それもポンコツの。
代替はいくらでもいる。
むしろ、ロボットとしても必要とされていない。
自分の無価値、存在意義の無さ。
代わりはいくらでもいる。
虚しさ、虚無感、また心の中も景色も濃い灰色に染まった。
まるで、生きた心地がしなかった。
周りは、目標も無く、ただひたすら職場に文句を述べ、何も生産性の無い事を言い続け、何の成長もしない人間ばかり。
僕は、そんな環境でも落ちこぼれだった。
「伊藤くん、あんな使えないやつを雇ったの誰だ?って裏で言われてるらしいよ。」
隣の席の先輩から、僕が誰かにそう言われている事を教わった。
それくらい使えない人間だった。
高校では容姿をディスられ、文化服装学院では約束を守れない口だけ人間と言われ、コールセンターでは使えないゴミ扱いをされている。
どこに行っても僕は無価値で、自分を変えたいと思っても変えることができず、ただ月日が流れていくだけだった。
またTwitterを眺めていた時、僕は思った。
SNSはフォローしている世界が自分の世界に成ってしまう事に。
つまり、広大なインターネット空間のように見えて、フォローしている人の投稿しか見ることができないため、結局は日常の身の回りの出来事をただ眺めている事と変わらず、自分の視野が広がるどころか狭まると思った。
また、楽しそうにしている。
嫉妬ではない。
もう、今の僕はそこの輪に入る資格は無いし、入りたいとも思えなかった。
亮太にも、俺はファッションデザイナーに成るんだって意気込んでいたのに、こんなダメ人間の状態で会う事はできないと思った。
SNSを全て退会した。


102.通えなかったアドバンスドコース

イタリアのファッションコンテストのITSでグランプリを獲ってファっッションデザイナーに成る。
当時のここのがっこうは、この目標を抱いていた人達がアドバンスドーコースに通っていたと聞いた。
僕だって、同じ目標を抱いていた。
しかし、金もなければ、劣等感にまみれて、授業が有る土曜日も仕事で、肝心のポートフォリオもなく、アドバンスドコースには通えなかった。
でも、来年はきっとアドバンスドコースに通えると思って生きていた。
アドバンスドコースに通っている同期のメンバーが羨ましかった。
亮太もノリピーもアドバンスドコースに通っていた。
ある日、ノリピーに会った。
「私ね、東京藝大に行く事に決まったの!ふざけ倒してくる!」
僕は、純粋にノリピーを応援したかった。
僕は、進学や留学をしたくても、そのお金が無かったから仕事をしている。
ノリピーは、もしも自分が働いたお金で進学や留学すると成った時、「ふざけ倒す」と言えただろうか。
僕は、その言葉だけが共感を持つ事ができなかった。
ノリピーの事は嫌いじゃないし好きだけど、別にだからどうという事でもない、けれど少しだけ残念な気持ちになった。


103.精神と時の部屋

ここのがっこうから一通のメールが届いた。
リトゥンアフターワーズのコレクションの手伝いを募っていた。
僕は手伝いに行きたいと連絡をして、家から近くにある、台東デザイナーズビレッジに行った。
小学校が廃校になり、その跡地として、教室をアトリエにしているブランドが多数あった。
使われていない部屋や体育館には、リトゥンの制作中のいろいろな作品や材料が所狭しに置いてあった。
どこで何をしているかも把握できないくらい、大規模でカオスな製作環境に度肝を抜かれた。
リトゥンはバグっている。
改めて、リトゥンのクリエイションに衝撃を受けつつも、体育館へ行き、指示をされた場所で作業を行っていた。
そこに亮太が現れた。
亮太はリトゥンのアシスタントをしていた。
亮太は、ここのがっこうの時とは違って、とても疲れ切っている顔をしていた。
普通に何日もまともに寝ていないのだろうと分かる表情だった。
それでも、亮太は的確に色んな人に指示を出していた。
僕は、自分の作業をやりつつも、たまに亮太が何をしているのか観察をしていた。
また、別の日も手伝いに行き、亮太はもっと疲れた顔をしながら、的確な指示を出していた。
その時に僕は気がついた。
彼は寝ていないことに。
亮太は決して努力している事を言わない。
でも、僕には分かった。
亮太は寝ずに、沢山の辛い事をやっている。
僕が寝ている時、亮太は辛いことを乗り越えてやっている。
僕が起きている時も寝ている時も、亮太は辛い事をやっている。
亮太は、ドラゴンボールで例えるなら、精神と時の部屋に入り、高負荷をかけて修行をしていて、下界にいる僕とは一日に得られる経験値が圧倒的に異なる事も分かっていた。
亮太は必ずファッションデザイナーという名のスーパーサイヤ人に成る事を、僕には確信して見えていた。
だから、一日が経過する度に、下界にいるチャオズのような自分が情け無く、常に焦りを感じていた。
この感情が、ここから、十年以上も抱き続けるとは知らずに。
下界にいる僕が亮太と話せるような関係に成るためには、自分も精神と時の部屋に入る必要が有ったが、ずっと下界にいるままの生活が続いた。


104.後の師匠と出会う

ノリピーがTwitterで自身の展示の手伝いを募集していた。
僕は、少しでもここのがっこうとの交流を持ちたいと思っていたので、ノリピーに連絡を取った。
神田の電気大学が壊されるので、自由に建物を使えるという内容だった。
ここのがっこうでの、僕のあだ名はシャネオだった。
ニューシャネルと書かれたTシャツを頻繁に来ていたので付けられた。
ノリピーに会うと、いきなり言われた。
「シャネオに紹介したい人がいるの!」
僕は、ノリピーに言われるがまま、別室の展示空間に行った。
薄暗く、わずかな光が灯され、藁が敷かれ、豚の剥製があり、似たような人形が何体も椅子に座っている不気味な空間だった。
そこにはロン毛にメガネをかけた男性がいた。
「紹介しまーす。吉田くんでーす!こちら、シャネオでーす!じゃあねー!」
ノリピーはそう言って、僕と初対面の吉田さんとを二人にして去っていった。
正直、僕は吉田さんと何を話したのか全く覚えていない。
この当時、僕は心を閉ざしていたので、人とコミュニケーションが上手く取れない状況だったのも大きかった。
でも、その空間の印象は今でも覚えている。
この電気大学の展示を見て、本当にこれはファッションなのか、この先にファッションがあるのだろうかと疑問を抱いた事もあった。
その答えは、その後の歩みによって分かる事となる。
そして、何年も時を経て、吉田さんと僕は師弟関係に成るとはお互いに想像していなかった。


105.ノリピーがITSのジュエリー部門でグランプリを獲る

いつものようにファッションニュースを見ていたところ、見覚えのある顔が飛び込んできた。
ノリピーだった。
ITSのジュエリー部門でグランプリを獲っていた。
みんなが、ファッション部門でのグランプリを狙う中、ノリピーはジュエリー部門だった。
これには意表を突かれた。
そうか、その選択肢があったのか。
部門はファッションではなくとも、ITSグランプリという肩書きが残る。
純粋におめでとうという気持ちと、抜け道を見つけていたのかという、自分の視野の狭さを反省した。
そして、ノリピーは時の人になり、ファッションニュースやSNSや雑誌などで見かけるようになった。
この辺りから、ノリピーの底知れぬ可能性の深さを知った。
ふざけ倒すところも、行くところまで行けば、それが強みに変わる事を思い知らされた。


106.インターン

どうにかしてアパレルに関わらないとマズいと思っていた。
そうだ、インターンをしよう。
東京コレクションに参加しているブランドのインターンに応募をした。
まずは採用テストのため、初日に仕事をやってみて欲しいと言われた。
出来上がっている服を見ながら、鉛筆で平絵を描くように指示された。
平絵を描くと、デザイナーは僕の絵を見てとても嫌そうな顔をした。
アシスタントの人から、帰り道にこう言われた。
「インターンで不採用に成るってのはまず無いと思うんで。」
後日、メールが届き、インターン不採用の内容が書かれていた。
タダでもいらない。
こちらは無給で働くと言っているのに、タダでも要らないと言われているのと同じだった。
ゴミ。
僕は、ゴミだと思った。
タダでもいらない、それは日常で置き換えればゴミだと思った。
僕はゴミ人間だ。
価値の無い人間。
いるだけで邪魔。
自己肯定感なんてものは皆無で、自分の無価値を痛感し、自己嫌悪が更に悪化した。


107.転職に応募

インターンがダメなら、アパレルへ転職をしてみようと思った。
未経験でも募集していた、企画職や生産管理に応募をしてみたが、ことごとく不採用だった。
生産管理については、人間性は良いが、未経験である事の懸念が捨てきれないと言われた。
未経験でも募集していると言いながら、経験が無いことが不安という不採用理由を聞いた時に、僕は未経験での転職はもう無理だと思った。
インターンでも不採用、転職も不採用。
僕に残された道は、自分でブランドを立ち上げるという事しか無いと思った。


108.青山のファミマで掛け持ちバイト

コールセンターの勤務を続ける中、全くファッションに関われない状況に焦りを感じていた。
少なくとも、青山に毎週通って、ギャルソンやヨウジの服を手に取って、ファッションの感覚だけでも忘れないようにしたかった。
強制的に青山に毎週通うために、青山でバイトをすれば良いと思った。
コールセンターが休みの日に、青山のギャルソンの近くにあるファミリーマートで掛け持ちバイトをしようと決めた。
面接を受けて即採用された。
ファミチキの揚げ方も分からないのに、普通に揚げてと先輩ギャルに指示されたり、めちゃくちゃなコンビニだった。
冬に飲み物の補充をする時は苦痛だった。
雪国出身の自分でも寒いと思うほど、バックヤードの凍える環境の中、ひたすら飲み物を補充する事は苦行だった。
飲み物を買う側からすればそんな事は想像できないだろうが、裏で補充している人は辛いのだ。
バイトの前は、ギャルソンやヨウジの服を手に取った。
バイトの後は、二十三時も過ぎて人通りも少なく、閉店後の店にある服をガラス越しに見ていた。


109.コールセンターでSVに成る

僕は、コールセンターに勤務してから約二年間、職場の誰とも話さず、プライベートの友人との交流もせず、SNSも全て退会しており、人との会話の仕方を完全に忘れてしまっていた。
使えない人間扱いをされ、このままではいけない、コールセンターでもバカにされているようじゃ、ファッションデザイナーになんて絶対に成れない。
コールセンターをできたらファッションデザイナーに成れる訳は無いが、底辺の仕事で底辺の扱いをされているようでは、その上に行けるはずも無いと思った。
コールセンターをやっていましたなんて、ファッション業界で通用するわけがない。
だから、何か、一つでも多く、自分がブランドを始めた時に、一つでも多く応用ができる事を身に付けながら、仕事ができる人間に成ろうと思った。
休みの日は本屋へ行き、ビジネス書を立ち読みしていた。
毎回、テーマを決めて、テーマに関連する本棚の前に立ち、狂ったように本を読み漁った。
飛ばし読みではあるものの、一日に二十冊は読んでいた。
立ち読みだけをして帰るのは本屋に申し訳ないので、たまに一冊だけ買ったりしていた。
目次に目を通して、自分に必要なテーマのページだけを集中して読んだ。
移動中は、仕事術に関するブログ記事を狂ったように読み漁った。
ひたすら、ビジネスハックやライフハックのような記事を読み漁った。
来る日も来る日も読み漁った。
次第に、仕事を任されるようになり、徐々に使える人間に近づき始めた。
ある日、オペレーターではなくSVという指示をする側を担当することに成った。
そして、いざSVに成ると、僕はSVの業務が全くできなさすぎて、上司からこう言われた。
「来週もSVでいられると思うなよ?」
SVに成ったばかりなのに、すぐに降格の予告をされた。
どうすれば良いのか。
僕はどうしたら良いのだろうか。
僕と同じタイミングでSVに成った人が三人いた。
僕以外の三人は、毎週のように顔色が青く成っていった。
ストレス。
僕以外の三人は、パワハラによるストレスで疲弊していた。
一方の僕は、中学のヤンキーや、文化服装学院の先生や、生地屋のおじいさんからパワハラを何度も受けていたので耐性がついており、ノーダメージだった。
SV達が上司から任された仕事をしていなかった時、その理由を上司から問いただされた。
「なんでこれやってないんだ?」
僕は、聞かれたことにすぐ答える事を心掛けていたので、ロジックは組めないが即答した。
「忘れていたからです。」
「なんで忘れていた?」
「なんでかは分かりません。」
回答としては、最悪だが、答えないよりマシだと思った。
そのまま呆れられ、僕は自分の席に戻るように指示された。
一方、他のSVは萎縮して思考が停止していた。
回答が思い浮かばず、下を向きながら立ち続け、一時間以上その場に立っている人もいた。
他のSVは、上司の悪口を言いながら職場を辞めていった。
僕は、ここで辞めるわけにはいかないと思った。
ここで逃げたら、高校の時に転校したいと言って逃げようとした時や、生地屋のバイトを辞めようとした時と同じだと思った。
誰からも、コールセンターを続ける選択肢が良いとは言われないだろうが、僕は続けた。
上司から、何度もキツい言葉を言われた。
しかし、どんなにキツい言葉だったとしても、何を言われているか、という内容に集中することにした。
言い方は気にしない。
自分は何を言われているか、その内容を冷静に考える事にしていた。
ある日、上司から言われている事がパターン化していることに気がついた。
「なんで?」
「いつ?」
「誰が?」
「何が?」
「どこで?」
「どうやって?」
「どのくらい?」
たまに、上司がロジックという言葉を使っている事も頭に残っていた。
意味は分からなかったが、傾向は掴めた。
そこで、インターネットで検索をしていたところ気がついた。
基本的に、5W1Hのどれかが欠けている時に問いただされていることに。
言い換えれば、5W1Hを満たしていれば問いただされる事は無いのではないかと仮説を立てた。
そのためには、5W1Hが瞬時に使えるように、体に染み込ませないといけない。
では、どうするか。
まずは、5W1Hが書かれた画像をスマホの壁紙に設定した。
そして、事あるごとに暗唱することにした。
「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように、どのくらい。」
これが完璧に暗唱できるように成ってからは壁紙を好きな画像に変えた。
そして、ロジックとは何かを調べていき、論理的思考、ロジカルシンキングに辿り着いた。
思考方法がある事を知らなかった僕は、ロジカルシンキングに的を絞り、また狂ったように本屋で勉強をし始めた。
僕は、なんとなくで考えていた事をやめて、仕事も日常生活も全てにおいて論理的に考えることにした。
「理屈っぽい」
過去に知り合った感覚的な人達から、僕が理屈っぽいと言われていたことを思い出した。
理屈っぽい人間とは自覚していたので、論理的思考を覚えることは、むしろ楽しかった。
物事は、こうやって考えれば良いのか。
そうすると、視野が一気に広がった感覚があった。
何か問題が起きても、それの問題がどこにあって、どのように解決すれば良いのか、考える事が楽しかった。
人はすぐに答えを求める。
でも、答えがあるのは学校や資格のテストくらいで、社会のあらゆる問題に模範解答は無い。
だから、模範解答に慣れている人は苦痛なのだろうと知った。
僕は、答えなき問いに、答えを出す楽しさを覚えながら、次第に上司から指摘をされる頻度も減っていった。

110.誰にも一度も笑顔を見せなかった上司が笑った
上司は笑わない人だった。
四年くらい一緒に働いていたが、一度も笑っているところを見たことが無かった。
いつも不機嫌。
言葉にも棘がある。
残業をしていた時、僕と上司と事務の女性の三人で残業をしていた。
上司が事務の女性に対して、何かの仕事をやっていないと言った。
自分はできている、やっていると、事務の女性は一生懸命に話をしたが、上司は聞き流していた。
すると、その女性はなぜか僕に話を振ってきた。
「ねえ、伊藤さん、私やってるよね!この人に何か言ってあげて!」
僕は、ここでどのような回答が適切か分からなかった。
そもそも、その事務の女性の話を聞いていたものの、内容がよく分からなかった。
でも、試しにここで笑いを取れるような返しをしたらどう成るのだろうかと気になった。
「ちょっと何言ってるかわかりません」
サンドウィッチマンの鉄板ネタをそのまま引用してみた。
すると、笑わなかった上司が大爆笑をしていた。
その時に、僕は初めて上司が笑ったところを見た。
そして、僕は笑わない人を笑わせる事ができたことにも自分で驚いた。
中学の時も、高校の時も、逆境を笑いで乗り越えてきた事を思い出した。
僕には笑いがある。
お笑い芸人を目指していた訳ではないが、自分の強み、武器としてお笑いがある事を自覚した。
それまで、人とのコミュニケーションを避けていたものの、この時から上司や同僚や部下とのコミュニケーションに、なるべく笑いを交えようと心がけ始めた。
それ以来、上司は良く笑うように成り、一緒にタバコを吸いながら談笑をする関係に成った。


111.同じような日々の繰り返しで記憶が曖昧に成る

これまでの人生はどうにか思い出すことができた。
しかし、コールセンターの仕事は、毎日がほとんど同じことの繰り返しで、いつ何が有ったかを思い出すことが難しくなった。
特に、SVに成ってからは、上司に必死に付いて行くのに精一杯だった。
一日中、集中して、頭をフル回転させる必要があった。
毎日、午前中にレッドブルを一本、昼はコーヒーを二杯、夕方にモンスターを一本飲んでいた。
脳の血流が良く成るサプリや、ストレスを緩和させるサプリを摂取しながら、一日を乗り切り、家に帰ったら倒れて寝る日々だった。
そのまま、疲れて横になり、思い浮かぶのは亮太だった。
ああ、自分がこうしてコールセンターで働いて疲れたとか言っている間も、きっと亮太は頑張っているんだろうな。
それに比べて俺は。
そうやって、自己嫌悪のまま寝落ちして、気づいたら朝を迎える日々。
ああ、俺はまた昨日も何も物作りをせず自分に負けた。
なんてダメな人間なんだ。
そうやって、寝る前も、起きた後も、亮太は頑張っているのに、俺はなんてダメ人間なんだと自己嫌悪が募る日々だった。


112.東京ニューエイジ

いつものように職場の喫煙室でタバコを吸いながらファッションニュースを見ていた。
見覚えのある名前が飛び込んできた。
亮太、吉田さん、大月さん。
僕と同世代が東京ニューエイジというグループ名でコレクションデビューする事を知った。
悔しいとは思わなかった。
これは努力の差だと分かっていたから。
むしろ、希望だった。
ああ、文化服装学院の同期は誰もデビューしていないのに、ここのがっこうの同世代はデビューしている。
そこに自分の名前は無いが、ここのがっこうに通う事を担任に笑われても、通ったという選択は間違っていなかったという証明になった。
だから、東京ニューエイジの人達がコレクションデビューするという知らせは、希望だった。
自分もきっといつか。
そう思いながら、月日が無情に流れるだけだった。
ここのがっこうに通う同世代の人達がランウェイデビューした事が自分の事のように嬉しかった。
その後も、東京ニューエイジの動向は常にチェックをしていた。
そして、吉田さんのコレクションがレディースになった時、モードに寄せている事に気付き、更に焦りを感じた。
確実にステップアップしていて、本当に自分がやりたい方向性へ正直にクリエイションをしている事に刺激を受けた。
また、メンズのみではなく、レディースへの方向転換も成功していて、今後のショーが楽しみだった。


113.携帯ショップで勤務

ある日、勤めていた会社がコールセンターの一部業務を撤退する事になった。
すると、次は携帯ショップで勤務をするようにと言われた。
地方の店舗へ出張に行き、ただ一日中立ちながら、たまにお客様へ光回線の説明をするという仕事だった。
僕でなくても、誰でもできる仕事だった。
自分以外の誰でもできるような仕事を自分がしている時に、自分の価値の無さを痛感した。
コールセンターも携帯ショップもコンビニ店員も、絶対にやりたくない仕事だと思っていた。
運命の悪戯か分からないが、自分がやりたく無いと思っていた仕事を次々とやる事に成った。
嫌いだった高校の生徒の住まいは葛西が多かった。
だから、葛西には二度と行きたくないと思っていた。
しかし、これもまた運命の悪戯で、葛西の携帯ショップで常勤として働く事が決まった。
そこで、知り合った女性と後に付き合うことと成る。
僕と彼女は、会話こそするが、お互いに惹かれ合うような感じでもなかった。
むしろ、関係はどちらかというと良くなかった気がする。
それがなぜか、僕が携帯ショップを辞めるあたりでお互いに連絡先を交換する事に成った。
「なんとなくですが、これから長い付き合いになるような気がします。」
僕は彼女に根拠も無くLINEでメッセージを送り、その後に約七年交際するほどに本当に長い付き合いになった。
言霊。
思いや、言葉は、そのまま未来に成る。


114.法人営業

携帯ショップの次は、大手通信会社の本社勤務の仕事が舞い込んできた。
社員と同じ名刺を持って、電力自由化の法人営業をするという内容だった。
薄暗い本社、笑顔の無い数百人の大人。
僕は、その環境で、常に一部上場企業の数人のおじさんに監視されながら仕事をしていた。
一日中、生きた心地がしなかった。
営業の成績も悪く、自分の給料以下の売り上げしかなかった。
このまま、消えたい。
僕はそう思っていたところ、三か月後にクビを言い渡された。
正直なところ、ほっとした。
自分なりに努力をしたものの、全くどうにもならなかったので、クビ宣告をされて今回だけは安心した。
クビ宣告の後、僕は今までとは異なるコールセンターの業務を任される事になった。
結局、僕はコールセンターしかできない人間なのだと思い知らされた。


115.代替可能、無価値、ゴミ

僕は、自分の価値の無さを自覚していた。
タダでも要らない。
街を歩いている時、ポケットティッシュを配っている人を目にする事は、誰しもあるだろう。
ポケットティッシュを差し出されて、受け取る人もいれば、受け取らない人もいる。
別に受け取ろうが、受け取らまいがどちらだっていい。
僕は、ポケットティッシュを自分が受け取らなかった時、そのポケットティッシュと自分が同じ、または自分がポケットティッシュ以下の価値だと思う時が今でもある。
タダでも要らない。
インターンに不採用となった事実や、コールセンターで代わりはいくらでもいると言われた事など、ずっと僕は自分の価値の無さを自覚していた。
タダでも要らないのであれば、それはゴミだし、僕は人間の中でゴミにカテゴライズされていると思っていた。
どうすれば価値が生まれるのだろうか。
それは、代替不可な唯一無二の存在に成る事だった。
自分だけの価値。
仕事で言えば、他の人ができる事は当たり前にできて、他の人よりも更にそれができる事。
でもそれは、自分より頭や要領の良い人がいれば、一瞬で追い抜かれる事も分かっていた。
だから、更に異なる付加価値が必要だと思った。
まずは、誰もやりたがらない事を、ひたすらに取り組んだ。
例えば、誰も掃除をしていないところを掃除するとか、物が足りなかったら買ってくるとか。
誰もが見て見ぬフリをする事をよく観察する事。
それだけでも足りないと思っていた。
命令されたら、誰でもできるからだ。
だから、誰もやりたがらない事を必死にやるだけではなく、
やろうと思っても絶対に真似できないくらいまでクオリティーを高める事に集中をした。
例えば、マニュアルを作ること。
誰も業務マニュアルなんて作ろうとしなかった。
仮に作ったとしても、手を抜いた文字だけとか、見にくかったり、分かりにくかったりした。
僕は、マニュアルが無い業務を見つけては作成し、何人にも見せてブラッシュアップを重ねた。
業務マニュアルの九十五パーセントは僕が作っている。
そうして、マニュアルだけではなく、唯一無二の存在に成る為に、誰も真似できないレベルの何かを常に探しては、それに到達する事を心がけた。
いつからか、僕の存在が必要とされていると取締役や部長から言われた。
この時点から価値が生まれるなんて事は無くて、誰かにそう言われた時に価値が顕在化される。
そうして、僕はお金で買うポケットティッシュよりも少しは価値がある存在に成れた気がした。
この自伝を書くような基準値で、常にコールセンターの業務に取り組んでいた。


116.副業に挑戦

ブランドを始めるための資金が欲しかった。
僕は、ブランドを始める為の資金を作るため、自分の収入を上げようと必死に仕事に打ち込んだ。
今日は二十三時まで残業をしたのだから、クリエイションをする時間も体力も無いから、やれないし、やらなくて良いと言い聞かせた日も多々あった。
それでも、帰宅して横になり、目を閉じると浮かぶのは亮太の事だった。
亮太は頑張っているのに、それと比べて俺は。
悪夢でうなされるとは言うが、僕は寝る前に自己嫌悪でうなされていた。
起きても、また自己嫌悪。
そうこうしている間に、東京ニューエイジの人達は半年に一度のペースで展示会を開いていて、作品や世界観のクオリティも毎回アップデートされていた。
僕は焦っていた。
このまま、どんどん差が開く事に。
僕もブランドを始めよう。
思慮も無いまま、ただ感情の赴くままに考え始めた。
まずは、金が必要だ。
副業に挑戦する事にした。
そのために、日課にしていたコレクションブランドのチェックをやめた。
未来の自分のためだと言い聞かせて、自分の服を燃やした時と同じように、またひとつ、自分のファッションの習慣を殺した。
約三年、毎日仕事が終わっては副業にチャレンジをしたが結果が出なかった。
僕は、自暴自棄に成り、仕事が終わってはラーメン二郎に行き、帰り道に缶ビール500mlを買って飲みながら歩き、路地裏でしゃがみ込み、ビールを飲みながらタバコを吸っているような廃人と化していた。
ある日、数年ぶりに元上司に会った時、こう言われた。
「顔がパンパンにむくんでるぞ?大丈夫か?」
久しぶりー、とかではなく、僕の顔の話だった。
別の上司からは、こう言われた。
「お前の腹、気持ちわるっ!」
僕は少し太ったのかなと思い、太っても3kgから5kgくらいだろうと思っていた。
二十歳の時は、いくら食べても痩せている体型だったので、身長が175cmで、体重は60kgだった。
いざ、体重計に乗ると、自分の目を疑った。
80kgまで増えていた。
僕は愕然とした。
またストレスでラーメン二郎に通っていた。
二郎に行かない日も、つけ麺を食べていた。
週三日から四日で、ラーメンやつけ麺を食べる生活だった。
僕は、炭水化物を抜こうと思い、あらゆる食事から炭水化物を抜く事にした。
ラーメンは論外。
でも、欲しくなる。
まるでドラッグのようだった。
我慢すればするほど欲しくなった。
その時、MIYAVIやGACKTを思い出した。
彼らは、ストイックに食事を制限して、トレーニングもしながら美貌を保っている。
彼らほどストイックに成れなくても、我慢するくらいはできないといけないと思い、麺類を我慢する事にした。
ついでに、米やパンも制限した。
甘い飲み物も飲まない。
そうすると、頭が働かなくなり、仕事のパフォーマンスが落ちた気がした。
大好きなココイチに行って、カレーをライス抜きで注文した時は、オーダーを取ったベトナム人の店員さんが、厨房の日本人男性から怒鳴られていた。
「おい!これライス抜きってなってるぞ!カレーなのに!間違いじゃないのか?」
僕は極端だった。
程よいバランスを取る事ができない人間だった。
食べる時は沢山食べるし、食べないと決めたら全く食べない。
ゴータマシッダールタがブッダに成る前の修行で、断食をし過ぎて死にそうになり、やり過ぎは良くないと自覚したという話を、この数年後に知って腑に落ちた。
極端は良くないのだ。


117.ルイヴィトンとミホミュージアム

久しぶりにコレクションの動画をチェックしていた。
ルイヴィトンの2018年、プレスプリングコレクションの動画を観た時、自分の目を疑った。
僕のルーツである新興宗教の神殿がある、滋賀県のミホミュージアムが会場だった。
あれほど嫌いだった宗教の施設で、ルイヴィトンがコレクションを発表している。
悪夢のような現実の動画だった。
最後に笑顔で登場するニコラゲスキエールを観て嫌いに成りかけたが、ニコラは関係ないので嫌いに成る事は無かった。
新興宗教が世の中に無数にある中で、自分のルーツにある宗教だけが、モードの発表の場に成っていた事は、何かの運命かもしれないと思った事もまた事実だった。


118.meに応募

文化を卒業してから数年間、いつかはここのがっこうのアドバンスドコースに通い、ITSのグランプリを目指したいと思っていた。
それが、東京ニューエイジの人達は、ITSに通らずともブランドを始めていて、坂部さんは講師から外れていた。
僕が行きたかったアドバンスドコースは、もうそこには無いと分かった。
坂部さんが、meというファッションスクールを始めるという記事を読んだ。
当時は、ポートフォリオ提出が必要と書かれてあった。
僕にはポートフォリオが無いから行けない。
またそうやって、チャンスを後ろ倒しにして生きていた。
それから更に数年が経ち、気づけば三十一歳に成っていたある日、Twitterを眺めていると、meの募集締め切り当日というツイートをたまたま見つけた。
THINKコースと書かれてあった。
未来のファッションを考えるコースという内容だった。
講師を見ると、そこには東京ニューエイジの吉田さんと青木さん、文化服装の後輩にあたる半澤さんの名前があった。
同世代や少し下の世代が、次世代の教育をする側に立っていた。
僕は、何周も遅れている現実を突きつけられた。
もしも僕が、東京ニューエイジの人たちと同じ時期にここのがっこうのアドバンスドコースに通っていたとして、何も結果が出なかったという流れであれば、そこで諦めがついたのかもしれない。
同級生に教わる事は、プライドが邪魔をしてできなかったと思う。
でも僕は、東京ニューエイジと世代は同じでも、アドバンスドコースの同級生ではなかった。
それに、僕が見たかった景色を見ている、近い世代の人達が講師ならば、僕の気持ちをきっと他の誰よりも理解してもらえるとも思った。
ポートフォリオ提出も不要なコースなので、THINKコースがどのようなコースかもわからないまま応募をして合格した。


119.THINKコースが始まる

吉田さんや半澤さんと話をしたとき、僕の事を知ってはいるが、太っていたのですぐには分からなかったと言われた。
「継続組で作品を持ってきている人いたら見るんで」
吉田さんがそう言うと、継続組の何人かの生徒が作品を先生に見せていた。
僕は、体験授業もろくに受けずに応募をしたので、ただ単に未来のファッションを考えるコースだと思っていて、作品を制作するコースだとは思っていなかったのだ。
これは、位置付けとしては、ここのがっこうのプライマリーコースと同じである事に、授業を何回か受けてからようやく気がついた。
最初の宿題はマインドマップだった。
スマホのマインドマップアプリをダウンロードし、文字を書き始めた。
しかし、自分の人生について言いたい事が増えるばかりで、全く整理ができなかった。
マインドマップのクラスプレゼンの時、恐らく僕は一人で十分以上は話をしていたと思う。
まとまりが無い内容をダラダラと話をしていた時、一人の生徒がこう言った。
「そろそろ終わりにしませんか?時間制限を設けた方が良いかもしれませんね。」
僕は、自分の事だけしか考えておらず、聞く側の相手の気持ちを一切考えていなかった事を反省した。
先生が僕のマインドマップを見ると、苦い顔をしてこう言った。
「川久保玲とか、山本耀司とか、アレキサンダーマックイーンとか、そういう誰でも影響を受けた話じゃなくて、伊藤くんだけの話を聞きたいんだよね。」
僕が影響を受けたのだから、自分の話だと思っていたが、これは結局のところ人の話だった。
そして、自分のマインドマップを書き直して、過去の時代毎に象徴的な絵を描く事にした。
幼少期、中学、高校、文化服装。
それぞれの時代の風景を、僕のフィルターを通して一枚の絵で表現をした。
チュートリアルの時、絵が未完成だったので、この絵をこうしようと思っていますと吉田さんに伝えたところ、渋い顔をされた。
「伊藤くんのファッション性を見つけなきゃいけないのに、このままだと絵を描いて終わりになるよ?」
その通りだと思った。
絵を描く事が目的に成っている事に気付かされた。
次は、半澤さんから、田舎の家にある神棚の雰囲気が合いそうと言われ、アドバイスを基に、良くわからない箱を作って、そこに十字架を作り、パールやクリスタルで埋め尽くした。
これは美意識に向き合っているから良いと言われた。
でも、僕は自分で作ったそれが、一体なんなのか自分でも分かっていなかったので、褒められたものの、しっくり来ていなかった。
中間プレゼンでは、お香を焚いたり、プロジェクターで映像を流したり、神棚にレッドブルをお供えしたりして、奇をてらうアプローチをした事で二位になった。
内容というより、プレゼンの面白さで二位に成っただけだった。
僕の内容が伴っていない事は自覚をしていた。
後期も続ける事になり、服で表現をしたいと思った。
リサーチブックを作る為、画像を印刷してブックに切り貼りしながらコラージュをした。
選抜者だけが展示に参加できる機会があり、奇跡的に選抜者に選ばれた。
風を感じたいというテーマを基に服を作る事に成り、僕は十年ぶりにミシンを踏み、下手くそなジャケットとズボンを作った。
「どこを見たら良いか分からない。伊藤くん、文化服装の高度専門士科に通っていたんだよね?」
僕の作品を見た吉田さんから厳しい評価を貰った。
僕は文化服装の四年コースに通ってはいたものの、スキルが全く身についていなかったのだ。
それも十年も前の話。
でも、なぜか分からないが、展示には参加できる事になった。
三ルックは作るという約束だったのに、三着しか作れなかった。
展示には亮太も見に来ていた。
「怖さが無い。俺はこう思っているっていう服が見たい。」
メッセージ性が無いから、強烈なメッセージ性が欲しいということだった。
僕は、何を言いたいのだろうか。
自分でも、自分が伝えたいメッセージが分からなかった。
スタイリストの井田さんにはこう言われた。
「伊藤さんの過去の生い立ちは何となく知れたのですけど、伊藤さんが今、今どう思っているのかを聞きたかった。」
今どう思っているのか、デザイナーに成りたいとしか考えていなかった。
そういう事ではなく、自分と社会をどう見て、自分が何を考えていて、社会に何を伝えたいのかという話だったが、それらを僕は一切考えていなかった。


120~134

120.ピリングスとして初のコレクション
meの一年目が終わる頃。
亮太はブランド名をピリングスに改名していた。
亮太からLINEが届き、改名後の初のショーに招待してもらった。
僕は、少しでも亮太のクリエイションを見たかったので、何か僕にでもできる事があれば手伝うよと返信をした。
靴の加工を任された。
全足の加工を任されるように成り、仕事が終わっては渋谷に行き、ツナギを着ながら亮太の手伝いをした。
他に手伝いに来た人が亮太に言った。
「この方、靴のデザイナーさんですか?」
「いや、ただの友達。」
亮太は、僕の事を友達だと言ってくれた。
それが、とても嬉しかった。
十年くらいほとんど連絡を取っていなくて、一方的に離れていて、ノコノコと現れた僕を、友達と言ってくれた。
ピリングスのショー当日、大人数がコレクションの準備をしていた。
一回のショーのために、こんなに多くの人が携わり、大がかりなセットも準備している。
僕の給料では絶対に実現できないし、また亮太との差を強く感じた。
コレクションのバックヤードで、亮太がモデルさんのスタイリングの手直しをしている光景を見た。
亮太がデザイナーに成っている事を目の当たりにした。
コレクションのルックをInstagramで眺めるのとは違い、現実はもっと過酷で美しかった。
目の前で輝いていて、必死にクリエイションをしている亮太を見て、僕はバックステージで隠れて涙を流していた。
亮太は頑張っているのに、俺は。
それまでも毎日毎晩そう思っていた。


121.二年目のTHINKコース

meの一年目では、結局ブランドを始められるような状態では無く、THINKコースを二年目も続ける事にした。
そして、一年目に間に合わせで作った服を見て捨てたくなった。
吉田さんからは、ジャケットは良く分からないけれど、パンツは悪くは無かったと言ってもらえた。
それでも、例えば、ディテールが汚かったり、細部のクオリティをこだわれていなかったり、シルエットも改善の余地しかなく、亮太に言われた通りメッセージ性が伝わらない服だった。
何が足りないんだ。
考えて出た答えは二つ。
一つ目は、テーマが抽象的だったという事。
風を感じたい、内省的になれる服を作りたいという、抽象的な話から間に合わせで服を作ったので、作品もぼやけた物に成ったと思った。
テーマをしっかり決めて、しっかりリサーチをすれば、中身がある、メッセージ性のあるコレクションが創れるのではないかと考えた。
二つ目は、クオリティー。
僕は、文化服装に通っていたがスキルが全く身についていなかった。
だから、コレクションブランドの服と比較すると、お子様ランチ以下のレベルだった。
テーマをしっかり見つけて、技術もしっかり身につければ、きっと納得が行く服を作れると思った。
テーマを毎週探して、先生にチュートリアルで説明をしたが、どれも全く響かなかった。
「そういう事じゃ無い」
「ふりかけにしかならない」
「言葉遊びし過ぎ」
否定され続け、僕は負のループに陥った。
生徒間プレゼンの司会を任され、次のプレゼンはあなたですと指名はするが、司会の僕はプレゼンできる内容が無く毎週スキップしていた。
「あの人、何しに来ているんだろう?」
一回り下の次世代の生徒達からはそう思われていた。
でも、打開策が見つからず、走り書きのメモ帳だけを持って授業に参加する事が毎週続いた。
前期の中間プレゼンはボイコットをした。
授業もサボったりして、でも辞められずにいた。
追い討ちをかけるように、仕事も上手く行かなかった。
内容が異なる部署に配属され、仕事を一から覚えるのに精一杯で、仕事のヤル気が無いおじさんもいて、寝ても覚めても四六時中ストレスを抱いていた。
そのおじさんは、変わりたいとは言葉で言うが、全く行動に移さず、いつもヘラヘラしていた。
僕は親身に説明をしたが、おじさんは全く何も変わらなかった。
まるで自分を見ているようだった。
思い返せば、おじさん以外にも職場にいる人達は、自分の写し鏡のようだった。
言い訳をしたり、ごまかしたり、嘘をついたり、絶対に自分のミスを認められなかったり、物覚えが悪過ぎたり、実力が無いのに過信していたり、目の前のやるべき事に真摯に向き合わなかったり、俳優や声優や漫画家やプログラマーに成りたいと言って一年も経たずに諦めたり、自分を棚に上げて職場や同僚の文句を言っている人などを三百人以上は見てきた。
僕のダメなところを誇張したような人が、数えきれないくらい目の前に現れた。
クリエイションに向き合わないといけないのに、いつもストレスにまみれて全く集中ができなかった。
後期もそんな調子で、最後の授業では吉田さんからサジを投げられた。
「もういいんじゃない?十年変わってないんでしょ?俺が同じ状況でもどうしたら良いか分からないよ。」
師匠にも見放され、絶望しか残らなかった。
後期の最終プレゼンも適当な内容で、誰にも見向きもされなかった。


122.死にたくなる

仕事では、自分を変える事ができた。
だから、クリエイションもきっと上手くいくと信じていた。
いや、思い込んでいた。
仕事とクリエイションは全く別物だった。
言語化するのではなく、目に見える何かで、自分の心を表現して、相手の心に届ける。
それが、僕には全くできなかった。
どうすれば良いかも分からないし、解決策も見当たらず、希望も無くなった。
希望が無くなり、絶望しか残らず、ファッションデザイナーに成る事を諦めるしかないと思った時、僕は人生で初めて死にたいと思った。
自殺をしたい訳ではなかった。
本当に死にたい訳でも無い。
生きたいのに死んでいく人だって沢山いる。
僕の第二の親である工藤さんのおじちゃん、ミュージシャンを目指していた桝澤、寿司屋を継ぐはずだったお兄さん、日記を書くのは良いぞと言っていたおじさん。
コロナに感染した人々。
ロシアやウクライナの人々。
病気や事故、戦争や疫病で、生きたくても死んでいく人が何人もいる。
それに比べて自分は、夢を諦めようとして死にたいだとか言っていて、なんて甘い人間なんだと思った。
でも、ファッションデザイナーに成れないまま生きる人生に、何の価値も見出せないと思っていた。
meの一年目は絵を描いたりしていたが、二年目は何もできなかった。
このまま、三年目を続けても二年目と同じような一年になる未来しか見えなかった。
もう、諦めた方が良いのかもしれないと思った。
諦める。
そう考えたら、死にたくなって、目の前の景色が色を失い、あらゆる音も耳に入らず、生きてはいるが、まるで死んでいるような、魂の抜け殻みたいな状態になった。
仕事をする手も止まり、椅子に座ってはいるものの、ほぼ何も考えられず、思考が停止したまま過ごしていた。
そんな状態が二週間くらい続いた。
「伊藤さん、me続けるの?」
クラスメイトからそう聞かれる度に、胸が張り裂けるほど苦しくなった。
早くmeを卒業してブランドを始めたいと思っていた。
でも、三十代半ばでもこんな調子で、二十代前半の人達にバカにされ、見下されている状況で、いつまでもしがみついてるのもダサいと思った。
「分からない。もう諦めるかも。」
そう答えた。
諦めたくはない。
けれど、もうこの年齢で、しがみついて、何もやれないんだったら、諦めた方が良いのかもしれない。
「俺、もう諦めようかと思ってる。」
彼女にLINEで送った。
そうなんだとは返事が来なかった。
自分がどう在りたいか、本心で諦めたいと思っているなら良いけれど、本心でないならば、本心に正直に従うべきだと言われた。
本心は諦めたく無かった。
ただ、これまでの経緯や状況から、諦めるという選択肢を取るしか無いのではと思っていた。
いつも、本心よりも、誰にどう思われるかとか、こういう状況ならこうだとか、自分の正直な気持ちを、隙だらけの理論で覆っていた。
半澤さんに、meを辞めてテーラードの勉強をしようと思っていると相談したところ、自分で決めた事だから否定しないけれど、絶対に途中で辞めちゃダメですよと言われた。
青木さんの展示会に行った時には、もうダメですと弱音を吐いたところこう言われた。
「つぎつぎぃ!次、行ってみよう!」
まさかの、いかりや長介だった。
こんなどうしようもない僕に対して、半澤さんや青木さんからも、諦めないで続けるように背中を押してもらった。


123.高嶋から諦めるように諭される

文化服装の時に、コンテストや卒業コレクションを手伝ってくれた高嶋は、奥さんと子供もいて、ユニクロの正社員として順調にキャリアを積み重ねていた。
僕がもう諦めようかと思っている時、高嶋と電話をする事になった。
「伊藤、もういいだろ。伊藤に本当に才能が有ったのであれば、既に誰かから声が掛かってるはずだよ。でも、そうじゃないじゃん。ファッションデザイナー以外に、他に仕事を見つけて生きなよ。お前だけ成長していないように見える。その年齢で実家暮らしなんだろ?」
その高嶋からの言葉を聞いて、更に堕ちた。
何も返す言葉が見当たらなかった。


124.ファッションデザイナーに成ってから中川原に謝りたかった

文化服装の時、仲良しだった中川原に迷惑をかけて嫌われた。
僕がファッションデザイナーに成ってコレクションを発表してから、あの時は悪かったと謝ろうと思っていた。
十年が経った。
十年も経って、また向き合おうとして、何も結果が出ないので、僕はもう普通に謝ろうと思った。
本当はコレクションを発表してから謝ろうと思っていたが、もうそれも難しいから、普通に謝る事にした経緯を添えて、あの時は申し訳無かったとLINEで中川原に送った。
中川原から返信が来ないと思っていたが、数時間後に返信が来た。
そんな事もあったね、忘れていたよと書かれてあった。
覚えていたのは僕だけだった。
僕だけが執着をしていた。
それは僕の話だったから、彼の話ではなかったのだ。
返信だけでなく、中川原は電話もかけてくれた。
昔の知り合いと話すような心の距離感を感じた。
中川原はミハラヤスヒロでニットを担当している。
俺はコールセンターで働いていると伝えたところ鼻で笑われた。
コールセンターという底辺でも真剣に働いていたが、そんな事は誰にも伝わらないのだ。
彼はパリコレブランドに携わっていて、自分は何者でも無い。
またここでも、自己嫌悪に包まれたが、自分の心のシコリを一つ取り払う事ができた。


125.ピリングスの道に迷う人へ向けたエール

ピリングスのコレクションが発表される度にチェックをしていた。
meの二年目を終えて、もう諦めようとしていたところ、ピリングスのコレクションが発表された。
会場で観る事はできなかったので、YouTubeで観た。
大きなニットを纏い、裾を引きずりながら、小刻みに前に進んでいくモデル達。
歩みが上手くいかない状況であっても、少しでも前に進もうという姿勢が、コレクションから伝わってきた。
コレクションのルックを見た後は、コレクションのインタビューも必ずチェックするようにしている。
デザイナーがどういう心境で作ったのか、コレクションだけでは分からない背景が分かるからだ。
「道に迷う人にエールを送る セーターに愛を込めて」
この見出しや内容を見て、僕は震えた。
僕の為だけに創られたコレクションではないが、僕にも向けられたコレクションだと思った。
亮太は直接的な言葉では言わない。
言いたい事は、コレクションに詰まっていた。
「道に迷っても無事に戻れますように」という願いを込めて作られたニット。
僕は、このコレクションを見て心が揺らいだ。
亮太からのメッセージを僕は無下にできなかったが、まだ諦めた方が良いのかもしれないという気持ちが残っていた。


126.吉田さんのコレクション - It will be fine tomorrow. -

ピリングスの次は、吉田さんのコレクションが発表された。
僕は、一回り下のmeの同級生達と一緒に、吉田さんのショーを手伝っていた。
吉田さんのショーは大掛かりで、潰れたパチンコ屋の跡地が会場だった。
僕は、特に手伝う仕事もなく、ただ傍観しているだけだった。
待機時間が何時間か過ぎて、入場者のアテンドを担当する事になった。
列を整列している時、亮太が現れた。
「最近どうすか。」
亮太にそう聞かれ、僕はそのままの気持ちを伝えた。
「もう、諦めた方がいいんじゃないかと思って。」
すると亮太は、少し怒ったような残念そうな顔で僕の目を見た。
「諦めなくて良いんじゃない?続ける事のデメリットは無いでしょ?」
また、亮太から背中を押してもらった。
でも、この言葉だけでも、まだ僕は前を向こうという気持ちには成れていなかった。
せっかく、亮太から声を掛けてもらったのに。
ネガティヴな気持ちは厚い壁になっていた。
吉田さんのショーのリハーサルが始まった。
オーバーサイズのルックを纏ったモデルが、濡れた髪で前を向いて歩いていた。
どれだけ雨に濡れても、きっと晴れると信じて前に進む。
そういう姿勢が伝わって来た。
ショーを終えて、僕はインタビューを見た。
「It will be fine tomorrow.」
きっと明日は晴れるはず。
今、辛くても、きっと希望が訪れる。
これも、僕だけに向けたコレクションではないが、僕に向けられたコレクションだと思った。
この時、僕はまた、前を向きたいと思った。
亮太と吉田さんの二人のコレクションを見て、自分の同世代が励ましのメッセージを届けてくれている。
僕の役割は、アンサーコレクションを制作して、その希望を体現する事だと思った。
続けたいと思った。
僕から見える景色はまだ灰色で、色を取り戻す事はできなかったし、魂の抜け殻の状態だったけれど、心だけ、心だけが前をまだ向こうとしていた。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、この二人のコレクションのテーマが違うものだったら、僕はもしかしたら、この時に諦めていたのかもしれない。
やっぱり、ファッションって良いな、好きだな、そう思える二つの素敵なコレクションだった。


127.三年目のme、一年目のfeelコース

THINKコースを三年目で続けようとしていたところ、THINKコースとDOコースの中間の位置付けとしてfeelコースが新設された。
コレクションを制作するというコースだった。
講師は、吉田さんと玉井さん。
玉井さんは、ここのがっこうに通っていた時に教わっていた先生だった。
僕は、feelコースに行きたいと思った。
ここのがっこうに通っていた当時の先生である玉井さんからの目線、同世代で亮太の親友でもある吉田さんからの目線、それぞれの目線からアドバイスを貰いたいと思った。
ポートフォリオは無かったが、feelコースに進級する事が許可された。
いざ、feelコースが始まったものの、僕は何も変わっていなかった。
前を向きたいと心では思いながら、解決の糸口が全く見つからなかった。
僕が、うつむきながら玉井さんに説明をしていると、玉井さんから怒られた。
「人の目を見て話しなさい。」
僕は、自分に自信が無さすぎて、人の目を見て話す事ができない状態だった。
吉田さんから、手が動かないならTHINKコースにまた行って来なさいと言われ、三回ほどTHINKコースに通った。
それまでの授業とは違って、授業でテーマを決めて手を動かすという内容だった。
自分なりに、コラージュしたり、絵を描いてみたが、どれも間に合わせだった。
吉田さんにも、玉井さんにも何も響かなかった。
ある日、吉田さんから言われた。
「何をして良いか分からないなら、自分を変える為の百種類の何かをやって来て。」
僕は、そのアドバイスを受けて、自分を変えるための取り組みを百個書き出す事にした。
一日中ずっと考えても、せいぜい二十個くらいしか浮かばなかった。
それに、思いつくだけではなく、百個やらないといけない。
授業は来週なので間に合わないと思った。
下手くそな絵を百枚描いて授業に行ったが、これも何のリアクションも貰えなかった。
「じゃあ、十個でいいから、真剣にやってきて。」
吉田さんからそう言われ、僕は自分のダメなところを書き出した。
欲求が生まれたらすぐそれを満たそうとして誘惑に負ける。
例えば、タバコが吸いたくなったら吸い、お腹が空いたらご飯を食べ、音楽を聴きたくなったら聴き、性欲が出たら性欲を満たし、寝たくなったら寝る。
どれも、生まれた欲求に対して、そのまま忠実に理性無しで満たしていた。
自分をコントロールできていない事が分かった。
結果を出している人は、自己管理やセルフコントロールができている。
僕は、禁煙、禁酒、禁欲、ランニング、パック、ヨガ、瞑想、甘い物を食べないなど、自分の欲求を抑え、自分を変える事にした。
他にも、マザーテレサの思考に気をつけなさいという言葉を見つけ、自分の思考を変えれば最終的に運命が変わると分かり、思考を変えるように心がけた事で、ストレスも若干はコントロールができるように成ってきた。
でも、結局は心身が健康に成ったくらいで、何もクリエイションをできずに授業に参加した。
「健康になるのは良いんだけどさ、健康になっただけじゃダメだよね。健康になってクリエイションに繋がらないと。あとは、頭おかしい事やって録画して来て。」
吉田さんからそう言われ、じゃあ何のクリエイションができるかと考えても思い浮かばず、仕事帰りに夜な夜なランニングをしていた。
上野公園でランニングをしながら、涙が出て来た。
なんで俺は今走っているのだろうか。
今日、こうやって走ったところで、来週のプレゼンは走りましたしかできない。
どうすれば良いんだ。
なんてダサい状況なんだ。
やはり、諦めるしかないのか、いや、諦められないから走っているんだろう。
そうやって、答えの無い自問自答が頭の中で延々と続きながら走っていた。
このままじゃダメだ。
その時、心の奥底から「諦めるな」という声が聞こえた。
僕はその瞬間、使ったことの無いiPhoneの作曲アプリを開き、自分の声で「諦めるな」というセリフを録音し、適当な音を付け加えてループする曲を作った。
今までの生活で何も作れなかったのだから、根本的に生活を変える必要があった。
生活を変えようと思っても、何をどう変えれば良いか分からない。
そんな事を走りながら考えていた時に、自分のルーツには新興宗教が有る事を思い出した。
キリスト教や仏教は、海外からの輸入文化であり、日本発祥の宗教では無い。
日本発祥の神道だって、日本人の最初から有った訳でも無い。
人類が誕生し、いつしかキリストやブッダや八百万の神が現れた。
それらが現れる前の人間は一体、何を信仰して、どのように信仰を表現していたのだろうか。
きっと、灯りも無いし、火も無いし、道具もない、服だって無かったはず。
寒い夜に裸に素足で、土の上で何かを祈っていたに違いないと思った。
夜になったら、明日がまた訪れますように、太陽が出て来ますようにと祈ったのかもしれない。
今日の夜が明けず、太陽という名前すら分からない時、明日が訪れないかもしれないという不安を漠然と抱いていたのかもしれない。
きっと夜は明ける。
ただ思うだけではなく、願い、祈る。
それを身体全体で表現して、見えない何かに対して、自分の身体と心で、届けようとしていたに違いないと思った。
そう思った僕は、上野公園で土を探した。
土の前に立ち、靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。
そのまま裸になれば捕まるので、半袖に短パンの姿で土を素足で踏んだ。
灯りも無い場所は無かったので、かすかな灯りだけが差し込む土の上に立ち、自分にiPhoneのカメラを向けて録画をした。
僕はそのまま、一心不乱に踊った。
リズムも無い、テーマも無い。
あるのは、イメージだけ。
宗教が無かった時、信仰の対象がなかった時の人類は、何に対してどのように祈りや願いを捧げていたのか。
きっとこうだったのではないかと思いながら、僕は二十分以上も適当に踊り続けた。
その踊りの動画を先生に見せたら笑っていながらも、良いと言われた。
形にはなっていないが、何かを表現しようとしている事が伝わったのだと思う。
何か、信仰の対象が有ると良いと玉井さんから言われ、とっさに「モードの神」と答えた。
僕は、モードとは何か、神とは何か分からなかったので、分からないそれらを信仰の対象とする事を答えた。
何かも分からない、モードの神を信仰する事が突然に始まった。


128.コロナに感染して踊れなくなる

踊る事しかできず、次に何をしようかと考えていた矢先、僕はコロナにかかった。
授業を休み、家でずっと寝ていた。
動く事もままならず、ああ、俺は踊る事しかできず、寝たきりで何もできなかった。
また自己嫌悪に包まれた。
二週間後、病み上がりのまま、また踊ろうとしたものの、体力が完全には回復しておらず、全く動けなかった。
こうして、次の授業では、踊れませんでしたと言うのか。
それじゃダメだ。
どうすれば良いんだと考えた時に、iPhoneで何かクリエイションをしようと思った。
僕は、上野公園でランニングをしている時に、諦めるなという言葉を録音して、適当な音を弾いてループする曲とも言えない曲を作った事から、その作業を発展させようと考えた。
音楽もクリエイションになるかもしれないと思った。
音楽制作のアプリを何個もダウンロードし、片っ端から触ってみた。
どれもしっくり来ない中、日本のシンセサイザーメイカーであるKORG(コルグ)のアプリだけは違った。
作曲の経験が一切無いのに、不思議とメロディーがどんどん湧いて来た。
それは、僕がずっと聴いていたエイフェックスツインのサウンドに似ていたからだ。
似ているというよりも、エイフェックスツインはKORGの機材を好んで使用しているので、アプリでも近い音が出せた。
僕は、聴きなれたKORGのサウンドが出せるアプリで作曲を始めた。
作曲の経験も無く、ひたすらに曲を感覚的に作っては保存をした。
Bluetoothのキーボードを買って、もっと複雑なサウンド作りにもチャレンジした。
授業では、即興で作曲するプレゼンを行い、一部で微かな笑いが起きた。
笑わせたかった訳では無いし、生徒の大半が冷めた目でノーリアクションだったものの、一部の人は少しだけクスクスと笑っていた。
どうしようもない中で、悪あがきにも近いプレゼンを行なっていた。


129.地元の岩手に夜行バスで帰る

十年以上、地元の岩手には帰っていなかった。
ファッションデザイナーに成るまで、地元に帰らないと高校の時に決めていたからだ。
自分のルーツを掘り下げる中で、どうしたって地元の話が出てくる。
記憶を頭の中で辿るだけではなく、地元に帰る事で何か気づきが得られるのではないかと思った。
そう思った瞬間、すぐに夜行バスのチケットを買い、数日後に岩手へ帰る事にした。
地元の友人の誰にも連絡せずに岩手に帰った。
そもそも、声をかける友人は親友の健人しかいないし、今回は自分と向き合う事が目的なので、誰にも会わない事にした。
盛岡の中心地に行くと、全く活気が無かった。
服屋だった店がほとんど閉店していて、代わりに居酒屋ばかりが立ち並んでいた。
僕が中学の時は、古着屋が何軒も立ち並び、下北沢に近い雰囲気はあった。
それに、ストリートブランドのセレクトショップや、クロムハーツの正規代理店、大型古着店のハンジローだってあった。
そのどれもが、僕が見た景色とは様変わりし、潰れて無くなっていたり、並ぶ服もショボくて、服屋にも活気が無かった。
中学の時に僕が熱中していたファッションは、盛岡にはもう無く、昔の話だった。
道を歩いている中高生も、ファッションに興味が無さそうな人ばかりだった。
時の流れを感じた。
そして、僕が生まれ育った山奥の団地に行く事にした。
バスではなく、自転車をレンタルして行った。
立ち漕ぎをしたりしながら、一時間近くは自転車を漕いだ。
団地や民家が何軒もあるのに、十九時には誰一人として歩いていなかった。
みんな家にいるのだろう。
その光景は、生きているのに、死んでいるか、冬眠しているように見えた。
ファッション雑誌を買っていたコンビニも潰れていた。
スーパーとパチンコ屋しか残っていなかった。
ほとんど昔のままだった。
まるで、枯れているのに、そのまま活けられている花や、濡れた落ち葉みたいだった。
何十年も変わらない景色。
中学の時、父に包丁で刺し殺されていたり、父を刺し殺していたら、僕の人生はこの地で終わっていたのかもしれない。
死んだら、楽しみも、悲しみも、怒りも、苦しみも何も得られない。
夢を追う事もできない。
この田舎の団地には、ファッションはおろか、何も無かった。
何も無い所で生まれ育ったからこそ、何かが有るところへ行きたくなったのだろう。
モードの神とは何なのかと考える前に、そもそも自分は何者なのだろうかと改めて考えた。
僕は田舎の団地で生まれ育った。
宗教は、キリスト教でも仏教でもない、宗教二世。
信じる者は救われ、信じない者は救われない。
信じたから救われた。
信じなかったから救われなかった。
原因と結果、因果関係は、考え方や信仰によっていくらでもこじつけられる。
神や仏や何かを信仰する前に、まずは自分を信じてあげたいと思った。
自己肯定感なんて皆無、自己嫌悪や劣等感にまみれていて、心の拠り所も無かった。
でも、心の拠り所なんて要らない。
自分さえ、自分が、自分を信じてあげる事ができれば、それで良いと思った。
お前には無理だ、できない。
心のどこかでいつもこの声が聞こえる。
きっと、周りの人もそう思っているのだろう。
そういう、色んな声が聞こえてきても、自分を信じたい。
でも、まだ信じられない。
どうにかして自分を変えたいのに、変わらない。
その感情をそのままストレートに歌詞に書く事にした。
中学の時、不良がギャング系ファッションを着ていてヒップホップが嫌いだった。
でも、近年のラッパーは、KOHHやZORNのように、誰を傷つける訳でもなく、ありのままの等身大の自分の心を歌う人が出てきた。
僕は、彼らのリリックを参考に、苦手なラップにチャレンジする事にした。
ビートを作り、歌詞をみながらiPhoneに歌を吹き込んだ。
PVも作ろうと思い、炎の前で歌ってる動画を撮りたかった。
でも、街中でやったら火事になるからできる訳がない。
キャンプ場の焚き火も考えたが、キャンプファイヤーも違う。
3Dとか、動画の合成でやってみようと考えた。
一つの炎を作って燃やす動画素材を作るのに三時間もかかった。
これじゃ、火を作るだけで一週間が終わってしまうからダメだ。
上野や表参道に行き、iPhoneで建物を3Dスキャンした。
その建物をあらゆる角度から観れる動画を作成した。
ラップと3D動画を吉田さんに見せたら良いと言われた。
これは良いのか、服ではなくても、何かを表現しようという気持ちとその具現化が大切なのだと気がついた。

130.3DCGにチャレンジ
僕は、3Dスキャンだけではなく、3DCGにもチャレンジしようと考えた。
そのために中古のゲーミングPCも買った。
いざ始めると、勉強する事が山ほどあった。
クリエイションをする以前に、各種ソフトの仕組みや使い方を膨大に勉強する必要があった。
毎日、YouTubeでチュートリアル動画を観ていた。
このままじゃ、何もクリエイションができないと焦りを感じていた。
二ヶ月ほど停滞した時に、吉田さんから言われた。
「本質を見失っているよね」
的確だった。
いつも見切り発車で、思慮が無いまま、きっとこれかもしれないと取り組んで停滞していた。
3DCGを諦める事にした。

131.最終プレゼンの二ヶ月前
あっという間に最終プレゼンのニヶ月前になった。
「モードの神って言いながら全然モードじゃない。ハイエンドな物に沢山触れた方が良い。クラシックを聴きながら、ゴダールの映画を流して、ピカソの画集を観るとか。」
吉田さんからのアドバイスを基に、自分が聴きたい音楽を封印して、一日中クラシックを聴きながらアートを観ていた。
モードと言えばLVMHという事で、小さいモエシャンドンを買って、一人で飲んだりもした。
クラシックの作曲家は、名前を聞いた事があるくらいで、全く曲は知らなかった。
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ドビュッシーなど、あらゆるクラシックを聴いた。
ただ聴くだけでは何も分からなかった。
だからクラシックは教養なのだと気がついた。
クラシックの書籍を図書館で借りたり、YouTubeの解説動画を観ながら、クラシックの勉強をした。
モードの神だから、神へ曲を捧げたバッハが近いのかもしれない。
本当はドビュッシーやベートーヴェンが好きだが、バッハを聴いていた。
目を閉じながら、バッハが神に捧げた気持ちを想像した。
二重奏。
二つの音色が複雑に混ざり合いながら、天に向かっていくイメージが脳裏に浮かんだ。
見えない何かに向かっていく、自分に向けてでは無く、天に向かっているイメージだった。
そうこうしながら、最終プレゼンの一か月前になった。
プランは何もなく、オペラみたいな事をやろうと思っている事を吉田さんに伝えた。
「置きに行かないで。伊藤くんの一ヶ月は他の人の三ヶ月だから。繊細な作品を作ってるなら別だけど、そうじゃないじゃん。最終的にジョンガリアーノみたいに、モードの天才だと思い込める事を目標にした方が良い。」
僕の一ヶ月は、みんなの三ヵ月。
なぜそう言われたのか分からなかったし、僕の一ヶ月は一ヶ月でしかない。
ジョンガリアーノみたいな天才に成り切る事が、自分にできるのだろうか。
プランを練り直す事にした。


132.feelコース最終プレゼン

相変わらず、クラシックばかり聴いていた。
何もプランは無かった。
コースの目標である十ルックのアイディアも無いし、何も作る事ができなかった。
間に合わせの十ルックの無意味さは、文化服装の卒業コレクションの時に自覚をしていた。
でも、何かをしないといけない。
けれど、何をすれば良いか全く分からなかった。
考え抜いた結果、最終プレゼンなのだから、今までやった事を応用させようと思った。
例えば、音楽。
音楽をベースに何かをやろうとぼんやり頭に浮かんだ。
そして、これはモードかもしれないと思えるような、十ルックのプレゼンもしてみたいと思った。
その時に、玉井さんからのアドバイスを思い出した。
僕だけ、いつもお笑い芸人の名前を出してアドバイスをしてくれた。
オリラジ、狩野英孝、出川哲朗。
みんな、ダウンタウンには成れないが、自分の道を切り拓いている。
そういう、自分だけのポジションを見つけるようにというアドバイスだった。
ふざけて笑わせるのではなく、ユーモアと思える要素を取り入れたいと思った。
色んなお笑い芸人をリサーチしていたところ、ロバート秋山のヨウコフチガミが目に留まった。
憑依芸だった。
ジョンガリアーノも、ヨウコフチガミも、別の何者かに成り切ってそれを体現している点は共通しているように見えた。
僕がモードの神だと思っているクリスチャンディオールを自分に憑依させる事にした。
ディオールは白衣を着ていたので、白衣を買った。
他には、霜降り明星の粗品がフリップ芸を解説している動画を見つけた。
この瞬間、アイディアが定まった。
フリップ芸のフリップをTシャツに置き換える。
一人のモデルさんが、十枚のTシャツを着替えるというアイディアだ。
フリップ芸は喋りながらめくるが、Tシャツを脱いで着るのには時間がかかる。
これを無音でただ見ているだけでは、着替えている時に見ている側が冷めると思った。
そこで、マルジェラのフラットガーメント期のプレゼンを思い出した。
白衣を着た僕が、次のルックになるTシャツを見せておき、音楽を流しながらモデルさんが着替える事で、間を埋めようと思った。
次は肝心のデザインだった。
Tシャツと音楽をどうやってリンクさせるか。
そこで思い出したのがヴィンテージTシャツだった。
ロックやヒップホップなど、八十年代や九十年代に流行ったアーティストのTシャツが、ヴィンテージTシャツとして高値で取引されていた。
僕は、ヒップホップのサンプリングの手法を応用して、バンドTのデザインを基に、自分の気持ちをグラフィックに落とし込む事にした。
一枚のTシャツに一曲を選ぶ、それをDJのように繋げれば、鑑賞する側が飽きる事なく観る事ができるのではないかと考えた。
このアイディアがまとまった時は最終プレゼンの一週間前だった。
グラフィックにこだわる時間もない。
そこで思い出したのは、ピカソの一筆書きだった。
フリップ芸は、遠くから見ても分かるように、太いペンで描かれていると粗品が説明をしていた。
だから、僕も遠くから分かるように、そして可能な限りシンプルに、ネタ元も分かるレベルの一筆書きでグラフィックを作成した。
フリップ芸は白い紙なので、Tシャツも全て白に統一する事にした。
プレゼン数日前になり、ゲスト講師が発表された。
ミハラヤスヒロさんだった。
僕が一年前に謝った、中川原が働いているブランドのデザイナーさんだ。
ミハラさんに見せる事は、何かの運命かもしれないと思い、ここで何かの結果を出したいと願った。
自信は全く無かったけれど、今さら後戻りできない事も分かっていた。
プレゼンの二日前にモデルさんとカメラマンに依頼し、プレゼンに臨んだ。
プレゼンが始まると、ミハラさんが笑っていた。
笑わせようと思っていた訳では無かった。
僕は何か訳の分からない何者かに成り切ってプレゼンをした。
プレゼンを終えると、吉田さんも玉井さんもミハラさんも笑顔だった。
他の生徒は無表情だったが。
プレゼンの順位は三位。
上位に入れた事は嬉しかったが、これもTHINKコースの中間プレゼン二位と同じように、飛び道具で得た結果だった。
それに一位には成れていない。
僕は、純粋に自分と向き合って表現しなければいけないのに、まだその段階に達していなかった。


133.四年目のme、二年目のfeelコース

Tシャツのプレゼンで三位に成った。
「伊藤さん、これからTシャツを作っていくんですか?」
僕は、コレクションブランドのデザイナーに成りたいのに、Tシャツをメインでやって行くのだろうと他の生徒から思われていた。
何かで評価されて、それを自分のアイデンティティだと思って続ける事は大切な事だ。
決して、Tシャツをバカにしている訳では無い。
けれど、僕が目指しているものは、Tシャツのグラフィックデザインではなくモードだ。
近年、モードのコレクションのフロントローではラッパーやKPOPアイドルばかり目にする。
ロックスターではなく、ラッパーやアイドル。
嫌いだったヒップホップと今向き合えば、モードの神のヒントが得られるのではと考えた。
アベイシングエイプのNIGO®︎の手法としてサンプリングがあった。
NIGO®︎は服作りを学んでいない為、アーティストが着用している服をそっくり作るなど、ヒップホップのサンプリングの考え方を基に、自分が着たい服を作っていると語っていた事を思い出した。
サンプリングの本質を理解するため、ヒップホップの歴史を勉強したり、機材とソフトを買って、ビート作りに挑戦もした。
新たなラップとも呼べないラップを作っては失敗をした。
ラップではなく、改めてモードの神について考える事にした。
ムッシュとマドモワゼルという、架空のモードの神が自分に降臨し、心が通じた時だけ話ができるという設定を思いついた。
元ネタはディオールとシャネルだった。
ディオールもシャネルも、ゲン担ぎのために占いやタロットだとか、幸運の花を好んでいたという記事を発見した。
試しにタロットをデザインしてみようと思い、一枚だけ描いて吉田さんに見せた。
「いい感じにピエロになって来たね。そろそろ自分と向き合おうか。」
僕は気がついた。
真剣に向き合わなければいけない事に対して、向き合っているようで、全く向き合えていなかった事に気づかされた。
でも、次に何をすれば良いかも分からなかった。
授業の生徒間プレゼンで、とある女性生徒の作品の説明を聞いていた時の事。
私は、自分の心がかゆい感覚を服のディテールに落とし込んで作って来ましたと言っていた。
僕は、その心がかゆい感情は、どうして生まれたのかと尋ねた。
すると、どうして生まれたとかいうストーリーは必要無いと思っていますと返答を受けた。
作品そのものに文字は無く、作品が語る訳だから、言葉で説明する必要は無いと言っていた。
クリエイションだけで語るのがデザイナーだと思っている、というような事をその子は言っていた。
たしかに、言われてみればそうだと思った。
だから、その子にはそれ以上の質問を投げなかった。
でも、僕はストーリーが気になったし、ストーリーは必要ではないかと思ったのもまた事実だった。
では、そういう僕のストーリーは説明できるのかと自問自答してみた。
マインドマップを三年くらい書き直して、なんとなく自分の記憶を理解したつもりに成ってはいたが、整理は全くできていないと思った。
そして僕は、自分の記憶をただの箇条書きやマインドマップにするのではなく、まるでその記憶の映像を見て体験しているような、臨場感のある文章で自分の記憶を紐解こうと考えた。
それが、この自伝だった。
幼少期の記憶から始め、情景を頭に浮かべては文字に書き起こした。
吉田さんから褒めてもらえた。
僕は、小説を読んだ事も無いけれど、いつも仕事で文章を作っていたので、仕事の経験をクリエイションに応用する事ができた。
でも、自伝を書く以外の何かをする事はできなかった。
文字ではなく、形に成るモノで心を表現して、心に届ける必要がある。
それは分かっているつもりだが、どうすれば良いか分からず、自伝を書くことしかできずにいた。


134.兄と二人でソニックマニアに行く

僕と兄は、ほとんど連絡を取らないし、年に一度、連絡を取るか取らないかの関係だ。
関係は悪く無いし、どちらかと言えば良い方だ。
兄は人付き合いが嫌いなタイプで、例え血が繋がっていてもそれは変わらないと言っていた。
兄は音楽の話題にしか興味がなかった。
僕が高校時代に、兄からエイフェックスツインを教わってから、今この時までエイフェックスツインを聴いているのは、決して兄に話を合わせたいからでは無かった。
きっと、DNAレベルで音楽の趣味が同じなのかもしれない。
僕と兄の関係は、母親は同じだが父は異なり、年齢も八歳離れていて、一緒に暮らした事は一度も無い。
でも、どこかで繋がっている感覚があり、二人で一つの何かに繋がっている感覚もあった。
ソニックマニアというサマソニの前夜祭を観るために幕張へ行った。
兄もソニックマニアに来ると知ってはいたが、別行動で観て回った。
ジェイムスブレイクやオウテカのライブを観て、色々と考えさせられた後、兄と集合して感想を話していた。
すると、兄が僕に突然こう言った。
「お前、ファッションは諦めろ!お前は絶対に無理だ!今までずっとコールセンターの仕事を続けてきて、それなりの生活ができる事に気付いただろ?」
いきなりの言葉に、僕は思考が止まった。
兄はミュージシャンを目指して上京したものの、音楽の仕事は諦めたと数年前に言っていた。
「誰かいるだろう。あと一歩で成功するヤツが。そういう人のサポートにお前は回れ。お前には無理だ。」
僕は返す言葉が無かった。
「今そうやって、黙っているだろ?俺はできるんだって!お前はすぐに言い返せなかっただろう?そういう事だよ!昔、俺以外に五人の友人とサマソニに行ったのは覚えてるよな?あの中の一人は病気で死んだよ。他の二人も、ミュージシャンを目指していたけど、安定した職に就くと言ってすぐに辞めて行った。他の二人は今何してるか分からない。それで、お前は何しているんだ?」
僕は、ハッとさせられた。
兄だから、優しい言葉をかけてくれると思っていたが、その逆だった。
兄も、兄の友人も何者かに成りたかった。
でも、兄は諦めた。
兄は諦める事に成る人間のマインドを分かっていたのだ。
「いや、続ける。」
僕は、ギリギリで振り絞ってそう答えた。
すると兄は、クラブ会場の後方でステージを観ながらこう言った。
「このフェスには、多くのあらゆる人間がいるよな。この中だったら、お前は誰に成りたいんだ?」
その言葉を聞いてクラブ会場を冷静に見渡してみた。
華やかなステージで演奏しながら観客を魅了しているアーティスト、音響や照明をコントロールしている人、フロア前方で純粋に音楽を楽しんでいる人、フロア中央で音楽にノリきれていない人、フロア後方で腕を組みながら観ている人、音楽そっちのけでナンパやキスをしている人、壁側で体育座りをして寝ている人、VIPエリアで涼しげに観ている人、このフロアにはいないVVIPルームにいるセレブ、入口でアテンドをしているスタッフ、フロアの外で食べ物や飲み物を販売している人、主催者。
僕は、ステージで演奏しているアーティストだけを観ながら、自分が誰に成りたいのかを自問自答していた。
自分の夢に対して向き合う姿勢について、唐突に兄から突きつけられた。
帰宅すると、兄からLINEが届いた。
「俺みたいに、表現の屍にならないように。まあ、俺は屍の出汁に成ろうとしているけど。」
兄は、ジェイムスブレイクのライブを観て、また前を向いて音楽に携わりたいと思った事を知った。
僕と兄は、お互いに前を向き始めた。

エピローグ

今も僕は何者でもない。
世の中には色んな人がいる。
何者とかにこだわらずに生きている人。
何者かに成りたいと思っている人。
何者かに成れた人。
何者かに成った気でいる人。
何者にも成れなかったと思っている人。
何者かに成る事を最初から諦めている人。
僕は、承認欲求や自己顕示欲を満たす為に何者かに成りたい訳ではない。
口だけの自分のままでは死ねないし、心の底から純粋にモードに惹かれているという理由だけだ。
僕が、社会へ届けられるメッセージとして、きっと未来は明るいと言えるような経験は無い。
今まで多くの人が、こんな僕を何度も何度も支えてくれた事で、今の僕が存在している。
それは、幸運としか言いようが無い。
だから、僕が多くの人から支えてもらえたように、今度は僕が誰かを支える側に成りたい。
今この瞬間、あらゆる苦悩や葛藤と闘いながら、精神がズタボロに成っているような人に対して、幸運が訪れるように願い、常に寄り添えるようなメッセージをクリエイションで届けたい。
それができた時に初めて、僕は何者かに成り始めたと思えるのだろう。


1~19

1.新興宗教で男女が出会う
とある新興宗教で二人の男女が出会った。
男性は女性にこう言った。
「僕と付き合ってください。僕は貴方と一緒に成れないなら、もう死ぬしかない。お願いします。」
女性は、男性に対して全く好意を持っていなかったが、この人は本当に死ぬのではないかと思い、付き合う事にした。
やがて結婚し、生まれた子供が僕だった。
今思うと、「死ぬしかない」とお願いしたのは父ではなく、まだ精子の状態だった僕が、父を介して母にお願いしたのかもしれない。
最近では、「宗教二世」という言葉で伝わるように成ったが、宗教二世という言葉が浸透する前は、どう説明すれば良いか分からずにいた。

2.神慈秀明会と岡田茂吉
とある新興宗教とは「神慈秀明会(しんじしゅうめいかい)」という名称だった。
神慈秀明会は、岡田茂吉(おかだもきち)という実在した人物の思想や哲学を、信者達が実現するために信仰活動へ励んでいた。
この世から苦しみや争いを無くし、美しい地上天国を実現するため、心と体の健康、美を求める精神が必要であると、岡田茂吉は説いた。
岡田茂吉は世界救世教(せかいきゅうせいきょう)という宗教団体の教祖だった。
世界救世教の熱心な信者の一人が、岡田茂吉の思想哲学を取り入れて新たに創設した宗教団体が神慈秀明会だった。
神慈秀明会は、既に亡くなっている岡田茂吉を教祖としながらも、実態は創設者の女性を神様のように崇めて献金をさせる不思議な団体だった。
岡田茂吉が筆で書いた「光」という一文字がある。
この「光」と書かれた紙を複製し、お守りの中に入れ、そのお守りを首から下げることで、浄化するパワーを得る事ができるらしい。
このお守りは、誰かに見せてはいけないし、絶対に汚してはいけないので、壁に掛けて保管する事が基本だった。
魂を浄化させるための儀式の一つに「浄霊(じょうれい)」がある。
お守りを首から下げた二人が、一対一で対面に正座をする。
一方の人間は目を閉じ、もう一方の人間は相手に手をかざし、目には見えない光のパワーを相手に与え、心と体の浄化を行うという儀式だ。

3.赤ちゃん
僕が赤ちゃんだった頃の記憶。
僕は、一九八八年五月に生まれた。
東北にある岩手県盛岡市の山奥の団地のアパートで、僕は生まれ育った。
お母さんとお父さん以外に、おばちゃんとおじちゃんがいた。
おばちゃんとおじちゃんが、どういう存在か、その時はよく分かっていなかった。
たまたま、同じアパートに住んでいる関係だった。
僕は四階に住んでいて、おばちゃんとおじちゃんは一階に住んでいた。
僕の苗字は伊藤、おばちゃんとおじちゃんの苗字は工藤さん。
共通しているのは、同じアパートに住んでいるという事と、名前に「藤」があるくらい。
工藤さん夫婦と僕の血は繋がっていない。
同じ建物の他の部屋に住んでいるというだけの繋がりだった。
でも、いつも工藤さん夫婦が、僕の傍にいてくれた事をよく覚えている。
母の名前は、太陽の子供と書いて陽子。
太陽が物を明るく照らす一方、その裏には必ず影ができる。
陽の当たらない、影にいるような人達を助けられるような存在に成って欲しい、という母の願いから、僕の名前は景祐(けいすけ)と名付けられた。

4.父の暴力
次に覚えているのは、幼稚園に入る前の頃。
毎日のように父が母を殴ったり蹴ったり、物を投げるなどの暴力をしていた事だ。
母の苦しそうな顔、泣き叫ぶ声を聞いていた。
僕は暴力を辞めるように父に伝えたかったが、幼稚園で言葉もうまく話せず、体も小さく、力も無いので止められなかった。
ある日、ミートハンマーで父を叩こうとしたが、すぐに取り上げられた。
父の暴力は、僕が小学二年生に成る頃まで続いた。
僕の中の大きなトラウマとして今も深い傷に成っていて、思い出そうとすると鮮明に光景や、怒鳴り声、泣き叫ぶ声、物が壊れる音が脳内で即時再生される。
布団に入って寝ようとしても、喧嘩の音が聞こえる為、音が聞こえないように布団を頭の上までかけて寝ていた。
僕は、母の嫁入り道具の化粧台の前に一人で立ちすくみ、ただ泣きながら、こみ上げる怒りと悲しみのあたり場の無さに、涙を流しながらずっと鏡に映る自分の目を睨んでいた。
父への怒りと、自分が何もできない無力さを、幼稚園の時から強い感情として抱いていた。

5.工藤さん
僕が幼稚園児だった頃。
ある日、僕が父の暴力を止める事ができず、四階から一階に降りて工藤さん夫婦に助けを求めに行き、工藤さん夫婦が父の暴力を止めてくれた。
工藤さん夫婦は、ただ同じアパートに住んでいるだけの繋がりなのに、僕たち家族に対して、いつも無償の愛を持って支えてくれていた。
工藤さん夫婦には実の息子がいるのに、僕の方が可愛いと言って、とても可愛がってくれていた。
いつからか、自分の家にいるよりも、工藤さん夫婦の家に居る事の方が長くなっていった。

6.自宅での儀式
毎晩、畳の部屋の仏壇の向かいに正座をし、線香に火を付けてからお祈りが始まる。
聖教書を読ませられていた。
見知らぬおじいさんの写真に何度かお辞儀をし、神様のごとく崇める日々だった。
何をしているか分からなかったが、何かをさせられている事だけは分かっていた。

7.歯医者で見つけたクレヨンしんちゃん
幼稚園の年長に成った頃、歯医者の順番待ちをしていた。
どれだけ待っても順番が来なくて、待ち時間が長く退屈をしていた。
積み木などの子供のおもちゃもすぐに飽きていた。
何もする事が無いまま、時間が過ぎるのを待っていた。
どれだけ待っても順番が来ないので、歯医者の院内を見回していた。
すると、同じタイトルの漫画本が沢山並んでいる事を発見した。
漫画本には「クレヨンしんちゃん」と書いてあった。
自分は色鉛筆派だと思っていたから、クレヨン派の人について書かれた漫画だと思った。
試しに読んでみると、しんちゃんという幼稚園児が、友人や大人を困らせながらも笑える内容だった。
しんちゃん本人はいたって普通に振る舞い、想像ができない言動や行動を取っていた。
気付けば、待ち時間を忘れるくらい、ずっとケタケタと声に出して大爆笑をしながら漫画を読んでいた。
その時から、クレヨンしんちゃんにどっぷりハマり、漫画とアニメを観るようになった。
当時、僕は丸顔で眉毛も太く、自分は実写版のクレヨンしんちゃんだと思い込んでいた。
実際、スーパーのレジ待ちをしている時に、見知らぬお姉さんに声をかけて、「ねえねえ、納豆にネギ入れるタイプー?」と言って、とぼけた感じで声をかけた事もあった。
他にも、車の後部座席でお尻を出して、後ろの車の運転をしている人に自分のお尻を見せて反応を見て、ウケているかどうかを確認していた。
通っていた幼稚園でもそんな調子で、常におとぼけな事をしてクラスメイトを笑わせていた。
小学生に成ってからは、笑いのバリエーションを増やし、変な動きや変顔をして、友達を笑わせたりしていた。
自分が悪ふざけをする事で、相手が笑い、それにつられて僕も笑う。
その瞬間が楽しく、快感でもあり、常に笑いを求めるように成っていた。

8.母が描いたマリオ
小学一年生の頃。
学校から出された何かの宿題が有り、本当に宿題をやったのか、親がチェックをした後に、紙に記入をして先生に提出する事に成っていた。
宿題をやったら、紙に日付とチェック済みの丸を親が書くだけのシンプルな内容だった。
その紙を母に渡したところ、母は丸を書かずに、赤い色鉛筆を手に取り始めた。
母が何をしているのか全く分からず、「それは丸を書くところだよ」と言ったが、母は聞く耳をもたずに、青い色鉛筆を手に取った。
次第に、母が何をしているか分かった。
スーパーマリオのイラストを描いていたのだ。
マリオを描ける人がいるなんて知らなかったし、母がマリオを描いたことに感動した。
学校に紙を持っていき、また家に帰って母に紙を渡した。
今日はルイージ。次の日はピーチ姫。その次の日はキノピオ。その次の日はクッパ。
そうやって、紙の項目はスーパーマリオのキャラクターで埋め尽くされていた。
つまらない紙が、一気に華やかになった。
自分も絵を描いてみたいと思うようになり、見よう見まねでイラストを模写する事を始めた。
楽しかったが、母のように上手くは描けなかった。
もっと上手く成りたいと思い、絵の練習をした。

9.一人っ子と二人の写真
ある日、違うアパートに住んでいる、友達の健人(けんと)の家に遊びに行った。
健人がお姉ちゃんと言っていて、その時に気がついた。
僕には、お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、弟も、妹もいない事に。
それを「一人っ子」と呼ぶ事も知った。
僕は母親に言った。
「僕は一人っ子なんだね」
すると母はこう言った。
「一人っ子じゃないよ」
僕はすかさずに質問を続けた。
「え?だって、僕にはお姉ちゃんもお兄ちゃんもいないよ?」
母は黙って一枚の写真を持って来て僕に見せた。
その写真には、自分と同じくらいの年齢の、幼稚園くらいの女の子と男の子の二人が映っていた。
「これ誰?」
僕が母に尋ねると、母は嬉しそうにこう言った。
「景祐くんのお姉ちゃんとお兄ちゃんだよ。」
一緒に暮らしてもいない、初めて見る二人が、僕の姉と兄だとは理解ができなかった。
僕は続けて尋ねた。
「僕に、お姉ちゃんとお兄ちゃんがいるの?どこにいるの?」
母は一言だけこう言った。
「遠くにいるよ。」
まだ理解ができなかった僕は質問を続けた。
「なんで会えないの?なんで遠くにいるの?」
母は話を終えようとしながら最後にこう言った。
「いつか会えるよ」
僕は単純に、そうなんだ、それなら良いかと思い、そこで話は終わった。
家には僕しかいないが、どこかに姉と兄がいるのだと思うようになった。
後で知った事だが、母親はバツイチで、前の旦那さんとの間に生まれた子供がこの二人だった。
僕の苗字は「伊藤」、姉と兄の苗字は「伊東」。姉も兄も僕も「イトウ」という苗字だった。

10.父の右手
お祈りの時に、父は白い手袋を両手にはめていた。
父の右手を見ると、手袋の五本の指がだらんと垂れていた。
父が手袋を取ると、父の右手だけ、幼稚園の僕よりも小さな形をしていた。
その時、僕は笑いながら父にこう言った
「赤ちゃんみたいな手だね」
父はこう答えた。
「お父さんの家は農家でね、お米を作っていたんだよ。お父さんが景祐みたいに小さい時に、お米を細かくする機械に右手を入れちゃったんだ。それで、右手の五本の指が全部無くなったんだよ。」
僕はそれを聞いて返す言葉がなかった。
父は右手の五本の指が全て無く、身体障害者の手帳を持っていた。
本当は右利きだが、右手の五本の指が無いため、左利きに成る訓練をしたそうだ。
僕が小学生に成ってからも、父は事ある毎にこう言っていた。
「お父さんはね、とても不幸な人生だと思っている。とても貧乏で本当に苦労をしたんだ。右手の指も五本無い。とても不幸な人生だ。」
父は口癖のように、眼を赤くしながらいつもそう言っていた。
当時の僕は、その話を何度も何度も聞き、正直なところ嫌気を差していた。
最近になって、宗教について調べる中で、不幸な人生だと感じる人の心の拠り所として、救いを求めて宗教に辿り着くことは、自然な事だったのかもしれないとも思うようになった。

11.ヤクルトレディーの母と託児所
僕が幼稚園から小学一年生の頃。
母はパートでヤクルトを自転車で販売するヤクルトレディーの仕事をしていた。
いつも冷蔵庫にはヤクルト製品があった。
ヤクルトの託児所があり、僕は母の仕事が終わるまで託児所に居た。
しかし、同じ託児所の子供達と馴染めず苦痛だった。
絵本を読んだり、積み木で遊ぶよりも、自宅で好きなテレビ番組を観ていたかった。
家で一人で留守番をしていたいと母に言ったが無理だと言われた。
時間が過ぎるのをただ待つだけの苦痛を初めて味わった。

12.母の家出
僕が小学二年生の頃。
母が父から殴られる日々が何年も続いていた。
ある日、父が母に怒鳴りながらこう言った。
「貴様!もう、この家から出ていけ!」
そう言われた母は本当に家出をした。
しかし、数日後には母が戻ってきて、また殴られていた。
母は家出を何度か繰り返していた。
ある日、決定的に違う時があった。
母が荷物をまとめていたのだ。
もう母は帰ってこないのではないかと思った。
僕は、四階のアパートの窓を開け、母が運転する軽自動車が見えなくなるまで、泣きながら見送った。
それ以来、母は二度と家に帰ってくることは無かった。

13.両親の離婚
それから数か月後、いきなり友達からこう聞かれた。
「けいちゃんのお母さん死んだの?」
いきなりの事に、動揺が隠せなかった。
「え?生きているよ?きっと。」
友達はこう言った。
「僕のお母さんが言っていたんだ。最近、けいちゃんのお母さんを見かけないから、死んだんじゃないかって。」
僕の家に母は居ないから、もしかしたら本当に死んだのかもしれないと思った。
心配だったが、確認する事もできず、きっと大丈夫と思ってその話を終わらせた。
後日、母から家に電話があり、「元気?」と確認の電話があった。
母が生きていると分かり、とても安心した。
その後、父が郵便ポストの表札に貼られていた母の名札を剥がし、グシャグシャに破り捨てているのを見て僕はまた泣いた。
母は家に居ないけれど、たまに母から家に電話がかかってきて会話をする事ができた。
母との電話が、当時の僕にとって唯一の癒しだった。
毎回、母から電話が来る事が嬉しかった。
母とはもう暮らせないけれど、こうして電話で会話ができるだけでも幸せだと思っていた。
両親が離婚したことを受け入れた。

14.変身した母
ある日、母から電話があり、今度ボーリングに行こうと言われた。
母がボロボロの軽自動車で迎えに来てくれた。
そこにいた母は、今までの母からは想像ができない変貌ぶりだった。
髪の毛は金髪、服はレインボーのミニのワンピースだった。
母親が一文無しで家出をし、三十五歳という年齢でお水の仕事に就いた事を聞かされた。
今までの母とは違い、とても明るく前向きな姿勢で、むしろ安心した。
今でこそ金髪は普通に見かけるが、当時に金髪だった人を田舎で見かけることはほとんどなかった。
むしろ、見たことが無かったかもしれない。
強く生きるために、見た目を変えた母。
一文無しでも、強く生きようとするマインドが、見た目にも表れていた。
ファッションの力を初めて、見せつけられた瞬間だった。

15.雪が降り積もる日
岩手は十月後半に成ると雪が降り始める。
東京のように二センチとかではない。
数十センチ積もる。
徐々にではなく、一夜で一気に降り積もる。
昨日まで晴れていて鮮やかだった景色が、翌朝に目を覚まして窓を開けると、一面が真っ白い雪景色に変化し、冬の訪れを知らせてくれた。
この一年に一度の瞬間の美しさと高揚感が、毎年の楽しみだった。
外ではソリで遊んだりしていた。

16.父とのお出かけは宗教の出張所
小学三年生の頃。
隣りアパートに住む友達の健人(けんと)は、家族で週末にお出かけをしていた。
釣りやキャンプ、バーベキューに海など、どこに行くんだとか、行ったとかいう話を聞いていた。
一方の僕は、週末に行くところは一つしかなかった。
というか、連れて行かされていた。
週末は、神慈秀明会の出張所と呼ばれる施設に父と二人で車で行き、暗い表情の大人や子供と一緒に、訳の分からない儀式に参加していた。
子供向けの勉強会が毎回行われており、教義を声に出して読むようにと、知らない大人から命令されていた。
その勉強会の中で、いつもの調子でふざけていた僕は、開祖の事をからかう発言をした。
その瞬間、この大人に成るまでも受けたことの無いくらいの威力で、思い切り知らない大人の男性から頭を殴られた。
その男性の目は、鋭く尖った目つきで、眼球が真っ赤に成り、読んで字の如く鬼の形相だった。
あの目は忘れない。
その後、父は男性に謝っていた。
何で殴られた方が謝られなくて、こちらが謝っているのか、全く理解ができなかった。
宗教なんて絶対に信じないと改めて思った。
信仰をすれば救われるような事を父は言っておきながら、父は母を殴り、母や僕を不幸にさせている。
父は自分が救われない事の原因を分かっていなかった。
信者の中で幸せそうな人間なんて誰一人としていなかった。

17.春奈ちゃんとGLAY
小学四年生の頃。
もともと絵を描くのが好きで、自分なりにイラストを描いていた。
ある日、クラスメイトの春奈(はるな)ちゃんの絵を見て、あまりに上手過ぎて、自分の絵のちっぽけさに恥ずかしくなった。
僕は正直に春奈ちゃんに聞いてみた。
「どうやったらそんなに絵が上手く成れるの?」
春奈ちゃんは一枚の半透明な紙を僕に見せながら教えてくれた。
「このトレーシングペーパーっていう紙を、好きな絵の上に乗せて、鉛筆でなぞって描くだけだよ。」
トレーシングペーパーの存在も知らなかった僕に、春奈ちゃんは描き方を見せながら教えてくれた。
半透明の白い紙で、好きな絵の上に紙を載せて、絵のアウトラインをそのまま鉛筆でなぞる。
模写するよりも正確に、絵をそのままそっくり描けるという手法を春奈ちゃんから教わった。
その日から、僕と春奈ちゃんは一緒に、トレーシングペーパーを使って絵を描いた。
ジブリのもののけ姫のような高度な絵も、トレーシングペーパーがあればそっくりに描く事ができた。
僕と春奈ちゃんは、お互いに惹かれあい、恋愛感情に似た感情を持ち始めていた。
しかし、当時は小学四年生なので、付き合うとかも分からないし、お互いの感情を言い出せず、ただ仲の良い関係だった。
ある日、僕は春奈ちゃんの家に遊びに行くことになった。
春奈ちゃんの部屋の壁には、沢山のポスターが貼られていた。
ポスターには、見たことのない男性が四人映っていた。
スーツを着ているのに化粧をしていて、怖そうな雰囲気で、なんだか近寄りがたい感じがした。
僕は、ポスターを眺めながら春奈ちゃんに聞いた。
「この人達、誰?」
春奈ちゃんは嬉しそうにこう答えた。
「GLAY(グレイ)っていうバンドだよ。お姉ちゃんが凄い好きで、私も好きになったの。」
自分から聞いておきながら興味が無かった僕は、一言だけ返事をして話を終わらせた。
「へえ、そうなんだ。」
この時の僕は、GLAYに全く興味が湧かなかった。
むしろ、僕はこの人達の曲は絶対に聴かないだろうとも思っていた。

18.Winter, again
小学五年生の真冬。
外の気温は氷点下、大雪の夜だった。
僕は自宅で独り、こたつに入り、凍えながらテレビで放送されていた音楽番組を観ていた。
どのアーティストの曲もあまり自分にはしっくりこなくて、流し聴きをしていた。
そこでGLAYが登場した。
『春奈ちゃんが好きなバンドがこの人達か…』
そう思いながら観ていた。
GLAYの「Winter, again」という曲が流れ始めた。
イントロが流れ、なんだか少し良さそうな曲かもしれないと思った。
歌が始まり、歌詞を見ながら曲を聴いていると、段々とこの曲の世界観が僕の心境と重なり始めていった。

逢いたいから
逢えない夜には
あなたを想うほど
思い出には
二人が歩いた
足跡を残して…

気づいた時には涙が溢れ出て来て、涙がずっと止まらなかった。
この曲は、GLAYのTAKUROが交際していた彼女に向けて創ったバラード曲だった。
僕は、この曲に出てくる「あなた」が、彼女ではなく、一緒に暮らしたくても暮らせなかった母の事に重なって聴こえた。
まるで僕の心境や感情を、GLAYが代弁してくれているかのような曲だった。
その日から僕は、GLAYの熱狂的なファンになった。
小学校の掃除の時間に、掃除のほうきをマイク代わりにして、独りでGLAYを歌っていたりした。
それを見ていたクラスの女子にからかわれたりしても気にしないくらい、僕はGLAYの事ばかり考えていた。
ボーカルのTERUのように、感情が入った歌の練習を何度もした。
しかし、僕にはTERUのような歌の才能が無い事が分かった。


19.初めて自分の着る服を選ぶ

小学五年生の頃。
父から、そろそろ自分で好きな服を買ってみたらどうだと言われた。
アメリカ屋という、ジーンズメイトのような店で服を選んだ。
黄色いスウェット生地のトレーナーを買った記憶がある。
小学校のクラスメイトで、黄色い服を着ている人がいなかった、というだけの理由で、その服を買った記憶がある。

20~39

20.ソウルフードは吉野家の弁当と工藤さんの手料理
僕は父と二人暮らしの父子家庭だった。
料理を作る担当は父しかいなかった。
父は、右手が不自由で料理をした事が無かったが、父なりに頑張って料理を始めていた。
スーパーで買ってきた牛肉をフライパンの上に乗せ、油ギトギトで肉が焦げるくらいまで焼いて、そこに焼肉のタレをドバドバかけて完成。
それくらいしかできず、バリエーションも無いので、いつも油がギトギトの焦げた焼肉を食べていた。
ある日、吉野家が家の近くにできた。
近くと言っても、車で十五分くらいのところだった。
山奥にはチェーン店も無かった。
吉野家が出来て以来、父は吉野家の弁当を夜ご飯として買ってくるようになった。
吉野家の弁当だけ食べていた訳ではなかった。
僕の食生活を知っていた工藤さんが、夕食時に成ると僕を家に呼んで夕食を作ってくれた。
質素な料理だったが、気持ちが入っていてとても美味しかった。
小学生の僕のソウルフードは、『吉野家の弁当』と『工藤さんの手料理』だった。

21.ミニ・メルセデス
小学五年生の頃。
当時は携帯電話が無かったので、母からの電話はいつも自宅の固定電話にかかってきた。
電話に出ると母がこう言った。
「お母さんね、ベンツを買ったんだよ!」
ベンツという言葉を知らなかった僕は質問をした。
「ベンツって何?」
すると、母は嬉しそうにこう答えた。
「何百万円もする高級な車だよ!今度見せてあげるね!」
貧乏な僕の家から家出をした母が、お水に成って高級車を買えるようになったのかと驚いた。
後日、母が車で迎えに来た。
たしかに、前まで乗っていた、汚れたボロボロの白い軽自動車よりは綺麗な車だった。
しかし、前より少しマシになったくらいで、ただの軽自動車に見えた。
どこが高級車なのか分からなかったので、僕は母に聞いた。
「これが高級なベンツっていう車なの?」
母は、笑顔でこう答えた。
「うん!そうだよ!これがベンツ!」
改めて、僕はこの車の値段を聞いてみた。
「この車はいくらで買ったの?」
母はこう答えた。
「うーん、二十万円くらいかな!」
数百万円と聞いていたが、いきなり数字の桁が一つ下がった為、母が何を言っているのか分からなかった。
僕は、本当にこの車が高級車なのか確かめようと思い質問をした。
「二十万円の車って高級なの?」
母は運転をしながら楽しそうに言った。
「ミニメルセデース♪」
訳が分からなかった僕は、しつこく聞いた。
「どういう事?」
母は、この会話を締めくくるようにこう言った。
「この車がベンツだと思ったらベンツなの。そういう事♪」
ただの中古の軽自動車だったが、これがベンツだと思っていればベンツなのだ。
そう思っていれば、きっといつか本当にベンツに乗れる日が来る。
そう信じて生きる事が大切なのだと母は言っていた。
『ボロを着てても心は錦』ということわざのように、
『ボロの軽自動車に乗っていても心はメルセデスベンツ』のマインドだった。
母はどれだけ貧乏でツラい状況でも、絶対にそれに負けない強い気持ちでお水をやっていた。
母は三十五歳という年齢のため、周囲の二十代のお水からはオバサン呼ばわりをされ、嫌がらせも散々受け、毎晩のように飲んだ酒をトイレで吐きながら、血ヘドも吐きながら必死で生きていたという話を聞いた。

22.正月は母の実家で過ごす
小学五年生の頃。
年越しは、岩手の大船渡に在る母の実家で過ごす事が毎年の恒例だった。
父は自宅で独りで年越しをしていた。
母の弟は呉服屋を経営し、祖父と祖母は夫婦でクリーニング屋を営んでいた。
祖母の作るおはぎがとても美味しく、祖母のおはぎより美味しいおはぎに出会った事は今まで一度も無い。
ある日、祖母が僕を車に乗せ、服を買いに行こうと言った。
どこに行くんだろうと楽しみにしながら着いた先は、ファッションセンターしまむらだった。
祖母からは、好きな服を買って良いと言われたが、正直なところ欲しい服が全く無く、店内を一周して何も買わなかった。
この時すでに、僕は自分の着る服へのこだわりが芽生え始めていたのかもしれない。
そして、一緒に暮らしたことも、会った事も無かった姉と兄とも、初めて会う事ができた。
姉は十個上、兄は九個上の年齢だった。
いつか会えると言われていたが、本当に会う事ができた。
兄はロックミュージシャンを目指していて、クロムハーツのアクセサリーが欲しいと言っていた。
クロムハーツはシルバーのジュエリーブランドなんだと教えてもらった。
僕はクロムハーツを見た事も聞いた事も無かったが、ロックミュージシャンが身に着ける、シルバーのかっこいいジュエリーである事を知った。

23.父の車で流れた坂本教授のenergy flow
小学六年生の頃。
僕は、大好きなGLAYの曲をいつも聴きたかったが、今のように持ち運びができる音楽プレーヤーを持っていなかった。
音楽を聴く手段は、自宅のラジカセか、車の中でしか曲を聴くことができなかった。
父と車で移動するとき、いつもビートルズの「1(ワン)」というアルバムが流れていた。
このアルバムは、ビートルズが音楽チャートで一位を獲得した二十七曲を集めた内容だった。
バラードが好きだった僕にとって、このアルバムの大半のポップな曲がどうしても受け付けなかった。
しかし、このアルバムの中で三曲だけ好きな曲があった。
『Yesterday』
『Hey Jude』
『Let It Be』
この三曲が流れる時だけは良かったが、それ以外の二十四曲を聴いていた時は苦痛だった。
僕は父に何度も、ビートルズではなくGLAYを聴きたいと言ったが、いつも断られていた。
今振り返ると、GLAYのTAKUROはジョンレノンの影響を強く受けていた為、しっかりビートルズを聴いておくべきだったと思っている。
ある日、父の車からビートルズ以外の曲が流れてきた。
それも、歌の無い、ピアノのみの曲だった。
とても透き通った音色で心が癒された。
今まで父の流した曲の中で、一番センスの良い曲だとも思った。
僕は父に聞いた。
「これは誰の曲?」
父は運転をしながら、嬉しそうに答えた。
「坂本教授の、エナジーフローっていう曲だよ。」
教授と呼ばれる、なんだか難しそうな人が作った綺麗な曲なんだなと思った。
この時に僕は坂本龍一さんの存在を知ったものの、それから十年くらい聴く事は無かった。
二十歳に成る手前で坂本龍一さんの曲を聴くように成り、気持ちを落ち着かせたい時などに今でも聴いている。
今では無意識の内に坂本龍一さんの曲を聴いているくらい、とても好きなアーティストの一人に坂本龍一さんがいる。


24.母の車で流れた宇多田ヒカルのFirst Love

母と車で移動する時、母にGLAYを聴きたいと伝えた。
流しても良いと言われて嬉しかった。
僕は、GLAYの曲が録音されたカセットテープをポケットから取り出して、車のカセットデッキに入れて曲を流した。
父の車でGLAYを聴けなかった分、母の車で思い切りGLAYを聴ける事が嬉しかった。
ある日、いつも僕が好きな曲だけ流すのも母に悪いと思い、母が好きな曲をそのまま聴いてみようと思った。
そこで流れて来た曲が、宇多田ヒカルの「First Love」だった。
宇多田ヒカルが十五歳で作った曲だと聞いて驚いた。
僕が十五歳に成って、こんな美しい曲と詞を書いて歌えるように成れるのかと考えた時に、宇多田ヒカルの才能の凄さにとても驚いた。
宇多田ヒカル以外には、松任谷由実の「春よ、来い」や、久保田利信の『LA・LA・LA LOVE SONG』も流れていた。
母は、R&Bやソウルなどのバラードが好きだった。
僕はGLAYのバラードしか聴いていなかったので、バンド以外のバラードを知るきっかけに成った。
あれから二十年以上経った今も、宇多田ヒカルはとても素敵な曲を創っている。
最近の僕は、どうしようも無い気持ちになった時に、宇多田ヒカルの近年発表された曲を聴いて、自分の気持ちを落ち着かせる事がある。
なぜ、「First Love」よりも、近年発表された曲の方がこんなにも気持ちが落ち着くのか、その理由を考えたりしてみたが、自分でも答えが出せずにいた。
何日間か考えて、宇多田ヒカルについて調べた時にひとつの答えが出た。、「First Love」は恋人だった人との失恋ソング、近年の曲は宇多田ヒカルの亡き母を想った、母との失恋ソングだった。
「恋人だった人に会えない」という曲よりも、「お母さんにもう会えない」という曲の方が、僕の中で共感しやすい点である事に気が付いた。
その考えを踏まえた上で、改めて「First Love」を聴いてみると、この曲もやっぱり素敵な曲だし、宇多田ヒカルは天才だなと思った。
母を失う事を歌った曲よりも、恋人を失う事を歌った曲の方が、世の中のより多くの人から共感を得やすい事も自分の中で腑に落ちた。


25.滋賀県に神殿旅行

小学六年生の頃。
父が珍しく旅行に行くぞと言った。
どこに行くのかと聞いたら、滋賀県だと言った。
よく聞くと、宗教の本部が滋賀県にあり、そこに信者たちと一緒に夜行バスで向かうという内容だった。
僕は絶対に行きたくないと父に言ったが、強制的に連れて行かされる事に成った。
父は幹事役だったので、夜行バスで皆が視聴できる映画やアニメを、父と一緒にTSUTAYAでレンタルしようと言われた。
僕はTSUTAYAで、イギリスのコメディーとして有名な「ミスター・ビーン」や、ギャグ漫画の「浦安鉄筋家族(うらやすてっきんかぞく)」のビデオを借りた。
みんな絶対に笑うだろうと思って借りたが、いざ夜行バスの中でミスタービーンや浦鉄のアニメが再生されると、誰一人としてくすりとも笑っていなかった。
僕の選択がスベッただけかもしれないが、本当にこいつら、つまらない人間の集まりだなと思った
子供も洗脳されているので、話す相手もいないと思っていた。
しかし、一人だけ自分と似ている同い年の男の子がいた。
彼も洗脳されていなかったのだ。
意気投合した僕と彼は、夜行バスの中で小声で会話をしていた。
車内の電気を消す時間に成り、僕は最近買って貰ったCDプレーヤーで、一枚だけ持っていたB’zの「Ultra Soul」という曲のシングルCDを聴こうと提案した。
僕と彼はイヤホンを片耳にはめて、朝までエンドレスリピートで二人で聴いていた。
翌朝、滋賀県の神殿に到着し、儀式が始まった。
開祖の女性が現れるやいなや、千人以上の信者達が一斉に頭を下げ始めた。
開祖の女性は、遠くからでも分かるくらいに大振りのダイヤモンドのネックレスを首からぶら下げていた。
信者から巻き上げた金で買ったジュエリーであることは、小学生の僕でも分かっていた。
建物も土地も広大で壮大だが、これも全て信者から巻き上げた金で建てられた建物だという事も分かっていた。
神殿以外に、MIHO MUSIAM(ミホミュージアム)という美術館があった。
開祖の女性の名前がミホコなので、ミホミュージアムという名前だった事も非常に不快だった。
この美術館にも僕は興味が無かったが、仕方なく連れて行かされた。
古代エジプトのホルス神像や日本画など、脈略の無い美術品が多く並べられていた。
その中で唯一、僕の足が止まった美術品があった。
国宝の曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)だった。
こんなに美しい茶碗が有るのかと、ずっとそれだけを眺めていた。
黒い茶碗の中に夜の星空が浮かんでいるようで、見る角度を変えると七色に光り、まるで宇宙を眺めているような感覚だった。

曜変天目茶碗


26.灰色のTシャツと不良

中学一年生の四月。
中学生に成ると、他の小学校から入ってきた生徒もいて、新たな出会いへの期待に、僕は胸を膨らませていた。
僕の中学校の指定ジャージは青色で、上着がフルジップだった。
友達からすぐに教わった事は、フルジップのチャックを下げれば下げているほど不良、腰パンが下がっているほど不良、赤や黄色や緑など白以外のカラフルな色が付いたTシャツを着る事が不良の証拠という事だった。
例えば、ジップを下げていたり、腰パンをしたり、白以外の色付きTシャツを着ていると、先輩の不良から目を付けられるから、絶対に気を付けた方が良いと忠告を受けた。
僕は気を付けようと思い、その忠告を守る事にした。
僕と同学年の一年生には不良に成るような人間は一人もいなかった。
しかし、二年生と三年生には不良が沢山いた。
特に二年生は、不良じゃない生徒を見つける事の方が難しいくらい、ほとんどが不良だった。
二年生だけ、映画のクローズみたいな世界観だった。
体育の授業は、学校指定の白いTシャツを着て授業を受けるという校則が有った。
ある日の朝、僕は自宅で学校に行く支度をしていた。
今日は体育の授業が有るので、白いTシャツを用意しようとしたが見つからなかった。
僕は焦りながら家中を探し回ったところ、自宅の洗濯機に白いTシャツが入ったまま干されていなかった事を発見した。
僕の父は糖尿病を患っており、仕事以外の時はいつも体調が悪いと言いながら、自宅で寝ていた。
母も居ないので、ろくに家事もせず、食器も汚れて積まれたまま、洗濯物も洗濯機を回したまま干さずに、服が臭くなる状態が当たり前だった。
濡れた臭い白いTシャツを洗濯機から取り出して着ようかとも思った。
しかし、さすがにそれを着て体育の授業を受ける事はできないと思い、僕の持っているTシャツの中で、白に限りなく近い淡い灰色のTシャツを着て体育の授業を受ける事にした。
体育の授業で先生に怒られるかもしれないと思い、とても不安なまま学校に行った。
体育の授業を外の校庭で受けたが、体育の先生からは何も言われず、どうにかこの日を乗り越える事ができて安心した。
数日後、友人から突然、こう告げられた。
「けいちゃん、二年の先輩達から、伊藤が調子に乗っているって、目を付けられているらしいよ。」
僕は何の事か分からず、友人に聞いた。
「え?何も調子に乗るような事していないよ?ジップを下げたり、腰パンもしていないし、色Tも着ていないよ。」
すると友人はこう教えてくれた。
「けいちゃんが、体育の授業で色Tを着ていたって話で、二年の先輩たちがみんな怒っているらしいよ。」
僕は、淡い灰色のTシャツを色Tとは思っていなかったが、二年生の不良達からすると完全な色Tだったらしい。
白以外は色。
そう言われたらたしかにそうだが、僕は調子に乗ろうとして灰色のTシャツを着た訳ではなかった。
そんな事情があろうとなかろうと、中学二年の不良達には話が通じるはずが無かった。
その日から、僕の地獄の中学生活が始まった。
教室は、一年生が一階、二年生は二階、三年生は三階にあった。
僕が一階の一年生の教室から廊下に出ると、二階にいるはずの二年生の不良の五人が、うんこ座りで廊下にいた。
五人全員が僕にガンを飛ばしながら、しつこく舌打ちをしてきた。
『こいつら、俺にガン飛ばして舌打ちするためにわざわざ一階で待っていたのか。暇な奴らだな。』
心の中でそう思い、とても腹が立った。
しかし、不良に喧嘩で勝てる訳もなく、仮に喧嘩をしようものなら、僕一人で二年生の不良を数十人も相手にする事に成る。
もし僕が、小栗旬の演じるクローズの主人公である源氏なら勝てたに違いない。
僕は喧嘩をした事もなく、したとしても勝てる自信も無かったので、ひたすらにビビっているフリをするしかなかった。
内心、かなりムカついていた。
一対一で絡んできた不良は一人もいなくて、いつも集団でたむろしたり、つるんでいたり、独りでは行動できない集まりだった。
ある日、僕が廊下を歩いていると、目の前に二年生の不良が十人くらいいた。
不良達は僕の通れる隙間を作らずに廊下の道を塞いできた。
僕が通ろうとすると、絶対に誰かにぶつかる構図だった。
試しにこれを通ったらどうなるんだろうかと思い、そのまま歩いてったら案の定、不良に肩がぶつかった。
「おぃ、テメェコラ!なに肩ぶつけてんだ?あ?調子こいてんじゃねぇぞコラ!なめてんのか?」
肩が絶対にぶつかる構図を向こうからセッティングしておきながら、僕が肩をぶつけに行ったストーリーで絡まれる事も普通だった。
「すみません」
そう僕が言って、ビビっているフリをすると、不良たちは更にヒートアップした。
不良は僕にガンを飛ばして睨みながら胸ぐらをつかんできたり、耳元で何度も舌打ちをしてきた。
僕はバレーボール部だったので、体育館で部活をしていた。
不良達は、僕の部活動を妨害するために、わざわざ外の部活であるサッカー部やハンドボール部などの不良も含め、十数人の不良が体育館に集まってきた。
不良たちは大声で怒鳴りながら僕に向かって罵声を浴びせてきたり、壁を何度も叩いたり、舌打ちをしてきたり、僕の部活動を常に妨害してきた。
こいつら、マジで許さねえと思いながら、僕は何も抵抗できずにいた。
調子に乗っている奴らから、調子に乗ってんじゃねーぞと毎日のように言われ、理不尽さから常に苛立つようになっていた。
家では父がほぼ寝たきり、学校では理不尽に不良達に絡まれる日々。
僕は面白くない事があるとすぐにキレて、教室の机や椅子や壁を蹴ったり、クラスメイトに怒鳴ったりするようになった。
僕は不良ではなかったが、キレると何をするか分からない、問題児の一人として扱われていた。


27.ものまねで少しだけ救われる

同学年の一年生で、生徒会の一学年長に選ばれた男の子がいた。
彼は滑舌が悪く、話し方には強い癖があった。
彼が全校集会でスピーチをすると、二年生や三年生の先輩達が笑いながら聞いていた。
ある日、僕がたまたま三年生の先輩と話している時、彼の癖のある喋り方を真似してみたところ、想像していなかったくらいにとてもウケてしまった。
その日以来、僕のものまねを一度は見てみたいと、三年生の先輩達の中で口コミが広がり、僕は毎日のように彼のものまねを三年生に披露して笑わせる事をしていた。
それがきっかけで、三年生の先輩達から可愛がられるようになり、三年生が僕を守ってくれた事で、二年生の不良達から僕に対する嫌がらせが少しずつ減っていった。
彼をネタにしたことは良くない事だったが、ものまねをすることで僕の現状を少しだけ良くする事ができた。
しかし、それも長くは続かなかった。
翌年の三月に三年生が中学を卒業をすると、二年生だった不良達は四月に三年生に進級した。
今まで僕をかばってくれた三年生の先輩達がいなくなり、不良達は今まで以上にエスカレートして僕に絡んで来るようになった。
ある日、不良リーダーに呼び出され、僕と不良リーダーの二人で、男子トイレに連れていかされた。
男子トイレに入ると、不良リーダーからいきなり不意打ちで、僕のみぞおちを全力で殴られ、そのままトイレの床に倒れる事もあった。
自分で言うのもおかしな話だが、こんな状況が二年間も続いていたら、普通は保健室登校とか、引きこもりとか、不登校とか、転校するとか、最悪の場合は自殺するとか、そういう選択を取る人だっているかもしれない。
でも僕は、全く気にしていなかった。
ボコボコにされた訳でもなく、単に嫌がらせを受けていただけまだマシだと思っていた。
そんな事を気にするより、いかにして周りの友人達を笑わせるかという事ばかり考えていて、笑わせる事に一生懸命だった。
どうせ不良に殴られるのであれば、笑い話のネタに成れば良いのに、笑えない内容だから、ただの殴られ損だと思っていた。
僕は、苛立っている時もあれば、ヘラヘラしている時もあり、どういう精神状態か分からない変な中学生だった。
部活や遊びばかりで勉強もろくにせず、寝ているか、友達と騒いで話しているような落ちこぼれだった。


28.不良とギャング系ファッション

中学二年生の頃。
当時はヒップホップの音楽とファッションが日本中で流行していた。
音楽のジャンルとして、日本語ヒップホップが浸透し始めていた事も影響していた。
キングギドラ、ドラゴンアッシュ、キックザカンクルー、リップスライムなど、日本語のヒップホップがオリコンチャートに入り始めていた。
僕は、GLAYをきっかけにラルクアンシエルも好きに成り、ヴィジュアル系のエックス、ルナシー、清春などが好きだった為、日本語ヒップホップには全く興味が無かった。
むしろ、ヒップホップが嫌いだった。
嫌いな理由はいくつかあった。
僕は早口が苦手で記憶力も悪く、ラップの長い歌詞を覚える事ができないので、カラオケでラップが歌えなかった。
そして何より、先輩の不良達がギャング系のヒップホップファッションを身に着けていた事が大きく影響していた。
代表的なブランドとして、カールカナイ、フブ、ロカウェア、ショーンジョン、エコーなどを不良達は着ていた。
当時のストリートファッション雑誌の後半のページには、ギャング系ブランドのパチモン(偽物)の通販カタログが何ページも載っていた。
安っぽくて、チンピラが好むような服がズラリと並んでいて、通販ページを見るだけでも吐き気がした。
日本語ヒップホップの曲には、僕が好きな歌唱力を必要とするバラード調の感情的な歌は一切無く、なんとなく同じテンションで、鼻から声を出して歌うような曲しかなく、全く感情が動かなかった。
ドラゴンアッシュは、バンドの形態を取っていたため、ヒップホップ枠ではなく、バンド枠として好んで聴いていた。
一方、キングギドラはとにかく嫌いだった。
ヒップホップのスラング用語で「ディス」という言葉がある。
このディスは、相手を歌詞で批判し、相手より自分の方が優位である事を表現する手法だった。
日本人同士で「ディス」をする事を、「ディスる」と呼ぶ。
キングギドラは、若手のドラゴンアッシュやキックザカンクルーなどを『公開処刑』という名の曲でディスり、日本語ヒップホップの勢いをこの一曲で止めてしまった。
キングギドラは、僕にとって不良達と同じように、無意味なディスをしているという点で一緒だった。


29.髪をワックスで立たせ、眉毛を整える

僕が所属しているバレーボール部にいた村上先輩のお母さんは、床屋の理容師の仕事をしていた。
ある日、バレーボール部の一部のメンバーで集まり、村上先輩のお母さんに髪を切ってもらう事に成った。
「伊藤くん、よろしくね。髪型は、どんな風にしたいのかな?」
村上先輩のお母さんからそう聞かれた僕は、とっさにこう答えた。
「か、かっこよくしてください!」
村上先輩のお母さんはニッコリと笑ってうなずきながら続けて言った。
「うん、まかせて。あと、眉毛はどうする?いじらない方がいいかな?」
そう聞かれた僕は、太かった自分の眉毛にコンプレックスがあった事を思い出した。
小学生の時に友人たちと雪合戦をしていて、眉毛に雪が乗り、女子にからかわれた事があった。
それがショックで眉毛のいじり方も分からないまま、眉毛を切ったり剃って失敗した過去があった。
村上先輩のお母さんからの質問に、少し間が空いてからこう答えた。
「眉毛も、おまかせでかっこよくしてください!」
村上先輩のお母さんは、僕の髪をスキバサミを使ってジョキジョキと切り始めた。
スキバサミを使って切ることで、髪が軽くなり、ワックスを使って立たせやすくできるし、印象も爽やかに成る事を教えてくれた。
眉毛も細くし過ぎるとダサいので、きちんと角度や目とのバランスを考えて整える事が大切だと教えてくれた。
髪と眉毛で自分の印象がガラリと変わり、その翌日から少しだけ女子からモテるようになった。
服だけでなく自分の顔の印象も意識し始めた。

30.自分のストリートファッションを模索し始める
せっかく、村上先輩のお母さんに髪を切ってもらい、ワックスの付け方まで教わったのに、中学校では髪にワックスを付けていくことができなかった。
なぜなら、先生に怒られるからではなく、お察しの通り、不良達に絡まれるからだ。
毎日のように、不良に髪を思い切り掴まれ、ワックスをつけて調子に乗っている不良からこう問いただされていた。
「おめぇ、ワックスつけてねぇだろうな?調子こいたらどうなっか分かってんだろうな?あ?なめんじゃねぇぞコラ!」
僕はワックスをつけていなかったし、ワックスをつけている不良にいちいちチェックされる日々が非常に不快だった。
ムカついたので、試しにマット系ワックスというサラッとしたタイプのワックスを付けて学校に行ってみた。
いつものように不良に髪を掴まれ、ワックスのチェックをされたが、そのままワックスをつけていないとみなされチェックをすり抜けた。
僕はそうやって、不良達が分からないような、高度なアイテムやテクニックを研究して、不良のチェックをすり抜ける方法を模索していた。
とはいえ、思う存分にお洒落をしたいが、学校ではお洒落ができなかった。
学校の外に出れば、自由にファッションが楽しめるので、外でも不良の目に留まらないように、いかにファッションを楽しむかを考えるようになった。
そして、不良達が着ているようなギャング系ファッションは絶対に着ないとも決めた。
当時はストリートファッション全盛期で、裏原ブーム真っただ中だった。
ストリートファッションは、ヒップホップファッションが起源のため、どうしてもヒップホップの要素を取り入れる必要があった。
SNSはおろか、インターネットも無い時代だったので、情報源は雑誌しかなかった。
田舎の山奥にはコンビニも一軒しか無く、いつも不良が漫画の週刊誌を立ち読みをしているので、不良がいないタイミングを見計らって欲しい雑誌を買っていた。
色んな雑誌を読むことで、ストリートファッションと言っても、似ているようで似ていない、色んなジャンルのブランドが有ることを知った。
その中でも、イケているブランドが有る事も知った。
アベイシングエイプ、アンダーカバー、ナンバーナインなど、ストリートファッションでも洗練されたデザインの服に強く惹かれた。
しかし、団地暮らしの僕の家は低収入で、欲しい服を買うお金は無かった。
それに、仮にお金があったとしても、岩手に本物のアベイシングエイプは売っていなかったし、売っていたとしてもパチモン(偽物)しかなかった。
どうしても欲しいのであれば、隣の宮城県仙台市までバスで往復八千円を払って買う必要があったが、そんなお金も行動力も無かった。
仕方なく、雑誌の通販で、ギャング系ファッション以外の、ストリートファッションのパチモンの服を数千円で買ったりしていた。


31.初めて父に買って貰った高い服

僕は、とにかくお洒落なパーカーが欲しかった。
盛岡の中心地には、ストリートブランドだけを取り扱うセレクトショップのビルがあった。
どうしても欲しいパーカーがあり、それが三万円する事を父に伝えた。
僕は、何度も何度も父を説得をして、父がようやく買ってくれると言った。
後日、父と一緒に店に行き、僕がこのパーカーが欲しいと父に伝えたところ、父はこう言った。
「お前な、こんなペラペラのパーカーで岩手の冬を過ごせる訳ないだろう。もっと防寒に成る服を選びなさい。」
欲しかったパーカー以外の服を買う選択肢が無かった僕は、父への説得を試みたが、財布を持つ父が一向に首を縦に振らないため、仕方なく言われるがまま他の服を選び始めた。
しかし、パーカーより防寒に成る服は六万円以上もして、当初の三万円の予算を超えるため、何を選んで良いか分からなかった。
表地が黒で、裏地がオレンジのリバーシブルの、厚手のブルゾンが目に留まった。
裏地がオレンジという点が嫌だったが、これなら着たいと思えるし、防寒にも成るだろうと思い、父にこれ以外に欲しい服が見当たらないと伝えた。
すると、今まで金を出さなかった父が、中学二年の僕に六万円のブルゾンを買ってくれた。
このブルゾンは父の言う通り、岩手の氷点下の寒さにも耐えられる服だった。
ほぼ毎日、僕はこのブルゾンをベースに、他の服と重ね着をして、自分なりの冬のファッションを楽しんでいた。
単に見た目のカッコよさだけではなく、生活環境に合ったアイテムを選ぶ事の大切さを学んだ。
父との思い出の品は、この服しかない。
この服だけはなぜか捨てられず、着る事は無いが今も持っている。


32.おじちゃんの死

工藤さんのおじちゃんは持病を患っていて、いつも複数の薬をまとめて一度に二十粒くらい飲んでいた。
ある日、おばちゃんから僕の携帯電話に電話がかかってきた。
「けいちゃん。おじちゃんが死んだよ。一階にいるから、おじちゃんに会いに来て。」
突然の知らせを僕は受け入れられなかった。
おじちゃんが入院している事を知っていたが、まさか死ぬなんて。
なんで、おじちゃんの死に目に会わせてくれなかったのかと思いながら、泣きながら四階の自宅の扉を開け、階段を駆け下りて一階の工藤さんの家に入った。
居間には布団が敷いてあり、白い布がかけられていた。
おばちゃんは白い布をさっと取り、おじちゃんの顔を僕に見せながら、こう言った。
「おじちゃん、死んだよ。」
僕は泣きながら、おじちゃんに触れた。
おじちゃんは少し冷たいけれど暖かくて、まだ生きていると思った。
僕は、おばちゃんに泣きながら問いかけた。
「おじちゃん、まだ暖かいよ?生きているんじゃないの?」
おばちゃんは小さな声で言った。
「おじちゃんは死んだんだよ。ねえ、お父さん。けいちゃんが会いに来てくれたよ。よかったねえ。」
もうおじちゃんは生き返らないんだと自分に言い聞かせて、僕はずっと泣いていた。
僕は自宅に帰り、母に電話をして、おじちゃんが亡くなった事を報告した。
翌日、団地にある集会所でおじちゃんの葬式が行われ、僕は人生で初めて葬式に参加した。
葬式をしているのに、まだおじちゃんの死を受け入れられなかった。
後日、母と一緒に火葬場にも参加した。
おじちゃんが火葬され、おじちゃんの骨を骨壺に入れるのだと聞いた。
肉体が焼かれ、骨だけが残ったそのおじちゃんの骨は、ピンク色だった。
骨は白だと思っていたが、ピンクであることに驚いた。
薬の副作用で、骨の色が変色していたのかもしれないと周囲の大人が言っていた。
おじちゃんの最後はピンク色だったのかと、人の骨は焼かないと何色か分からない、体内は自分で見る事はできないのだと知った。
僕や母を支えてくれたおじちゃんに、何の恩返しもできず、ありがとうと感謝の気持ちを伝える事すらできなかった。
後から聞いた話だが、おじちゃんが死ぬ間際、とても苦しんでいて、その様子を僕に見せる事はできないと、おばちゃんがそう思ったと聞いた。


33.夜中に一人で自殺の名所へ行く

中学二年生の頃。
僕と父の関係は日々悪化していった。
父は進学塾の英語の教師で、職場である隣りの村まで車で通勤していた。
なぜか分からないが、僕も一緒に車で連れて行かれ、授業を受ける訳でもなく、一人でゲームをしながら、父の仕事が終わるまで待っていた。
父の仕事が終わり、父と僕は車に乗った。
父が車のエンジンをかけた時、言い合いの喧嘩が始まった。
喧嘩の理由は覚えていないが、どちらもヒートアップしていた。
父が車のドアを開けて外に出た瞬間、僕は内側からドアのカギをロックして、父が車に入れないようにした。
閉じ込めたのか、閉じ込められたのか、自分でも何をしているか分からなかったが、そのままの勢いで僕は助手席から運転席に乗り移った。
中学二年生なので車を運転したことは無かったが、カギを回してエンジンを入れてアクセルを踏めば発進することは分かっていた。
エンジンはかかっていたので、僕はゆっくりとアクセルを踏み始めた。
父は怒り狂いながら、運転席側の窓を何度も叩いてきたが、僕はそれを無視しながらアクセルを踏み続けた。
しかし、ハンドル操作が上手くできず、曲がる事ができないと分かった瞬間、僕には運転ができないのだと自覚をした。
僕は、アクセルから足を離し、運転席のドアを開けて外に出た。
父が僕に怒鳴ってきたが、僕は父を無視して、そのまま独りで歩き始めた。
「どこに行くんだ!」
怒鳴る父を無視して、僕はそのまま歩き続けた。
父は車に乗りながら、運転席の窓開けて、僕に「どこに行くんだ!」と何度も叫びながら付いて来たが、僕は父をずっと無視したまま歩き続けた。
自宅まで歩いて二時間はかかる距離だった。
田舎の夜道は、東京と違ってほとんど灯りが無く、僕は暗闇の中をただひたすら歩いていた。
四十四田(しじゅうしだ)ダムという、自殺の名所とも呼ばれるダムの道を通って歩いていた。
その時、僕が持っていた携帯電話に母から着信があったので電話に出た。
「元気?」
母からそう聞かれ、僕はこう答えた。
「うん、元気だよ!元気だから四十四田ダムを歩いて帰るところ。」
そもそも、夜に人が歩くような道ではない事を知っていた母は、動揺しながらこう言った。
「なんで?お父さんと喧嘩したの?今から迎えに行くから。そこにいなさい。」
僕は母に従い、母が迎えに来てくれるのを待つ事にした。
母が軽自動車で迎えに来てくれて、そのまま自宅に送ってくれた。
当然、母は自宅にはいないので、また父と二人の生活に戻るだけだった。
その後も、僕と父の喧嘩が絶える事は無かった。
後日、アパートの四階の自宅で父とまた言い合いをしていた。
僕は、宗教のお守りを父の目の前で手に持ち、部屋の窓を開けて、そのまま四階から外に投げ捨てた。
「なんて事をするんだ!」
父はパニックに成っている中、僕はそのまま部屋に戻ってゲームをしていた。
このお守りを息子が投げ捨ててしまったと父は宗教の偉い人に報告をし、罰金として五十万円を支払ったと聞いた。
この話を父から聞いた僕は、父がまだ洗脳から解かれていない事を確信した。
お金を払った側が救われるのでは無く、お金を貰った宗教団体側が救われるだけだ。


34.一切れの鮭弁当

ある日、母と一緒に高級な焼肉屋に行く事に成った。
母は、お水の仕事をする中で、お金持ちとの交流が多くあった。
社長さん、お医者さん、資産家の金持ちなどを接待していて、高級料理店をたくさん知っていた。
母が多くのお金持ちを高級料理店に紹介していた為、母は集客役としてどの店からも重宝されていた。
集客のお礼として、格安で高級な食事をする事ができた。
僕は母に誘われ、高級な焼肉や寿司を食べる事ができた。
僕と母は二人で高級な焼肉を食べ終えた後、いつものように、母が僕を山奥の自宅アパートまで軽自動車で送ってくれていた。
母が運転をしている途中、とある男性の話を始めた。

「お母さんの知り合いでね、とても貧乏だった男性がいるの。
 その人のお母さんは、本当のお母さんじゃなくてね、
 血が繋がっていないの。
 だからね、全く面倒を見てもらえなかったんだって。
 それに、学校に持っていくお弁当も、おかずは一切なくて、
 お米しか入っていなかったんだって。
 周りの友達のお弁当にはおかずがあるのに、
 その人だけ、毎回おかずが無いお米だけのお弁当だったんだって。
 ある日、その人が血の繋がっていないお母さんに言ったんだって。

「しゃけを、鮭を一切れでいい。
 一切れでいいから、弁当のおかずに鮭を入れてくれないか?』って、
 勇気を出して、お願いをしたんだって。
 その翌日にね、お弁当に鮭が入っていたんだって。
 でもね、本当に一切れの鮭しか入っていなかったんだって。
 とても悔しくて泣いたって、その人が言っていたの。
 その人は今、お仕事を頑張っていて、たくさんお金を稼いでいるんだよ。
 そういう人もいるんだから、
 景祐(けいすけ)は、お母さんと暮らせていなくても、
 美味しい焼き肉を食べられるだけ幸せなんだよ?
 それに、世界にはご飯を食べたくても食べられなくて、
 死んで行く子供だって沢山いるんだから。」

この話を聞いた僕は、そうかそういう人もいるのか、たしかに自分は高級な焼肉や寿司を食べる事ができて幸せだなと思った。
僕なんかよりも辛い状況の人なんて世の中に沢山いるだろうし、世界には飢餓で亡くなる子供が数えきれないくらいいる。
僕は幸せだなと思った。


35.公衆電話ボックスで母と電話

父が僕の携帯電話の料金を払っていなかったので、緑色の公衆電話を使って僕は母と連絡を取る事があった。
テレホンカードがあれば十円玉は要らないが、田舎の公衆電話はテレホンカードに対応していない事も普通だった。
僕は、近くのコンビニで二百円を両替してもらい、十円玉を二十枚用意して、自分のポケットに入れた。
郵便局の前にある公衆電話ボックスに行き、扉を開けて、電話機の上に十円玉を積み上げた。
母の電話番号は記憶していたので、十円玉を何枚か入れて母に連絡をした。
母は電話に出るとこう言った。
「景祐に言わなきゃいけない事があるの。」
いつもと違う母の雰囲気に、何か良くない知らせが有るような気がした。
僕は十円玉を五枚入れた。
母は後ろめたさを感じさせながらこう言った。
「お母さん、再婚する事にしたの。彼が大阪に住んでいるから、お母さんも大阪に住むことに成ったの。お母さんと会えなく成る訳じゃないけど、今までみたいには会えないから。ごめんね。」
僕はすぐにこう答えた。
「うん。分かったよ!」
そうして、母は少し安心した様子で言った。
「お父さんと仲良くね。」
僕は元気に返事をした。
「うん!」
返事をした後に、母との会話を終え、ゆっくりと公衆電話の受話器を置いて電話を切った。
その瞬間、僕は崩れるようにしゃがみ込んで、公衆電話ボックスから出る事も無くそのままうずくまった。
僕は、公衆電話ボックスの中で独りでずっと泣いていた。
もう、母には会えないし、家に帰っても父と喧嘩の日々で、学校では不良にも絡まれ、明るい未来が全く見えなかった。
少しだけ、母に捨てられたような感覚も有った。
でも、母には母の人生が有るし、僕のために行かないで欲しいとは言えなかった。
僕は、母が幸せに成るのであれば、その幸せを応援したいと思った。
僕は、着ていたジャージの袖で涙を拭き、公衆電話ボックスの扉を開けて外に出て家に帰った。


36.祖父の入院

母は再婚相手と大阪で生活をする為、引越の準備をしていた。
その矢先、母の父であり、僕にとっての祖父が病気で倒れてしまい、入院する事に成った。
祖父が退院するまで、母が付き添う事となり、大阪への引越は数カ月ほど延期する事に成った。
それでも、祖父が退院したら、母は大阪へ行ってしまう。
数カ月間だけ母と会える期間が長くなるだけで、僕の孤独な未来は変わらない事は分かっていた。


37.一日に二度死にかける

中学二年の夏頃。
僕は相変わらず、毎日のように父と言い合いの喧嘩をしていた。
母を殴っていた父に対して、僕は中学二年に成ってもまだ強い怒りの感情を抱いていた。
言い合いが激しく成り、ついに父が僕を殴ってきた。
僕の身長は百七十センチを超えていて、今の自分なら父を殴り返せると思った。
僕は父から殴られたので、それ以上の力で僕は父を思い切り殴り返した。
また父から殴り返され、僕も殴り返す。
お互いにボコボコにしながら、怒号が飛び交っていた。
この怒号は、周囲の団地に響き渡っていたらしく、とてつもない喧嘩だった。
殴り合いが続いた時、父は台所に行き、左手で包丁を手に取り、僕に包丁の刃を向けてきた。
僕は、このまま父に包丁で刺されて死ぬ人生の終わり方なんだと思った。
そして、どうせ死ぬなら、最後に捨て台詞でも吐いて終えようと思った。
まずは、父が僕を包丁で刺してくる気が本当に有るのか、確かめようと思い、僕は父にこう言った。
「テメェ、包丁なんか持ってどうする気だ?」
父は怒り狂いながらこう答えた。
「親に向かってテメェとは、なんていう口のきき方だ!」
父の言葉を受け、僕はすぐにこう言った。
「子供に包丁を向けておきながら、何が親に向かってだよ。お前なんか親じゃねぇよ!」
僕の言葉を聞いた父は更にヒートアップしてこう言った。
「なんだとー?」
僕は父を睨みつけながら、思い切り怒鳴りながら捨て台詞を言った。

「いいか、今から俺が言う事をよく聞けよ?
 俺を刺せるもんなら刺してみろ!!
 その代わりな、
 俺を刺したら、
 お前を絶対に殺す!
 絶対に殺すからな!
 それでも良いなら、
 今すぐ俺を刺してみろ!!」

団地中に響き渡る大声で、僕は父に向って怒鳴った。
僕の捨て台詞を聞いた父は、黙ったまま包丁を台所の棚に閉まった。
この瞬間、僕はもう一生、この父とは暮らせないと思った。
でも、中学二年生の僕は、例えばこのまま家出をして、バイトをして、独り暮らしをする、という選択肢も無い事は分かっていた。
とにかく、僕にはもう居場所が無かった。
どこに居れば良いのか、どこへ行けば良いのか、どう生活すれば良いのか、全く未来が見えなかった。
工藤さんのおばちゃんに迷惑を掛ける訳にもいかない。
母は大阪に行ってしまう。
他に身寄りもない。
僕は、数百円の所持金と、使えない携帯電話だけを持ち、そのまま家出をした。
しかし、そこは田舎の山奥の団地。
どこに行ける訳でもなく、どこに行こうとも思えず、ただ目の前の道をトボトボと歩き続けた。
この状況を、工藤さんや友達に電話で相談したところで、ただ心配させるだけで、どうにもできない事はすぐに分かった。
このまま、どこかで死のう。
そう思いながら、母が悲しむだろうとも思った。
結局、連絡できる相手は母しかいなかった。
僕は、公衆電話ボックスから母に連絡をした。
「父さんと殴り合いの喧嘩をした。お互い、ボコボコに殴り合った。最後は父さんに包丁を向けられた。俺はもう、父さんとは一緒にいられない。このままどこかに行こうと思う。大阪で幸せに暮らしてね。」
僕の言葉を聞いた母は、今までで一番心配そうな声でこう言った。
「今から迎えに行くから。家の近くで待っていなさい。たぶん、一時間くらいは待つと思うけど。」
とりあえず、今日は母と居られると思い、安心しながら返事をした。
「ありがとう。待ってるね。」
僕は、団地の自宅アパートの近くで一時間ほど何もせず、ただ目の前の景色を眺めながら母の迎えを待っていた。
一時間が経った頃、僕の目の前に現れた車は軽自動車ではなく、トヨタの黒いクラウンだった。
母の軽自動車ではないので、別の人の車だと思った。
クラウンの窓が下がると、助手席には母が乗っていた。
運転席には、大阪に居るはずの再婚相手の男性も乗っていた。
再婚相手の男性に会った事は無かったが、写真は見た事が有ったので、すぐにその人だと分かった。
再婚相手の男性は、祖父のお見舞いの為に、たまたま大阪から盛岡に来ていたのだ。
僕はクラウンの後部座席に乗り、二人に経緯を説明した。
その時の僕の顔は、数カ所から血が出ていて、目の周りも赤く膨れ上がっていた。
そして僕は、その時に初めて再婚相手の男性と目を合わせた。
僕が一通りの経緯を説明した後、再婚相手の男性はゆっくりとクラウンのアクセルを踏み始めた。
クラウンがゆっくりと進みながら、再婚相手の男性が僕に語り掛けた。

「景祐。俺な、景祐を育てる気は無いって、
 景祐の母さんに言ったことがあったんだよ。
 なんで、他人の子どもの世話を
 俺がしなきゃいけないんだって。
 俺にも子供が三人いてさ、奥さんと別れて、
 景祐の母さんと一緒に成るんだ。
 だけどね、今の景祐を見ていると、
 まるで、昔の自分を見ているみたいで、
 放っておけないって思ったんだ。
 だから、景祐は俺が育てる。
 お母さんと俺と一緒に暮らそう。」

この再婚相手こそが、母が前に話をしていた『一切れの鮭弁当』の話に出て来た男性だった。
僕は思ってもいなかった展開に、動揺と、嬉しさと、喜びと、不安が入り交ざった複雑な感情を抱いた。
そのまま、僕は家出をした流れで、母さんと再婚相手の住む、盛岡の中心地にあるマンションに居候をする事に成った。


38.家庭裁判所に出向く

大阪に引越をする予定だった母が僕を育てる事に成り、大阪への引越の話は無くなった。
また、母の再婚相手の会社の社長の粋な計らいで、大阪ではなく東京で勤務する事に成り、東京と盛岡の家賃を出してもらう事にもなっていた。
しかし、親権は父に有るので、僕が母と再婚相手の三人で、このまま一緒に暮らす状態は、法律上ではとても危険な状態だった。
そこで、親権を父から母に移すために、家庭裁判所に出向く事に成った。
僕は裁判員のおばさんと二人きりで個室に入った。
僕が裁判員のおばさんへの説明が上手くできないと、親権が父のままに成る可能性が有った。
絶対にもう父とは暮らせないと思っていた僕は、必死に自分の父がいかに親として不適切な存在であるかを事細かに裁判員のおばさんに説明をした。
その結果、僕の父は親として不適切であるという判断が下され、親権が父から母へ移る事に成った。
この日から、僕にとって新たな家族生活が始まった。
母と再婚相手と僕。
もう二度と、母と一緒に暮らす日が来ないと思っていた僕は、思ってもいなかった流れで、母とまた一緒に暮らす事ができた。
再婚相手の苗字に名前を変えるかと母から聞かれたが、僕は伊藤で生まれ育ったから、これからも伊藤を名乗らせてくれとお願いをした。
父の苗字である伊藤を背負うつもりはなかった。
僕は、僕自身の名前として、伊藤を背負っていきたい、という気持ちがあった。
その気持ちを母と再婚相手は汲んでくれた。
再婚相手の呼び方は、お父さんと呼ぶのではなく、名前の「ジョーさん」と呼びなさいと母から言われた。
なので、お父さんではなく、今もジョーさんと呼んでいる。
アメリカ人ではなく、日本人で名前がジョウという人だった。
後日、父から電話が掛かってきたが、僕はもう父と一緒に暮らす気は一切無いとはっきり伝えた。
すると、父はこう言った。
「景祐の事が、とても不憫(ふびん)でならないよ。」
僕は不憫の意味が分からないまま聞いていたが、後で意味を調べてみると怒りが込み上げてきた。
父と一緒にいる方が不憫であり、この新たな環境は僕にとって大切な明るい未来だと確信していたからだ。
この数年後、父から電話が来たため、もう二度と連絡をしてくるなと絶縁宣言を伝えた。
それ以来、一度も父から連絡が来る事は無い。
今、生きているのか、死んでいるのかも分からない。


39.メルセデスベンツ

盛岡の中心地に住むことに成ったが、僕は別の中学に転校する気が無かった。
バスで通学をすると母に伝えたが、なぜか母は車で送迎すると言って聞かなかった。
僕は中学校にクラウンで通学していた。
ある日、自宅で母とジョーさんが嬉しそうな顔で、僕に知らせが有ると言った。
「景祐に見せたいものがあるんだ!付いてきて!」
そう言われ、マンションのエレベーターで一階に降り、言われるがまま付いていった。
ジョーさんはこう言った。
「ベンツのCクラスを新車で買ったよ!」
僕は驚いた。
クラウンでも良い車なのに、新車のベンツを買ったなんて…。
僕は、その時に思い出した。
母がボロボロの軽自動車に乗っていた事を。
ミニメルセデスと呼んでいた中古の軽自動車から、新車のメルセデスベンツに成った。
僕は母のミニメルセデスの話を半分冗談のように聞き流していたが、本当に実現した事を目の当たりにして驚いた。
例え、人に言う事が恥ずかしいような、人から笑われるような夢物語でも、夢を語る事は大切なのではないかと思った。
ベンツの車内でいつも流れていた曲は、アイルランド歌手であるエンヤの、「A Day Without Rain」というアルバムだった。


40~65

40.手紙
ある日、僕は友人の家に遊びに行った。
友人の部屋にあるラジカセからラップが流れて来た。
そのラップは、僕がそれまで聞いた事が無い、バラード調の綺麗なメロディーの曲だった。
友人に誰の曲か聞くと教えてくれた。
ケツメイシの『手紙~未来~』という曲だった。

まだ見たことない未来で
勇敢に戦う俺がいる
きっとそうだろ?
どうなの?
未来の俺らの状況は

未来の自分は勇敢に戦っていると信じたいという、今の自分から未来の自分に向けたメッセージの歌詞だった。
他人をディスる曲ではなく、自分自身に向けた歌詞と曲に共感した。
ラップで初めて感銘を受けた曲が、ケツメイシのこの未来へ向けた手紙という曲だった。
たまに、この曲を聴くと、十年前の自分が今の自分を見てどう思うだろうかと考える事がある。
きっと絶望するだろうなと思いながらも、いつか、十年前の自分に希望を持たせられるような自分に成りたいと思っている。
まだその日は訪れていない。


41.才川と偶然の再会

バレーボール部の県大会予選を控えていた夏。
遠征試合のため、他の中学校で試合をする事になった。
試合中、僕のチームメイトがレシーブをミスして、ボールが遠く彼方へ飛んで行った。
誰しもがアウトだと思ったボールを、僕は必至で追いかけた。
なんとか間に合い、後ろにあるネットの方向へ思い切りレシーブでボールを飛ばした。
そんなプレーでもアウトになると思っていたところ、エースの長野くんがスパイクを決めた。
この絶体絶命の中での連携プレーに、相手チームは茫然としていた。
試合が終わった後、同じ背番号の選手同士で握手をするしきたりがあった。
僕と同じ背番号だった相手チームの男性は、笑顔で無言のまま、僕に力強い握手をしてきた。
僕達のチームは、県大会の予選で敗退してしまい、県大会出場の目標は叶わないまま終わった。
数ヶ月後、僕は一人で県大会の試合を観に行く事にした。
県大会の会場に到着すると、廊下に見覚えのある男性がいた。
遠征試合で僕に強く握手をしてきた彼と、彼の友人が二人で県大会を観に来ていたのだ。
彼とは一度も話したことが無かったが、会った瞬間、お互いに「おー!」と言いながら笑顔で手を挙げた。
あたかも、友人同士が待ち合わせていたかのような流れで僕は合流した。
彼は、あの時の連携プレーが、とても衝撃的だったという話をしてきた。
気が付いた時には、彼の友人を差し置いて、僕と彼だけで話し込むくらいに意気投合してしまった。
彼の苗字は才川(さいかわ)という名前だった。
才川は中学の成績が一位で、とても頭のキレる人間だった。
僕と才川の自宅が、たまたま近所にある事も分かり、翌日からほぼ毎日のように夜に二人で外に出て、一緒にスタバやカラオケに行くようになった。
才川は髪型も服もお洒落で、ワックスの使い方も上手だった。
ある日、才川が通っている美容院を紹介してもらった。
この時に初めて、男性でも美容院で髪を切っても良いという事を知った。
僕の髪を切ってくれた美容師のお姉さんはとても美人で、カットも上手く、僕はいつも美人のお姉さんを笑わせようと必死だった。
中学の女子ではなく、大人の女性に相手をしてもらいたかった。
たまに、する事が無い時は、用もないのに才川と二人で閉店作業をしている美容院を訪れ、くだらない話をお姉さん達に話して仕事の邪魔をして、だいたい満足したら帰る。
そんな迷惑な二人組の中学生だった。
僕は、美容師のお姉さんだけではなく、スタバに行った時も、店員のお姉さんに声をかけたりしていた。
「お姉さん、笑顔がとても素敵ですね。癒されます。」
そうやって会計でお姉さんに話しかけた後、僕がいつも注文するキャラメルフラペチーノを作ってくれる別のお姉さんにも話しかけていた。
「お姉さん、キャラメル多めでお願いします!あぁ、もう少しだけ多めにできますか?いいですねぇー、ありがとうございますぅー!」
平気で図々しい要望をしていた。
スタバのお姉さん達は、たまに試供品のコーヒーをくれたりして、迷惑な僕達にも優しく接してくれた。
僕達の事を大学生だと思っていたそうで、僕達は中学生である事を伝えると、とても驚いていた。


42.厳かなセレクトショップ

ある日、部活を終えた僕は、中学のジャージを着たまま、盛岡の中心地を歩きながら家に帰るところだった。
山奥の団地とは違って、盛岡の中心地には服屋がまばらにあった。
とぼとぼと歩いていると、厳かな佇まいの一軒家の建物が目に留まった。
建物の外にはガラスのショーウィンドウが有り、ガラスの内側には服が飾られてあったので、服屋だという事はすぐに分かった。
怖いもの見たさで、恐る恐るお店に入る事にした。
店内は暗い色の木目調の内装で、いろんなブランドの服が畳まれて置いてあり、この店はセレクトショップだと分かった。
店内を歩いていると、畳まれた一本のジーンズの前で足が止まった。
そのジーンズには、色とりどりの刺繍が施されており、大小異なる柄が無作為に配置されていた。
その刺繍はとても色鮮やかで繊細だった。
刺繍が施されたジーンズを見たことが無く、とてもカッコいいと思い、このジーンズが欲しくなった。
値札を覗いてみると、「500,000円」と書いてあった。
僕は五万円のジーンズの桁を見間違えて五十万円と読んだだけだと思った。
しかし、何度確認をしても、そのジーンズの値段は五十万円だった。
ブランド名には「John Galliano」と書いてあった。
ジョンガリアーノというブランドの名前も知らなかった僕は、めちゃくちゃヤバいブランドが世の中に存在している事を知った。
そして、五十万円のジーンズがこんな手に取れるところに普通に置いてある服屋だと気づき、とんでもない店に入ってしまったとも思った。
しかし、好奇心は強く成るばかりで、他の服も手に取って見て回る事にした。
店内の服を一通り見て回ったので、そろそろ店を出ようと思い、出口に目を向けたところ、二階へ続く螺旋階段を発見した。
二階には何が有るんだろうと思い、好奇心に身を任せながら螺旋階段を上った。
二階には、重厚な黒い木製の扉だけがあった。
この黒い扉の奥には何が有るんだろうと、僕は緊張をしながら、扉のドアノブに静かに手をかけて、ゆっくりと扉を開いた。
扉を開くと、まばゆい沢山の光が目に飛び込んできた。
まるで、別世界へ通じる扉を開いたような感覚があった。
扉の奥には店員さんが一人だけ立っていた。
「いらっしゃいませ」
千円も持っていない、中学のジャージを着た僕が、このお店の客ではないことを分かっていながらも、店員さんは丁寧な挨拶をしてくれた。
店内にはガラスケースが有り、近寄ってみると、たくさんのシルバーの指輪が整然と並べられていた。
値段は書いておらず、指輪だけが沢山置いてあった。
十字架のようなネックレスもあり、僕はその時に気が付いた。
この部屋にある全ての物がクロムハーツであるという事に。
目を左側に向けると、そこには金色とダイヤでキラキラと輝く指輪もあった。
あまりの美しさにただ茫然と立ちすくんでしまった。
ふと我に返り、そろそろこの空間から出ないといけないと思った。
後ろを振り返ると、そこには重厚なレザーのライダースジャケットなど、服がハンガーラックにかけられてあった。
ハンガーを見ると、ハンガーもクロムハーツだった。
ハンガーすらもとても美しく、ライダースジャケットをよく見ると、ボタンがシルバーだった。
シルバーのボタンも見たことが無く、興奮したままライダースに触れ、内側を覗いてみると、ビビッドなカラーのカラフルな裏地が目に入った。
店員さんが僕に声をかけ、「その裏地はエルメスのスカーフを使っているんですよ。かっこいいですよね。」と言った。
エルメスという名前はどこかで聞いた事が有る程度の知識だった。
よく分からないが、めちゃくちゃヤバいこの裏地はエルメスなんだと知った。
最後に、値段だけ確認しておこうと思い、値札を見た。
「1,000,000円」と書かれていた。
僕はそのまま見なかったかのように値札をそっと戻した。
「お邪魔しました」と僕は店員さんに伝えた後、半ば放心状態のまま扉を開けて、ゆっくりと螺旋階段を下りた。
そのまま店を出たが、クロムハーツだけの空間を見たときの興奮が冷めず、高揚感がいつまでも続いていた。
このお店は、日本で初めてクロムハーツを取り扱った正規代理店であり、「クロムハーツの聖地」と呼ばれている店である事を後から知った。
木村拓哉や氷室京介などの著名人が、お忍びで東京から訪れるような超有名店だった。
僕はそういう店とは知らずに入ったので、突然に出会ったクロムハーツの衝撃が強く心に刻まれた。
僕は、クロムハーツが似合うカッコいい男に成りたいと思った。


43.工藤さんの家に入って来た一匹のハエ

夏の土曜の昼過ぎ。
僕は午前中に部活を終え、いつものように、工藤さんの家にいた。
クーラーは無いので、窓を開けて、扇風機とうちわで暑さをしのいでいた。
その時、たまたま一匹のハエが窓から家に入ってきた。
僕は、近くにあったハエ叩きを手に取ってハエを叩こうとした。
すると、工藤さんのおばちゃんはこう言った。
「けいちゃん、やめてあげて。」
僕は、なぜ止められたのか分からず、おばちゃんに聞いた。
「なんで?ハエを叩いちゃダメなの?」
すると、おばちゃんは寂しそうな表情でこう言った。
「おじちゃんがね、けいちゃんに会いに来たんだよ。」
僕は、おばちゃんが何を言っているのか全く分からなかった。
「おじちゃん…?」
僕がそう言うと、おばちゃんはどういう意味か説明をしてくれた。

「おじちゃんが、そのハエに乗って、
 けいちゃんに会いに来たんだよ。
 そのハエはおじちゃんだから。
 叩かないであげてね。」

亡くなったおじちゃんが、ハエに乗って僕に会いにくるという発想は、それまでの僕には全く無い考え方だった。
「うん。」
僕はそう頷いて、ハエ叩きを元の場所に戻した。
その後、天井付近をくるくると飛び回るハエを眺めながら、僕は心の中でおじちゃんに挨拶をした。
『おじちゃん、僕に会いに来てくれてありがとう。天国でも元気に暮らしてね。』
それ以来、僕はハエを見かけると、おじちゃんを思い出す事がたまにある。


44.中学三年に成り、不良の呪縛から解放

中学三年の四月。
ついに、不良達が中学校を卒業した為、僕は晴れて自由の身と成った。
思い切り調子に乗れるので、校則で禁止されている「髪を染める」事をせずに調子に乗ろうと思った。
才川がエクステを付けていたので、僕もエクステを付けようと思った。
僕は美容院に行き、美人のお姉さんに相談をした。
「えりあしにエクステを付けたいんですけど、できますか?」
お姉さんは言った。
「できるけど、お値段けっこう高くなるよ?大丈夫かな?」
僕は、調子に乗りたかったので、お小遣いを気にせずお願いをした。
「大丈夫です!エクステお願いします!」
そうして僕は、美人のお姉さんからエクステの種類や、付け方のバリエーションまでを事細かに教わった。
段々と、僕も美容師に成ってみたいと興味が出ていた。
帰り際に、お姉さんといつも写真を撮る事も楽しみだった。

45.盛岡の古着屋
僕と才川は、いつものようにスタバで音楽やファッションの話をしていた。
才川は古着屋でも服を買っていると言っていた。
それまでの僕は、新品の服しか買った事が無かった。
僕は古着に興味が出てきたので、才川から色んな古着屋を教えてもらった。
当時の盛岡には数多くの古着屋があった。
お金が無い中学生や高校生は、古着屋で服を買っていた。
沢山買えば買うほど安く成る、ドンドンダウンも盛岡発。
古着屋チェーンのハンジロー発祥の地も盛岡だった。
なぜ盛岡に古着文化が根付いていたのか、何度か調べてみたが今も分かっていない。
大げさかもしれないが、当時の盛岡は、東京の下北沢の雰囲気に近かった。
『古着MIX』と呼ばれる、新品と古着を混ぜるなど、ジャンルに縛られない自由なスタイルが、盛岡の中高生の間では当たり前のスタイルだった。
盛岡の冬はとても寒いので、重ね着が当たり前だった。
重ね着をしながらも、着崩したり、着方を変えたりしながら、盛岡の中高生は各々の個性を競い合っていた。
僕は、他者と同じスタイルに成らない事を心掛けながら、一点物の珍しい古着を探す事が趣味に成っていた。
知識も何も無く、ただの直感で、見た事の無い、今後も見ないであろう服を探していた。
この辺りから、服を着る上で、ジャンルとしてカテゴライズする雑誌などに違和感を持ち始めていた。


46.雑誌のChoki Chokiを知る

この日もまた、才川とスタバに居ながら、音楽やファッションの話をしていた。
お互い、日本の邦楽ロックより背伸びをして、アメリカを中心に洋楽ロックを聴くように成り、常に情報交換をしていた。
レッチリはマジでヤバい、エアロスミスは超渋い、SUM41は狂っている、マンソンは怖い、そんな話をしながら、邦楽ではなく洋楽への知見を広げていった。
音楽だけではなく、ファッションの話も常にしていた。
スタバで長居をした後、才川と本屋へ行き、ファッション雑誌を一緒に読んでいた。
すると、才川がこう言った。
「けいちゃん、Choki Choki(チョキチョキ)って雑誌がおすすめだよ。」
僕は、なんてダサい名前の雑誌なんだと思いながら、雑誌を手に取った。
この雑誌には、私服を着た超イケメン達が、路地裏でカッコいいポーズを取っている写真、ストリートスナップが沢山映っていた。
「イケメンしかいないね。笑」
僕はそう言って、ページをめくりながら、原宿はイケメンしかいないのか、ヤバい街だなと思った。
僕と才川に強く影響を与えた雑誌が、このChoki Chokiだった。
それまでのメンズファッション雑誌は、ヒップホップ系の似たようなストリートファッションの雑誌か、アメリカのヴィンテージを毎回特集する雑誌か、ギャル男などチャラい雑誌が定番だった。
そんな中、突如として現れたChoki Chokiは僕たちのファッションの幅を大きく広げる事に成った。
ロックやヒップホップなどのカルチャーをベースとしない、どのジャンルにもカテゴライズできない、目新しく色気の有る服を、超イケメンの美容師やショップ店員たちが着こなしている雑誌だった。
服だけでなく、ヘアスタイルも斬新で、服も髪もすべてが、それまで無かった超お洒落な提案で埋め尽くされていた。
ジャンルやカテゴリ分けができないスタイルだったので、美容師が着ているからという理由で「サロン系」というカテゴリの用語が生まれた。
結局、カテゴリ分けしないと伝わらないので仕方の無い事だが、これすらもカテゴリに分けてしまうのかと残念な気持ちはあった。
この雑誌にはプロのモデルはほとんど載っておらず、大半が美容師や服屋の店員などの一般の読者モデルだった。
読者モデルの中でも、圧倒的にオシャレでカッコいい人たちがいた。
その人達は「おしゃれキング」と呼ばれていた。
もっと良いネーミングは無いのかと当時は思っていたが、そんな事が気に成らないくらい、おしゃれキングは、本当にキングのオーラを放っていた。
おしゃれキングの中でも、キングオブキングと呼ばれる男性がいた。
その人は、ヘアサロンSHIMA原宿のカリスマ美容師である奈良裕也さんだった。
奈良さんは、超イケメンのルックスを持ちつつ中性的で、超お洒落なスタイルを提案していた。
どこかで見たことのある服ですら新しく見えるような、着こなしやアレンジをしていて、僕たちのような読者から強い支持を受けていた。
僕は奈良さんに夢中になり、こんなカッコいい人に成りたいと思った。
ドラマのビューティフルライフで、木村拓哉の演じる美容師の姿を見て、美容師に憧れた人も数多くいた時代だった。
いつも通っている美容院や、ドラマや雑誌の影響から、僕はカリスマ美容師に成りたいと思い始めた。


47.漫画家もロックバンドも諦め、カリスマ美容師に成りたいと思い始める

小学生の時の将来の夢は漫画家に成る事だった。
でも、僕より絵が上手い友達は沢山いたし、漫画を描くための道具も高くて買えなかったし、毎週の締め切りに追われながら、睡眠時間を削って、素敵なストーリーの漫画を、永遠に描き続ける自信も無かったので諦めた。
GLAYに夢中に成ってからは、バンドのボーカルに成りたいと思った事も有ったが、自分には歌手に成れる程の歌唱力が無い事も分かっていた。
ギタリストに成りたいと思ったことも有ったが、ギターを買えるお金もなく、ギターの上手い友達がいてすぐに諦めた。
作詞くらいならできるのではないかと思い、携帯電話に作詞を書き溜めていた事も有ったが、携帯電話が壊れてしまい、それまで書き溜めた詩のデータも全て無くなってから、詩を書く事もやめた。
何者かに成りたかった僕は、カリスマ美容師に成りたいと思った。
カリスマ美容師に成る事ができれば、お洒落でモテて、誰かを美しくすることができ、会話でも楽しくさせられる。
とても自分の価値観や美意識に合う職業だと思った。
今後のプランとして、高校を卒業した後は、東京の美容専門学校に通って、原宿でカリスマ美容師に成りたいと思った。
専門学校に進むのであれば、高校は進学校でなくて良いと思った。
実務に役立ちそうな勉強を、高校の時に学んだ方が良いのではないか、という理由から商業高校が選択肢に挙がった。
そもそも僕は、全く勉強をしていなかったので、進学校に入れる訳もなく、商業高校で資格を取る事に決めた。
そして、盛岡の商業高校は、『岩手で一番お洒落な高校』という噂も聞いていたので、そういったチャラい理由で高校を決めて、無事に合格した。
才川は、『岩手で一番頭の良い高校』に余裕で合格した。
僕は、高校を卒業してから東京に行く事ばかりを考えていて、高校でどのように過ごすかを全く考えていなかった。
商業高校に入学した後、お洒落な人は一学年に一人くらいしかいなくて、ただの噂だった事を知った。


48.hideの生まれ変わり

高校一年生の五月。
商業高校に入学した僕は、勉強をろくにせず、いつも音楽を聴いていた。
ビジュアル系がずっと好きで、中学生の頃から特に、元X JAPANのギタリストであるhide(ヒデ)が大好きだった。
中学の時に、不良がヒップホップだった事もあり、僕は反対にロックを好んで聴いていた。
そのロックの中でも、さらに周りから離れたところにヴィジュアル系が有り、そのヴィジュアル系の中で自分のファッションのロールモデルと成る存在を探して辿り着いた存在がhideだった。
hideは、ルックスやファッション、言動や曲など全てにおいてオリジナルの世界観が有り、他の誰にも似ていない、唯一無二の存在だった。
しかし、僕がhideを好きになった時には、hideはこの世にいなかった。
エックスもルナシーも黒夢も解散していて、ヴィジュアル系のライブを観たいと思っても絶対に叶わぬ夢だった。
ただひたすら、CDを聴きながら、世界観を味わっていた。
僕は、誰にも似ていない、自分だけのファッションをしたくて、参考に成る人を探していた。
hideは、ヴィジュアル系の中でも、ずば抜けてファッションセンスが高かった。
作詞作曲もでき、優しくて、お洒落で、こんなカッコいい人に成りたいと思った。
僕はミュージシャンに成れないと自覚していたので、せめてファッションだけでもhideを参考にしたいと考えていた。
ある日、本屋に立ち寄ったところ、雑誌の表紙に「hide 22 PAGES!」という文字が書いてあった。
亡くなったhideの事が、22ページも取り上げられている雑誌なんだと興奮したまま、雑誌に映っている人を見たところ、その人はhideではなかった。
表紙には、hideより少し大きな文字で「雅-miyavi- 23 PAGES!」と書かれていた。
見た事も聞いた事も無い雅という名前の人が、hideより1ページ多い、23ページも特集されているのかと驚いた。
しかも、雅は、hideの要素を感じさせる超イケメンだった。
僕は雑誌を手に取り、雅の写真を何ページか眺めた瞬間、全身が震えて一目惚れをした。
『この雅という人は、hideの生まれ変わりだ…』
僕は勝手にそう感じた。
どこにもそんな事は書かれていなかった。
インタビューにもhideの文字は一文字も無かった。
でも、僕は勝手にそう思った。
雑誌の表の表紙は雅、裏の表紙はhideだったので、これは間違いないと思った。
僕はその雑誌を買って、家で毎日のように同じ雑誌を読んでいた。
雅は、インディーズのヴィジュアル系ソロミュージシャンだった。
ビジュアル系は大半がバンドなので、ソロミュージシャンとして活動している人はとても珍しかった。
hideも雅も、自身が所属していたバンドの解散を機に、ソロミュージシャンに成った事も共通していた。
『雅』という漢字一文字だと、『まさ』と読まれる事があるため、読み仮名として『-miyavi-』を付けていると知って、ネーミングセンスのユーモアも好きになった。
エックスやルナシー、黒夢に影響を受けてヴィジュアル系に成った人たちの事を、「ネオ・ヴィジュアル系」と呼ぶ事も知った。
僕は、雅をきっかけに、ネオ・ヴィジュアル系を調べ始めた。
この当時、インターネットが普及し始めたばかりで、ネオ・ヴィジュアル系についてインターネットに情報は無く、やはり雑誌で情報を得るしかなかった。
インターネットで『雅』と検索しても、福山雅治しか出てこなかった。
それに、僕の周りには、ネオ・ヴィジュアル系を知っている人は男女どちらも一人もいなくて、僕は一人孤独に調べていた。
インディーズの曲はTSUTAYAに置いていないので、雑誌の通販でCDを買うしかなかった。
僕はまず、雅の「雅-galyuu-流」という名のCDアルバムを通販で買った。
このアルバムの表紙には『二流の美学』と書かれていた。
インディーズという二流ミュージシャンでも、二流なりの美学を持って曲を創っていると雅はインタビューで語っていた。
CDが自宅に届き、さっそく聴いてみると、粗削りながらも、どこにも属さない音楽性を感じて、もっと好きになった。
作詞作曲は当然のことながら、ボーカル、ギター、ベース、ドラム、打ち込み、これらを雅が一人で全て演奏していると知り、この人は本物だと思った。
僕は、雅をきっかけに、ネオヴィジュアル系と呼ばれる他のバンドも聴き始めた。
ガゼット、ナイトメア、バロック、アリスナインなども聴くようになった。


49.金持ちの斎木

才川は、岩手で頭の一番良い高校に入学し、友人を増やしていた。
その中で一人、才川が僕に紹介したい人がいると言って会わせてくれた。
彼は斎木(さいき)という名前だった。
斎木は、開業医の息子で、将来は医大に入り、医者に成ると言っていた。
斎木の自宅は、盛岡の一等地にある高級マンションの3LDKだった。
しかも、この部屋に一人で暮らしていると言っていた。
斎木の親が投資用に購入したマンションで、高校を卒業するまでそこに住むという事を言っていた。
僕は、才川と斎木と三人で会うようになり、いつも音楽やファッションの話をしていた。
斎木が、つい最近購入した服の話を始めた。
アンダーカバーのテーラードジャケット十五万円、ヴィンテージのエアジョーダン十万円、ノゾミイシグロの一点物のスニーカー七万円、これらを最近買ったと言っていた。
話を聞いてみると、親からクレジットカードを渡されており、平均で月に三十万円は服を買っていて、高い月だと五十万円から七十万円くらい買う事も有ると言っていた。
僕は、自分の家の車がベンツになっても、一般的な高校生と同じお小遣いだったので、自分と斎木の服へ投資できる金額の圧倒的な差に驚いた。
僕は斎木に嫉妬する事すらなく、開業医の息子で将来は医者に成るのであれば、親として子供にありったけの先行投資をする事は普通なのかもしれないと思った。
斎木は高校を卒業した後、東京の医大にストレートで合格し、大学の入学祝として車のアウディを親から買って貰ったと言っていた。
斎木は、十八歳で六百万円のアウディを乗り回していた。
大学の入学式では全身ディオールオムのスーツだった。
東京では、コムデギャルソンやセレクトショップで爆買いをしていた。
その後、斎木は医者に成った。
僕は、斎木と高校一年生の時に出会ったことで、ファッションにおいて自分の着る服では財力で彼に勝てないと思い知らされた。
嫉妬はしなかったが、どうにもできない経済力の差を気にすることなく、どうやったら自分は彼と違うファッションの土俵で勝負できるのだろうかと考えるようになった。

50.桝澤と千亜紀ちゃん
ろくに勉強もせず、お洒落な人がいるという噂だけで入学した商業高校。
お洒落な人はほとんどいなくて、ファッションの話題ができる才川みたいな人はいなかった。
バレーボール部に入部したが、球拾いばかりだった。
中三ではスタメンだったのに、高一では玉拾いの下積みに逆戻りした為、部活動には全く身が入らなかった。
部活もつまらない、お洒落な友達もいない、クラスメイトとくだらない話をするだけの日々。
友達と笑い合ったりしているものの、そこまで楽しくも無い生活だと思っていた。
惰性。
ある日、クラスメイトの桝澤(ますざわ)とカラオケで何を歌うか聞いた。
ゆずのキーが一番高い+5の曲を原曲のキーで歌えるというので、X JAPANの紅も歌えるか聞いたところ歌えると彼は言った。
それで、クラスの友人達とカラオケに行ったところ、本当に彼は原曲のキーで軽々と歌えていた。
高いキーが出ればそれで良い訳ではないが、キーが高ければ表現の幅も広がるので、僕にとって高いキーが出る事は過少表現において重要なポイントだった。
僕は、彼みたいに高いキーは出ないし、歌手を目指していたら彼のポテンシャルに嫉妬していたはずだと思った。
桝澤は、独りで路上ライブをやっているというので、聴きに行く事にした。
盛岡駅の地下にはトンネルのような道が有り、そこで路上ミュージシャンが間隔を空けて歌っていた。
桝澤は、アコースティックギターを弾きながら、ゆずのカバーを中心に、歌謡曲なども歌っていた。
彼の透き通った高音が、トンネルを響き渡り、トンネルの壁から跳ね返ってまた僕の耳に届いた。
東京の路上ミュージシャンは騒音の中で歌う印象だが、盛岡は静かなトンネルの中で歌うので、音に集中して聴く事ができた。
そうして、僕はたまに彼の路上ライブを観に行くようになった。
ある日、桝澤が学校に新聞を持ってきて広げながらこう言った。
「ちあき、すげーなー」
クラスの男子の数人が、その新聞を覗き込むように見ていた。
僕も気に成って新聞を見に行くと、新聞の一面にこう書かれていた。
『ホリプロスカウトキャラバン グランプリ』
そうか、年頃の男の子達はみんな、アイドルとか女優とか好きなんだな。
そう思いながら、桝澤に聞いた。
「なんで、その新聞を持って来たの?」
桝澤は嬉しそうに答えた。
「同じ中学で仲の良い千亜紀(ちあき)って子がいて、千亜紀がホリプロスカウトキャラバンのグランプリに成ったんだよ!」
今でこそ、岩手には大谷翔平という世界的に有名な人はいるが、当時の岩手にそんな有名な人はいなかった。
宮沢賢治や、新渡戸稲造など、亡くなった凄い人はいても、今この瞬間にいるスターはいなかった。
ホリプロスカウトキャラバンは、深田恭子などの女優を発掘したオーディションであり、この時は約四万人の応募が有った。
同じ中学校の友達が、女優に成る事が決まり、桝澤はとても喜び、僕達クラスメイトも一緒に盛り上がって祝福をした。
後日、いつものように桝澤の路上ライブを観に行くと、そこには千亜紀ちゃんもいた。
話を聞くと、桝澤と千亜紀ちゃんはユニットを組み、これからは二人で歌うという事を知った。
声量は桝澤が大きく、千亜紀ちゃんの声は耳を澄まさないと聴こえないくらい小さな声量だった。
でも、二人の声がハーモニーとして重なった時、路上ライブならではの距離感でとても感動的な歌声に変化をした。
僕は、勇気を出して千亜紀ちゃんに話をかけ、メールアドレスを交換した。
芸能人に成る人とメールアドレスを交換できて僕は浮かれていた。
数年後、千亜紀ちゃんは上京して女優を経て、きのこ帝国のボーカルとして活躍していた。
きのこ帝国で好きな曲は「東京」と「クロノスタシス」の二曲。
この二曲を聴くと、岩手と東京の色んな思い出が同時進行で頭の中で映像として流れる。


51.ボンジュール諏訪荘

高校一年の秋に成り、僕は母親と二人で寿司を食べていた。
この頃、僕は岩手、義理の父は東京に住み、母は毎週のように新幹線で岩手と東京を往復する生活を続けて疲弊していた。
母は日本酒を飲みながらこう言った。
「お母さん、この生活に疲れちゃった…。」
僕は、それを聞いた時に、すぐにこう言った。
「高校を卒業したら東京に行くつもりだったから、東京の高校に転校しても良いよ?」
すると母は驚きながらも、嬉しそうにこう言った。
「そうなの?それじゃあ、引越の準備をするけど良い?」
僕は迷う事なく答えた。
「うん、いいよ。」
そうして、僕の上京プランは高校卒業を待たずに進むことに成った。
僕のリスペクトしていた雅も十七歳で上京をしていたので、生い立ちが少し重なって嬉しかった。
そして、僕はクラスメイトに上京をする事を伝えていった。
さすがに、どこの高校に転校するかも決まっていない状況で引越はできないので、僕だけ高校が決まるまで岩手に残ることになった。
母はタウンページを広げ、何かを探していたので僕が聞いた。
「何を探しているの?」
すると母はタウンページを指でなぞりながらこう言った。
「景祐の暮らす下宿先を探しているの。」
僕は今のマンションに一人で暮らすと思っていたためとても驚いた。
「下宿なんてしなくて良いから、今のマンションに住まわせてよ!」
母は、高校生が一人暮らしなんて無理だと言って聞かなかった。
「ここ良いじゃない!」
母がそう言って、下宿先に電話をかけようとしていた。
僕は、どんなところに電話をかけようとしているのか気に成って見た。
『ボンジュール諏訪荘(すわそう)』と書かれていた。
ダサい、ダサ過ぎる。
こんなダサい名前のところに足も踏み入れたくないと思った。
「ダサ過ぎるから、違うところにしてくれ。お願い。」
僕はそう言ったが、母は直感がビシビシ伝わって既に電話をしていた。
「こんにちはー。うちの息子をそちらで面倒見ていただきたいのですが、来月からどうですか?空いていますか?よかったですー。よろしくお願いしまーす。」
そうして、僕は東京に行くまでの間、ボンジュール諏訪荘で下宿生活を送る事に成った。
ボンジュール諏訪荘には、地方から進学校に進んだ男性達がいて、みんな勉強に励んでいると聞いていた。
僕の部屋の右隣りからは、夜中にずっとお笑い番組を観て爆笑している笑い声が聞こえた。
左隣りの部屋からは、下手くそな歌声がいつも聞こえた。
真上の部屋からは、ドラムマニアというゲームのドラムの叩く音が真夜中にいつも聞こえた。
自分の部屋にいても、左右真上からいつも騒音が聞こえてきて、非常に居心地が悪かった。
いつも門限を守らずに遅く帰宅していた。


52.文化祭のバンド

ある日、桝澤とたまたま一緒に帰る事に成り、彼の荷物を見るとエレキギターが有った。
路上ライブではアコースティックギターで、バンドもしていない彼が、なぜエレキギターを持っているのか不思議に思い聞いてみた。
「バンドやってたの?」
すると桝澤は笑顔でこう答えた。
「文化祭でバンドをやる事になって、ギターボーカル担当だから、エレキも練習しているんだよ!」
そう聞いた僕はとても羨ましく思えた。
僕は、GLAYの影響から、ボーカルを練習してもダメ、ギターをやりたくても持っていないし、上手い人が周りにいて挑戦もしなかった。
桝澤は、そのどちらもできて、僕が手に入れたかったそれらを持っていた。
僕は、独り言のように桝澤に言った。
「本当は俺もバンドのボーカルとかやりたかったんだよね。」
それを聞いた桝澤は、すぐにこう答えた。
「伊藤くんボーカルやってみる?」
まさかの返答に戸惑ったが、素直に答えた。
「え?いいの?」
桝澤は笑顔でこう言った。
「いいよ!男性ボーカルは伊藤君だけの方が良いと思うから、僕はギターだけやるよ!」
僕よりも、圧倒的に歌が上手い桝澤がボーカルのポジションを僕に譲ると言ってきた。
とても申し訳ない気持ちに包まれた。
僕は、桝澤とのツインボーカルを提案したが、男性ボーカルは一人で良いと彼は言った。
男性ボーカルは一人という事は、女性ボーカルもいるのかと聞いたところ、女性ボーカルもいると言った。
話を聞くと、HY(エイチワイ)という男女ボーカルバンドのコピーバンドをやる話に決まっていたそうで、男性と女性それぞれ一人ずつのボーカルが必要だった。
翌週から、スタジオで練習をするように成り、僕は自分のパートを練習した。
ロックでは無かったが、バンドのボーカルをできる事が嬉しかった。
HYは、ラップのパートも有り、とても苦手だったが練習してなんとか歌えるようになった。
そうして、文化祭を迎え、無事に二曲を歌い終えて拍手をもらった。
何者でも無い自分が、体育館にいる大勢の人たちから拍手を貰えた事で、少しだけ何者かに成れるかもしれないと思えた瞬間だった。


53.転校先が決まる

当時、インターネットは使えたものの、検索できるほどの情報量が無く、転校先をどうやって決めれば良いか分からなかった。
東京の高校一覧を印刷し、中学時代の塾の先生にアドバイスを求めに行ったが、とても不機嫌そうな顔で「自分で決めてくれ、暇じゃないんだ。」と怒られた。
途方に暮れ、母に相談をしたところ、母が東京で知り合ったスナックのママからアドバイスを貰うことに成った。
商業高校は限られているので、家から近い所が良いのではないかという事から、家に近い商業高校の編入試験を受ける事にした。
編入試験を受けるために東京へ行く事となり、新幹線で向かった。
上野駅で降りると、そこには母ではなく兄がいた。
兄は、バンドマンを目指して上京していて、僕が東京に来る事を母から聞いて迎えに来てくれたのだ。
これで兄に会うのは二度目だった。
「けーすけ、チャラいなー。」
僕の見た目を見た兄は、ヴィジュアル系に影響を受けている僕の身なりを見てそう言った。
兄は、ファッションへのこだわりが全くなく、お洒落はチャラいという考え方の人だった。
元々は、兄もロックの影響から、ジョージコックスを履いていた時も有ったが、もう履かないからあげると言われ、僕は兄からジョージコックスを貰う事に成った。
僕の人生の中で唯一の厚底靴であり、僕はジョージコックスばかり履いていた。
そして、肝心の編入試験を受け、無事に合格をした。
一切勉強をしていなかったが、数学の点数が学年トップクラスだと言われた。
どれだけ頭の悪い高校なんだろうかと思いながら、転校先も決まって安心して岩手に帰った。


54.曲を作る

いつものように、桝澤と千亜紀ちゃんの路上ライブを聴いていた。
次第に、自分も路上ライブをやりたいと思うようになった。
しかし、僕には歌う事も、曲を作る事もできなかった。
どうすれば良いか考えた時に、ふと自分が歌詞を書き溜めていた事を思い出した。
僕は桝澤と二人きりに成った時に相談をした。
「俺さ、東京に行くから、最後に思い出の曲を作りたいんだよね。歌詞を書くから、メロディーを作ってくれない?」
桝澤は、笑顔でこう言った。
「うん、いいよ!」
桝澤は、いつも僕の話をYESの返事で答えてくれていて、NOだった時は一度も無かった。
そうして、僕は人との出会いや別れをテーマにした歌詞を書いた。

出会いがあれば
別れもある
そんな事
分かっているけど
君がいってしまうのは悲しい

Aメロは、卒業や転校などの別れ。
Bメロは、死の別れをテーマに書いた歌詞だった。
もう、逢えない。
出会いが無ければ別れも無い。
出会いがあれば、いつか別れが訪れる。
当たり前の事を歌った詩だが、僕は当たり前の事を大切にしたいと思っていた。
桝澤と作った曲はこの一曲だけだった。
彼のユニットの人気曲ランキングで、僕の書いた曲が二位に成っていた。
何者でも無いけれど、どこかの誰かに届いている事を知って嬉しかった。
三年後、歌手に成りたいと言っていた桝澤は交通事故でこの世を突然に去った。
千亜紀ちゃんは、桝澤の分も背負って歌手をしているのだろう。


55.上京してプチ整形失敗

高校一年の冬。
僕は、ついに念願の上京をする事ができた。
お洒落な友人を沢山作って、もっとお洒落をしたいと思っていた。
まずは、自分の見た目を変える為、美容整形をする事にした。
いずれ、韓国に行って二百万円くらいかけてイケメンに成るプランを持っていた為、まずは目を二重にしようと思った。
ラルクアンシエルのHYDEのような二重に成りたかったので、お医者さんにそう伝えたところ、君の目はHYDEに成れないと言われた。
美容整形に不可能が有る訳が無いと思っていた僕は、どうしてもHYDEにして欲しいと伝えたが、お医者さんは呆れ顔で説明をしてくれた。
二重のスタートする位置が、HYDEと僕は違うため、目に平行線を描くような二重は構造的にできないと言われた。
僕は、それでも二重にして貰いたかった為、なんでも良いので二重の手術を受けたいと言って、埋没法の施術を受けた。
瞼を裏返し、そこに麻酔の注射針を刺す。
この瞬間、僕は今までで一番の恐怖と痛みを味わった。
整形ってこんなに怖くて痛いんだ。
そう思いながら、イケメンに成れるなら我慢しようと痛みに耐えて手術を終えた。
翌日、自分の顔を見ると、森山直太朗の目に成っていた。
僕は、ヴィジュアル系に成りたかったのに、なぜ森山直太朗に成ったのだろうと思いながら、これはこれで有りにしようと言い聞かせた。
痛みが取れず、瞼を動かしている内に、一ヶ月もしない内に両目の糸が瞼の中で切れてしまった。
ただの奥二重に戻ってしまい、整形でイケメンに成る事を諦めた。


56.エクステを前髪につける

そして、髪の毛も変化を加える事にした。
今まで、えり足を長くするためにエクステを付けた事は有ったが、前髪につけた事は無かった。
ヴィジュアル系は前髪が長く、それに近づけるため、前髪に十五本くらいエクステをつけることにした。
そうして、自分なりにプチイメチェンをしてから転校先に行く事にした。
転校先で、初めての自己紹介をした。
僕はそれまで転校をした事が無かったので、転校生はこういう気分なのかと、他人事のように感じていた。
「岩手から来ました。ファッションが好きです。よろしくお願いします。」
それくらいの挨拶で終えた記憶が有る。
カッコつけていた訳ではないが、特に話すことも無かったので、これくらいの内容だった気がする。
担任の先生から、君の席は一番後ろの真ん中の席だと言われた。
僕は自分の目を疑った。
僕の机の左も右も後ろにも誰もいない、後ろに有るのは壁だけだった。
三十六人のクラスで、六行六列に机が並べられていた。
僕は三十七人目の為、無理やり一番後ろに一席だけ追加されていたのだ。
自分の席に着いても、左右後ろに人はおらず、目の前の席の人もいつも寝ていた。
話す相手が一人もいなかったが、別にいいかと思いながら過ごしていた。
たまに、二人くらい、クラスの女子が話しかけてくれたが、仲良くなる事も無く、つまらない日々を過ごしていた。
東京に来たのに、東京の方がつまらない。
僕は、自分が思い描いていた東京生活には成らない現状に気が付いた。


57.学校裏サイトで陰口を言われる

スマホもSNSも無い時代。
2ちゃんねるなどの掲示板の形式を取って、学校裏サイトと呼ばれるものが流行っていた。
これは、その学校のみについて語るサイトであり、どの学校でも裏サイトを立ち上げる人がいて、口コミでサイトが広まっていた。
僕が転校した高校にも裏サイトはあった。
ある日、クラスメイトと話をしていた時に裏サイトの存在を教わった。
「けいちゃんの事が、裏サイトに書かれていたよ。」
転校したばかりで、誰とも話した事が無いのに、もう何か書かれているのかと、そのサイトを見てみる事にした。
「ニキビどうにかしろ」
「顔が汚い」
「エクステがキモい」
基本的に、僕のコンプレックスについてストレートに記載された内容だった。
僕は、キレイな肌に成りたかったが、ニキビで悩んでいた。
それを隠すようにエクステで前髪を作って隠したものの、それすらもディスられていた。
それも匿名の複数人から。
直接は言われない、でも同じ学校の誰かが言っている。
でも、事実であるから、相手が分かっても反論することもできない事は分かっていた。


58.靴が無くなる

ある日、僕は体育の授業を受ける為、外履きを履こうと下駄箱を開けたところ、靴が片一足しかなかった。
この靴は、ナイキのランニングシューズで、中学の区間リレーで三キロを走り、二十二人抜きをした思い出の靴だった。
ランニングシューズは、ミズノやアシックスの方が圧倒的に走りやすかったが、「ダサいから」という理由でミズノやアシックスを選ばず、ナイキを選んだ。
色も、他の人達は白だから、自分は目立つ赤、という決め方をした。
そういう思い出の靴が片方しかなく、必死に探した。
どこかに落ちているのかと思い、何度も探したが見当たらなかった。
担任に相談をしたところ、担任は一言だけクラスメイトにこう言った。
「おーい、伊藤の靴を誰か知らないかー?」
クラス全員が無言だった。
「誰も知らないみたいだ」
そんな一言で探したつもりかよ。
クソな担任だと思った。
誰も知らない。
そんなはずが無い。
誰か知っているだろう。
僕は、他のクラスの人とも交流が無かったので、絶対にこのクラスの中に靴を隠した犯人がいると思っていた。
しかし、友達もいない、ほとんど誰とも話した事が無かった僕は、誰が犯人か特定する事ができなかった。
試しに、何人かに直接聞いてみた。
「僕の靴が片方だけ無いけど知らない?」
すると、全員が知らないと答えた。
この瞬間、僕は一人ずつ胸ぐらを掴んで問いただそうと思った。
しかし、それをやったからと言って犯人を特定できるとも限らない。
ましてや、犯人以外の人からすれば迷惑な話なので辞める事にした。
翌週、内履きを履こうとしたところ、ふりかけの粉が入っていた。
画鋲ではなく、ふりかけだった。
僕は、自分がふりかけを間違えて入れたのかと思ったが、ふりかけなんて食べた記憶が無く、これも嫌がらせだと気が付いた。
この瞬間、誰かが僕に嫌がらせを間違いなくしているが、それが誰かを特定する事も不可能に近い事を知った。
犯人が分からない状況がとても腹立たしかった。
靴に画鋲が入ってるとか、机に死ねとか書かれるなら分かりやすいが、僕の場合はかなり分かりにくい嫌がらせだった。
全員が敵に見えた。
「転校しよう」
すぐにそう思った。
僕は転校したばかりなのだから、また転校すれば良いと思い、転校先の高校を探し始めていた。
その心境を親にも伝えていた。
通学のバスの車内では、いつも吉井ロビンソンのCALLMEを聴いていた。

Today afternoon
Today afternoon
どんよりしてるのは空じゃない

このフレーズが、高校へ向かう途中のバスの車内で、曇っていた僕の心にいつも響いていた。
どんよりしているのは、空でも景色でも無い、僕の感情だった。


59.金持ち父さん 貧乏父さん

僕は高校一年生に成っても、読書をまともにした事が無かった。
分からない漢字が出てきては、辞書で意味を調べたりしてみたが、分からない漢字が多すぎて数ページで断念していた。
読み仮名が振られていても、意味が分からずに読めずにいた。
読書をする気も無いが、僕の居場所は図書館だった。
誰もいないし、静かだから。
僕は、学校には行くものの、先生も生徒も大嫌いで、授業を受ける気も無かった為、授業を受けずにいつも図書館で寝ていた。
図書館には受付の担当がいたが、その人は寝ている僕に何も言わなかった。
そうして、僕は本を読むわけでも無いのに、ただ時間を潰して寝る為だけに図書館にいつもいた。
昨日も今日も明日も明後日も、僕は図書館で寝ながら過ごすのだろう。
そう思いながら、いつも通り寝ていた。
当時はまだスマホも無い時代なので、携帯で何かするという事もできなかった。
寝るだけ寝て起きた後、もう寝る気にも成れない瞬間が訪れた。
僕は、その時に初めて、図書館の本棚を見て回る事にした。
特に読む気も無い、本の背表紙のタイトルをただ眺めながら歩いていた。
『金持ち父さん 貧乏父さん』
このタイトルの本の前で足が止まった。
僕の実の父親は低所得の貧乏な父さんだった。
僕の新たな父は高所得の金持ちの父さんだった。
タイトルに親近感を勝手に感じてしまい、この本を読むことにした。
なぜか分からないが、この本は分厚いのに最後まで読むことができた。
どうして貧乏に成るのか、どうすれば金持ちに成れるのか、この著者の視点で具体的に記載されていた。
金持ちに成るためには、毎月の支出を上回る不労所得を得る事と記載されていた。
そのためには、不動産や株式を購入するか、ビジネスオーナーに成って不労所得を得続ける仕組みが必要と書かれていた。
不動産も株式にも興味は無かったが、ビジネスオーナーには興味が持てた。
自分の好きなことを仕事にして、金持ちに成る。
悪くないと思ったし、給与所得を目的に生きるよりも、夢が有って良いと思った。
僕は、漠然と、いつかはビジネスオーナーとして起業したいと考えるようになった。
美容師に成ろうとしていた僕は、ビジネスオーナーとしてサロンオーナーに成る事が目標かもしれないと思っていた。
しかし、サロンオーナーという目標は、なぜかしっくり来ないまま、僕はなんとなく美容師と起業が頭の中にあるまま生活を続ける事にした。
とりあえず、目の前の状況は、偏差値四十三の底辺高校で授業をサボっているだけの、単なる落ちこぼれである事に変わりはなかった。
少しでもマシな高校に転校したいと考えていた。

60.神とおばあさん
転校を考えていたある日、自宅で母からいきなり言われた。
「神がかりに成ったおばあさんにこれから会いに行くけど、一緒に来る?」
訳の分からない誘いに、僕は戸惑った。
新興宗教の次は、神がかりのおばあさんか。
そう思いながらも、僕は誰にも今の状況を相談する相手がいなかった為、何かヒントが得られるかもしれないと思い、そのおばあさんのところに行く事に決めた。
ほぼ大半の人は、このような誘いを受けても、怪しいから行かないと言うだろう。
僕は、人が行かないところにこそ興味を惹かれる。
危ない怪しいから行く、という事ではない。
直感。
そう、ただの直感だ。
僕は、ロジックよりも直感を優先して生きていた。
何となく何か引っかかるところが有り、僕は母からの誘いを受けて一緒に行く事にした。
民家が立ち並ぶ住宅街の一角に、そのおばあさんの家があった。
どこでも見る、築数十年の民家だった。
どこにも、神様らしき、宗教らしきそれは見当たらなかった。
茶の間に通され、母とおばあさんと僕は、こたつに入りながら雑談をした。
僕はずっと黙ったまま、お茶を飲みながら、何でもない雑談をただずっと聞いていた。
数十分経過したとき、そのおばあさんは僕にこう話しかけた。
「それできみ、何か悩んでいる事があるんだって?」
僕が今の高校で上手くいっていない状況を母がおばあさんに予め伝えていた事に気が付いた。
「はい。高校の生活が嫌で、転校をしようと考えています。」
僕がそう言うと、おばあさんは黙ってお茶を飲んでいたので、僕は話を続ける事にした。
「靴が無くなって、誰から嫌がらせを受けているかも分かりません。仲良くなりたい人もいないし、頭も悪い高校なので、もう少し頭の良い高校に転校しようと考えています。」
それでも、おばあさんは黙って聞いていたので、そのまま僕は思っていることをひたすら話し、もう話す事は無いというところまでひたすら話をした。
僕が言うだけ言って、もう言う事が無いと分かったタイミングで、おばあさんはこう言った。
「続けていれば、良い事あると思うよ。」
この言葉だけだった。
この言葉以外、おばあさんは僕に言わなかった。
もっと、話して欲しかった。
そんな一言で片づけられる話ではないと思っていた。
でも、おばあさんはその一言しか言わなかった。
僕は、おばあさんの家を後にし、帰り道や自分の部屋で、おばあさんの一言の意味をひたすら考えた。
なぜ、一言しか言ってもらえなかったのか。
続ける事に何の意味があるのだろうか。
こんなに、感情が曇っているのに、この生活を続ける理由はどこにあるのだろうか。
僕はひたすら考え続けた。
考えた結果、おばあさんの言う通りに、現状を続ける事に決めた。
決めた理由は、これで転校を決めた場合、今後の人生も同じ選択を取るだろうと思ったからだ。
つまり、自分を棚に上げて環境のせいにする人間に成ってしまうと思ったからだ。
自分が身を置いた環境が、仮に自分に合わなかったり、自分の思い通りに行かないとした場合、環境を変える事は簡単だが、常に人や環境のせいにして、自分を省みる事ができない人間に成ってしまうと思った。
だから、僕は自分が嫌な環境に身を置いた場合に、環境を変えるのではなく、自分を変える事に集中する事にした。


61.ピエロに成る
転校先の高校は、先生も嫌い、生徒も嫌い、何もかも嫌いだった。
どんよりしているのは、僕の心も、身の回りも何もかも全てだった。
この状態を、これから二年も続ける事ができる気がしなかった。
何をどうすれば良いかも分からなかった。
環境を変えずに、自分を変える。
そうは言っても、何を変えれば良いか分からなかった。
ある日、バレーボール部の勧誘を受けた。
人数が五人しかいないため試合ができず困っているので、ぜひ入部して欲しいと誘われた。
しかも、同学年は一人もおらず、他の五人は先輩だった。
する事も無かったし、バレーボールはもともとやっていたので、スタメンにも成れるし丁度良いと思った。
バレーボール部の先輩はみんな優しく迎えてくれた。
何をしても絶対に注意されたり怒られたりする事が無かった。
そして、先輩たちと一緒にいると、他の部活動の先輩の会話にも参加する事になった。
僕は無言のまま、愛想笑いをしていた。
どんどん先輩が集まり、二十人くらいで話をしていた。
僕は、スカルモチーフのシルバーの指輪をつけて学校に通っていた。
指輪をしている生徒もめずらしかった事から、一人の先輩が僕の指輪を見て、つけてみたいと言ってきた。
僕は、その先輩に指輪を渡して、先輩は指輪をはめた。
先輩は、指輪を外して僕に返そうとしたが、そこでトラブルが起きた。
先輩の指から指輪が抜けなかったのだ。
「やべぇー、抜けねぇぇぇー」
混乱した先輩の顔を見ながら僕は、笑いながら、先輩のセリフをそのまま真似をした。
すると、そこにいた先輩達全員が大爆笑した。
中学の時に、学年リーダーの真似をして先輩が大爆笑した時と同じように、僕はまたモノマネで先輩達から面白いヤツだと思われるようになった。
僕は気づいた。
僕は逆境の時に、笑いで乗り越えて来た事を。
そもそも、僕と話した事が有る人なんて数人しかおらず、僕は笑かそうという気も無かったので、僕は単なる大人しい人だと思われていた事に気が付いた。
この時から、僕は先輩達だけではなく、同学年の生徒の前でも面白い一面をどんどん出していく事にした。
こちらから面白いアピールをすると逆効果と成る可能性が有った。
そこで、僕からは笑いを出すのではなく、カウンターとして面白い返しをする事にした。
誰かに話を振られてから、僕のターンが始まる。
僕から面白い話を振るのではなく、相手から出て来た話を笑いに変える事で、相手に関係のある話を笑いに変える事を心掛けた。
そして、話した事が無い人が近くにいた時に、その人とは直接に話をせずとも、僕は面白い人だと印象付けるように、その人でも分かるような笑いも心掛けた。
そうすれば、向こうから話しかけてくるだろうと思った。
そして僕は、どんどんと話す相手を増やしていった。
最終的には、話した事が無い人の方が少ないくらい、学年のほとんどの人と話をした。
人気者ではなかったが、転校してきた変なヤツというポジションで乗り切る事ができた。


62.個人ブログを始める
高校二年生。
SNSも無い時代、どうやって日常を伝えるかというと、当時は個人ブログと呼ばれる自分だけのWEBサイトで、日記や写真を発信する方法があった。
僕は、岩手の友人たちに向けて、東京での生活を伝えようと個人ブログを始めた。
コンセプトは、「文字で笑わせる」という事だった。
変顔や、モノマネなど、フィジカルでの笑いではなく、文字だけでいかに笑わせられるか、そういう事を考えながら取り組んでいた。
個人ブログを始めた理由は、寿司屋でいつも隣りに座っていたおじさんんとの会話がきっかけだった。
保険会社の役員を務めている方で、ほぼ毎日のように高級なお寿司を食べて酒を飲んでいた。
酔っぱらいながらも、僕に大切な事を色々と教えてくれた。
その中でも、毎回のように言われていた事があった。
「日記は書いた方が良いよ。僕は日記を毎日書いている。日記は良いよ。」
酔っぱらっているので、具体的に日記の何がどう良いかまでは説明してもらえず、とにかく日記をつける事が良いとだけ言われていた。
三日坊主で何も続かない僕は、日記を始めても続けられないと思った。
しかし、地元の友人達への発信もかねて、実験的に文字で笑かす日記をつけてみる事にした。
ブログを続けていたところ、地元の白百合女子高の中で少しだけ人気に成った。
その子達と会った事は無いが、僕と連絡を取りたいという女の子が何人かいた。
それで、会った事は無いが、メールアドレスを交換して、何人かとやり取りをしていた。
たまには岩手に帰ってみようかとブログに書いたところ、女子高の女の子たち数人が僕に会いたいと言ってくれた。
僕は、岩手に帰ると、六人の女の子と僕を合わせて七人でファミレスに行って会話をした事もあった。
基本的に、司会進行は僕が担当だった。
話を振ったり、ボケたり、ツッコんだり。
ファミレスで話すだけ話して解散。
その後は、また別の女の子とカラオケに行ったりもした。
モテたという訳ではないが、笑いをモットーに生きていたことから、笑いを求める人には会いたいと言ってもらえていた。


63.兄から新たな音楽ジャンルを教わる
兄とは、一緒に暮らした事も無ければ、会話もほとんどした事は無かった。
会ったのも、数回。
でも、僕が東京に来てからは、一年に二回くらいは会う事ができた。
だいたい、兄との会話は音楽の話題が中心だった。
兄は、音楽以外に興味はないので、僕は兄に合わせて音楽の話をした。
「景祐、どんな曲を聴いてるんだ?ちょっと聴かせてよ。」
そう言って、僕のiPodを触りながら曲を聴いていた。
僕の聴いていた曲は、ほとんどがヴィジュアル系だった。
兄は、苦笑いと少し呆れた顔でこう言った。
「お前な、ヴィジュアル系ばっか聴いてないで、もっとお洒落な曲を聴けよ。ファッション好きなんだろ?音楽もダサいとかお洒落とかあるから、俺がお洒落な曲を教えてやるよ。今度教えるから。」
そう言って、兄は数週間後に一枚のDVDを持って来た。
クリスカニンガムという、イギリスの鬼才映像作家のベスト版だった。
このDVDをリビングで観ようと兄が言い、そのままDVDの視聴会が始まった。
そこで最初に観た映像が、エイフェックスツインのウィンドウリッカーの長編PVだった。
今まで観たPVはすぐに曲が始まるが、このPVは全く違った。
いきなり、謎の映画を途中から観ているような始まり方だった。
そのまま、いつ曲が始まるのだろうかと待ち続け四分ほど経過したあたりから、ようやく曲が始まった。
そこで流れて来た曲も映像も、今まで見た事のない嫌悪感を抱くか抱かないかギリギリを攻めながらも綺麗に仕上がっているPVに度肝を抜かれた。
こんな曲や映像が有ったなんて知らなかった。
そう思いながら、次はビョークのオール・イズ・フル・オブ・ラブのPVが始まった。
CGの技術がまだ発展途中の時代に、ロボットが人間のような感情を持ち合わせている映像表現にも感銘を受けた。
他にもスクエアプッシャーなどの映像を観て、今までヴィジュアル系しか知らなかった僕の音楽と映像の視野が一気に広がった。
DVDを観終わった後、兄はベースメントジャックスというハウスミュージックのCDを僕に貸してくれた。
この日から、僕はアンビエントやテクノ、ハウスやアイルランドミュージックなどを聴くようになった。
ヴィジュアル系は相変わらず好きだったので、僕のiPodからは、雅の次にエイフェックスツイン、X JAPANの次にベースメントジャックスが流れてくるような、V系とエレクトロのミクスチャーだった。


64.寿司屋とビヨンセ

いつものように家族で寿司屋にいた。
大将が寿司を握りながら、僕の母に言った。
「来月、出張で六本木に寿司を握りに行くんですよ。」
母は酔っ払いながら、大将に質問をした。
「出張なんて珍しいわね。しかも六本木って、何かのイベントなの?」
大将も酒を嗜みながら寿司を握っていて、ほろ酔いながらこう答えた。
「デステニーなんとかって、アメリカの女性三人組の打ち上げで寿司を握ってくれって頼まれたんですよ。」
大将がそう言うと、寿司屋の空気が一瞬止まった。
その空気を取り戻すように、僕が横から言った。
「デスティニーズチャイルドじゃない?ビヨンセの。」
すると、大将が少し記憶を取り戻したように答えた。
「そうそう、多分その人たち。」
間を開ける事なく、母が大将に言った。
「へぇー。ウチの息子も連れて行ってくれない?」
僕は、なんて図々しい事を言うんだと思いながら、大将の顔を見た。
「いいですよ。」
大将は考える事もなく、すぐに僕を一緒に連れて行く事を承諾した。
「よろしくお願いしますね。失礼が無いようにしますんで。」
母はそう言って、また日本酒を飲み始めた。
そうして僕は、突然にデスチャの打ち上げに行く事が決まった。
正直、デスチャの曲も一曲くらいしか聴いた事が無かった僕は、ビヨンセの名前は知っているが、どれくらい凄い人かはよく分かっていなかった。
後日、兄に報告をすると、兄は興奮をしていた。
「俺も行きたいくらいだよ。良かったな。」
僕より、兄の方がビヨンセを知っているのだから、兄に譲っても良いくらいだったが、僕が行く事が決まっていたので、きちんと兄に報告ができるようにしようと思った。
デスチャが日本武道館で公演を行った後、六本木のベルファーレという有名なクラブで打ち上げイベントが行われる流れだった。
僕は、ベルファーレに到着すると、寿司屋の制服に着替えて、寿司も握れないのに、寿司屋の風貌のままVIPルームに入った。
VIPルームは会場の二階にあり、一階は一般客が入っていた。
しばらくすると、一階のオーディエンスがざわつき始めた。
二階にデスチャの三人が現れたのだ。
三人は一階の客に手を振り、すぐにそこから姿を消した。
あれがビヨンセかと思いながら、僕の視界からもビヨンセは消えた。
その後、ラッパーの風貌をした人達が、作り置きをしていた寿司を取りに来た。
大トロ、中トロ、ウニなどが大量に並べられていた。
しかし、彼らはそれらに目もくれず、エビを手に取っていた。
エビとアボカドしか食べず、誰一人として大トロや中トロを手に取ろうとはしなかった。
カリフォルニアロールの事は知っていたが、まさか本当に寿司のネタの好みが日本とアメリカとでここまで違うとは思っていなかった。
呆気に取られながら、あっという間に二時間が経過した。
すると、寿司屋も撤収する事と成り、撤収の準備を始めた。
撤収作業が終わり、帰ろうとしていたところ、スーツを来た日本人男性が大将に話をかけた。
「最後に記念撮影しましょう。皆さん、中腰で前屈みになってください。」
すると、またデスチャの三人が登場し、僕らの後ろに並んだ。
後ろを振り返る事ができず、中腰にしていたところ、僕の肩に誰かの手が乗った。
誰の手なのか確認する事もできず、カメラに向かって必死に笑顔を作った。
撮影が終わり、ようやく振り返る事ができ、後ろを振り返った。
僕の肩に手を乗せていたのはビヨンセだった。
僕は、そんなあり得ない展開に動揺をして、英語も話せないまま、ビヨンセと目が合った。
僕より身長が高いのに顔が小さい。
そんな事より、サンキューとか、何か言えないかと思って戸惑っていたところ、ビヨンセから僕の方に手を差し伸べてくれた。
僕は、そのままビヨンセの手を握り、握手をした。
「サンキュー」
僕はそう言って、ビヨンセが何か言ってくれたかは覚えていないが、ビヨンセと握手をしたという衝撃で記憶が曖昧になった。
世界トップのビヨンセが、何者でもない、寿司屋のフリをしているだけの、高校生の僕に自ら手を差し伸べてくれた。
これが、世界トップである理由だと僕は気がついた。
天狗になる事もなく、対等に接する事ができ、しかも自ら手を差し伸べる優しさの深さに僕は感銘を受けた。
帰り道、大将の息子さんが車で送ってくれた。
車の中で、お駄賃として五千円を貰った。
何もしていないのに、僕はお駄賃を受け取れないと言ったが、働いたんだから貰ってと言われ、そのまま受け取った。
息子さんは会社員を辞めて、寿司屋を継ぐために大将の下で見習いをしていた。
野球をやっていた事もあり、手がゴツゴツしていて、繊細な寿司を握れるような手ではなかった。
息子さんの握った寿司は、大将の足元にも及ばないが、成長が楽しみだねと家族で話をしていた。
その翌年、息子さんは急病で亡くなり、言葉にならない無念さが残った。
後継ぎがいなくなった大将も女将さんも希望を失った表情だった。
僕にとって、ビヨンセと息子さんの思い出は、優しさと死について考えさせられる、とても重要な出来事だった。
デスチャと一緒に撮った写真が、大将に送られてくる事は無かった。


65.嫌がらせをしてきた犯人を教えてもらう

高校三年生に成ったある日。
同学年のほとんどの人と話すことができたが、僕に嫌がらせをしてきた人が誰なのか、結局は分からずにいた。
いつも話しかけてくれる、日サロで焼いているギャルの子がいた。
「伊藤くん、そういえば靴が無くなった時あったでしょ?」
忘れかけていた記憶が一瞬で蘇った。
「うん、何か知っているの?」
僕が聞くと、ギャルの子が笑いながら言った。
「同じクラスにさ、私みたいなギャルの子が何人かいたでしょ?みんな、二年生に進級する前に学校やめちゃったけど。そのうちの一人の子がね、下校途中に伊藤くんの靴を持って歩いていたの。それで、みんな笑ってて、靴なんか持ち歩いてどうするのって言ったら、『捨てる』って言って、その子が遠くに投げて捨てたの。伊藤君がエクステ付けてるの見てムカついたんだって。今だから言えるけどね。」
僕はそれを聞いて、怒りが混み上げそうに成ったが、すぐに治まった。
犯人が誰か分かったし、もうその犯人は学校にいないので、怒ったところでどうしようも無かった。
むしろ、犯人が誰か絶対に分からないと思っていたが、僕がピエロを演じた事で、犯人が知れるくらいに環境を変えられたのだと、少しだけ自分を褒める事にした。

66.原宿にいつも一人で行っていた


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